1

 ××日後、ドイツ・ベルリン

 ベルリン郊外の共同墓地に、男が立っていた。身寄りのない者を葬る場所に、他に人はいない。
 よく晴れた日だった。墓地の周りに植えられた糸杉が青々と茂っている。男の影が黒々と墓石に落ちていた。
 墓地は、分割されたベルリンの西側に属している。西側でなければ、こうして訪れることもできなかっただろう。
 それを思えば、幸運だったのかもしれない。
 ――ここに葬られた時点で、幸運とは言い難いが。
 灰色の墓石には、Katsuhiko Makiと刻んである。
 墓石の前に立つ男――飛崎は、帽子を脱いで胸に当てた。持ってきた花束を墓石の上にそっと置く。白百合の花弁が日光を反射して、目にまぶしいほどだ。
 祈りの言葉はない。ただ、異邦の地に葬られた彼のために、目を閉じ、黙祷を捧げた。
 もう十年以上も経ってしまった。そこまで経ってようやく、ここに眠っていることを突き止められた。ここに来ることができた。
 墓の下に眠る美術商の真木克彦――三好は、任務を成功させた。最後までスパイとしてその役割を果たし、情報を受け渡した。列車事故で死んだのは不幸だったが、人生には不幸がつきものだ。彼がいくら優秀であろうとも、運命という偶然には逆らえない。
 三好の情報は彼が死んだあとも生き残り、結城中佐のもとへ届けられた。スパイとしてそれ以上の名誉はないだろう。彼がその名誉をありがたがるかと言えば、そうとは言い切れないが。
 彼の任務は、誰かが引き継いだのだろうか。真木は〝真木〟のまま死に、彼が三好だったことを知る者はほとんどいない。たとえ知ったとしても、どうしようもなかっただろう。その時には、彼は死んでしまっていたのだ。そういう意味では、彼は結城中佐をも超えた存在になったのかもしれない。
 飛崎が墓石の前で黙って立っていると、珍しいことにもうひとり、墓参りに訪れた。やや小柄な男は、まっすぐ飛崎のほうへやってくると、隣に並んだ。
 自分よりも頭ひとつ分近く背の低い彼を見下ろし、飛崎は白々しく尋ねた。
「――あなたも墓参りですか?」
「ええ。昔の知り合いです。ようやく、墓参りに来る機会ができたんです」
 小柄な男も白々しく返した。口元がかすかに歪んでいる。
 ふたりは黙って墓石の前に立ち尽くしていた。
 やがて、飛崎は帽子をかぶりなおした。踵を返して歩き出す。
 背後で、小柄な男はしゃがみこんで、墓石に話しかけているようだった。墓場にそぐわない、楽しげな声だった。
 飛崎が数歩歩いたところで、墓参りに訪れた男とすれ違った。飛崎より背が高い。男は花束を抱えていた。飛崎が持ってきたものとは違い、鮮やかな色彩が暗い色のスーツに映える。
 花束の甘い香りに混じって、ふっ、と嗅ぎなれた煙草の匂いがかすかに漂った。
「奇遇ですね。今日は人が多い」
 飛崎は男に顔を向けずに話しかけた。
「彼らも喜ぶかもしれませんね。こんなに人が来て」
 花束を抱えた男が答えた。飛崎が男のほうに顔を向けると、彼は花束に目を落としていた。帽子の陰になって、表情はうかがえない。
 ――喜ぶ、だなんて。
 飛崎は内心で苦笑した。
 顔をしかめる三好の姿が瞼に浮かぶようだった。彼はきっと、最期を見られるのを嫌がるだろう。それとも、任務を完璧に果たしたことを自慢するだろうか?
