3

 目を開けると、わたしは分厚いカーテンの引かれた部屋にいた。ご丁寧にベッドに寝かされている。服に乱れはなく、靴は脱がされて床に置かれていた。拘束もされていない。
 どこかのアパートメントの一室だろうか。薄く埃が積もっているのを見ると、空き家らしい。ただ、最近まで人が住んでいたのか、内装はきれいだ。少なくとも、荒れ放題のあばら家などではない。
 カーテンは閉まっていたが、とっくに日は暮れているようだ。部屋には頼りない燭台の明かりがいくつか置かれているだけだった。天井の電球は取り外されている。
「眠り姫のお目覚めかい」
 知らない声が降ってきて、わたしは思わず身構えた。武器になるものはないかとベッドの上をまさぐっても、シーツの感触しかない。
「そう緊張しなくても、君には何もしないよ」
「……それをわたしが信じると?」
 わたしは目の前の男を睨みつけた。ブルネットに茶色の瞳、どこにでもいそうな特徴のない顔をしている。
 その男は、わたしが目を覚ますまで傍で待っていたらしい。椅子に優雅に腰かけ、本を片手に持っている。本のタイトルは『アッシャー家の崩壊』。あの本のあらすじを思い返すと、あまり愉快な人ではないかもしれない。
「これはいったい何のつもりです? 淑女に対する扱いではありませんね」
 深呼吸をして、わたしはなるべく丁寧な言葉を選んで言った。目の前の男が誘拐犯で間違いない。危害を加えないと宣言されたといっても、変に相手を刺激して気を変えられたらまずい。
「いやなに、君にちょっと聞きたいことがあってね」
「でしたら普通に聞けばよろしいのでは? 別にこんなことをしなくても、わたしは答えますよ」
「まあそう言わずに。ここなら、邪魔な人もいないしね」
 男はわたしの言葉を意に介さず、ベッドサイドのテーブルに置かれたものをわたしに見せた。
〝それ〟は、燭台の不安定な光をちらちらと反射している鏡だった。背面が漆塗りの、繊細な花模様が入っている――わたしの手鏡だ。間違いない。
「……それが何か?」
 わたしは拍子抜けしてしまった。確かにイギリスでは珍しい品物ではあるが、特別に高価なものではない。日本が戦後、国際社会に戻る以上、これから入手できる機会は増えるはずだ。
「これをどこで手に入れたのか、聞かせてほしい」
「どこって……」
 手鏡はマキさんにもらったものだ。正確には、マキさんがお父さんに託して、お父さんからわたしに手渡されたもの。日本製であること、繊細な工芸品であることくらいしか、わたしには価値がわからない。わざわざ人を誘拐してまで聞きたがることではないだろう。
「父の知り合いからもらったものですけど、どうしてそんなものを?」
「君のお父さんがね、少し気になるんだよ」
「あなたもお父さんがジャップだとか言いださないでしょうね!?」
 わたしはかっとなって思わず声を荒げた。一応、犯人を刺激しないように丁寧な言葉遣いを心掛けていたけれど、そんなものはきれいさっぱり頭から抜け落ちていた。
「落ち着いて。そういうつもりで言ったんじゃない」
「じゃあどういうつもりよ」
 刺々しい言葉づかいになってしまったのに、相手は気にかけた風もない。
「――君のお父さんには、スパイの疑いがかかっている」
 お父さんがスパイ。
 わたしは何と答えればいいのかわからず、黙り込んだ。
 確かにわたしのお父さんは日本人だ。いかに英語が流暢でも、顔立ちをよく観察すれば、西欧系の人種ではないのは明らかだ。でも、わたしが日本製の手鏡を持っているからといって、わたしに日本人の知り合いがいるからといって、それだけの理由で疑うのは少々思い込みが激しいのではないか。
 混乱するわたしを見て、男が微笑んだ。ただし、こちらを安心させる微笑みにはほど遠い。
「別に君をどうにかしようとは全く思っていないよ。ただ、君には少しおとなしくしていてほしいだけだ。お父さんのお迎えが来るまでね」
 何を言っているのか、本当にわからない。
「馬鹿なこと言わないで。わたしを帰さないっていうなら、先生たちが探しに来るわよ」
 わたしは努めて冷静に言った。この男の人は少々頭のねじが飛んでいて、わたしの手鏡を見て変な思い込みをした――それでこんな犯罪じみたおかしな真似をしでかしたのだろうか。
 わたしは外泊届を出していない。普通の外出届だけだ。
 そもそも明日は月曜日だ。全寮制の学校で出席しない生徒がいたら、脱走を恐れて先生たちは血眼になって行方を探すものだ。同室のアリスが門限破りだと思って今夜はごまかしてくれるかもしれないけれど、さすがに翌日になっても帰ってこなかったら、不審に思って先生に相談するだろう。
 わたしの通うダンフォード・カレッジは、海軍関係のパブリック・スクールだ。軍のお偉いさんの子どもも多く在籍している。そんなところの生徒が行方不明になったら、スコットランド・ヤードも捜索に入るはずだ。そうなれば、ここが見つかるまで待てばいい。いざとなったら――。
「先生たちに期待するのは無駄だ。手は回してある」
「え――」
 何を、と言いかけたわたしを遮って、男は言いたいことだけを勝手にわたしに投げつけた。
「一晩よくよく考えてみたまえよ――君は、お父さんの何を知っているのかをね」
 ――では、おとなしくしていてくれよ。それまでこれは預かっておく。
 男はそう言い残し、手鏡を持って部屋を出て行ってしまった。

