4

 部屋には、ハタノさんとわたしだけになった。
 わたしは床に座り込んだまま、頭上で交わされる会話を聞いていた。話の中身はよくわからない。わたしを誘拐した以外に、いろいろと事情がありそうなことだけはわかった。
 向けられた銃口に、身動きが取れなかった。
 部屋に若い男の人が入ってきて、わたしはあっけなく捕まってしまった。
 彼はわたしにお父さんのことをいくつも質問してきたけれど、何を答えたのかはよく覚えていない。
 激高したように怒鳴る彼が、いつ引き金を引くのかと、そればかりが頭の中を占めていた。
 ジツイさんとハタノさんが助けに来てくれて、それからタザキさんとまた知らない男の人が現れて、よくわからない会話を交わした。
 そして、ファレルと呼ばれた男が銃を下ろし、ようやく金縛りが解けたみたいに呼吸ができるようになった。途端に力が抜けて、床に座り込んでしまった。
 ハタノさんが近づいてくる。
「お手をどうぞ、お姫さま」
 ハタノさんが、少年みたいに悪戯っぽく笑いながら手を差し出した。
 ハタノさんは、成人男性にしては背が低い。実をいうと、わたしのほうがほんの少しだけ背が高い。それでも、そうやって王子さまのように手を差し出されると、乙女心はときめくもの。
 わたしもぎこちなく笑いながら、手を伸ばした。
 ハタノさんが意外なほど強い力でわたしを立ち上がらせる。ついでに、乱れた髪をさっと整えてくれた。わたしを上から下まで眺める。
「けがはしてないな」
「ええ」
「まったく、こんなお転婆になって、誰に似たんだか」
「あら、ハタノさんがわたしに教えたんですよ。やられっぱなしはだめだって」
「ああー……うん、そうだな、そんなことを言ったかもしれない」
「そう言ったんです。わたし、覚えていますからね」
 困ったように頭をかくハタノさんを見ていると、笑いが込み上げてきた。
 ハタノさんもくしゃりと笑った。
 そうやってひとしきり笑い合って、ハタノさんはまじめな顔をした。
「二度とこんなことはするなよ。心臓がいくつあっても足りやしない」
「……すみませんでした」
「まあでも、よくやったな。さすが俺たちのエマだ」
 ハタノさんはわたしの頭を撫でた。
「当然よ。ハタノさんたちがわたしを育てたんだもの」
「言うようになったな」
 くすくす笑っていると、階段を上る足音がして、ドアが開いた。
 ドアの向こうに、お父さんが立っていた。いつもきれいに整えられた髪が少し乱れている。服も、なんだかよれよれだ。急いで駆けつけてきたのだろう。
 ハタノさんがわたしの手を放した。早く言ってやれ、というように、顎をしゃくる。
 わたしは迷わずお父さんの腕の中に飛び込んだ。

 お父さん、ハタノさんと一緒に一階に下りると、ジツイさんとタザキさんがいた。
 アリス、デイジーとリチャードもいた。三人ともソファに座っている。リチャードは居心地悪そうにもぞもぞと体を動かして、落ち着かない様子だ。
 私を見た途端、アリスがぱっと顔を輝かせて立ち上がった。デイジーもほっとしたように、少し顔を緩めた。リチャードの肩をたたいて、耳元で何かささやく。
 リチャードがわたしを見つめた。口を開いたけれど、何も出てこない。
 わたしも何と言えばいいかわからず、二人で黙った。
 お父さんがため息をついた。
「それで、何か言いたいことは?」
「あの……ごめんなさい」
 わたしはしおらしく謝った。
「まったくだ、心配したんだぞ」
「……うん」
「二度とこんな無茶はするな。無事だったからよかったものの、一歩間違えればけがだけじゃすまなかったかもしれないんだ」
「……うん」
「さあ、帰ろうか」
「うん」
 うなずいたわたしの頭を、お父さんは乱暴に撫でた。

 タザキさんがアリスとデイジーに声をかけ、リチャードの肩に手を載せて車に乗り込む。帰りは、リチャードではなくタザキさんが運転することになった。
 わたしはお父さんの車の助手席に座った。後部座席には、ハタノさんとジツイさん。
 手鏡はハタノさんが回収していた。座席に座ると、手渡された。この手鏡から、すべては始まったのだ。こんな、何年も前にもらった小さなお土産から。
 お父さんがエンジンをかける。車が軽く揺れて、走り出した。車窓の流れる風景を見ていると、だんだん眠気に襲われていった。
 わたしは窓ガラスに額をくっつけたまま、目を閉じた。
 後ろからハタノさんかジツイさんが上着をかけてくれるのを感じたけれど、眠気には抗えなかった。
 お父さんが後ろのふたりと何か話す声も遠かった。
 暖かい闇の中に引きずり込まれるように、わたしは意識を手放した。
 こうして、手鏡から始まったわたしの三日間に及ぶ〝冒険〟は、幕を閉じたのだった。