 どちらにせよ、彼が新しい言葉を紡ぐことはない。これは、飛崎の勝手な想像だ。
 二度と彼には会えない。声を聴くこともない。あの不敵な態度は飛崎の記憶の中にだけ、生きている。
 彼だけではない。かつて同期だった彼らは、今や全くの別人に成りすましていることだろう。そういう意味では、彼にも、彼らにも、等しく二度と会えない。
 けれど、不思議と、悲しいとは思わなかった。
 一陣の風が、さあっと墓地を吹き抜けた。飛崎は、飛ばされそうになった帽子を慌てて押さえた。糸杉の梢が揺れて、さわさわと音を立てる。
 それにしても、よく晴れた日だった。日本とは違う、彩度の高い空を見上げる。遠くに薄く刷いたような白い雲がかかっている。
 ここに来ることはもうないだろう。
 飛崎はまっすぐ前だけを見て、墓地を後にした。
 別れの言葉は不要だった。

     2

 ××カ月後

 佐久間は机の前に立っていた。
 重厚なつくりの机だ。部屋には佐久間ともうひとり――佐久間を呼び出した張本人が座っている。現在の警察予備隊幹部、今の佐久間の上官だ。もちろん、武藤大佐ではない。かつての軍上層部は根こそぎ追い出された。ようやく復活した準軍事組織だが、戦時中の軍国主義の復活を警戒して(そして軍事裁判、公職追放により)、幹部は総入れ替えとなった。
 現在の上官は、それなりに上背はあるが、痩せた体型をしている。白髪混じりの髪、困ったように少し垂れ下がった眉が、温厚そうな印象を与える。一見するとやさしげな風貌だが、その実、けっこうなやり手らしい。
 佐久間は警察予備隊に在籍していた。対外的には、公職追放の部分的解除を受けて採用された、数少ない指揮官――ということになっている。
 終戦後、帰国した佐久間を待っていたのは、GHQによる厳しい取り調べだった。スガモプリズンに数カ月収容された。その間のことはあまり思い出したくない。
 D機関員の言った通り、日本は敗戦国となった。同胞たちの死は何だったのか――暗く冷たい独房で、言い表せない空しさを抱えた。その感情に名前をつけることは、今になってもできない。
 ともかく、あまり階級が高くなかったこともあり、佐久間は数カ月で解放された。
 待っていたのは、公職追放だった。陸軍士官学校を卒業した典型的な職業軍人だった佐久間は、解体された軍から放り出され、再就職先に困った。なにせ、GHQによってひどく制限されていたのだ。
 実家に戻って家業の手伝いをするしかないところだったのを、佐久間は声をかけられ、特別に警察予備隊へ入隊した。
 今にして思えば、あれは結城〝中佐〟が裏から手を回したのだろう。当時、まだ公職追放は解除されていなかった。それなのに、陸軍士官学校卒業のれっきとした軍人だった佐久間が入隊できたのだ。佐久間には想像のつかない、上層部で何か取引があったと推測するしかなかった。
 その後、当時の上官に呼び出され、直々に特別任務を命じられた。
 警察予備隊の中にいる、共産主義者のあぶり出しに、潜りこんだスパイの排除。かつてのD機関に任されていたような仕事に、佐久間は最初、言葉が出なかった。
 上官はそんな佐久間を見て、ため息をついた。佐久間の上官よりもさらに上の、お偉いさんがD機関のことを知っていたらしい。それで、かつてD機関と参謀本部の連絡係をしていた佐久間に任務を割り振ったというわけだった。
 戦後になって、極秘扱いだったD機関の資料は焼却処分でもされただろう。とはいえ、人の口に戸は立てられない。D機関の存在自体は、噂で耳にした者もいたはずだ。どこかから聞きつけて興味を持ったのか、あるいは戦時中、D機関と接触があった人物なのだろうか。
 そういえば、上官がそんなことを漏らしていたような気がする。なんでも、戦時中はD機関に張り付かれていたが、今は彼らの技術を評価し、スパイを〝平和利用〟したいという奇特な人物がいるらしい。現在の政府高官は、軍国主義を否定するような人材ばかりで構成されている。ならば戦時中、D機関に見張られていたとしても不思議ではない。
 いずれにせよ、佐久間の知るところではない。
