1

 火曜日、夕方

 赤い夕日が沈み、薄暗くなり始めた頃、実井と波多野は、エマの通う学校から移動していた。
 福本と三人で話し合った後、実井と波多野の二人はダンフォード・カレッジに向かった。そこで、田崎の知らせ通り、エマたちが再び敵地に乗り込む算段をつけているのを知ったのだ。しかも、友人を連れて乗り込むつもりらしい。
 波多野が再び天を仰いでため息をついたのは、言うまでもない。
「どんどん事態がややこしくなってきたな……」
「さすがエマですよね」
 しみじみとエマの成長を喜ぶ実井に今一度ため息をついて、波多野は車の後部座席から身を乗り出した。運転席と助手席の間から顔を出し、運転主をじろりとにらむ。
「貴様のせいだからな」
 波多野の隣に座っていた実井が、後ろからのんびりと声をかけた。
「波多野だって、格闘術を教えたでしょう。おあいこですよ」
「俺はいいんだよ。技術面だけだから」
「そうですかねえ。一方的にやられるのはだめだ、隙を見て反撃しろ、って教えていませんでした?」
「そんなことは……、いや教えたかもしれないけど……」
「ほら、波多野にだって責任の一端はあるんですよ」
 はは、と運転手は笑った。
「笑ってる場合じゃないの、わかっているのか?」
「はいはい。わかっていますよ。すみませんでした。僕の責任です」
 笑いをかみ殺せずに、運転手――甘利は答えた。

     2

 同日、昼過ぎ

 学校が見える位置にある部屋(田崎の用意した拠点のひとつだった)で、実井と波多野が様子を探っていた時だった。
 エマの無事な姿を確認し、一息ついて今後の監視体制を相談していた波多野は、のぞいていた双眼鏡の中に見えた人物に目を瞬いた。
「あれ、甘利じゃないか」
「どこです?」
「ほら、あれ。あそこ歩いている奴。絶対、甘利だろ」
 波多野は、学校のそばに停車している車から降りた人物を指差した。
 実井も窓際に近寄った。波多野の渡した双眼鏡をのぞき、人影を確認する。
 波多野の指差した人影は車を降りて、きょろきょろとあたりを見回している。〝エマの父親〟の格好をしている甘利だった。
「本当だ。何をしているんでしょう」
「おおかた、エマの様子を見に来たんだろ」
 波多野が肩をすくめた。
「随分早い到着ですね。さては、田崎から連絡を受けて、慌てて船に乗ってきたといったところでしょうか」
「――甘利の奴、本当に大丈夫なのか」
 波多野は眉をひそめた。
 エマ誘拐の知らせが届いたのは、昨日のはずだ。今、ロンドンに着いたということは朝一番の船に乗ってきたのだろう。特に策もなく来てしまったように見える。日中、人通りの少ない場所だからまだ怪しまれてはいないが、あんなにあからさまに行動していては危険だ。
 甘利の行動は、いささか慎重さに欠けている。英国諜報部に疑われているにもかかわらず、こんなにわかりやすい行動を取るとは、らしくない。
 そもそも、エマが誘拐されたこと自体、伏せられた事実だ。それを知るのはごく一部の人間である。〝ただの貿易商〟にすぎない〝エマの父親〟が知っているはずがない。それを知っていることこそ、甘利が一般人でない証拠になってしまう。
 波多野が言葉に出さずとも、実井も同意見だった。
「エマに手を出されたのが、かなり堪えているのかもしれませんね」
「ちょっとエマに入れ込みすぎじゃないのか」
 波多野の危惧を、実井はあっさり受け流した。
「甘利はもうだめかもしれませんよ」
「実井も冷たいこと言うな」
「客観的事実です」
 冷たく言い放つ実井に、しかし、波多野も責めるような口調ではなかった。二人とも十分わかっていた。何かにとらわれたスパイが、どういった末路をたどるのかを。
「あいつ、引退を考えたほうがいいかもな」
「それを決めるのは本人ですよ」
 しばらく黙りこんでから、実井はぽつりと付け加えた。
「……でも、引き際を見誤ってほしくはありませんね」
 波多野は軽く眉をあげ、実井に目を向けた。凍りついたような白い顔は、いつもと何ひとつ変わらない。
「それで、どうします? あれ」
 一瞬見せた感情らしきものを消し去り、実井は甘利に向かって顎をしゃくった。
「そりゃあ、ひとつしかないだろ」
 波多野は頭の後ろで腕を組んだ。
「まあ、そうでしょうけどね」
「父娘そろって手間のかかる連中だ」
「本当ですよ」
 実井と波多野は顔を見合わせた。自然と笑いがこみ上げる。
 波多野が部屋の扉を開けた。実井も窓際から離れる。
 ぎい、と誰もいなくなった部屋に、扉のきしむ音だけがした。