     5

 翌週、月曜日

 あれから一週間。
 わたしが誘拐・監禁されたり、そこから逃げ出してまた乗り込んで行ったり、お父さんのお友達が何人も来たり。わたしの十五年の人生の中でも、かなり忙しい三日間だったと思う。
 学校はすっかり日常に戻っていた。
 学校側にはわたしが休みをとると連絡(偽だけど)が入っていたので、ちょうどいいからと休むことにしたのだった。
 学校側には、家の都合で一週間休んだことになっている。わたしもそれでいいと思っている。むやみに騒ぎ立てたくない。
 そもそも、わたしは家の都合で休んでいたことになっているので、騒ぎも起きなかったらしい。
 すべてが片付いた火曜日の夜、わたしは家に帰った。お父さんにはいろいろとやることがあったみたいだし、わたしも疲れてしまった。休暇でもないのに家に帰るのは、初めてだったかもしれない。
 お父さんのお友達は、我が家に泊まるのではなく、ホテルへ戻っていった。お仕事の邪魔をしてしまったとしたら、少し申し訳ない。でも、久々に会えたのは嬉しかった。
 帰りは鳩のおじさま――タザキさんが車を運転して、アリスとデイジー、リチャードを学校に送った。
 三人が寮監に見つかるのではないかと心配したけれど、タザキさんがうまくやってくれたようだった。どんな手を使ったかは、教えてくれなかった。ただ、リチャードは眠れず、次の日に寝坊して怒られたと、デイジーが笑いながら教えてくれた。
 結局、リチャードの車を用意したのはタザキさんだったそうだ。全部、お父さんを誘い出すためにお膳立てされているんじゃないかと心配していたのが、馬鹿みたいだ。でも、タザキさんが用意してくれていたなら、やっぱりタザキさんにお膳立てされていたことになるのだろうか?
 タザキさんが、どこまで事態を把握していたかはわからない。アリスの前に現れたタイミングもよすぎる。まるで、その瞬間を狙っていたみたいだ。
 それに、ジツイさんとハタノさんも、どうしてあそこにいたのだろう。タザキさんが知らせてくれたのだろうか。でも、日本からイギリスまでは一カ月以上の船旅だ。たまたまイギリスにいたのなら、やっぱりタイミングがよすぎる。
 お父さんの友人のあの人たちは、何者なのだろう。考えるほど、謎は深まるばかりだった。
 でも、すべては終わったことなのだ。わたしは手鏡を取り戻し、無事に帰ってきた。アリスも、デイジーも、リチャードも。
 誘拐事件は、わたしとアリス、デイジー、リチャードの間だけで共有された秘密だ。誰にも言ってはいけない、わたしたちだけの秘密。
 ――それはそれで、胸がときめくけれど。

 お父さんとは、ほとんど何も話さなかった。
 家に帰る途中、何か言いたげなお父さんに、わたしは何も聞かなかった。
 家に帰った後も、その話題は避けていた。つとめて今までと同じように過ごした。でも、やっぱり今まで通りではなかった。決して口に出さないでいようとしたけれど、微妙に重い空気の中で、息がつまりそうだった。
 わたしの気持ちなんて、お父さんにはお見通しだったに違いない。
 家に帰って数日、お父さんは海に行こうと言い出した。
 わたしは「うん」とだけ言った。
 その日のうちに、お父さんの車に乗って、海辺に行った。まだ海に入る季節には早く、他に誰もいなかった。
 車を降りて、白い砂浜をお父さんとふたりで歩いた。
 さすがに、イルカはいなかった。でもこうしていると、ずっと昔にお父さんとイルカを見たことがあるのを思い出した。
 あれはどこの海だったのだろう。お父さんの腕に抱かれて、明るい空の下で、たくさんのイルカを見た。お父さんはイルカを呼ぶのが上手かった。
 わたしは靴を脱いだ。靴下も脱いで、片手で持った。裸足で砂浜を歩く。砂浜に、わたしの足跡が刻まれていく。
 お父さんはわたしの後ろをゆったり歩いていた。
 わたしが振り向くと、足跡がふたり分並んで、点々と続いていた。
 時々、打ち寄せる波が足跡を押し流す。波にさらわれて、徐々に薄くなる足跡を目で追った。
わたしは立ち止った。波が足元に打ち寄せて、足首まで浸かった。やっぱり、少し冷たかった。気温が高くなってきても、まだ夏には遠い。
 お父さんもわたしの隣で立ち止まった。波がお父さんの足元を濡らしたけれど、お父さんは動かなかった。
 どれくらいそうして、海を見つめていたかわからない。
 頭上をカモメが旋回したとき、わたしは口を開いた。
「お父さんは、何があってもわたしのお父さんだから」
 お父さんは驚いたような顔をした。目を見開いて、口を少し開けて、間抜けな顔だった。いつも完璧に身なりを整えている英国紳士の影なんて、まるでない。
 わたしはふふ、と笑った。
 お父さんが帽子を深くかぶりなおした。黙ってわたしの肩を引き寄せる。まるで泣いているような、少し引きつった息遣いが聞こえた。
 わたしは海面を見つめた。波打つ海面に反射した光が目に染みて、少し涙が出た。
 お父さんは貿易関係の仕事をしているちょっと変わった人――それだけで十分だ。お父さんの友人も、ちょっと不思議な人たちで、時々遊びに来る。それ以外を知る必要はない。
 海面の光がにじんで、鼻の奥がつんとした。
 お父さんが、わたしの肩に頭を預けるように頬を寄せてきた。濡れた感触がした。
 わたしは水平線を見つめた。お父さんの顔は見なかった。

