1

「エマが誘拐された」
 部屋に入るなり、福本が言った。片手に田崎からの知らせを持っている。もう片方の手には鳩を止まらせていた。田崎は先に渡英し、情報収集と下準備をしていた。その間に伝書鳩を訓練したのだろう。
 現在、部屋にいるのは三人。単独で英国諜報部の偵察に向かっている田崎を除くと、福本、実井、波多野だけだ。
 彼らがいるのは、ロンドン市内のアパートメント――田崎の用意した、今回の任務における拠点だ。結城に再招集されたD機関第一期生たちは、それぞれ身分を偽装してロンドンに滞在していた。
 終戦後、福本は外国人向けの西洋料理店で働いていた。実井は白幡の紹介で都内の大学教授の助手となり、翻訳を任されている。波多野はフランス留学の経験を生かして商社に勤めている。福本は本場で技術を磨きたいと欧州留学を希望し、実井は研究資料を取り寄せる名目で、波多野は市場調査として出張、とそれぞれ理由をつけて渡英した。
 先行した田崎は、情報収集を兼ねてオックスフォードの知り合いに会いに行く予定だった。その合間をぬってエマの様子を見に行っていたのだが、田崎が目を離した隙に誘拐に及んだらしい。
 福本は止まり木に鳩を止まらせた。鳩の背をなでてやり、足に結びつけられた軽量型の通信管をはずした。中に入っていた紙を開く。
「犯人に目星は?」
「英国諜報部に怪しい動きあり、エマの誘拐との関係が疑われる」
「諜報部の人間が誘拐を?」
「実行犯本人が諜報部の人間である確証はまだない。しかし、田崎が様子を探っていた諜報部のひとりが誘拐現場近くで目撃されている」
「今回の件との関連性はどうです?」
 実井が銃の手入れをしながら言った。英国国内で極秘に調達したウェルロッド――諜報任務に多用された、サプレッサー組み込み型の銃だ。終戦後、解散された特殊作戦執行部から流出したものを入手した。
「まだ不明。どうやら甘利のことを嗅ぎ付けたようだな。冷戦下で緊張状態にあるから、直接的な敵でなくても排除したがっているのだろう。それで、エマのことも疑っているのかもしれない」
「どうしてまた、今頃になって」
「たしかエマは、三好からもらった日本製の手土産をいくつか持っていただろう」
「ふうん。疑り深い奴がいたんだな」
「それにしても、ずいぶんと乱暴な手段をとったものです」
「で、どうする?」
 波多野が頭の後ろで腕を組んで福本を見上げた。にやにやと笑っている。質問の形式を取っていても、今後の行動は決まりきっている。
 福本は二人の顔を見比べた。
「決まってるでしょ」
 実井が答えた。赤い唇が薄く微笑むと、ぞっとするような美しさがある。獲物を追い詰める酷薄な笑みだ。
「僕たちのエマに手を出そうなんて、思い上がりも甚だしい」
 あちらがそのつもりなら、迎え撃つまでだ。
 ただし、スパイらしく陰から。
 福本と波多野はうなずき、それぞれの行動を開始した。

