4

 月曜日、朝

 わたしは目を覚ました。
 昨日のことは夢でもなんでもなく、わたしはまだどこかの部屋に監禁されていた。
 カーテンを開ける。はめ殺しの窓は開けられない。昨日は暗くて、飛び降りたらけがをする高さであることしかわからなかった。わたしは窓からの脱出は不可能だと判断し、一夜を明かしたのだった。
 今は十分に明るい。窓から見下ろしても、家が立ち並ぶ景色が見えるだけだった。住宅街に間違いはないけれど、どこの町だろう。
 部屋に時計がないので、正確な時間もわからない。
 それほど遠くへ運ばれたとは思えない。少なくとも、数時間で移動できる場所のはずだ。わたしが誘拐されたのが夕方、目を覚ました時には日が暮れていた。起きた時、あの男は本を読んでわたしの目覚めを待っていた。つまり、ここに運ばれた直後ではない。
 お父さんが助けに来るのを待てと言われたのだ。お父さんが見つけやすい場所を選んでいるはず――。
 でも、お父さんは今、イギリスにいない。仮にお父さんを呼び出すことに成功したとしても、ここに来るまでには、あと何日もかかるだろう。
 あの男の言う通りなら、学校も気づいていない。学校がスコットランド・ヤードに通報してくれることに期待はできない。
 鳩のおじさんには昨日会ったばかりだから、まだロンドン周辺にいるかもしれない。おじさんに助けてもらうか――でも、わたしには連絡手段がない。
 それに、お父さんは助けにきてくれるだろうか……?
 昨日から頭にこびりついて離れない不安が喉元までせりあがってきて、わたしは息苦しさを覚えた。
 ――お父さんが本当にスパイだったとしたら。
 ここでわたしを見捨てることだってありえるのではないか……。
 言われなくても、わたしとお父さんの関係は普通とはほど遠い。血縁関係はないし、人種も違う。わたしを日本に連れて帰ったならまだしも、お父さんは異国の地にとどまり続けている。イギリスはそれほど日本に対して悪感情が強いわけではないにしても、敗戦国出身のお父さんにはあまり居心地のいい場所とも思えない。むしろ、ハワイのほうが日系人が多くて過ごしやすいはずだ。
 お父さんは本当に、わたしのためにイギリスへ移り住んだのだろうか。ヨーロッパに派遣された、日本のスパイだったのではないだろうか。怪しまれないようにわたしを養子にとってイギリスに住み、仕事でヨーロッパ中を飛び回っているのではないか……。
 考えれば考えるほど、あの男の言うことを否定する材料が見つからない。
 だけど、あの男の言うことにだってなんの根拠もない。全部、状況証拠だ。わたしを動揺させるために、それらしい理由をつけただけかもしれない。
 だとしたら、なぜこんな大がかりなことをするのか。れっきとした犯罪だ。わたしが訴えれば、間違いなくあの男は逮捕される。
 ――わたしにはわからない。
 がちゃり、とドアの開く音がして、わたしは我に返った。
 昨日の男が朝食を持ってきていた。相変わらず質素な食事ではあるが、一応それなりに丁重にもてなしてくれるらしい。
 ベッドの横のテーブルに食事を置いて、男が口を開いた。
「どうだい、お父さんのことを考えてみて」
「……あなたの言うことに根拠は何もないわ」
 わたしは虚勢を張ってそう答えた。
「そうか、それは残念だ」
 男はちっとも残念そうな顔をせずに言った。向こうからしてみれば、お父さんさえ呼び出せればいいのだろう。わたしはそのための餌だ。
「では引き続き、この部屋にいてくれよ。――ああ、くれぐれも、脱走など考えないように」
 びくり、と肩が跳ねたのをごまかすように、わたしはスカートの裾を握りしめた。
 袖に仕込んだ針金がばれているのか、それとも、ただの脅しなのか。
 いきなり誘拐されてもある程度落ち着いていられたのは、いざとなれば脱出できる手段を備えているからだ。それがばれているとしたら、男が迂闊にも袖の針金に気がつかなかったのではなく、わざと残したことになる。
「僕は少し用があるから、おとなしくしてもらえると助かる」
 薄ら笑いを浮かべる男の顔からは、何も読み取れない。
 わたしの緊張をよそに、男は自然な動作で部屋を出て行った。
 外側から鍵をかける音に続き、階段を下りる音がした。
 わたしは足音が遠ざかったのを確認し、ようやく詰めていた息を吐いた。
 ひとまず、わたしは朝食をとることにした。お腹が空いていては何もできない。お父さんも昔、そんなことを言っていた。日本語にそんな言い回しがあるらしい。
 お父さんのことを思い出して、わたしは食事の手を止めた。かつ、とフォークが食器にぶつかって音を立てた。マナー違反だけど、今ここに注意する人はいない。
 お父さん――わたしの、血のつながらない〝父〟。
 考えても仕方がない。ここに確認するすべはないのだ。わたしは再び食事を始めた。

