まったくもって、クリスマスパーティーどころではない。
 ぱちりと医務室のスイッチを入れると、白い蛍光灯の光が部屋を明るく照らした。さすがに疲れて、椅子に座り込んで煙草を手に取る。
 人里離れたここでは喧騒は遠いが、世間では飾りつけられたイルミネーションが輝き、ケーキやプレゼントを片手に家へ急ぐ者ばかりだろう。あるいは二人連れが仲良くイルミネーションを眺めたり。
 ここはそのどれとも無縁だ。
 華やかな世間の裏側で、蛍光灯の光が夜を駆逐する。呪いと血にまみれた領分にしては、ここは明るすぎる。
 ――これほど慌ただしいクリスマスがあっただろうか。基本的に前線へ出ることのない硝子であっても、補給線まで駆り出されて、ひっきりなしに運び込まれる負傷者の手当てに忙殺されていた。
 反転術式だって時間との戦いだ。いかに時計の針を巻き戻す反転術式とはいえ、不可逆な死に至る前に治療を始めなければならない。特に怪我の程度が重い一年生二人を治療してベッドに送り返して、ようやく一段落だ。
 先ほど聞かされた情報を反芻する。
 ――青春の亡霊が、とうとう死んでしまったらしい。
 手を下したのは、むろん五条だった。当然の帰結だ。あの二人の間には何人たりとも割り込めない。それこそ、硝子であっても。
 少し考えて、煙草に火をつけるのを止めた。引き出しをまさぐって飴を取り出す。懐かしいデザインの包装紙に包まれた、どうということはない飴だ。子どもの頃にはよく食べていた。高専に入ってからも、夏油が買ってきたことがあった。食べたことがないと言う箱入りのお坊ちゃんに、餌付けするみたいに与えていた。
「……最期まで馬鹿な奴ら」
 正真正銘、同級生は一人だけになってしまった。寂しいと言えば寂しい。悲しいと言えば悲しい。あまり深い付き合いを好まない性質(たち)だったが、あの二人はそれなりに特別だった。青春の最も輝かしく、最も暗い時を共にした仲だから。
 飴はすぐに舐め終わった。特別に美味しいかと言えばそうではない。さほど頻繁に食べているわけではなかったが、店で見かければ買うくらいには思い入れがあった。それよりも、酒が欲しい。
 まだ勤務中で酒を飲むわけにはいかないから、煙草に火をつけようとした時だった。
「硝子さあ、あれ持ってない?」
 びっくりするくらいいつも通りの調子で、五条が医務室へ入ってきた。動きもいつも通り、衣服の乱れもない。怪我はしていないようだ。もっとも、とうの昔に反転術式を習得した五条が硝子に手当てを頼むことなどまずありえないのだが。
 五条がどさりと椅子に座った。かすかに漂う、落としきれない死の香りだけが、何が起こったのかを言外に伝えてくる。
 慣れ親しんだ香りだ。この部屋にも染みついている。硝子の身体にも。
「あれ? ――ああ、あれね。また眠れなくなった?」
 すぐに思い至った。先ほど食べた飴だ。あれを五条に〝処方〟してやったのは一〇年も前のことだ。眠れたのかと聞いたら、いっそ幼なげなほど素直に頷いたものだから、それからしばらく同じ飴を〝睡眠薬〟として渡してやっていた。一週間ほどだったか、すぐに立ち直ったからそれきりだった。
 ――後にも先にも、あれほど可愛げのある五条を見たことはない。
「いや、逆。よく眠れそうだからもらっておきたいんだよね」
 五条が手を差し出す。一〇年の時を経て、今すぐもらえると――硝子が常備していると疑いもしないそれは、信頼と呼んでもよかった。
「だってさあ、今日よく眠れたら、僕、人でなしみたいじゃん」
 ――傑を殺したのに。
 声の調子は一定で、まるで今日の昼食のメニューを並べ立てているかのようだった。
 特段、驚きはしなかった。こいつはそういう奴だ。唯一の親友を手ずから殺したところで揺らぐような精神構造はしていない。人として正しいとは言えないが、呪術師として――五条家当主としては、これ以上なく正しい。
 人の理に繋ぎ止められた、人型の怪物。人の姿をして人のように振る舞う、人ではない生き物。