     2

 二カ月前、東京

「諸君、任務だ」
 集まったD機関の第一期生たちの前で、結城〝中佐〟が相も変らずそっけない声で言った。落ち窪んだ眼窩に収まった暗い瞳、皺の刻まれた厳めしいその顔から表情を読み取るのは、D機関で訓練された者といえども難しい。
 彼はもう中佐ではない。しかし、ここにいる皆にとっては〝結城中佐〟であり続けている。
激動の時代だった。
 集まった第一期生も、全員がそろっているわけではない。任務中に鉄道事故に巻き込まれ、異国の地に葬られた三好、D機関から関東軍に転属になった小田切、そして任務中に子どもを拾い、ついに帰国しなかった甘利――少数精鋭の第一期生は、わずか五人にまで数を減らしていた。
 GHQの接収を免れた数少ない政府関係の建物に、残った第一期生――神永、実井、波多野、福本、田崎が集まっていた。
 戦後、第一期生が一カ所に集合したのは初めてだった。終戦後から互いの消息を探り合い、それとなく近況報告を交わしていたが、顔を合わせるのは実に十年振りだ。
 D機関が廃止解体され、五年余りが経っていた。
 終戦後、日本軍はGHQに解体され、陸軍内に秘密裏に設置された諜報員育成学校・通称〈D機関〉も同様の道筋をたどった。スパイとして身分を隠して活動していた卒業生と違い、指導者として陸軍内に地位のあった結城中佐は戦犯として裁判を免れないかと思われた。
 しかし、極東委員会とどう取引したものか、結城中佐は東京裁判をかわし、無傷で帰ってきた。
 開戦に伴い、D機関はその諜報員育成学校としての役割を終え、遊撃戦を指導する方向へ転換した。既に世界各国に散ったD機関のスパイたちは、集めた情報を生かすことなく、その偽装の経歴に従ったまま過ごすことを余儀なくされた。
 しかし、それはまだ幸運なほうだった。戦争激化にともない、日系人は強制収容所に送られるか、厳しい監視下に置かれた。スパイ活動が発覚して逮捕された者もいる。そもそもスパイである確証もないまま、日本人であるという理由だけで逮捕された者もいた。
 戦後、引き揚げに交じって帰国した彼らを出迎えたのは、一面の焼け野原と化した東京とGHQだった。陸軍省、海軍省は廃止され、公職追放によって数多の軍人が職を失った。スパイだったことを隠したまま民間人として生活していたところを、結城中佐はひそかに再招集したのだった。
 ――そのうち、またスパイの必要な時が必ず来る。
 結城中佐はそう言って、あらゆる手段を行使し、帰国したD機関の卒業生たちを集めた。
 ――連合国側も一枚岩ではない。米国とソ連は路線を違え、対立状態にある。両者は直接的な戦争をする気はない。すなわち、再びスパイの出番だ。
 もっとも、ひそかに再結集したD機関員は、普段は活動していない。帰国時から変わらず、民間人として過ごすばかりである。しかし、ただの民間人として漫然と過ごしていたのではない。戦後、外国人が増えたのに伴って、外国人相手の職業も増えた。語学が堪能な彼らはそういった、外国との接触の多い職業につき、必要となる時まで情報を集め続けていた。
 結城中佐の言う、〝その時〟がいつなのかわからない。それでも、この程度のことはできなければならないという強烈な自負心の持ち主ばかりだった。偽の人生を生きながら〝その時〟が来るのを待っていた。