 食事をしたら少し落ち着いてきて、わたしは今後のことを考えた。
 助けを待つべきか、それとも隙を見計らって逃げ出すべきか。
 わたしはジャケットの袖口を探った。針金はちゃんとそこにある。
 助けが来るとしても、あと何日もかかる。それまでこの部屋に閉じ込められるなんて、冗談じゃない。
 ――昨日会っただけの誘拐犯の言うことを信じるなんて、馬鹿げている。
 たどりついた結論はそれだった。
 お父さんがどんな人だろうと、わたしがお父さんと過ごしてきた時間は嘘ではない。お父さんがスパイだったとして、それが一体何だというのだろう。お父さんはお父さんだ。わたしにやさしく微笑んだお父さんは偽物ではなかった。
 手紙を暗号で送ってくるお父さんは、変人だ。友達にあきれられるくらい普通ではない。職業もよくわからないし、わたしをどうやってダンフォード・カレッジに入学させたかもわからない。
 でも、それがどうしたというのだろう。幼いわたしを抱き上げた暖かい腕は、わたしの頭を撫でてくれた大きな手のひらは、時折わたしの顔を見て、お母さんに似てきた、なんて言う切なげな顔は、まぎれもなくわたしの〝お父さん〟だ。
 わたしは、お父さんからの本物の愛情を感じていた。それだけは疑う余地のない事実だ。
 わたしはジャケットの袖の糸をほどいて、針金を取り出した。
 これも、お父さんに教わった技術のひとつだ。どうしてお父さんがこんなことまでわたしに教えたのかはわからない。でも、少なくとも今この瞬間、役に立っている。
 ――あの男の思い通りになんてなってやらない。
 わたしは逃げ出すことにした。

 夜になるまで待った。一日おとなしくしていれば、少しは油断してくれるかもしれない。
 昼食も、あの男が運んできた。
 部屋のクローゼットには鏡がついている。わたしは身だしなみを整えた。これから脱走するのだから乱れるかもしれないけれど、身なりを整えずに外に出るなんて淑女のすることではない。
 ドアに耳を押し当て、様子をうかがった。足音はしない。
 鍵穴から覗くと左手に階段が見える。誰もいない。
 わたしは意を決して、針金を鍵穴に差し込んだ。
 この間に、男が戻ってきたら――という緊張感で手が震えそうになる。
 時間にして十分ほど。かちゃり、と錠の落ちる音がして、わたしは額の汗をぬぐった。お父さんならもっと早くできただろう。
 わたしはそっとドアを開けた。きい、ときしむ音にひやりとしたが、誰も階段を上がってこない。
 わたしの部屋の向かいにも部屋がある。誰も出てくる気配はない。
 足音を立てないよう、わたしは靴を脱いだ。片手に靴をぶら下げ、そっと廊下を歩く。わずか一歩が一マイルになったような気分だった。
 廊下の端にたどり着き、階段を見下ろす。階段を下りたすぐ先が玄関だ。あの男が部屋の奥にいれば、玄関から逃げられるかもしれない。
 わたしは階段の下をのぞきこんだ。まだ誰も上がってこない。再び息をひそめて階段を下りる。
 あと数段で一階に下りるというとき、男の話し声が聞こえた。あの誘拐犯ではない。別の男の声だ。
 ――もうひとりいたなんて。
 心臓が大きく跳ねた。二人いたら勝ち目はない。
「はい、例の件は……、問題ありません。ひとりで――」
 その男は電話をかけているようだ。幸い、一人分の声しかしない。
 声は部屋の奥から聞こえる。わたしは階段にうずくまったまま、手すりから向こうをのぞいた。男は玄関に背を向けている。このまま走れば逃げられる――。
 わたしが足を踏み出そうとしたその瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。
 わたしは動きを止めた。
 どくどくと心臓が耳元で音を立てる。手すりを握る手が汗ばむ。呼吸が浅くなっているのを自覚する。声を漏らさないように口元を手で覆った。息遣いが聞こえてしまいそうだ。
 部屋の奥で、電話を置く音がした。続いて足音。
 男が近づいてくる。手すりから顔が見えた。黒髪の、やせぎすの男。
 わたしは足音を立てないように階段を数段上がった。せめてもの悪あがきとして、男からすぐには見えない位置まで下がる。
 ここで見つかってしまうのか――。
 男はわたしが階段にうずくまっているのに気づかず、玄関のドアを開けた。背中に回した右手が銃を握っている。まだわたしに気づかない。
 ――しまった。
 顔から血の気が引いていくのを感じた。玄関からは階段が丸見えだ。訪れたのが男の仲間なら、わたしをすぐに見つけてしまう。でも、男が近すぎて動けない。今動いたら部屋から脱出したことがばれてしまう。男は銃を持っている。抵抗したら何をされるかわからない。
 わたしが固唾を呑んで見ている中、ドアの向こうにいたのは――