 そして、日の沈みきった現在、実井、波多野、甘利の三人は、エマたちの後を追跡していた。
 実井と波多野は、挙動が怪しまれる前に甘利に声をかけ、合流した。そのまま学校に乗り込まれたら、エマが事件に巻き込まれたことが露見してしまう。せっかくの隠蔽工作が台無しだ。
 甘利を拠点へ連れて行き、三人でエマたちの監視を続けた。夕方になってリチャードがどこかへ電話し、車を用意してもらっているのを見て、エマたちがこれから乗り込むつもりであることを知った。
 すぐさまこちらも車を用意し、後を追いかけることになった。
 三人の乗っている車は、甘利の所有しているものだ。
 エマたちが車で移動すると判明した際、急遽、甘利が用意した。タクシーの利用も考えたが、目撃されると後々やっかいなことになる。よって、三人で甘利の車に乗った。
 エマたちは、どこからか調達した車に乗り込み、同級生の少年に運転させている。ことごとく予想の斜め上の行動を取るとは、甘利の教育に文句のひとつも言いたくもなる。
「行動力ありすぎるだろう……」
 波多野の何回目かのつぶやきに、甘利は申し訳なさそうな顔をした。
 慎重にエマたちを尾行したが、幸い、ほかに尾行されている様子はない。泳がされているのだろうか。
 エマが逃げたことは、向こうも把握しているはずだ。もう一日経っている。それなのに、エマの周囲を監視する気配がない。
 甘利を疑っているなら、港に着いた時点で連行すればよかったのだ。しかし、甘利は何の監視もなく、ここにたどり着いた。
 本当に、英国諜報部のひとりが暴走しただけならいいのだが。
 ――何か、裏があるのではないか。
 そうだとしても、行動するより他になかった。
 
