3

 エマと二手に分かれ、デイジーはひとりで部屋を捜索していた。
 そこは、エマの監禁されていた部屋だった。
 何の変哲もない部屋だ。ベッドに机、クローゼット。はめ殺しの窓が唯一、不自然といえば不自然だった。監禁する場所として施した最低限の逃亡防止策だろう。
 デイジーは窓のカーテンを開けた。街灯の光がぼんやり家々を照らしている。
 真下を見ると、生垣のそばにアリスが立っていた。
 デイジーはアリスに手を振った。アリスも手を振りかえす。案外、楽しそうな顔をしている。本当は家の捜索をしたがっていたが、デイジーが代わりに家に入ったのだ。ふてくされていてもおかしくないと思ったが、そんなことはなかったようだ。
 窓から離れ、デイジーはベッドの下やクローゼットを探してみた。しかし、出てきたのは元の住人の持ち物とほこりだけだった。
 ここには何もないのかもしれない。
 そう思った時、かつん、と窓ガラスに何かがぶつかる音がした。
 デイジーは再び窓際に近づいた。下を見るとアリスが立っている。さっきのは、アリスが石を投げたらしい。
 ――なんだろう。
 嫌な予感がした。
 アリスがこちらを見上げ、必死の表情で腕を動かした。外に出ろ、というように手を動かす。
 デイジーはすぐに、その意図に気づいた。
 ――戻ってきたのだ。エマを誘拐した男たちが。
 だとすると、一刻の猶予もない。恐れていた事態だ。向こうが二階に上がってきてしまったら、逃げるのは困難だ。何の変哲もない家だ。隠し通路など、あるはずもない。狭い廊下を挟んで部屋がふたつ、それ以外に逃げ道がないことは、外を見たときに確認した。
 玄関のドアの開く音がする。
 デイジーはすぐにドアに向かった。エマのいる部屋からはアリスが見えない。すぐに知らせなければならない。
 その時だった。
 足音が階段を上ってきた。予想以上に早い。気づかれているのだろうか。
 ――どうすればいい。
 考えるまでもなかった。逃げられないなら、隙ができるまでやり過ごすしかない。
 デイジーはほこりだらけのベッドの下に潜り込んだ。
 じっと息をひそめる。
 階段を上りきった足音が近づく。こちらに来るか、エマのいる部屋に入るか、予想がつかない。
 足音が止まった。ベッドの下からはドアが見えない。息を殺して、運に身を任せるだけだ。
 ドアノブの回る、がちゃりという音がした。
 この部屋のドアノブではない。
 隣の部屋から悲鳴が聞こえた。エマの声だ。こちらではなく、向こうの部屋へ入っていったようだ。
 デイジーはベッドの下から這い出し、ドアを細く開けた。隙間から向こうを覗き見る。
 エマのいた部屋のドアは、閉まりきっていなかった。
 デイジーは耳を澄ませた。細く開いた隙間から、エマと男の声、それから物音がした。
 助けに行こうかと悩んだ。二人がかりなら、勝てる見込みも全くないというわけではない。
 だが、無茶をするなと言ったのはデイジーだった。予想外のことが起きたら、すぐに通報するようにとエマとアリスに約束させたのだ。危険な橋は渡るべきではない。その信条を変えたことはない。
 それに、気になるのは、相手が本当にひとりだけなのかという点だ。エマを誘拐した男と、エマを救出した時に見た男は別人のようだった。なら、ここにやってくるのは二人かもしれない。
 さっき聞こえた足音は一人分だったが、もう一人が後から来る可能性だってある。やはり、助けを呼ぶべきだ。
 今なら、後に続く足音は聞こえない。階下での物音もしない。
 エマを助けに行けないのは不本意だが、今は仕方がない。エマには人質としての価値がある。ヤードを呼んで対処してもらうべきだ。エマに気を取られている間が、チャンスになる。
 ――今なら逃げられる。
 その機を逃さず、デイジーはそっとドアを開け、階段を下りて行った。

