「失礼します」
「入りなさい」
 返事を確認してから、私は箱を廊下に置き、膝をついて障子を開けた。
 床に伏せていた奥方が身を起こしたところだった。艶を失った長い黒髪が乱れて頬にかかっている。顔色はいつもと同じ――つまり、あまり良くない。特段、病にかかっているわけではない。奥方が伏せっているのは、精神的な不調による部分が大きかった。
 私は襖を閉めた。これから話すことは、あまり人に知られるわけにはいかない。いくら屋敷の片隅に押し込められていようとも、この敷地内においては敵地のただ中に等しかった。
「例の眼鏡をご用意しました」
 奥方の側まで歩み寄り、頭を下げたまま、浅い作りの箱を畳の上に滑らせるように渡した。
 奥方の白く細い手が紐をほどき、箱の蓋を外した。中には眼鏡が入っている。
 ――奥方が、双子の娘の片割れにと用意した呪具だ。
 奥方が眼鏡を手に取り、しげしげと眺める。
「ご苦労さま」
 奥方に無感情にねぎらわれる。
「これで本当に見えるのですね」
「はい。そう伺っております」
「そう。これで……」
 奥方が眼鏡を持ち上げ、レンズ越しに部屋の隅を見つめた。
「このようなものを……」
 嘆息するような言葉が淀んだ空気を浮遊する。自分で頼んでおきながら、気乗りしないような響きだった。
 無理もない。この眼鏡は、かけた人間に呪霊を見せることができる。呪術界の御三家に数えられるこの家においては、無用の長物でしかなかった。たった一人の例外――奥方の双子の娘の片方を置いて。
「あの子にはわたくしから渡しておきます。ここへ呼んでちょうだい」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」
 これで私の役割は終わりだ。後は当人たちがどうにかするしかない。肩の荷が下りたような心地で私が退出しようとしたところで、襖ががらりと開いた。
「おお、今日は元気そうだな」
「いつもと変わりありません」
 にべもなく奥方が言い放った。
 対する相手――白髪の老人は大口を開けて笑った。ぴんと跳ねた針金のような髭。年齢に見合わず、筋骨隆々の体格。
 私はさっと頭を下げた。
「それだけ口が利けるのであれば、元気だろう」
 奥方が眼鏡を箱に戻した。
「む、それが例の眼鏡か」
「そうです」
「儂にも見せてくれ」
「かけたところで何もございませんよ」
「当たり前だろう」
 老人――禪院家当主が差し出した手の上に、奥方が眼鏡を乗せた。大きな手のひらの上に乗ると、高価な呪具が途端におもちゃのように見えてくる。
 太い指が存外丁寧につるを開き、レンズを目の前にかざす。
「おお――何も変わらんな」
 期待した声が残念そうな響きへと変わる。
「当然でございましょう」
「違いない」
 当主が眼鏡を丁寧に折りたたみ、奥方へ返す。奥方は眼鏡を再び箱へしまった。
「オマエが我が儘を言うのは珍しいな」
「これきりです」
「ふん。一度きりの我が儘にしては、まあまあ大きい方だったな」
「その節は、大変お手数をおかけいたしました」
「何、オマエの娘たちを高専に入れるくらい、どうということはない」
「なんとお礼を申し上げていいか」
 奥方が頭を下げるのに、当主は髭を撫でた。
「ふむ、そうだな。礼はこれから考えよう。どうせ大したことはできまい」
 侮るような言葉にも、奥方は怒りを見せなかった。立場が違いすぎるし、当主の言葉は事実だった。双子の娘のうち、姉は全く呪霊が見えず、妹はかろうじて見えるものの、術師としての才には哀れなほど恵まれなかった。
 術師にあらずんば人にあらず――娘たちは本家の血筋にもかかわらず、家の中での地位はひどく低かった。もちろん、娘たちを産んだ奥方もだ。娘を産んだ奥方が凋落してゆくさまを見せつけられるのは、なかなかに堪える。
 最初から大した術式も持っていない、分家筋の私は大して生活に変化はないが、奥方が何を思っているのかは推し量れなかった。
「高専へやったところで何が変わるわけでもないだろう。呪力量も術式も先天的に決まっている」
「承知しております」
「それでも気は変わらんか」
「はい」
 本家ではいない存在として無視されがちな娘たちは、呪術高専への入学を望んだ。本来、御三家の人間には高専への入学の義務はない。家の中で養育される決まりだからだ。だが、二人は家の中ではろくな扱いをされない。これを憂えた奥方が二人に高専の存在を教えた。娘たちにスカウトされるほどの力はなく、高専へ家系枠で入学する算段をつけたのは、奥方だった。
「あれほど出来の悪い子であってもか」
「出来の悪い子ほど可愛いと申しますでしょう」
 くすりと奥方が微笑んだ。
「子の健やかな成長を望まぬ母が、どこにおりましょう」

 桜がまだ咲かない頃、奥方の娘の一人が家を出た。
「見送ってやらないのか」
「あの子はそれを望みません」
 当主の部屋に座った奥方が頭を下げた。久方ぶりに髪を結い、きちんとした着物に袖を通した奥方は、やつれてこそいたが往年の凜とした美しさの片鱗を残していた。
 私は奥方の後ろで控えていた。今や、奥方の身の回りを世話するのは私一人だけだった。
「この度はありがとうございました」
「二度と会えないかもしれんぞ」
「覚悟の上です」
「妹は京都だからまだしも、姉は東京だからな」
「真依も戻っては来ないでしょう」
「誰のおかげかわからん恩知らずは、若人の特権だな」
「それが親の務めです」
 当主はぱちりと瞬きした。
「そうか――そうであったな。オマエも人の親だったな」
「わたくしは、初めからそのつもりでしたよ」
 そっと盗み見た奥方は、母親の顔をしていた。

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