 お父さんと海を見に行ってからさらに数日後、お父さんに送ってもらって、わたしは一週間ぶりに学校に行った。
 今、こうして何事もなく授業を受けている。
 シェイクスピアの授業だった。わたしにとっては少し退屈な時間だ。わたしと違って、アリスはこういう授業が好きだった。教科書の陰から盗み見ると、一生懸命、先生の解説を書き取っている。
 わたしは教科書を眺めた。
 不幸な境遇に置かれた主人公が幸福になれば喜劇、幸福な主人公が不幸になれば悲劇。
 人は皆、人生という名の舞台の上で劇を演じる役者。
 人生は喜劇か悲劇か。わたしはどちらだったのだろう。

 昼休み時間になって、わたしたちは食堂に向かった。ごった返すほかの生徒とぶつかりそうになりながら、テーブルに着く。
「エマのお父さんってさ……」
「ん?」
「なんていうか……お父さんだけじゃなくて、ご友人の方たちも、とても変わっているのね」
 アリスはさんざん言葉に迷って、結局それだけ言った。たぶん、ほかに言いたいことは山ほどあるのだろう。でも、わたしに気を使って言わなかった。
 わたしのお父さんにかかったスパイ容疑はうやむやになった。違う、という明確な否定もしていない。わたしは、それに答えを出すことをやめることにした。
 お父さんは、私を送ってから今までと同じように外国へ出かけた。きっとそのうち、また暗号文で手紙が届くのだろう。そして、わたしは乱数表を使ってそれを解読して、暗号で返信するのだろう。
 それが、わたしとお父さんのした選択だった。どこの家族だって、秘密のひとつやふたつ、あってもおかしくはないはず。わたしとお父さんの秘密は、たまたまその部分だっただけだ。
 ――お父さんにかけられた疑いを、知らなければよかったのに。何も知らなければ、何も考えずに今まで通り過ごせたのに。
 そう思っていた。
 誰もがうらやむような、幸せな結末だったとは言えない。わからないことばかりが残され、それがまったく気にならないと言えば、嘘になる。
 でも、お父さんが本当はどんな職業についていたとしても、わたしを助けに来てくれた。今までわたしに注がれた愛情は本物だった。海辺でわたしを抱き寄せた腕を、黙って寄せた頬の濡れた感触を、わたしは忘れないだろう。
 わたしの〝お父さん〟は、やっぱりお父さん以外にはいないのだ。
「うん。そうなのよ」
 だから、わたしも誇らしげに笑ってみせた。お父さんが何者であったとしても、お父さんはわたしのお父さんであり、お父さんの友人も、ちょっと変わった人たちでしかない。わたしに変なことばかり教える、少年みたいな大人たちのままで、何が困るというのだろうか?
「お父さんの友人にしては、すっごく仲がいいのね」
 デイジーが頬杖をついて言った。
 内緒よ、と前置きしてわたしは答えた。わざとらしく人差し指を唇の前に立て、声を潜めて。
「みんな、わたしの大切な家族なの」

 これは、わたしとわたしの大切な〝家族〟のお話。
 誰ひとり血のつながらない、けれどまぎれもない、家族のお話。

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