 ひとり残された部屋で、わたしは冷静に状況を整理した。
 まず、あの男が十中八九、主犯だろう。
 気を失う直前に見た、手鏡を差し出した男は共犯者か何かで、わたしが手鏡に気を取られている隙に、背後から薬品をしみこませたハンカチでわたしを気絶させた。
 それにしても、あの手鏡を拾った男には、妙な既視感を覚える。不自然に襟を立てていた彼は――。
 そこでわたしははっとした。あれは、たしかにリチャードだった。コートの襟でごまかそうとしていたけれど、あの耳の形は、リチャードに間違いない。お父さんの友達がいちいち変装してくるおかげで、人を見分けるのは得意だ。
 リチャード・ハミルトンは、同学年の男子だ。少し話したことはあったかもしれないけれど、特別に親しいわけではない、ただのクラスメイト。成長が遅いのか、同学年の男子の中では背が低く、華奢な体格をしている。性格も穏やかなほうだ。
 いったい、なぜリチャードが誘拐なんて手伝うのか。
 考えても全くわからなかった。
 ぐう、とお腹が音を立てた。鳩のおじさん――タザキさんとお昼を食べてから何も口にしていない。
 わたしは改めて部屋を見渡した。
 手鏡に気を取られていたが、ベッドサイドのテーブルに質素な食事が置かれていた。水の入ったピッチャーとグラスもある。
 カバンはどこかに持っていかれたのか、部屋の中には見当たらない。わたしは部屋の中を歩き回ったけれど、特に何もなかった。クローゼットには何も入っていない。ベッドの下にも何もない。ベッドサイドのテーブルの引き出しも空っぽだ。
 ドアノブを回してみた。――鍵がかかっていた。当然だ。
 カーテンを開けてみた。窓ははめ殺しだった。これも、当然といえば当然。
 街頭に照らされて、何軒か家が見えた。住宅街のようだ。イギリスでもっとも明るい街・ロンドンでさえ夜は暗い。まして他の場所なら言うに及ばない。どこに運ばれたのか、まったく見当がつかない。
 わたしはとりあえず、一晩その部屋で休むことにした。
 食事に何か入っている可能性を考えたけれど、ここで薬を盛ってもしょうがない。殺そうと思ったなら、わざわざ誘拐などしないだろうし、既に部屋に監禁されている相手に睡眠薬を盛ったところで意味がない。
 わたしは食事に手をつけた。

 食事を終えたら、上着を脱ぎ、ネクタイをほどいてベッドに横になった。天井の染みを数える。そうしていると、あえて考えないようにしていたことが心に浮かんできた。
 ――お父さんがスパイかどうか、なんて馬鹿げている。
 お父さんと暗号で手紙を書くのはただの遊びだ。お父さんの友達がいつも変装してくるのも、ただの遊び。お父さんが過去の話をしたがらないのは、戦争で大切な人を失い、つらい目にあったから。日系人はひどく迫害されただろう。何も不審な点はない。――ないはずだ。
 でも、わたしはあまりにもお父さんのことを知らなかった。仕事の話だってほとんど聞いたことはない。経済的に不自由しないだけの稼ぎがあるのはわかっている。でも、具体的に何をしているのか、聞かされたことはない。聞いたこともなかった。
 それに、どうやってわたしをダンフォード・カレッジに入学させたのか。わたしの本当の父が海軍所属だからといって、それだけの理由で入学できるのだろうか。
 わたしはジャケットの袖口を探った。固い感触があるのを確認し、息を吐いた。
 袖には針金を仕込んでいる。鍵の開け方もお父さんに教わった。誘拐犯の男はずいぶんとわたしを甘く見ていたらしい。お父さんをスパイだと疑っている割には、わたしを鍵のかかった部屋に閉じ込めたくらいで、部屋の中での自由を制限されていない。いざとなれば、自力で脱出できるだろう。街中にさえでてしまえば、助けを求めることもできる。
 ――お父さんは、なぜこんな技術をわたしに教えたのだろう。
 胸に生じた疑念を、わたしは振り払えなかった。