 甘利は目的地の近くに車を止めた。
 車から降りて、周囲の様子を探る。人通りはほとんどないが、万が一にも気づかれないよう、細心の注意を払う。
 甘利たちとは目的の家をはさんで反対の方向に、もう一台の車が止まっていた。
「あれがエマたちの車でしょう」
「もう中に入ったのかな」
 波多野が双眼鏡を取り出した。
「どう、見える?」
「車の中に一人、生け垣の陰に一人、あと二人は見えない」
「エマは?」
「いない。間違いなく、家の中に入ったな」
 かがんでいた甘利が体を起こした。
「よし、じゃあ助けに行こう」
 今にも飛び出しそうな甘利を波多野が押さえた。焦っていたせいもあり、甘利は自分よりも小柄な波多野にあっさり捕まった。
「まあ待てよ。とりあえず子どもの自主性に任せてみようぜ」
「そうですよ、お父さん。過保護すぎます」
 運転中は余裕がある様子だったのに、現場を目の前にするとそれも飛んで行ってしまったのか、子煩悩な父親と化している甘利をなだめ、三人でひとまず物陰から状況を観察した。
 エマはすでに侵入した後だった。家の外に残っているのは一人――アリスといったか、眼鏡に三つ編みの少女だ。
 もう一人、車の中にいる。あちらは同級生の男子だったか。あの年で車の運転ができるのは、ある意味特殊技術かもしれない。
 少女がうろうろと家の周りを歩き回っている。中にいる二人が心配なのだろう。
 波多野から双眼鏡を受け取った実井が、あたりを観察する。
「――ちょっと待ってください、駐車場に車が止まっています」
「本当か」
 甘利が実井から奪い取るように双眼鏡を受け取り、家のほうをのぞいた。
 実井のいう通り、駐車場に車が停車している。エンジンはかかっていない。中に人はいないようだ。
「ということは、乗っていた奴らは既に中に入ったか」
「あまりよい展開ではありませんね」
 実井が顎に指を当てて考え込む。
「おい甘利、落ち着け」
 再び飛び出しそうになった甘利を、波多野が押さえこんだ。
「まずいですよ。中で鉢合わせたりしたら――」
「だったらなおさら早く助けに行かないと」
「だから落ち着けって――」
 思案気な顔をしながら双眼鏡をのぞいていた実井が、波多野をつついた。
「あれ、田崎じゃありませんか」
「何?」
「田崎が女の子に話しかけています」
「ということは、田崎が先に到着していたのか」
「そうでしょうね。というか、最初からいたんじゃないですか」
 エマの動向を見張っていたのなら、十分考えられる。
 エマが誘拐された情報を最初に持ってきたのは、田崎だった。エマが再び誘拐された場所に乗り込むという情報もまた、田崎からもたらされたものだ。
 田崎は、エマと別れた後、諜報部の怪しい動きに気づき、エマの誘拐を突き止めた。すぐに誘拐された場所も特定している。その後、諜報部の様子を探っていたが、合間にエマの周囲も探っていた。
 そもそも、昨日エマの友人たちがエマを迎えに行った車も、田崎の用意したものだったはずだ。今回の車も、おそらく田崎が用意したのだろう。田崎はエマたちが自力で侵入を果たすのを見守り、万一の事態に備えて控えていたと見て間違いない。
 田崎もいたことに安心感を覚えた甘利は、冷静さを取り戻しておとなしくなった。
 甘利を引き留めていた波多野は力を抜いた。先ほどの緊張感はすっかり弛緩し、軽口を叩く。
「女の子って、エマじゃないんだろう」
「田崎も隅に置けませんねえ」
「ていうか年齢的に見て犯罪だろ」
「犯罪者の知り合いは嫌だな」
 非合法なスパイ活動に長年従事しておきながら、実井はうそぶいた。
「……どの口でそんなことを言っているんだか」
「甘利だって、幼女を拾って養子にしたんですから、人のこと言えませんよね」
 ようやく落ち着いてきた甘利の至極まともな突っ込みは、倍になって跳ね返ってきた。予想外の一撃に、甘利の表情が一瞬固まる。
 波多野も面白がって追い打ちをかけた。
「むしろ甘利のほうが犯罪としては重いんじゃないのか。義理の親子だぜ」
「そういえばそんな小説ありませんでしたっけ?」
「娘が目当てで母親と再婚するやつ?」
「そうそう、そういう感じの」
 二人ともその作品の詳細を知っているくせに、わざと曲解した解釈をしている。
 甘利は頭が痛くなるのを感じた。この二人が組むと、たちが悪い。
「待って、君たち僕のことをそんなふうに思っていたの」
 実井と波多野が二人そろって意地悪そうに、にたりと笑った。
「聞きたい?」
「……いや。いい」
「まあ、冗談はさておき。このあたりで田崎の応援に行きますか」
「ええ、冗談だったの」
「本気だったほうがよかった?」
 下から覗きこむような実井の顔が、完璧な微笑みの形を保っている。大きな瞳が甘利を見上げる。
 甘利は両手を挙げた。
「僕が悪かったです、すみませんでした」
 田崎が少女と話しているのを、三人で物陰から見守った。うろたえていた三つ編みの彼女を落ち着かせているようだ。
「そろそろいいかな」
 少女が落ち着いたのを見て、待ちきれないというように、甘利が物陰から歩き出した。
 波多野と実井もそのあとを着いていった。
 帽子、三つ揃いのスーツにステッキを持ち、完璧な英国紳士の格好をしている田崎に近づく。向こうもすぐにこちらに気づき、軽く帽子を持ち上げてあいさつした。
「よう、田崎」
「なに格好つけているんです」
「ひどいなあ。少しくらい、いい格好させてくれよ」
 田崎が苦笑した。
 少女は驚いたように、眼鏡の奥の目をぱちぱちと瞬いている。
 甘利は帽子を脱ぎ、少しかがんで少女にあいさつした。
「お久しぶり、エマの父です」
「エマのお父さま、お久しぶりです」
 緊張した顔を少し和らげ、三つ編みの少女はあいさつを返した。視線は、甘利の背後に注がれている。
「あ、あの……、こちらの方は?」
「僕の秘密の友達ですよ」
 甘利はきれいにウインクしてみせた。

