打ち寄せる波を素肌で感じたくて、靴を脱いだ。手すりを乗り越えて砂浜に降りる。
 荒涼とした真冬の海に人影は見当たらない。灰色の空を映した海も、弱い日光の下でくすんでいる。夏場なら海の家が並んでいる砂浜も閑散としている。
 靴も靴下もその辺に放り投げて、スラックスの裾を捲り上げる。術式を解除すれば、足が砂にめり込む。足の指の間に砂が入り込んで、足の裏が砂浜に沈む。身体が不安定に傾ぐ感覚を味わう。サングラスも外した。人も呪霊もいないから、これくらいの弱い光なら問題ない。
 ふらふらと足を踏み出す。
 冷たい海水が足を浸した。ばしゃばしゃと波を蹴り、水を吸って硬くなった砂の上を歩き、足跡を波が消していくのを見守る。あてどなく波を追いかけて歩き回る。冷たい空気が肺を冷やし、冷たい水が手足を冷やす。自傷行為にも似ているのを自覚しながら、時間を贅沢に浪費し、日が沈むのをただ待つ。
 かつて親友と行った、南の海とは大違いだ。強い日差しと絵の具のような鮮やかな青色の海面は、ここと違いすぎる。もう二度と、あの海には行けない。もう二度と、あの夏は戻らない。ただ一度きりの、美しい南の海だった。
 あの時一緒に遊んだ少女ももういない。誰にも言わなかったが、本当はあの少女だけでなく、自分も初めて海に行ったのだ。
 生まれた時から未来を定められた少女に覚えたあのほのかな感情は、親近感と呼んでもよかったかもしれない。彼女は運命に抗い、その甲斐なく死んだ。世界は彼女の死をもってしても止まらず、廻り続けている。
 ――唯一の親友を喪っても。唯一の友情をこの手で終わらせても。
「――五条、いつまでやってんの」
 聞き慣れた声に顔を上げると、硝子が手すりにもたれて煙草を吸っていた。
「硝子、迎えにきてくれたの?」
「そう」
 ふう、と煙草の煙を吐き出した硝子は、さすがに白衣を脱いで冬らしい装いをしている。
「優しいじゃん。どういう風の吹き回し?」
「迎えに来るのに理由がいる?」
 本当は、硝子が近づいてくるのはわかっていた。五条が気づいているのに、硝子も気づいていただろう。
「もうすぐ時間だってさ」
「それで硝子を寄越したの? 過保護かよ」
「伊地知には気が重いだろうって、夜蛾先生のありがたいお気遣い。あと私の休み代わり。そろそろ有休取れって」
「ははっ、呪術師に有休なんてあったっけ?」
 乾いた笑いに、硝子は手すりに頬杖をついた。
「先生にはあるんじゃないの」
「えっ、これ有休扱いなの」
「知らない」
 だからこの問答はお遊びだ。答えがわかっていて繰り返す、お決まりのお遊び。自分があそこに戻るための儀式。
 ――それでも、迎えに来てくれる人がまだいる。いつまで続くかわからないとしても。
「……別に、このまま逃げたりしないのに」
「クズだから信用されてないんでしょ」
「まあね」
 硝子の真下まで歩いていき、手を伸ばすと、やれやれと硝子が肩を竦めてサングラスを手渡してくれた。
 サングラスをかけると、世界は灰色に戻る。その時になって、荒涼とした灰色の海にも、砂浜にも色があったことに気づいた。硝子の唇にも。
「自慢することじゃないでしょ」
「信用してなくても、僕に頼るしかないんだよ。あのクソ爺ども」
 吐き捨てた言葉も波に攫われてくれればよかった。
 代わり映えしない毎日が続くのに耐えられる自分が嫌いだ。
 まだ自分が問題なく稼働するか、確認したくて海に来た。冷たい塩水に浸かったところで、動作に問題はない。それはそうだ。この身体は金属製ではない。これが血の通った肉体であることを、自分でも忘れそうになる。
「ていうか迎えにしては時間、ぎりぎりじゃない?」
「あんな連中、待たせておけばいいよ」
 硝子が煙を吐き出した。限りなく無に近い表情をした顔が海を見つめている。手すりの下からだと見上げる角度になるのが新鮮だった。入学した時から、硝子と目線は合わなかった。
 長い付き合いと六眼をもってしても、硝子の考えていることはわかりづらかった。
 サングラスを押し下げた。弱い夕陽が硝子の横顔をかすかにオレンジ色に染めている。やはり顔色は窺えなかった。
 ――窺えたことなど、一度もなかったかもしれない。
「硝子も言うようになったね」
「だって怒られるの私じゃないし。私の休みのついでなんだから、悪いのはこんなとこで時間を忘れてのんびり水遊びしてた五条」
「じゃあこのまま各停でたっぷり時間かけて帰ろうか」
 硝子は露骨に嫌そうな顔をした。
「五条と二人で帰るの嫌なんだけど」
「迎えに来てくれたんじゃなかったの?」
「嫌なものは嫌。そうだ、私ここに一泊しようかな」
「宿、取ってあるの?」
「取ってない」
 言ってみただけなのだろう。硝子は煙草を携帯灰皿に押しつけて火を消した。
「早く靴履いて」
「ねえ硝子、タオル持ってない?」
「持ってるわけないじゃん。こんな寒い中、海に入るなんて正気じゃない」
「じゃあ仕方ないか」
 濡れたまま靴下を履くのには苦労した。靴を履くが、足がべたべたして気持ちが悪い。服も砂まみれだ。
 五条を上から下まで眺めた硝子が少し距離を取った。
「あんまり近づかないで。知り合いと思われたくないから」
「ひどすぎない?」
「自業自得でしょ」
 服をはたいて砂を落とす。さっさと歩き出した硝子の後を追って、磯の匂いが染みついたまま歩き出した。
 磯の匂いが海の生き物の死骸の匂いなら、五条も似たようなものだ。積み重ねた屍の数だけ上に登る。積み重ねた屍を踏み台にして上に登る。この身体からはどれくらいの死骸の匂いがするだろう。
 それは前を歩く硝子も同じだ。肩まで浸かったこの海から上がることはない。その選択肢は捨てた。後はただ、息の続く限り泳ぐだけだ。
「硝子、特急券は取った?」
「取ってない」
「――なんだ、硝子もそのつもりじゃん」
「五条のためじゃない。言ったでしょ、これは私の休みなの」
 そっけない言葉の裏に隠された優しさを汲み取れる程度には大人になれたらしい。
 身体のどこもかしこも海水のせいでべたべたする。こんな不快な感触は、久しく味わっていなかった。
 術式でなんとかするのは、もう少し先にしようと思った。

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