「七海ー」
 何の遠慮もなくドアが開いた。
「ノックくらいしたらどうなんです」
 七海は顔も上げず、我が物顔で入ってきた五条に言葉を投げつけた。
「俺と七海の仲でしょ?」
「あなたとそんなに仲良くなった覚えはありませんが」
 にべもなく七海は言い放ち、机に向き直った。五条に関わるだけ時間の無駄だ。何か反応するいつも自分のペースに人を巻き込んで、悪びれもしない。
 部屋から追い出すのは諦めた。この先輩に口で勝てたことはほとんどない。人の話などそっちのけで我が強すぎるのだ。むしろ何か反応を示すと、そこから離してもらえない。
「何してんの」
 七海は無視した。シャーペンを握り、ノートに回答を書き込んでいく。この人はただの喋る置物だ。
「ねえねえ」
 五条は勝手にスツールに座って、七海の手元を覗き込んだ。
「これ宿題? ねえってば。聞いてる? 聞こえてるよね?」
 なおも話しかけられたが、全部無視した。今日は五条もしつこかった。返事がないと見るや、勝手に七海の本棚から本を抜いて、ぱらぱらとめくる。時折視線を投げるが、そんなものに構っている暇はない。
 最後の一問を解いて、七海はシャーペンを置いた。
 五条が本をぱたんと閉じた。どうせろくに読んでもいなかっただろう。
「あ、終わったの宿題」
 なんだかどうでもよくなって、七海は教えてやった。
「これは受験勉強です」
「……受験?」
 一瞬の間を空けて、五条がぱちぱちと目を瞬かせた。
 そういえば、五条はサングラスをかけていなかった。剥き出しの六眼に見つめられるのは居心地が悪い。
「編入試験です」
「編入……」
 言葉を飲み込めないように、五条はおうむ返しに呟いた。初めて気づいたみたいに、ひっそりと本棚の片隅に押し込んである過去問に目を留める。
 長い銀色の睫毛が一度上下して、青い瞳が七海に向けられる。
「――呪術師、辞めるの」
「はい」
「……あっそう」
 五条は立ち上がった。
「悪かったね、邪魔して」
 あまりにもあっさり引き下がる五条に、七海は拍子抜けした。
「あ、それとも」
 ドアに手をかけた五条が振り返った。
「止めてほしかった?」
 ぐさりと刺さった。
 この期に及んで、まだ自分に未練があることを思い知らされた。
「辞めたいって言う奴を引き止めるほど、この世界は甘くないよ」
 淡々とした声が事実を述べる。
 七海は膝の上で拳を握った。迷うことなどない。友人を喪い、自分が何もできないと打ちのめされて、ここを去ると決めた。そのための準備だって抜かりない。受験勉強を見てもらっている補助監督にも太鼓判を押されている。
 だいたい、命を危険に晒してまで自分がやらなければいけないことでもない。やり甲斐のために命を賭けるのは馬鹿げている。それこそ五条がいればなんとでもなるのに。
 逃げることの何が悪い。逃げられなかった先輩はあんなことになってしまった。不条理に押しつぶされて、今や犯罪者だ。自分はもっと賢く立ち振る舞える。もともとはあちら側にいたのだ、数年振りに戻るだけ。
 ――入学したのが、そもそもの間違いだったのだ。
「オマエみたいな奴は足手まといになるし。ていうかすぐ死ぬし」
「あなたと比べたら、みんな弱くてすぐ死ぬんですよ」
 自分で言っておきながら、五条は一瞬、怯んだようだった。もしかしたら、七海の気のせいかもしれないが。
「じゃあ元気でね、七海。せいぜい長生きしろよ」
 ぱたり、とドアが閉まる。
 別れの言葉にしては随分と軽かった。

「合格おめでとう」
「ありがとうございます」
「一応聞くが、気は変わらないか」
「はい」
 夜蛾はため息をついた。
「オマエが決めたなら、俺に止めることはできない。その資格もない。……寂しくなるな」
「すみません」
「いや、オマエが謝ることじゃない。俺の不甲斐なさのせいだ」
 夜蛾が目頭を押さえる。苦悩が刻まれた顔だった。
「俺はいい教師にはなれなかったな……」
 耐えきれないように落とされた呟きは、痛みと後悔にまみれている。
 ぼんやりと、残される人たちのことを考える。
 誰もかもが傷ついている。稀に見るほどの消耗の激しさで、誰もかもが疲れ切っている。
「これで二年生はゼロ……三年生は二人か」
 片手で足りるほどの生徒数が更に減る。もはや学校としての体裁すら維持できるかの瀬戸際に立っている。
 でも、あの人は。
「あの人は……五条さんは一人でも大丈夫でしょう」
 思わず口をついて出た言葉が、殊更に酷薄に聞こえた。
 ――それでいいのだ。
 八つ当たりじみたことばかり、頭をよぎる。
 ――あの人が来てくれれば。
 そもそも、あの人が代わりに行ってくれればよかったのだ。友人をみすみす死なせた七海ではなく、何でも一人でできる五条が。五条だったら、七海と灰原が手を焼いたあの産土神だって一捻りだっただろう。
 ――あの人がちゃんと夏油さんのことを見ていれば。あの人が調子に乗って夏油さんを置き去りにしなければ。
 肝心なところで、あの眼は何も見ていない。
「元気でな、七海」
 あの人と同じ言葉を、あの人より感情を込めて言われる。
 泣きそうになった。
「――さようなら、先生」
 さようなら、灰原。
 待ち遠しいはずの日常を前に、足が竦みそうだった。

こんにちは、退屈で尊い日常

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