2

 火曜日、朝

 しかし、その計画はもろく崩れ去ることとなった。
「はあ? 逃げた?」
 波多野は眉をつり上げた。
 ロンドン市内のアパートメントの一室。波多野、実井、福本の三人で使用している臨時拠点。昨夜、作戦会議を開いた場所だ。
 別のホテルに宿泊している波多野がこの部屋にやってきた後のことだった。
 朝早く、飛んできた鳩が窓ガラスをつついた。
 すぐに福本が窓を開けてやり、鳩を腕に止まらせた。足に結び付けられた手紙を開く。さっと目を通すと、福本は実井に渡した。
「エマは自力で逃げたらしい」
 福本は鳩の灰色の背をいたわるようになでながら言った。
 その一言に、波多野は思わず声を上げたのだった。ひったくるように実井から手紙を受け取り、改めて自分の目で確認する。
 確かに、文面にはエマが昨晩、監禁された場所から逃げて寮へ帰ったと書かれていた。さらに、エマの友人たちが助けに行ったともある。
 それだけなら、何とでもなっただろう。
 幸い、学校には何の知らせも届いていない。もみ消す〝事実〟が存在していないのだ。エマは家庭の都合で休みを取り、予定より早く帰ってきた。それだけで済んだはずだったのだが――。
「もう一回、乗り込むつもりだと……」
 波多野は思わず頭を抱えたくなった。
「さすが甘利の娘ですね」
 実井が感心したように言った。
「それ、ほめるところ?」
「ほめるところだろう」
 福本が真面目な顔で返した。
 確かに、普通の女の子にしては大胆すぎる。自分で逃げ出そうとするその心意気は並大抵ではない。友達が助けに来るのも想定外だ。そこまではいい。しかし、その後に再び乗り込むとはどういう了見だ。
 いったいどんな教育を受けたらそんな発想に至るのか。それとも、十代特有の後先考えない、向こう見ずな自意識がそうさせるのか。
 そもそも、エマが逃げ出す手段を持っていたことも驚きだ。
「甘利の奴、英才教育すぎるだろう……」
 呆れが半分混じったように波多野はつぶやいた。
 なかなか衝撃的な内容に動揺する気配も見せず、いつもと変わらない顔で、福本はかいがいしく鳩の世話をしている。止まり木に止まらせた後は水と餌をやり、長旅をねぎらっている。
 田崎からの伝書鳩は、よく手入れされたつややかな羽毛をしている。情報伝達手段のひとつにすぎない伝書鳩だが、愛玩動物のように大切にされているようだ。田崎はいったいどこに向かっているのだろう。
 実井は手伝う気はさらさらないようで、福本を見ているだけだ。
 福本の世話好きは鳩相手にも発揮されるようだ。いつの間にか鳩の世話係と化していることに福本は気づいているだろうか。
 ――それでいいのか、福本。
 現実逃避しかけた波多野は福本と鳩を見比べるが、鳩はつぶらな瞳で波多野を見返すだけだった。
 エマの行動によって予定が狂った波多野たちは、計画の練り直しを迫られていた。
 
「ていうか田崎は? 鳩だけ寄越して本人はどこにいる?」
「さあ」
 福本が肩をすくめた。そのまま流れるような動作で割烹着を身に着け、キッチンに歩いていく。
 波多野は追いかけるようにキッチンに入った。
 波多野に構わず、福本は朝食の準備に取り掛かった。
「田崎はここに来ないんですから、そんなこと言ったってしょうがないでしょう」
 そう言いながら実井も波多野に続いてキッチンに入り、福本の手元を覗き込んだ。
「今日も朝食は英国式ですか?」
「いや、今日は和食にしてみた」
 福本が米を取り出した。米を研いだ後、鍋に入れて火にかける。
「そんなものまで持ってきたわけ……」
「福本、波多野は朝食抜きだそうです」
「食べないとは言ってないだろ」
「ほら、テーブルを拭け」
「はーい」
 福本が実井に布巾を手渡す。
 何はともあれ、いったん朝食を摂ることになった。
 波多野も食事の準備を手伝うべく、食器棚を開けた。