 三つ編み眼鏡の少女を車に乗せ、田崎、甘利、実井、波多野の四人になったところで、事態の収拾に関して話し合いを始めた。
「田崎はずっとここにいたんですよね」
「ああ」
 なぜ何もしなかったのか、と責めたりはしない。
 何もしなかったのは、直接手を出すとD機関の仕業だと露見してしまうからだ。エマたちの勝手な行動ということにしておくほうが、何かと都合がいい。
 しかし、エマに危害が及ぶ可能性が生じているとなると、さすがに黙って見ているわけにはいかない。
「では、簡潔な報告を」
 田崎が真剣な表情になった。
 中にはエマとエマの友人が一人。後から田崎の監視していた英国諜報部の男とその部下が到着し、入っていったらしい。
 外には見張りがわりにエマの友人がもう一人と、車を運転してきた少年が一人。
 家の外にいた見張りの少女・アリスは、中に入っていったエマの友達・デイジーには、男が帰ってきたのを知らせたそうだ。
 しかし、中からはデイジーもエマも出てこない。焦れたアリスが行動を起こそうとしたところで、田崎が登場したという経緯だった。
 最悪の事態は、二人とも捕まっている場合だ。
 仮にデイジーがエマに知らせたのだとしても、誰も家から出てこないのはおかしい。男たちから隠れていることも考えられるが、このままでは、見つかるのは時間の問題だ。
 もちろん、事件を内密に処理したい向こうとしては、実際にエマに危害を加えることは考えにくい。
 だが、そのまま少女たちに任せていい事態でもない。
 エマを誘拐したのは、エマの養父の甘利をスパイではないかと疑っているからだ。誘拐事件などという派手な実力行使をした相手が、業を煮やして何をするか――。
 どちらにせよ、そろそろ少女たちだけでは収まらない事態に発展してしまっている。
「やっぱり、突入するしかないと思うんだが」
 田崎が息を吐いた。
「誰が中に入る?」
「僕が」
 三人の顔をぐるりと見渡した波多野に、真っ先に手を挙げたのは、やはり甘利だった。
「何を言っているんだ、貴様が怪しまれたせいでエマが誘拐されたんだぞ。顔を見られたらどうする」
 ぎょっとしたように、波多野が甘利に顔を向けた。
「やっぱり、だめ?」
 首をかしげた甘利に、田崎はため息をついた。
「当たり前だろう」
「変装すればいけるかなあって」
「変装したところで、危険なことに変わりはない。相手は英国諜報部だぞ」
「僕も同意見です。危ない橋は渡らないべきだ。甘利はそこで頭を冷やしてください。エマに執着しすぎています」
 実井も同意した。冷え切った眼差しが甘利を一瞥する。
 それに、と田崎は付け加えた。
「エマの友人たちの護衛も必要だろう。顔を覚えられているのは俺か貴様だけだ。甘利なら子どもたちも安心する」
「ああ、わかっているよ」
 甘利は肩をすくめた。
「じゃあよろしくね、保護者さん」
「任せたぞ」
「……わかったよ」
 甘利は三人と分かれ、アリスとリチャードの乗っている車へ近づいた。不安げな顔をする二人を安心させるように微笑み、己の感情を一切表には出さない。
 実井の言葉が鋭く胸に刺さっていた。
 言われなくても、十分すぎるほど自覚している。
 エマのことを気にかけすぎている。それは、ロンドンへ向かう船の上でも思ったことだった。
 エマは任務を成功させるために引き取っただけだった。その後は、身分を偽装するために利用してきた。しかし、それと同時に、父親としての愛情も注いできた。
 今までは、そのふたつを両立させてきた。今、それができなくなっている。この件を解決できたとしても、この先、同じようなことはまた起こりうる。
 どうすればいい。
 甘利はまだ、答えを出せなかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

inserted by FC2 system