 深いことは考えないようにして、結城中佐のもとに赴き、D機関の仕事を手伝った。その時になってようやく、結城中佐はこれを見越していたのだとわかった。
 ――D機関の復活。
 かつて連絡係を務めた佐久間を呼び出し、警察予備隊での足元を固める。そのために、佐久間は特別に入隊させられたのだ。D機関に興味を持ったお偉いさんに、その成果を示して組織として認めさせ、予算を用意してもらう。まるっきり、ゴードンの時と同じだった。
 そんな思惑があったのを薄々察しつつも、佐久間は任務に就いた。
 再会したD機関は、様変わりしていた。
 三人欠けた第一期生。D機関の卒業生ではなく、職を失った元軍人になった〝小田切〟こと飛崎。姿を消した三好と甘利。
 飛崎と第一期生と共に集められた時、三好がもうこの世にいないことを初めて知らされた。
 卒業後は、各々が任務を言い渡され、二度と会うことはなかっただろう。佐久間と同様、初めて三好のたどった結末を知らされた者がいてもおかしくはない。しかし、思わず動揺をあらわにした佐久間とは違い、彼らは決して顔に感情を乗せなかった。
 ほんの一瞬の動揺を押し殺した飛崎の作られた無表情も、D機関で訓練を受けた者のそれだった。
 そうして始まった任務中、神永に言われたことがある。
 神永と二人、日本に残されていた時だった。
 後輩の飛崎に対して辛辣にあたる神永に、少し注意してやろうと思ったのだ。飛崎は、確かにD機関から脱落した。スパイにはなれなかった。彼はすっかり陸軍士官学校の後輩としての顔をしていた。三好の死を聞かされた一瞬、重なった小田切の面影はどこへ行ったのか、佐久間の知る〝小田切〟は消え去っていた。
 神永から見れば、惨めな負け犬だろう。だからといって、人の傷口を抉って楽しんでいいはずがない。
 そう説教しようとした佐久間を見越したように、神永は言ったのだ。
「ちょっと小田切――飛崎のことがうらやましかったんですよ」
「うらやましい?」
「そう。佐久間さんはね、俺たちにとって特別な存在なんですよ。それを、飛崎がかわいい後輩の顔をしてひとり占めしていると思うと、ちょっと腹が立って」
「なんだと?」
 佐久間は思わず聞き返した。
「特別……?」
 一瞬、聞き間違えたかと思った。〝化け物〟ぞろいの人でなしの彼らのひとりから、そんな言葉が出るとは思いもしなかった。自分以外のすべてを見下すような、強烈な自負心を持っているはずなのに、よりにもよって佐久間を〝特別〟だと?
「はは、嘘だと思ったでしょう」
「……まあな。お世辞かと思ったぞ」
「そんなんじゃあ、ありませんよ。本当のことです」
「なんだかなあ。信じられん」
 神永は穏やかそうな顔で笑った。そうすると、年相応の落ち着きを見せる。そういえば、神永は第一期生の中で年長だったという事実を思い出した。少年じみた表情が多かったせいでそうとは感じなかったが、実際は佐久間より何歳か年上だった可能性もある。もちろん、本当の年齢など知る由もないが。
「佐久間さんはね、俺たちがD機関員であることを知っているでしょう。それが、特別なんです」
「――それだけ?」
「ええ。それだけですよ」
「さっぱりわからん。きちんと説明してくれ」
「嫌ですよお、恥ずかしい」
 神永がわざとらしく顔を手で覆った。女学生のような真似をされても、正直に言って可愛らしさは欠片もない。
 佐久間の醒めた目に気づいた神永が手を下した。にやにやと笑う。表情がころころと変わるやつだな、と思った。
「お馬鹿な佐久間さんに、手がかりをあげましょう」
「馬鹿だと!?」
「ちょっと、そこに反応するんですか?」
 佐久間は咳払いした。
「それで、手がかりってなんだ」
「……やっぱりやめます」
「はあ?」
「ひとりでじっくり考えてくださいよ」
「おい、ここまで言っておいてなんなんだ。気になるだろう」
「だから、自分で考えてくださいって」
 佐久間がどう訊いても、神永はもう何も答えてはくれなかった。

 その意味を、考え続けていた。
 佐久間が〝特別〟なのは、神永たちがD機関員であることを知っているから。それを知っていると、彼らにとって何の得になるのだろう。むしろ、正体を知る相手がいるのは諜報活動に不利になるのではないだろうか。
