随分昔の話だ。

 監視の目をくぐり抜け、広大な屋敷を探検していた。外出は禁じられていたが、屋敷は十分に広い。子どもが遊び回るのに不足はなかった。すぐに連れ戻されると知っていたが、束の間の自由を謳歌するのがその頃の自分のわずかな抵抗だった。
 追いかけてくる女中を撒いて、縁側から中庭に降りる。縁側の下に潜り込んでやりすごす。籠の鳥に甘んじるつもりはない。ここで生まれ、ここで死ぬのは勘弁だ。
 頭上から静かな足音と裏腹に焦りの気配がする。毎度のことながら、ざわめく呪力の流れがやかましい。目を閉じてなお見える気配がうるさい。最近では、あまり強い感情を浴びると、酔ったような気持ち悪さがある。
 しばらく目を閉じて息を殺していると、やがて周囲が静まり返る。もういいだろう。
 縁側の下から這い出て上に登る。上等な着物が薄く土埃で汚れたが、まあいいだろう。板張りの床を裸足で踏み、そして、そこに誰かがいるのを感じた。同時に、
「――おや、迷子かな」
 奥から涼やかな声がした。
 ガラス戸の一枚が開かれた入側縁の向こうに、異様な光景が広がっていた。日差しは入側縁にしか入らず、部屋は昼間だというのに薄暗い。柱や襖、いたるところに呪符が貼られ、術式が蜘蛛の糸のように張り巡らされている。通り抜ける者を許さないように、何かを封印するように。見える調度品は家の格にふさわしく上品なのが、かえってちぐはぐだった。
 ――豪奢な牢屋だった。
 術式にがんじがらめにされながら、その人は立ち上がった。自分と同じく色素のない髪が頼りない蝋燭の火を反射し、日差しの届かない空間にほのかに浮かび上がっている。
 暗いのも相まって、外見から年齢を推し量るのはやや困難だったが、細身ながらも直線的な体型と、身にまとう装束から男性らしいことはわかった。背はそれほど高くない。調度品と同じく、上等な仕立ての着物。感じ取れる呪力は弱い。隠しているのではなく、流れる量自体が少ないようだ。瞬時にそこまで判断したところで、その人が顔をこちらに向け、ことりと首を傾げた。
「――悟坊ちゃんじゃないか。こんなところまでどうして来たんだい?」
「……」
 特筆すべきは、その人が布で目隠しされていることだった。この家で目隠しと言えば、心当たりはひとつしかない。
「やけに騒がしいと思ったら、そういうことか。そりゃあ、慌てるだろうね。私のことはまだ聞かされていないだろう?」
 驚きに声も出ない自分に構わず、その人は一人で納得したように頷いた。
「あなたは……あなたも……?」
 ようやく絞り出した声は、頼りなく薄闇に吸い込まれる。
「噂は本当だったようだね。まあ、見ればわかることだけど」
 彼はひそやかに笑った。
 布に覆い隠されてなお、ひときわ輝く両眼が――自分にしか見えない強い光を放つ六眼が――ひた、とこちらを見据えていた。

「なんで目隠ししてるの?」
「……君はまだ必要ないようだね」
「まだ?」
「今にわかるよ」
 彼に会えたのは、それから数度きりだった。その機会で、彼からさまざまなことを教わった。
 次期当主として〝お稽古〟が分刻みのスケジュールで詰め込まれる中、監視役の目を盗むのも容易ではなかった。だが、彼らから教わることのできないことがひとつだけあった。
 ――六眼の扱い方だけは、彼らも資料でしか知らない。無下限呪術の遣い手はいくらかいたが、六眼はそれ以上に希少な性質だ。いくら資料を読みあさったところで、学べることはたかが知れている。
 彼から密かに指導を受けるのは自分のためでもあった。意にそぐわない術式の発動は、周囲だけでなく自分自身をも傷つけるからだ。
「悟坊ちゃんは覚えがいい。さすがは数百年振りの五条家の宝だ。呪力量も申し分ない」
 あまり好まない呼ばれ方だった。しかし、心とは裏腹に表情はぴくりとも動かない。そう躾けられている。
 だが、その人は穏やかに言った。
「ああ、ごめんね。嫌だったろう。でも仕方ないんだ。うちは君を産み落とすのに一生をかける人で成り立っているから」
 感情を読まれるのはひどく珍しいことだった。自分と同じ眼だからこそなし得る技なのだろうか。
「……それ、見えてるの」
「見えるとも。見たくないほどに」
 露骨に話題を逸らされても構わず、彼が薄く笑う。
「現に今も、見えているんだよ」
 何が、とは言わなかった。言わずとも知れたことだからだ。同じ眼を共有しているのは、この広い家の中でも彼だけだった。
「私も昔はそうだった。眼以外に何もないとわかった途端、ここに閉じ込められたけれど」
「……」
「私には、ここの術式を破ることもできないんだよ。解き方が見えていても、解く力がないからね」
 彼は日の当たる入側縁に決して出てこない。こちらも術式への干渉を避けて、縁側より向こうへは進めない。
「君は私よりも眼がいいだろうから、瞼を探しておくといい」
 謎めいた言葉を最後に、その人と会うことはなくなった。

 ほどなくして、その言葉を思い知った。
 朝、起きた途端に目眩がした。弱い朝日が目に突き刺さるような激しい痛みを生む。思わず瞼の上から手で覆い、呻き声を上げてうずくまると、人が飛んできた。
「坊ちゃま……!」
「すぐに目隠しを」
 あれよあれよという間に布で目を塞がれる。光が遮断されるとともに、痛みが遠ざかっていった。暗闇の中で落ち着くと、視界が閉ざされているにもかかわらず、目を開けているのと変わらないほど見えていることに気がついた。
 ――六眼のせいだと、すぐに気づいた。目隠しの下で目を閉じようともお構いなしだ。全く制御が効かない。暴走しているのだろうか。
 目隠しの布を掴む。外そうとすると、やんわりと、しかし強い力で抑えられる。
「嫌だ」
「悟様のためでございます」
 爪を立てるように布を掴んだ。こんなもの、何の役に立つというのだ。
「これは嫌だ」
「ですが悟様……」
「目隠しは嫌だ。……眼鏡にしろ」
「は、はい! すぐに手配いたします」
 ばたばたと足音と呪力が遠ざかる。
 布を掴んで下ろした。目を閉じたまま、部屋を見渡す。何もかも見えている。生き物から漏れるわずかな呪力の流れがぶつかって、呪力を生成しないはずのものまでくっきりと輪郭を浮かび上がらせている。目を閉じていても、何の支障もない。ならばこの目は何のためにあるのだろう。
「坊ちゃま……」
 畏れと心配の入り混じった声に、感情を示すように増減する呪力の流れ。詳細すぎるほどに見えるそれに、気分が悪くなる。だが、眼を閉じることができない。既に瞼は下ろされている。
 ――この眼に瞼はないのだと、その時、思い知った。

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