     4

「おかしいわね……」
 アリスは食事の手を止めて呟いた。
 同室のエマは門限の十八時を過ぎても帰ってこなかった。少し門限を破っても寮監に見つからないように忍び込むことくらい、エマにはできるはずなのに。
 すでに夕食時だった。
 時計を見ると、十九時を過ぎたところだ。夕食は十九時からと決まっている。日曜日で外出している者もいるため、いつもよりやや人が少ない。
 土日は比較的自由な行動を許されている。申請を出せば、門限を過ぎて外出することも可能だ。金曜日の夜から日曜日までなら外泊もできる。しかし、今日のエマは外出届を出しただけだ。外で夕食を摂って帰るとは聞いていない。
 門限を破っていることが寮監に露見するのは、時間の問題だ。
「まさか、何か事件かしら?」
「あんた、いつからシャーロキアンになったのよ」
 向かいに座っていたデイジーが突っ込んだ。
「別にシャーロキアンじゃないわよ、でもこんなの変でしょ。エマが帰ってこないのよ」
「エマなら、門限破りの常習犯じゃない」
 デイジーが肩をすくめた。
 確かにその通りではある。エマは門限の十八時に間に合わず、こっそり塀を乗り越えて帰ってきたことが何回かある。もっとも、たまに失敗もしている。正門を通過しなかったのを怪しんだ守衛に報告され、後で寮監にしぼられたのだ(その時のことをお父さんに報告し、大いに笑われたらしい)。
「でも、いくらなんでも遅いんじゃない? 今日はお父さんの知り合いの人と会うって言ってたでしょ。いつもなら、きちんと門限前に寮まで送ってくれるのよ」
「そのうちひょっこり帰ってくるって。もしかしたら、今こっそり帰ってきて部屋にいるかもしれないじゃない」
「そうかしら……」
「あんたが心配したところでどうしようもないんだから。とりあえず、もぅちょっと様子見なよ」
「……それもそうね」
 アリスはひとまず、食事を再開した。

 夕食後、部屋に戻ってもエマは帰ってきていなかった。デイジーの読みははずれた。あまり喜ばしくない事態だ。
 いよいよ不安になり、アリスは窓を開けた。
 アリスとエマの部屋は女子寮の端、一階にある。
 正門からまっすぐ入ると校舎がある。広いグラウンドとプールを挟んで正門と反対側に寮が建っている。正門と相対する位置にあるのが男子寮、左手に女子寮だ。まだ女子生徒は少ないため、男子寮と比べると少し小さい。いずれ増築される計画が立っている。
 そして、女子寮の後ろ、正門から見て左手の塀には裏門がある。かつては使われていたようだが、今は管理上使われなくなっている。守衛もいない。
 アリスとエマの部屋は、この裏門からもっとも近い部屋だ。門限を破った生徒が裏門からこっそり入ってくるので、窓から迎え入れることもある。寮の入り口から入ると寮監にばれるからだ。警備上どうなのかと思わないでもないが、言ったら門限破りができなくなるから黙っている。学校側も、変なところでゆるい。
 窓からは、さわやかな風が吹き込んできた。
 窓を開けてみたところで、エマが帰ってくるわけでもない。
 アリスは身を乗り出して窓の外を見たが、塀沿いに植えられた木々が風に吹かれてざわめいているだけだった。
 ため息をついて、アリスは姿勢を戻した。本当に、そろそろ寮監に報告すべきかもしれない。ただの門限破りでなかったら――。
 その時だった。
 開け放した窓から、風に乗ってかすかに声が聞こえた。しかも、談話室のほうからではない。裏門のあたりから聞こえるのだ。アリスは不審に思った。
 ダンフォード・カレッジはそれなりに校則が厳しい。海軍士官の子弟のための学校のせいか、教育も少々軍隊じみているところがある。
 こんな時間に門限を破って外出し、あまつさえ外で騒ぎ出す生徒は少数だ。夕食後に抜け出す生徒がいないわけではないが、普通はばれないようにこっそり抜け出し、こっそり帰ってくるものだ。
 外で騒いだらすぐ寮監に見つかってしまう。問題行動を起こせばすぐさま親に連絡が行く――それだけは避けたい。軍属の親の顔に泥を塗ることになるからだ。
 このパブリック・スクールに通えるだけの身分と資産を備えているのは、たいていの場合、高級将校かその候補だけだ。父親が若くして戦死した、エマのような場合のほうが珍しい。親の身分が高いと、その子息も立場に見合った行動を求められるものだ。
 ――気になる。
 アリスは再び窓の外を見た。エマが帰ってこないことといい、今日はいつもと違うことが多すぎる。
 寮監の見回りの時間はわかっている。
 思春期真っ盛りの生徒がおとなしくしているはずがないのだ。少数ではあるが、門限後に抜け出したり、禁止された遊び(たいていの場合、ちょっとした賭け事だ)をする生徒が見つかるたび、寮監の見回り時間が変更になる。しかし、変更になるたびにそれを生徒間で見張り、時間を特定して共有する。完全ないたちごっこである。
 次の見回りまであと一時間ある。
 アリスは決心し、窓からそっと抜け出した。