 ――――のっぺりした鈍色の仮面だった。

 頬まで切れ込みの入ったような、不気味な微笑み。目の位置にくりぬかれた穴の奥で、きらりと何かが光を反射した。
 体格からして、細身の若い女。
 女が気味の悪い仮面をかぶって立っている。
「………………」
 背中からもわかるほどに、男は戸惑っているようだ。不審者に銃を構えることすらしない。
 当然だ。来訪者が変な仮面をかぶっていたら、普通は驚くだろう。
 普通は。
 そう、普通なら。
 あいにくと、わたしは普通ではなかった。伊達に、変なお父さんやお父さんの変なお友達と付き合ってきたわけではない。
 仮面――それは、マキさんの遺品の仮面だった。
 寮の部屋に飾ってある、わたしの仮面。その辺で買えるような代物ではない。友達からはひどく不評なそれを身に着けられる人なんて、ひとりしかいない。
 仮面をつけた女が素早く部屋を見渡す。
 階段の中ほどにうずくまったわたしと仮面の奥で、目が合った。
「エマ!」
 アリスの声だった。仮面のせいでくぐもっているが、聞き間違えるはずがない。眼鏡をかけているせいで仮面と顔の間に隙間ができているのを、無理やり紐で頭に固定している。空いた穴から光を反射しているのは、眼鏡のレンズだ。
 わたしは手に持っていた靴を投げた。
 アリスは素早くかがんで靴をよける。
 投げた靴が男の頭に当たった。ただの目くらましだ。威力はない。瞬時に事態を把握した男が銃を構えるけれど、もう遅い。
 男が靴を払いのける間に、かがんだアリスが男の腹に頭突きした。
 男はバランスを崩してよろめく。銃口が上を向いて、照準が外れる。
 その隙に、わたしは階段を駆け下りた。姿勢を低く保ち、男の振り回した腕をよける。手すりをつかんで半回転し、かがんだまま滑るように男に接近。下から突き上げるように体を伸ばして、思いっきり男の腕に肘を叩き込んで右手を跳ね上げる。同時に、足払いをかけて転倒させる。
 男は思わず銃を取り落した。
 その機を逃さず、わたしは銃を部屋の奥まで蹴飛ばした。そして体制を崩した男の背中に馬乗りになる。体重をかけ、動きを止めた。
 なおももがく男の首筋に指を添える。
「ねえ、知ってる? 頸動脈を切るには爪で十分なのよ」
 いつかお父さんが言っていたことを、そのまま男に向かって言ってやった。途端に男はおとなしくなった。両手を挙げてホールドアップの体勢。
 玄関からもうひとりが入ってきて、銃を拾い上げた。そのまま男の頭に突きつける。デイジーだった。
 さらに、いつの間にか奥に入り込んでいたアリスが、キッチンから持ち出した鍋で男の頭をぶん殴った。
 がん、といい音がして男はだらりと力を抜いた。気絶している。
 アリスがキッチンから探し出した紐で、男の両手を縛った。
 そして、三人で顔を見合わせ、(少々はしたなく)拳を突き上げた。
 完全勝利である。