 結果として言えば、デイジーの判断は正しかった。階段を下りたところで、玄関のドアが開いたのだ。
 デイジーは、慌てて階段下の物置に隠れた。もうひとりの男が入ってくる。物置に隠れたデイジーには気づかず、素通りした。家に誰かが侵入したとは考えもしないらしい。
 男は一階にとどまっている。男がいつ、家に誰かが入った痕跡を発見するか、気が気ではなかった。
 デイジーは額ににじんだ汗をぬぐった。
 このまま男が二階に上がれば、その隙に逃げられる。外に出れば、アリスとリチャードと合流できる。アリスは無事なはずだ。窓から合図したのが見えた。そのおかげで、速やかに隠れることができたのだ。デイジーとエマが家から出てくるのを待っているに違いない。
 ――でも、エマはまた捕まってしまった。
 普段は冷静沈着と言って過言ではないデイジーでも、さすがに動揺した。この事態を全く予想していなかったわけではない。しかし、甘かった。前回うまくいったから、今回も大丈夫だと、どこかで思っていた。
 今にして思えば、浮かれていたのだと思う。今更後悔しても遅い。三人の中では冷静で、無茶をしがちな二人に忠告する役割を自分に課していたのに。
 リチャードはまだ車の中で待機しているはずだ。一時間たっても誰も戻らなかったら、スコットランド・ヤードに通報するように言ってある。最悪の場合、それに期待するしかない。
 でも。
 ――あきらめてなんかやらない。
 己を奮い立たせるように、デイジーは心の中でつぶやいた。

     4

「どうしよう……」
 アリスはおろおろと家の周りを歩き回った。
 エマとデイジーが家に侵入してから三十分。
 外で待機しているアリスには、中の詳しい様子はわからない。万が一に備えて、何かあったらスコットランド・ヤードに連絡する役だった。
 アリスは生垣に隠れるように、玄関の様子をうかがった。
 先ほど車が一台駐車場に入り、男が降りたのが見えたのだ。庭にあった石を投げて、デイジーには知らせた。目が合ったから、気づかなかったということはないはずだ。うまくやり過ごしたことを祈っている。
 ――エマはどうなったのだろう。
 それが気がかりだった。
 助けに行くべきか、リチャードのところに戻ってヤードに通報すべきか。デイジーには、何かあったらすぐに通報するよう、きつく言われた。でも、そのデイジーも出てこないのだ。
 本音を言えば、助けに行きたい。アリスは決して、臆病な性格をしているわけではない。友達が窮地に陥った時には、絶対に見捨てたりしない。
 しかし、相手が危険であることもわかっている。デイジーの言いたいこともわかる。彼女は彼女で、心配しているのだ。本当は、さっさとスコットランド・ヤードに通報したがっていたのを知っている。それを引っ張ってきたのはアリスだった。
 どうすればいいか考えあぐねていると、車からもうひとり降りてきた。デイジーはまだ出てこない。
 もしかしたら、二人とも捕まったのだろうか。心の中で不安が大きくなる。アリスが助けに行こうと生垣の陰から飛び出そうとしたその時だった。
「落ち着いて、お嬢さん」
 突然、背後から声がした。驚いて肩が跳ねる。
 アリスが振り向くと、細身の男が立っている。闇に溶けるような三つ揃いの暗い色のスーツに、手にはステッキを持っている。絵に描いたような英国紳士だ。
 ただし、英国紳士はこんな時間に、こんな場所にいるはずがない。
 足音はしなかった。玄関のほうに気を取られていたとはいえ、アリスに気づかれずに近づいてきたのだ。地面から湧いてきたように、ごく自然な態度でそこに立っているのが、逆に不自然だった。
「……誰ですか?」
 警戒心をにじませるアリスに、男が苦笑した。
「エマの知り合いですよ、お嬢さん」
「エマの?」
 アリスは訝しげに男を見つめた。まるで見覚えがない。突然現れて、そんなことを言ったところで信用されると思っているのか。
 アリスの視線に応えるように、男はかぶっていた帽子を脱いだ。丁寧に撫でつけられた髪型を崩し、ざっくりと手でまとめる。それだけで、ずいぶんと印象が変わった。
「あっ」
 アリスはその顔に、思わず驚いて声を上げた。
 男は脱いだ帽子を胸に当て、わざとらしく丁寧に一礼した。
「おわかりいただけましたか」
「あなたは……エマのお父様のお知り合いですか?」
「いかにも」
 帽子をかぶりなおした男の顔を、アリスは驚いて見つめた。日曜日、エマを迎えにきた男性だった。たしか、エマの父親の知り合いだったか。
 ――それがどうして、こんなところに?
 アリスの疑問を見透かしたように、男が口を開いた。
「実は、エマが危ない目に合っているという極秘情報が入りましてね」
 冗談めかした口調で男が言った。柔らかいけれど、有無を言わさない響きだった。それ以上尋ねるな、ということなのだろう。
 この際、どこでそれを知ったのかはどうでもいいことだった。
「……エマは、家の中にいます。デイジー――友達も一緒に。最初は誰もいなかったけど、さっき男の人が戻ってきて、中に入っていったんです……!」
 助けてください、とアリスは頼んだ。
 男は柔らかい笑みを浮かべて、アリスの肩に手を置いた。大きな手のひらだった。
「もちろんですよ、私はそのために来たんですからね」

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