「エマには何もしないって約束したじゃないか!」
 アリスが裏門に近づくと、塀の向こうから声がはっきり聞こえた。
 エマの名前が出てきたことに驚きつつ、アリスは息をひそめ、そばの木によじ登った。文学少女のような外見から誤解されがちだが、アリスの身体能力は低くない。むしろ、体育に力を入れている学校に通っているのだ。たいていの女子より運動はできる。
 暗がりの中、アリスは目を凝らした。どうやら、話しているのは二人組のようだ。
 その片方は、ダンフォード・カレッジの制服を着ている――同じ学年のリチャード・ハミルトンだった。
「――の疑いが……だ。危害は……」
 それに答えたのは、別の男だった。まだ若いが、パブリック・スクールの生徒には見えない。年の頃は、大学を出たばかりだろうか。声を潜めているせいで聞き取りにくい。木の枝が邪魔で、顔もよく見えない。
「でも……」
「そもそも――君も……今更……逃げ……できない――」
 ぐっとリチャードが言葉に詰まった。
 二人はそれからしばらく言葉を交わした。言葉の断片しか聞こえないが、エマのことで間違いなさそうだ。
 リチャードが納得していないような顔をしつつも、裏口から入る様子を見せたので、アリスは慌てて木から降りて部屋に戻った。
 ――どうしよう。
 アリスは考え込んだ。さっきの話では、エマは何か事件に巻き込まれたとしか思えない。リチャードがそれに関わっていることもほぼ確定だ。
 どうすればいいのだろう。
 アリスは部屋の中を歩き回った。寮監に話すべきか。いや、確証もないのにこんな話をして信じてもらえるのだろうか。
 思い悩んだアリスは、部屋の中を見渡した。
 ――壁に掛けられた、エマの変な仮面が目に留まった。

     5

 月曜日、朝

「ミス・グレーンは家庭の都合で一週間ほど帰省します」
 教室に入った教師が言った。エマが姿を見せないことにざわめいていた教室は、その一言で静かになった。朝食にも現れなかったエマはとうとう脱走したのではないかと噂されていたが、これで脱走は否定された。
「ほら、やっぱり事件でもなんでもないでしょ」
 デイジーが小声で言った。
 アリスはまっすぐ教師を見つめた。教師が何かを隠している様子はない。となると、学校側は何も気づいていない可能性が高い。
 ――やはり、行動に移すしかない。
「ねえ、デイジー。あとで少し話があるんだけど」
 アリスは声を潜めてデイジーに話しかけた。興奮を抑えられた自信はない。
 話しかけられたデイジーは、心なしか目を輝かせているアリスに眉をひそめた。
 アリスはその反応を気にすることもなく、言葉を続けた。昨日から考えていたことだ。最終的には、デイジーも受け入れてくれるだろう。
「これからちょっと、エマを助けに行かない?」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

inserted by FC2 system