 ――ついに、その時が来たのだ。ようやく、己の技術を使える機会がめぐってきた。
「任務はなんでしょうか」
 そう口火を切った神永の口元には、隠し切れない喜悦が滲んでいる。
 昭和二十五年、警察予備隊が創設された。非軍事化、民主化を目的とするポツダム政令によって組織された、旧日本軍に代わる武力組織だ。
 同年、朝鮮戦争が勃発し、日本に駐屯していた米軍も出動する事態になった。その間、日本列島を防衛するためとして警察予備隊は組織された。〝警察〟という名称であっても、警察とは程遠い重装備であり、実質的には準軍事組織だった。
 前年の中華人民共和国の誕生に、朝鮮戦争。米ソの対立が先鋭化し、極東地域は再び混乱の渦中に投げ込まれた。ドイツが東西に分離して独立し、欧州は鉄のカーテンで二分されている中での出来事である。日本の非軍事化を目的としていたはずのGHQは政策を一転させ、日本を共産主義の防波堤とすべく、再軍備を認めた。
 日本の再軍備――その機会を逃す結城中佐ではない。
「任務は、警察予備隊の再編成に関する機密文書を盗み出したスパイの追跡、そして文書の回収だ」
 結城中佐の低い声が響く。
 警察予備隊は軍事組織としての性格が強いが、公職追放によって経験豊富な指揮官は根こそぎ追い払われていた。このままでは烏合の衆となってしまう――それを危惧した一部から、指揮系統強化のために公職追放を部分的に解除する案も出ている。
 公職追放を解除するということは、すなわち軍人を呼び戻すということだ。米軍が中心となって日本の政治に関わりを持っている中、日本を共産主義の支配下に置きたいソ連側は、何としても日本の再軍備を防ぎたい。
 情報漏洩を防ぎ、スパイを捕えて実力を示せば、D機関の復活もありうるだろう。むしろ、結城中佐の狙いはそこにあるはずだ。
 まるで、D機関に最初に下された任務のようだった。十数年前、陸軍内に設立されたばかりのD機関の実力を、スパイを卑怯だと蔑む軍上層部に認めさせた出来事だ。今回とよく似ている。
「国内に他の協力者がいるかどうか、それを明らかにするのと同時進行だ。必ず、奴は情報を持って本国と接触しようとするだろう。その時を見計らって機密文書を取り戻し、スパイである証拠を示せ」
 結城中佐が資料をばさりと机に置いた。
「他の者に見張らせているが、イギリスへの逃亡を図っているようだ」
 福本が結城中佐に顔を向けた。第一期生以外で監視を行えるとするなら、D機関の二期生以降の卒業生だろうか。しかし、結城中佐はそれ以上の説明をする気はないようだった。
 資料の一枚目には、スパイ容疑のかかっているイギリス人、ベンジャミン・ワトキンソンの顔写真が張り付けられている。色あせたような薄い金髪に、青みがかった灰色の瞳。細面の理知的な顔立ちは、さぞ女性に好かれるだろう。戦後、彼は英国商社の駐在員として日本に派遣されている。
 ワトキンソンの資料の下にあったのは、国内の協力者と思われる者の一覧だ。いずれも、旧日本軍の幹部や軍と深い関わりのあった者たちの名が挙がっている。
 各々がその資料を読み込み、次の者に渡す。最後に読んだ田崎が結城中佐に資料を返却した。もちろん、資料の内容は細部にいたるまで一切を頭に叩き込んである。
「どうしてイギリス人が? 一応、西側でしょう?」
 資料を読み終わった波多野が意外そうな顔をした。結城中佐の手前、さすがに頭の後ろで腕を組んでいない。きちんと姿勢を正して座っている。
 イギリスは冷戦の西側陣営だ。日本の再軍備を妨害する必要性は低い。しかし、現在スパイとして疑われているのはイギリス人であるワトキンソンだ。イギリス人――MI6のスパイのはずが、なぜ日本から情報を盗むのか。
「ワトキンソンには、国内の共産主義者との接触もあった」
「――二重スパイ、ですね」
 結城中佐はうなずいた。
「最初はMI6からのスパイと目されていたが、盗んだ機密文書の性格からして、ソ連とMI6の二重スパイである可能性が高い」
「内容はすでに漏れているのではありませんか?」
 田崎が訊ねた。
「ワトキンソンはこちらの監視を警戒し、まだ機密文書を自分で保管している。無線を傍受したが、受け渡し日時、場所に関する情報だけだった。奴は自ら渡英し、機密文書を渡す気だ。そこを押さえろ」
 疑われたスパイに価値はないが、情報が流出する前なら話は別だ。今回の最大の目的は、スパイの確保と機密文書の回収ではない。それを成功させる力量があることを認めさせることだ。
「加えて、今回は協力者がいる」
「協力者、ですか?」
 実井が怪訝な顔をした。
 集められた第一期生のほかに、誰が協力者となりうるのか。諜報員として有望な人材を集めたD機関は解体された。新しく訓練を施す機会はない。二期生以降の卒業生たちは、あくまで同士だ。〝協力者〟と形容すべきではない。戦争を生き残り、帰国できたわずかな卒業生たちではないとすると、どこにそんな人材がいるというのだろう。
 結城中佐が、ほんの少しだけ口角を上げた。
「入ってこい」
 ぎい、と蝶番のきしむ音とともに扉が開いた。全員がじっと見つめる中、地味なスーツ姿の男が姿を現し、結城中佐に敬礼した。
「馬鹿か、貴様は」
 結城中佐の低く囁くような声も、笑みを含んでいる。
「――背広姿で敬礼する奴があるか」
「佐久間さん……」
 思わずといったように、波多野が言葉を漏らした。
「久しぶりだな」
 陸軍参謀本部所属だった佐久間が手を挙げた。
 佐久間に続いて部屋に入ってきた人影に、一同は立ち上がった。
「――小田切」
「まだその名で呼んでくれるのか」
〝卒業試験〟以降、D機関から関東軍に転属になった飛崎だった。二人とも共に五体満足で、特に変わりはないようだ。
「あれ、飛崎准佐だ。何か未練でもありました?」
「勝手に俺を殺すなよ」
 実井のたちの悪い冗談に、飛崎が苦笑した。
「無事に復員できたんだ。今まで何を?」
「ああ……、まあ、職がなくなったからな、実家に戻って農業を手伝っていたよ」
「佐久間さんは?」
「俺はちょっとな、つてがあって、今は警察予備隊にいる」
「公職追放令をどうかいくぐったのか、大変気になりますね」
 佐久間ははぐらかすように笑って、答えようとしなかった。かつては陸軍士官学校を卒業した典型的な軍人だったが、D機関にしばらく在籍していたせいもあってか、堅苦しい軍人らしさが和らいでいる。
 かつ、と結城が杖を床に打ち付けた。
 途端に部屋が静まり返る。
 結城は一同を見回した。
「田崎には先にイギリスに行ってもらう。国内のあぶり出しに残る者を決めろ」
 白い手袋をした手に握られた杖がこつこつと音を立てて、結城は部屋を出て行った。
 神永、波多野、実井、福本、田崎は互いに目配せしあった。
 国内のスパイ調査は、実質的な留守番に等しい。怪しい者の候補は既に絞られている。主な目的は、あくまでワトキンソンの追跡と、D機関復活への道筋の敷設だ。
 いまだ民間人の海外渡航は難しい時期だ。渡航先は英国。
 互いに視線を交わす。
 ――任務のついでに、そろそろエマに会いたい。
 口に出さずとも、皆がそう思っているのは明らかだった。
 田崎がすっ、とどこからともなくトランプを取り出した。
 やはり、ここはジョーカー・ゲームしかない。
 神永、実井、波多野、福本が思い思いにテーブルに着く。
 全員の同意を確認し、田崎はカードを各々に配った。すでに英国行きが決定している田崎は、カードを配り終わるとゲーム自体には参加せず、四人の背後に回った。
 さりげなく飛崎も四人の手札が見える位置に陣取った。佐久間は腕を組んで壁に寄り掛かった。
「貴様もやるか」
 田崎が笑いながら飛崎に問いかける。
「もちろんだ」
 飛崎も笑い返す。
 ジョーカー・ゲームのプレイヤーは神永、実井、波多野、福本。直接参加しないのが、飛崎と田崎。背後でゲームを見守っているのが佐久間。
 負けず嫌いで自尊心の塊のような彼らは、誰ひとりとして譲らない。静かに戦いの火蓋が切って落とされた。