「なんでアリスとデイジーがここにいるの?」
 キッチンから持ち出した椅子にそれぞれ座って一息ついたところで、わたしは口を開いた。
「助けに来たのよ」
 アリスが得意げな顔をした。あの仮面は、はずしてテーブルの上に置いてある。
「一応止めたんだけど。どう考えてもスコットランド・ヤードに通報したほうが確実でしょ」
 デイジーはアリスの大胆すぎる行動に、あきれたような顔をしている。銃は安全装置をかけ、同じくテーブルの上だ。
 わたしは仮面に目を移した。この仮面のおかげで助かったようなものだ。マキさんには感謝しなければならない。
 ……よく考えたら、マキさんからもらった手鏡のせいで誘拐されたのだった。怒るべきか感謝すべきか悩ましい。
「どうやってここがわかったの?」
「リチャードに聞いたのよ」
 リチャード。わたしたちの同級生。
 昨日、わたしに手鏡を渡してきた若い男に変装していた、あのリチャード。
「そうよ、リチャードよ!」
 わたしは立ち上がった。がたん、と椅子が音を立てた。
「気を失う前、リチャードを見たのよ。変装してたけど。あの男の協力者なのかしら。だとしたら許せないわね」
「それなんだけど……」
 アリスとデイジーは顔を見合わせた。
「なに?」
 ふたりはそろって神妙な顔をした。
「リチャードは、とりあえず敵じゃないと思うわ」
「……どういう意味?」
「それは……、話せば長いから帰ってからでいいかしら」
 デイジーが部屋の奥に転がした男をしゃくった。
 たしかに、男が目を覚ましたら逃げられない。わたしはいったん追及をあきらめた。
「帰ったら、じっくり聞かせてもらうわよ」
「ええ、もちろん」
 アリスがうなずいた。
 わたしはテーブルの上の仮面を手に取って、ふと二人に問いかけた。
「ところで、どうやってここまで来たの? まさか歩いて?」
「まさか」
「リチャードと一緒に来たのよ」
「……え?」
 わたしはぽかんと口を開けた。きっと間抜けな顔をしていたに違いない。
「あいつね、車の中で待ってもらってる。外の見張りよ」
 デイジーが含み笑いをしながら窓の外を指差した。完全にわたしを面白がっている。
「……車?」
「そう。ここまでリチャードに運転させてきたのよ」
 リチャードに車を運転させるとは、どういうことだろう。どこから車を調達したのか、道中怪しまれなかったのか、そもそもなぜ十五歳で運転ができるのか。いろいろと聞きたいことはあったけれど、
「……リチャードって運転できたのね」
 ようやく、わたしはそれだけを言った。
「そうよ、彼、結構役に立つんだから」
 アリスがにこにこしながら言った。
 そこは笑うところではない気がする。わたしは黙ってそう思った。わたしが言うのもなんだけど、アリスも十分、普通の女の子ではない。
「それも後で話すから、今はいったん帰りましょう」
「そうね」
 今度こそ、わたしたちは立ち上がった。テーブルの上の物も忘れずに回収する。
 デイジーが仮面を見て、神経を疑うと言わんばかりに眉をひそめたのは見なかったことにした。
「ねえ、これからどうする?」
 アリスが無邪気に問いかけた。まるでこれで終わりとは言わないだろう――という期待のまなざし。
「普通にスコットランド・ヤードに通報すべきでしょ」
「それじゃつまらないわ」
 相変わらずデイジーは常識的だし、アリスはデイジーの忠告を聞いたためしがない。ここに来るまでに通報しなかったのも、おそらくアリスのせいだろう。
 わたしは考え込んだ。
 縛った男は部屋の奥に転がしてある。ここまで助けに来られたのだから、帰る道もわかっているはずだ。車もある。このまま逃げられるけど、それではわたしの気が収まらない。
 そういえば、あの主犯と思しき男は、わたしの荷物を持って行ってしまったのだった。
「じゃあ、手鏡を返してもらいましょう」
 わたしの提案にアリスは目を輝かせ、デイジーは天井を仰いだ。

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