 朝食を済ませ、テーブルを片付けて食後の一服を楽しんだ。
 煙草を吸わない実井は、波多野の読んでいた本を勝手に広げている。
 ワトキンソンと飛崎の船がロンドン港に入るのは今夜だ。それまでの時間で、計画の見直しをすることになった。
「ワトキンソンのほうは、変更なしで行きましょう」
 船が着く時間は変わらないのだから、予定を変更しようがない。
 渡英した本来の目的なので、こちらが優先するのは当然のことである。
「エマはどうする……」
「誰か説得しに行く?」
 波多野は苦し紛れに提案した。
「軽率に姿を見せるのは避けたいところです」
「言ってみただけだって」
 波多野も本気で言ったわけではない。むろん、実井と福本もそれはわかっている。
 むやみと姿を見せるのは、甘利にかけられた疑念を確定させてしまうことにもなりかねない。エマだけならともかく、エマの友人たちには十分気をつけなければならない。
「陰からそっと見守る……、とか」
「まあ、そうなるでしょうね」
「いざとなったら突入して救出するしかないだろうな」
 福本がお茶を注ぎながら言った。茶葉も持参してきたらしい。どこまでも用意周到だ。
 実井はグラスに口をつけながら返す。
「できればそれも避けたいところですけど」
 作戦というほどの作戦は立てない。
 あまりに緻密な作戦を立ててしまえば、それに縛られて臨機応変な対応ができなくなってしまう。今回は特に、不確定要素が多すぎる。ざっくりとした方向性だけを決め、あとは個人に任せる。もちろん、あらゆる可能性を想定した準備は怠らない。
 それにしても、と実井が田崎の知らせをしげしげと眺めた。
「まさか自力で逃げるとは思いませんでした」
「甘利の英才教育のおかげだな」
「甘利のせい、って考えることもできるけど」
 甘利の教育が良かったのかまずかったのか、現時点では判断できない。
 そのままおとなしくしてくれていれば救出に行けたのだが、すでに監禁場所から逃げている。
 その後、もう一度乗り込む理由はわからない。わからないというより、考えたくないといったほうが近いかもしれない。
 ――甘利も、あのお転婆には手を焼いているのだろうか。
 お転婆すぎる娘に振り回されて困った顔をしながらも、嬉しそうに顔を緩める甘利の姿がすぐに思い浮かんだ。
 その想像を振り払い、波多野は気になっていたことを質問した。
「ところで、監禁場所ってそんなに学校に近かったのか?」
「場所はここだが」
 福本がロンドン郊外のある地点を丸く囲んだ。
 エマの通うパブリック・スクールから少し距離がある。歩いていけないほどではないが、一時間はかかるだろう。
 改めて地図上に示すと、実井が眉をひそめた。
「この距離を歩いて帰ったんですか? 行きも徒歩だとしたら、結構時間がかかりますよ」
「昨日のうちに寮に帰ったなら、車か……」
 夜遅くなので、バスは走っていない。タクシーを拾ったなら、誰かに目撃されていただろう。パブリック・スクールの制服姿は、目立つことこの上ない。エマの友人はともかく、エマは制服で誘拐されたはずだ。監禁場所にわざわざ着替えがあったとも思えない。
 全寮制のパブリック・スクールの学生が夜間に出歩いていたら、学校に連絡が行くはずである。その様子がないなら、自分たちで車を調達したと考えるほうが自然だ。ただし、学生が車を調達できるのは、不自然極まりない。
「車なんてどうやって――」
 言いかけた実井がはっとしたように言葉を切った。
「――十中八九、田崎だな」
 福本が言葉を引き取った。
 学生の身分で車を用意できるはずもない。乗用車は高価な代物だ。いくら裕福な家庭出身だとしても、それなりに元手が必要になる。
 それに、運転するだけならともかく、車などという大きなものを入手するのは目立ちすぎる。
「でも、車の運転は田崎じゃありませんよね」
「だとすると、エマのお友達ってところか」
「いや、彼女たちは運転できないはず――」
「なら、別に車の運転ができる者がひとり必要だが……」
「車の運転ができるやつなんて、そうそういてたまるか」
 彼らはいまだ十代である。年齢的に不可能というわけではないが、普通はもっと遅いものだろう。
 しかし、決してできないないわけではない。田崎が運転したのでない以上、他の誰かが運転したはずである。
 そして、それは同じ学校の生徒である可能性が高い。休暇中でもないのに、全寮制パブリック・スクールの学生が外部と連絡を取るのは難しいだろう。
「誰か巻き込んだな」
「エマのお友達もお転婆すぎるだろう……」
 類は友を呼ぶというが、エマもその周囲も普通とは言い難い。
 元をただせば、甘利や波多野たちのせいでもあるが。
「なんにせよ、田崎にはずいぶん働いてもらったな」
「田崎の奴、ずっとエマのことを監視していたわけだし」
 エマが脱出し、その後もう一度現場へ戻ることさえも知らせてきたのだから、エマにぴったり張り付いていたと考えるべきだろう。
「エマのストーカーみたいになってないか」
「まあ似たようなものでしょ」
 実井がばっさり切り捨てた。
 ――田崎が聞いたら悲しみそうだな、と波多野は他人事のように思った。
「それじゃあ、二手に分かれましょう」
 とうとう実井が核心に踏み込んだ。昨晩、先送りにした問題である。
 ちらりと互いに視線を交わす。
「どうします? ジョーカー・ゲームで決めるには人数が足りませんが」
「――いや、俺が行こう」
 福本が手を挙げた。実井と波多野に譲ってくれた形になる。
 と同時に、飛崎に会いに行くのだろう、と思った。
 他のD機関員とも一線を引いたような態度をとっていた小田切――飛崎と、福本は親しげな様子を見せていた。
 小田切が何も言わずに姿を消したあの日を、波多野は忘れない。誰も忘れていないだろう――第一期生から出た唯一の不合格者のことを。
 口封じ代わりに最前線へ配属されるのは、たやすく予想がついた。
 小田切が去った後、誰も小田切のことを話に出さなかった。昨日と何も変わっていないかのように振る舞っていた。その心の奥で何を思っているのか、他人に悟らせるようなへまはしなかった。
 任務に失敗したスパイの末路のひとつを示されて、各々が何を感じたかはわからない。
 同情したわけではない。それができて当然のD機関において、できなかった小田切は、スパイに向いていなかっただけだ。脱落した彼に抱いたのは、侮蔑だったのか、それとも憐憫だったのか――。
 確かなのは、ひとりいなくなってもD機関は変わらなかったということだけだ。少なくとも、表面上は。そう振る舞える〝人でなし〟だけが、D機関に居続けることができる。
 何を考えているのかわからない福本にも、何かしら思うところはあるのかもしれない。
「それじゃあ、福本よろしく」
「ああ」
 短くうなずいた福本の顔には、いつもと変わらず何の感情も浮かんでいなかった。

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