 ただ一人の親友が道を踏み外してから、入れ替わったように人の振りが上達したのは事実だ。だが、本質は何も変わってはいない。少年期の可愛げも置いてきてしまったなら、今ここにいるのは人型の厄災だ。
 それがいじらしくも〝睡眠薬〟を求めるのなら、渡してやるのが元級友の務めだろう。
「欲しいって言うならあげるけど」
 再び引き出しを開けて、中を探る。
「……あれ、おかしいな」
 引き出しの奥までまさぐり、中を覗き込んでも何もない。
「――ああ、そうだった。さっき全部食べたんだった」
「ええ!? じゃあ僕の分は!?」
「ないよ」
 なおもぎゃあぎゃあと喚く五条を無視して、硝子は引き出しを閉めた。そういえば、あれはこの間販売終了になってしまったのだ。店に置いてあった時にもそんなポップがついていた。机の中に入っているのが最後だった。忙しすぎて、今になって思い出した。
 販売終了になったことを伝えたら、五条はどんな顔を見せるだろう。包帯ぐるぐる巻きで顔の半分が隠れているにもかかわらず――否、むしろそれを覆すようなわざと大げさに感情表現をするようになって随分と経ったから、きっとわざとらしいほど残念がってくれるだろう。本心は知らないが。
「他になんかないの!?」
「他に……コーヒー」
「砂糖は!?」
「ない」
「じゃあ要らない」
 五条(こいつ)は死ぬほど甘党だった。甘味を好むというよりは、必要な栄養素と見なしているだけなのだが。甘味をさほど好まない硝子とは味覚が合わない。
「後は――」
 つ、と視線を落とした。ちょっと意地悪したい気持ちになった。
「――煙草がある」
「えー、それ不味いじゃん」
 五条が舌を出した。むかつくほど感情豊かだ。子どもっぽいと言ってもいい。
「あげるとは言ってないよ」
「ケチ」
「要らないんじゃないの?」
「要らないけどさあ――」
 五条が天井を仰いだ。背を預けた、安っぽい椅子の背もたれがぎしぎしと音を立てる。
「――今年のクリスマス、終わっちゃうね」
「そうだね」
 呪霊に休日祝日は関係ない。むしろ、イベントがあると増える傾向すらある。
「来年こそはクリスマスパーティーしないと! ケーキも用意してさ、学生たちでプレゼント交換も楽しいじゃない? あとロシアンルーレット! 一つだけ激辛ね。伊地知に用意させるか」
「伊地知はそっとしておいてやれ。年末で死んでるから」
「硝子優しいー」
「事務仕事、嫌でしょ」
「うん」
 清々しく五条が頷く。
「じゃあ来年は一年生――じゃなかった、二年生とー、新しく入ってきた一年生と、三年生は……まあその時に考えるとして、伊地知引っ張ってきて、七海も来させよっか。硝子も来いよ」
 がばっと身体を起こし、うきうきと、親友を殺したばかりとは思えないほどほがらかに、五条が指を折る。
「オマエが生きてたらね」
「僕が死ぬわけないじゃん」
「どうだかね」
 煙草に火をつけた。一息吸い込むと、ニコチンが肺を満たす。仲のいい先輩には煙草を止められていたが、吸わずにはいられない。
「来てよ、硝子」
 声の調子が少し落ちた。五条が、布の下からまっすぐ硝子を見据えている。あの眼はただの布なんかでは遮れないことを、硝子は知悉している。
「時間があったら」
「絶対だよ」
 念押しする五条に根負けして、硝子は手をひらひらと振った。
「約束だからね」
 一寸先は闇を体現する呪術師にあるまじき、明るい約束だ。脳天気と言ってもいい。
 馬鹿げている。でも、いつだって馬鹿げているのが五条だ。その馬鹿げたことを現実にするのも。どんなに荒唐無稽なことであっても、この男ならやり遂げられる――そういう類の信頼が、五条にはあった。
 煙草の匂いが、この部屋に――硝子と五条に染みついた死の匂いを束の間、上書きしてゆく。
 販売終了になった飴のことは、しばらく黙っていようと思った。

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