 それを指して、どこか楽しそうに〝特別〟と称する神永がわからない。
 神永が――D機関員が何を考えているかなど、わかったためしがなかった。
 第一期生とは、入学試験から立ち会い、しばらく共同生活を送った。しかし、佐久間は彼らのことを全く知らないのだ。偽の経歴、氏名、年齢、性格。あんな〝化け物〟が本当にそこに実在していたのか、自分の記憶が疑わしくなる時がある。
〝化け物〟だった彼らは、常に佐久間の理解の範疇の外側にいた。
 それを、結城中佐に呼び出された時にまざまざと思い起こした。第一期生の面々と再会した際、佐久間は、彼らの見分けがつかなかった。同じ部屋で寝起きし、共同生活を送ったことまであったにもかかわらず、だ。小田切が飛崎だったことにも気づけなかった。本人に明かされても、嘘ではないかと疑った。
 それが、ひどく衝撃的だった。まさか、と思って記憶をたどっても、彼らがどんな顔立ちをしていたのか、霞がかったようにぼやけていた。その事実に、佐久間は狼狽した。確かに存在していたはずなのに、まるで思い出せなかった。
 人の印象に残らないのは、スパイとしては優秀で褒められるべきことなのだろう。しかし、ひとりの人間としてはどうか。誰にも覚えてもらえない、人との繋がりを保てない、そんな孤独に耐えられる彼らは、佐久間とは違う生き物だった。
 彼らも、佐久間が自分たちの顔を認識できないでいることに気づいていただろう。互いに当時の偽名を呼び合って、ようやく霧が晴れるように、はっきりと彼らの顔を認識できた。ずっとぼやけていた焦点がひとりひとりの顔に合わせて絞られたように、急に記憶の中の彼らの顔が鮮明によみがえった。
 そうやって再会したところで、実際、佐久間は彼らとほとんど会話をしなかった。神永と飛崎とは報告会で言葉を交わしたが、それ以外の一期生とはあいさつ以外、全くと言っていいほど何も話していない。話す前に、彼らは旅立ってしまった。
 神永とだって、任務関連のことばかりだった。それ以外で話したのは、あの一度きりだった。
 ――そういうものだと思っていた。
 彼らは再び、佐久間の知らない場所で暗躍するのだろう。それを、佐久間が見ることはない。彼らと佐久間の人生は、D機関設立のあの時だけ、交差したのだ。
 だから、今回の任務は結城中佐からの〝温情〟だったのではないか。そう感じた。任務にかこつけて呼び出され、彼らの生存を、死を、離脱を知った。そうでなければ、佐久間が彼らの行く末を知ることはありえなかった。
 D機関にいた時間は、佐久間の人生のほんの一部でしかない。陸軍士官学校時代、そこを卒業して部隊に配属されていた時のほうがずっと長い。
 だが、D機関の連絡係をしていたあの期間は、佐久間の価値観に大きな影響を与えた。軍人らしさの欠片もない第一期生と共に過ごしたせいで、生粋の軍人であり続けることができなくなった。
 それがよかったのか、悪かったのか、佐久間には判断できない。もしかしたら、そのおかげでスガモプリズンをすぐに出られて、一足先に警察予備隊へ入隊できたのかもしれない。
 すべては結果論にすぎない。結城中佐の掌で踊らされていたとしても、佐久間にはわからない。
 だから、彼らのことが心のどこかに引っかかっていたのだろう。ふとした瞬間、D機関員が卒業後どうしているのか、頭をよぎったこともあった。思い出と化した昔の知り合いが、今どうしているのか気になるくらいの、軽い興味。過酷な未来が待ち受けているにもかかわらず、むしろ望んでそこに飛び込もうとする彼らを、最後まで理解できなかったからかもしれない。
 今回の任務は、佐久間のその淡い、未練とも呼べないような感情を敏感に察知した結城中佐からのささやかな〝温情〟だと解釈した。
 任務後、彼らが、D機関がどうなったのか、佐久間は知らされていない。知らなくていいと思った。それは、佐久間の関与すべき事柄ではない。彼らが大戦をどう生き抜き、どう最期を遂げたのか、それを知ることができて十分だった。
