眼鏡が壊れた。

 昨晩のことだ。
 補助監督の送迎の車から降りた際、レンズが汚れていることに気づいた。先ほど祓った呪霊の残穢みたいなものだろうか。一度目に入ると、どうしても気になってしまう。呪具を小脇に抱え、真希は眼鏡を外した。
「お疲れ様です。怪我はありませんか?」
 迎えに出てきた補助監督に声をかけられ、真希は眼鏡をかけ直そうとした。その時、
「うわっ」
 補助監督が何かにつまづいた。とっさに真希は腕を差し出した。前のめりに倒れる補助監督を抱き止める。手の内から眼鏡が転げ落ち、
「あ」
 ぐしゃ、と足元で眼鏡が潰れた。

「えー、今日の任務、真希は休みです。おとなしく留守番してて」
 教室に入るなり、五条が何でもないことのように言い放った。
 五条の後ろから入った真希は額に手を当てた。そんな言い方をしたら、面倒なことになる。
 果たして真希の予想通り、残り三名――声を発しているのは二名だが――が口々に騒ぎ始めた。
「どういうことだ、悟」
「真希さん、具合でも悪いの」
 駆け寄った乙骨が、あ、と合点がいったように声を上げた。
「眼鏡が……」
「昨日壊れちまったんだ」
 あっけないものだ。仮にも呪具なのだが、強度は普通の眼鏡くらいしかなかったらしい。むしろ、今まで戦闘中に壊れなかったことを感謝すべきかもしれない。
「そういうわけで、お前らだけで行ってこい。私はおとなしく鍛錬でもしてるさ」
「そういうことー。呪霊が見えない真希を連れて行くわけにはいかないからね」
「おい悟、言い方」
「いいんだ、パンダ。事実だからな」
「じゃあお留守番、よろしく! 帰りは一九時の予定だから。あ、食堂の冷凍庫に入ってるアイスは僕のだから勝手に食べないでねー」
「悟じゃねえんだからやるかよ、ガキか」
「僕がガキだって言いたいの?」
「よくわかってるじゃねえか」
 あんまりにも大人げなく振る舞う五条がいつも通りすぎて、真希はため息をついた。
「あの、えっと、真希さん。お留守番、よろしく」
「オマエはなんでそんなに戸惑ってるんだ」
「だって、眼鏡がない真希さん、なんか新鮮で」
「わかるわかる、俺も割と初めて見たぞ」
「しゃけ!」
「そりゃあ、眼鏡なしじゃ呪術師やってられないからな」
「でも眼鏡なしの真希さんもなんかいいね」
「おっ、眼鏡かけてない真希の方が好きか?」
「あいや、そういう意味じゃなくて!」
 ちょっと赤面した乙骨の背中を狗巻が軽く叩いた。
「うん、じゃあ行ってくるね」
 何故か照れながら乙骨が言う。
 思い出したように五条が手を叩いた。
「あ、そうだ。眼鏡の修理は明日終わるよ。すっごく急かしてきたからね!」
「悪いな」
「グッドルッキングガイ五条先生にもっと感謝してくれてもいいよ」
「じゃあ経費で落としてくれ」
「考えておくね!」
「いやそこは頷けよ!」
 それじゃ、と片手を上げて引率する五条と、やや不安げな顔をする乙骨たちを見送り、真希は一人になった。
 しん、と静まり返った教室はどこか寂しい。一学年の人数が片手に収まる程度しか入学しないのが常だったが、誰もいないのとでは大違いだ。
 眼鏡の位置を直そうとして、今眼鏡をかけていないことを思い出す。確かに乙骨の言う通り、眼鏡をかけていない状態は久しぶりだった。起きている時間は常にかけている。
 ――眼鏡は母からの餞別だった。何の役にも立たずに倉庫で眠っていた呪具を見つけ出し、真希の眼鏡に仕立てあげたのは母だった。
 双子を産んでから肩身の狭い思いをさせてきた。幼くして引き離されたから普通の親子ほど親しいわけではない。それでも、こんなものを準備するくらいには〝母親〟だったのだろう。
 初めて眼鏡をかけた時、初めて呪霊を目にした時、さほど驚きはなかった。真依の方がよほどうるさく騒いでいた。
 ――その時の母はどんな顔をしていただろう。呪霊さえ見えず、一般人程度の呪力しか持ち合わせていない娘をどう思っていたのか。仮にも禪院家に嫁ぐほどの力量があった母は、何を思ってこの眼鏡を用意したのか。
 呪術師になると――高専へ入学すると宣言しても、表立って反対されたことはなかった。あるいは諦めていたのかもしれない。どうせ大したことはできないのだから、好きにさせてやろう――なんて、憐れみだったろうか。
 呪術師にとって、呪霊が見えないのは論外だ。いくら真希が肉体的に強くても、呪具の扱いに長けていても、見えない存在にはどうしようもない。そんなことは理解している。今の自分には〝里香ちゃん〟だって見えやしない。
「……見える奴の気なんか知らねえよ」
 それが自分なのだから、仕方がないことだ。そういう自分のまま、当主になってやると誓ったのだ。
「早く修理終わらねえかな……」
 鼻の上が軽すぎて落ち着かない。自由になったような感覚がある一方で、既に身体の一部のようになっていたせいか、違和感もある。眼鏡の重さなんて大したことがないのに、妙に恋しくなる。
 もしかしたらその重さが、母の愛なのやもしれなかった。

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