「ビッド、十枚」
「じゃあコールで」
「……コール」
 チップが積み上げられる。
 何回かゲームを行い、互いにチップを獲得したり失ったりを繰り返した。
 三人の背後では、田崎が手慰みにコインを投げては受け取り、手のひらから消したり出現させたり、誰に見せるともなく手品を披露している。飛崎は水を飲みながらゲームの行方を見守っている。時折、テーブルをとんとんと指先で叩く。
「フルハウス」
 残ったコインをすべて賭け、神永がキングを三枚、エースを二枚出した。
「フォーカード」
 実井が3を四枚出す。
 無言で顔を覆った神永から、実井がチップを回収した。
「これで神永のチップはなくなりました」
「留守番は貴様だ」
 少年のような笑顔で波多野が言った。少年どころか青年と呼べる年でもないはずだが、幼さを残す顔立ちが、小柄な体格も相まって彼を年齢より若く見せる。
「わかってるよ」
 ふてくされたようにテーブルに突っ伏して、神永は言った。
 途中から、実井と波多野が結託して神永を負かそうとしていることに気づいていた。二人はさりげなく互いの手札を教えあっていたのだ。神永は、田崎を味方につけた福本に対抗して飛崎を味方につけようとしたが、既に実井と波多野に買収されていた。飛崎からは偽のサインを出されていたようだ。
 しかも、ゲームの手札は佐久間がジョーカー・ゲームをただのポーカーだと思い、ゲームに参加してチップをむしり取られた時を再現している。まったく、手の込んだ嫌がらせだ。以前、背の低さをからかったのを根に持たれていたらしい。
 手札に気づいた佐久間が、苦々しそうに顔を歪めている。
 実井が勝負に負けた神永をくすくす笑いながら、扉へ向かって歩いていく。続いて波多野が意地悪そうな笑みのまま立ち上がる。福本はどこか気の毒そうな顔をしていた。最後にカードとチップを片付け、ちらりと神永を一瞥して田崎も出て行った。
「福本は何で釣ったわけ?」
「……新作のデザート。この前イタリアの料理本を入手した」
「おっ、それいいな」
「僕も食べたい」
「いや、俺が先だ」
「なんだよ、けち」
 背中から緊張感の欠片もない会話が聞こえて、神永は歯ぎしりした。断じて、福本の新作デザートが食べたいわけではない。――いや、少し興味はあるが。
 ばたん、と扉が閉じたところで、神永は体を起こした。
 実際のところ、神永は本気で悔しがっていたわけではない。神永は一度、英国諜報機関、MI5に捕まって聴取されている。写真屋としてロンドンに潜入し、結城中佐の思惑通りにつかまった件だ。いくら変装していようとも、あの抜かりないマークス中佐が神永を見つけ出す可能性は、否定できない。
 それに、日本でもやることがある。さっさとスパイを特定すればいいだけだ。その後の行動に関しては、結城中佐も何も言うまい。
 神永はさっきとは打って変わって獰猛な笑みを浮かべた。
 佐久間と飛崎が歩み寄ってくる。
「じゃあ、お仕事を始めようか」
 佐久間と飛崎も、笑って応えた。

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