もう長いこと、色のない世界を生きている。
 目を閉じたままでも何の支障もないから、ずっと瞼を下ろしている。時折、瞼を開ければ色鮮やかな外界が飛び込んでくるが、自分にとっては刺激が強すぎる。傷ついた端から再生するようになった身体とはいえ、全く疲れがないわけではない。
 この世界は明るすぎる。
 だから目を閉ざした。
 ――今、その目を開く。
 布をほどいたまま、親友だったものを見下ろした。
 街灯の光から隠れるように、壁に身を預けたまま事切れた屍。まだ体温の残る身体、まだ硬直の始まっていない、柔らかい身体。髪は少し長くなっただろうか。
 ――こいつは、こんな顔になったのか。
 前回この目で見た顔は、決別の瞬間だった。いっそ穏やかなほど〝理想〟を語り、その一方でどこか諦めたように笑みらしきものを浮かべていた。もう引き止める力はないのだと、叩きつけられた。
「――傑」
 応(いら)えはない。
 この手には血の一滴も付着していない。すべては自分の作り出した壁が――磨き上げた術式が弾いている。
 誰にも傷つけられることのない殻の中で、また立ち尽くしている。自ら引きこもり、自ら手を離したことを理解するまで随分かかった。亀裂の入った瞬間がどこだったのか、すぐにはわからなかった。瞬きの間に亀裂が広がり、手の届かない距離になったことを、手遅れになるまで気づかなかった。
「傑」
 口をついて出る彼の名の、なんと響きの甘やかなことか!
 一〇年もその名を呼ばなかった。一〇年前は一日に何度も呼んでいた。片時も忘れることはなかった。
「僕は謝らないよ」
 ただ、道を違えただけだ。その道を進んでいったのも彼らしいとも思うのは、身勝手だろうか。
 ――否、もっと身勝手に手を伸ばせばよかった。お前は間違っていると、自分ではない誰かなら言えただろうか。殴ってでも止められただろうか。正しく在ることを止めてしまったお前を。俺の代わりに善悪を選り分けていたお前を。お前の代わりに善悪を選り分けられるようになった僕が。
「僕の名前を、呼んでくれたね」
 抱え上げた身体はくたりと柔らかく、そこに意思がないことを教えてくれる。
「オマエは僕のこと、親友だと思ってくれてたの」
 青ざめた親友の死に顔は、ひどく穏やかだった。

 簡潔に報告を済ませ、安置所の寝台へ親友だったものを横たえる。清めた死体はただ眠っているようにも見える。あらゆるしがらみから解放されたのだから、そう見えるのも不自然ではないのかもしれない。
 本来であれば、検死やその他の始末は硝子の領分だったが、誰も立ち入らせなかった。
 最後くらい、独占する我が儘を許してほしい。だって、たった一人の親友だったのだから。
 ――いつだって君は我が儘ばかりだったじゃないか。
 耳元で青春の亡霊が囁く。生きていた頃と同じ温度で。
 何も捨てられない。何も。いくらモノを処分したところで、この眼を抉り取るくらいでもしなければ、何も忘れられない。
 それなのに、まだ歩ける。まだ息ができる。
「じゃあね、傑」
 もう親友なんてできない。ただ一人を喪って、次なんてない。その事実を認識しても、死にたくなることもない。
 一〇年前は眠れなくなるくらいの可愛げがあった。一〇年後の今は、きっと変わりなくよく眠れるだろう。
「僕のたった一人の親友」
 二度と巡り会うことのないように、丁寧にこの世から痕跡を消さなければならない。永劫の死を与えなければならない。呪いへ転じないように。せめて、最期だけは安らかに。
 布を巻いて目を閉じる。
 眼を開いて呪力を巡らせる。
 目の前に横たわるモノに、生きた呪力は感じない。ただ残滓のようにまとわりついた彼の呪力がはっきりと、いつものように眼に映る。
 慣れ親しんだモノクロの世界の中で、とうに拭い去った赤色が明滅している。
「呪いの言葉なんて、あるわけないでしょ」
 呪いとは執着だ。だから自分が呪うなんてありえない。
 できることなら、呪ってやりたかった。できないからこそ、呪ってやりたかった。
 きっと、この赤い幻も明日になれば消えるのだ。
 この喪失ですら、自分を完膚なきまでに傷つけるにあたわなかった事実が、いちばん深く胸を抉った。

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