田んぼのど真ん中である。
「暑い」
「暑いよね」
 灰原が同意した。言葉とは裏腹ににこにこしながら、しゃがみ込んで畦を覗き込んでいる。
 夕陽が目に入って眩しい。七海は手をひさし代わりにかざした。
 広大な田んぼが見渡す限り続いている。稲が風にそよぎ、遠くには山が見える。蛙の鳴き声がところかまわず響いている。東京から少し離れただけでこの有様だ。
 完璧な田園風景だった。

 きっかけは灰原の一言だった。
 補助監督の運転する車内で、七海と灰原は並んで座っていた。今回の呪霊は交通の便の悪い場所に出たらしく、かなり長時間、車に揺られている。午後の授業を終えてから出かけたせいで、既に日が傾き始めている。
 現地からの報告では二級呪霊と聞いていたが、連日通うのは困難なため、調査も含めて二泊することになっていた。
「結構走るよね」
「地図を見たら、田んぼばかりでした」
「田んぼかー、今の季節なら蛍が見れるね」
「見たことないな……」
 ぼそりと呟いただけなのに、がばりと灰原が身を起こした。
「えっ七海、蛍見たことないの?」
 ものすごい勢いに七海は少し顔をしかめた。それほど興奮することとは思えない。
「ない」
「もったいない!」
「そう言われても……ないものはないので」
 都会育ちの七海には無縁の代物だった。七海がもっと小さい頃には近所の公園で見られたらしいが、あいにく記憶に残っていない。母はこういう風物詩に少々疎かった。
「ねえねえ、蛍見に行こうよ! 日程ちょっと余裕あるでしょ? 調査はちゃんとするし!」
「そうですね……二泊あるので」
 運転席の補助監督は、バックミラー越しに灰原の顔を見た。期待に満ちた眼差しに微笑み返す。
「……少し、調査のついでに周りを見て回るのもいいでしょうね」
「そういうことだからね!」
 七海が口を挟む隙もなく、そういうことになったらしかった。

 宿に荷物を置いて、呪霊が現れたという森に向かうことになった。補助監督は近隣住民の聞き込みに回ったので、二人きりだ。
 その道中である。
「うわあ! 蛍いっぱいいそう!」
 何がそんなに楽しいのか、灰原は元気よくはしゃいでいる。七海と違って見たことはあるはずなのだが、この興奮ぶりは何なのだろう。せわしなく立ったりしゃがんだり、初めて目にする光景に落ち着きなくはしゃぎ回る子どものようだった。
「七海テンション低ーい! もっと楽しそうに!」
「元からこういう顔です」
「そういう意味じゃなくて!」
 不意に灰原が手を伸ばした。
 反応が遅れた。
「えいっ」
 灰原に頬をつままれた。そのまま強引に口角を引き上げられる。
「やめてくらひゃい」
「変な声!」
 灰原にけらけら笑われても、不思議と不愉快ではなかった。
 しばらく好きなようにさせると、飽きたのか灰原は手を離した。
 そっと頬をさすった。
「一応、調査もしないと」
「うん。そうだね」
 頷いた灰原と田んぼを歩き始める。
「うーん、こんなに人が少ないのに呪霊か。だいたい人口に比例するもんなんだけどね」
「人が少ない分、人間関係が濃密になって呪霊が発生したのでしょう」
「報告だと二級だっけ。僕たち信頼されてるね!」
「もう二年生ですし」
「あはっ、七海、去年とは言ってることが全然違う! 夏油先輩たちの応援、一年生向けじゃないって嫌がってたじゃん!」
「あれは入学して間もない頃なので。忘れてください」
 舗装されていない道を歩くのは一苦労だった。靴先が土にめり込む。
 歩いているうちにとっぷりと日が暮れ、闇が忍び寄ってくる。
 森に入る前に七海は持っていた懐中電灯をつけた。街灯もない森の中は真っ暗だ。
 光の先に、小さな祠がある。
「こんなのあったっけ」
「報告にはなかったですね」
 首を傾げながら、七海は祠の周囲を歩き回った。特に残穢も見当たらない。とうの昔に廃れた祠のようだ。伝承が途絶え、参拝者もいないのであれば、特に心配する必要もないだろう。忘れられた場所に呪いが集まるはずもない。呪霊とは、人の負の感情の集まりだからだ。
「だとすると、呪霊はやはり集落の方で発生したのでは?」
「でもここで目撃情報でしょ? 残穢がないのが気になるけど」
「見間違いとか……」
「パニック状態の人間なら、不思議じゃないけど。夜になったら暗くてなんか出そうだしね」
「呪術師が言うに事欠いて、なんか出るって……」
 しばらく捜索したが、何もなかった。
「何か条件があるとか」
「もう少し、呪霊を見たという人に詳しく聞いた方がいいですね」
「じゃあ今日はここまででいっか」
 来た道を戻る。七海の持つ懐中電灯と、月の光だけが光源だ。
「あ、蛍!」
 後ろを歩いていた灰原が唐突に指差した。
 七海が顔を上げると、小さな光がふわりと飛んだ。
「あっちも、こっちも」
 次々と蛍が空を舞う。
 ――しばし、見とれた。
 月の光を反射して薄く光る水田の上を、緑の光が飛んでゆく。確かにそれは、一見に値する風景だった。
 ぼんやりと二人で蛍を眺めていたが、不意に不愉快な羽音が耳元でした。同時に、手の甲にかゆみが生じる。
「うわ、ちょっと、蚊が」
 ぺちりと手の甲を叩くと、手のひらに血がついた。
「刺された……」
「僕も」
 灰原が首筋を叩いた。
 不愉快な羽音は止まない。高専の制服はほとんど肌を露出しないが、それでも顔や首、手など、わずかな露出に蚊が群がってくる。
「また刺された!」
「ああもう、最悪だ!」
「ていうか七海の懐中電灯に寄ってきてるんじゃない? 消そうよ!」
「消したら何も見えませんよ?」
 ばたばたと服を扇ぐが、そんな抵抗をものともせず、蚊は飛び交う。もはや、蛍を眺めるどころではなかった。
 結局、二人揃って死ぬほど蚊に刺された。

「いやあ、楽しかったね」
「楽しい? 散々だったじゃないですか」
 かろうじて型遅れのエアコンが設置してある部屋だった。おやすみモードなどという贅沢な機能はなく、なかなか大きい音を立てている。なんとか補助監督が手配した民泊だ。こんな片田舎に設備の整ったホテルなどあるはずもない。
 それに加えて、蚊にしこたま刺された首筋も手もかゆい。
 七海は寝返りを打った。
 ――こちらを見つめる灰原と目が合った。
 灰原の大きな丸い目が七海を見つめている。
「たまにはこういうのもいいじゃん。修学旅行っぽくて」
「……まだ二年生ですけど。ていうか二人しかいませんよね」
「いいじゃん別に。こういうのは雰囲気だよ」
「そうです、かね」
「七海は楽しくなかった?」
「……楽しかった」
「ほら」
 灰原が快活に笑った。
 恥ずかしくなって、七海は寝返りを打って灰原に背を向けた。頬が少し熱いような気がした。

 ――翌日、二級呪霊が産土神であることを知った。

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