 彼らもまた、佐久間や他の一期生に会うことで過去を整理し、真っ暗な孤独の中でひとり戦うのだろう。いや、これは彼らもそうであってほしいという佐久間の願いか。彼らに、過去への未練などないだろう。
 佐久間の理解の及ばない場所で、彼らの――残されたD機関第一期生たちの人生は再開される。佐久間の人生と彼らの人生は二度目の交錯を果たし、再び分かれる。そういうものだと思っていた。
 神永の答えが聞けないのが、唯一の心残りだった。

「佐久間くん、君には、別の部署へ異動してもらうことになった」
「異動、ですか?」
 現在の上官が、机の向こうから佐久間に言葉を投げた。
 新しく組織し直された警察予備隊では、圧倒的に指揮官が不足している。佐久間はそのうちの貴重なひとりだ。そうやすやすと異動することがあるのだろうか。
 公職追放が部分的に解除され、やっとのことで陸軍士官学校第五十八期生が第一期幹部候補生として入隊した。しかし、彼らは軍国主義に染まっていないと判断されたのと引き換えに、ほとんど実践経験がない。佐久間から見れば、幹部候補として役割を果たすには不十分すぎる。うぬぼれるわけではないが、組織としては実戦経験のある指揮官のひとりを、そうたやすく手放せるはずがない。
 佐久間の疑問が顔に出ていたのか、上官は安心させるように、柔和な顔に微笑みをたたえた。
「そうだ。向こうの担当者は、既にここに呼んでいる。彼と一緒に職務に励むように」
「彼、とは誰ですか?」
「今にわかる」
 困惑した表情を浮かべる佐久間に、現在の上官はそれ以上説明することはなかった。
 何をすることになるのか、まるでわからない。
 ――俺の人生、こんなのばかりだな。
 軍人の定めとはいえ、上からの指令に一も二もなく従うばかりだった半生を思うと、軍人でなくなったはずの今でもそうなのは、佐久間の宿命なのか。
 いや、警察予備隊が準軍事組織であることを考えると、元軍人・佐久間の人生は、今まで通りとも言えるかもしれない。
 軽いノックの音がした。
「入ってきなさい」
 上官が、待ち詫びていたように弾んだ声で言った。
 机と同様に重厚そうな扉がゆっくり開く。
 細身の男が姿を現した。室内だというのに帽子を目深にかぶって顔を見せない。服装は至って普通の背広だ。人ごみの中にいたら、まず印象に残らないような影の薄さを感じさせる。
 だというのに、なぜか、佐久間は彼に見覚えを感じた。
「失礼いたします」
 歩み寄る彼の、帽子の陰からのぞく赤い唇がにやりと弧を描いた。
 既視感が膨らむ。自分でもわからないまま、佐久間は彼の一挙手一投足に注視した。まるで、そうすれば何か思い出せるかのように。
 男がようやく帽子を脱いで、胸に当てた。軽く頭を下げる。
「到着が遅れ、申し訳ありません」
 顔を上げた男は、佐久間に視線を向けた。日本人離れした彫りの深い白皙の相貌が、言葉とは裏腹にふてぶてしく笑った。
 佐久間は、はっと息をのんだ。
「貴様は――」
 顔が緩んでいくのを感じた。
 上官は何も言わない。人当たりの良さそうな笑顔で、佐久間と彼を見守っている。
 佐久間は彼の、十年以上前に使われていた名前を呼んだ。
 それが偽名であると知っていても、佐久間にとっては、それが〝彼〟を他から識別する名前だった。佐久間は、その名を持った彼しか知らない。
 結局、彼らは佐久間には本名を一切明かさなかったから、それが佐久間にとっての〝本名〟であり続けている。
 唐突に、悟った。
 神永の言っていた言葉の意味。佐久間が彼らにとっての〝特別〟である意味。特別――佐久間にしかできないこと。それを今この瞬間、理解した。
 胸いっぱいに息を吸い込む。たった一言を発するのに、こんなにも力がいるとは思わなかった。
 佐久間は言葉を返した。〝彼〟を再び迎えるための言葉を。この世でただひとり、佐久間にしか発することのできない一言を。
「――――おかえり」
「ただいま、佐久間さん」
 彼は表情を一転させ、見たことがないくらいに、純粋に嬉しそうな顔をして笑った。

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