里香ちゃんがいない朝は久しぶりだ。
 身を起こした乙骨はカーテンを開けた。日差しに目を細め、窓も開ける。東京というのも名ばかりな、自然豊かな敷地内では鳥のさえずりが聞こえる。
 肩の荷が下りたような清々しい気分と言ったら、里香ちゃんに怒られるだろうか。
 ――いや、里香ちゃんはそんなことは言わない。全部、自分の負い目を里香ちゃんにかぶせていただけだ。感情を肩代わりしてもらって、被害者面して、里香ちゃんを悪者にしていた。他人を傷つけてきたのだって。
 薬指に嵌めた指輪を撫でた。里香ちゃんがいなくなっても、この指輪を外す日は来ないだろう。乙骨だけが成長しようとも、いつまでも里香ちゃんはここにいる。乙骨が好きだった里香ちゃんが――里香ちゃんが好きだった乙骨憂太はここにいる。
 少し緊張しながら、乙骨は着替えて手短に朝食を済ませると教室に向かった。
 今日から乙骨憂太は、特級呪術師でなくなる。

「今日から四級に降格だよ」
 乙骨から学生証を回収した五条が、ひどく軽い口調で言った。目隠しで顔の半分が見えないが、教師としてありえないほど軽薄な態度だ。
 内容に異論はないが、〝降格〟という響きには少しどきりとした。
「四級だと私と同じだな」
 真希が眼鏡を押し上げた。
「真希さんと同じかあ……頑張らなきゃ」
「ツナマヨ」
 狗巻に肩に手を乗せられた。おそらく、慰められているのだろう。
「乙骨ならすぐ上がれると思うぞ」
 もう片方の肩にパンダの手が置かれた。爪が意外と鋭くて、ちょっとどきどきした。肉球もあまり柔らかくない。でも、いい匂いがする。
「あはは……そんなに気にしてるわけじゃないよ。特級になってた時もびっくりしたし、なんていうか……これが落ち着く、かな」
 右も左もわからない状態で特級に分類されたのは、気が重い部分も大きかった。だから、ここで一からやり直せるのも悪くなかった。里香ちゃんを生み出していたのがすべて自分の呪力だと知っても、どう扱えばいいかもわからないのだ。これからきちんと段階を踏んで学んでいけるのは、そう悪いことではない。
 ――何よりも。今度こそは友達ができる。
「新しい学生証は明日くらいに用意できるからね」
 指に挟んだ乙骨の学生証をひらひらさせながら、五条がほがらかに言った。
「昨日めちゃくちゃ伊地知を急かしてきたから! 超特急仕上げだよ!」
「うわあ……」
「伊地知さん可哀想」
「しゃけ」
 生徒から向けられる非難がましい視線を五条はものともしなかった。
「あ、じゃあ今日は学生証なしですか? 確か午後に行くところって学生証がいるって、先生言いませんでしたか?」
 午後は四級に格下げされた乙骨のために用意された任務がある。近隣の学校に出没する呪霊を祓うのだ。剣道の練習試合の体で乙骨と真希が向かうことになっている。その際に身分証明書として学生証がいると事前に言われていたのだが。
 五条は少し沈黙した。
「あ、これ忘れてたな」
「しゃけ」
「悟……オマエ、ほんとに教師なのか?」
 呆れた眼差しにも、やはり五条はびくともしなかった。
「やだなあ、ちょっとうっかり忘れてただけじゃん。そうだ、こうしよう」
 五条がごそごそと教卓の中をあさった。
「じゃーん」
 五条が手を高く掲げた。その手に握られているのは、何の変哲もないサインペンだった。
「……?」
 一同が首を傾げていると、五条はキャップを外した。
「これを、こうします!」
 そのまま乙骨の学生証にサインペンで何やら書き込み始めた。
「え、ええっ?」
 戸惑いの声を上げたのは乙骨だけではなかった。
「おいおい、それ、ありなのか!?」
「ツナマヨ!」
 五条はサインペンで、何の躊躇いもなく「特級」に二重線を引いた。その上に「四級」と書く。
「できましたー! これでいいよね」
 信じられないものを見るような目で、真希が五条を見上げた。
 手書きで――いやに綺麗に整っているのがまた腹立たしいが――等級を訂正された学生証を五条が自慢げに見せびらかした。
「……先生、僕、本当にこれで行くんですか。これ、見せて大丈夫なんですか」
「大丈夫大丈夫! いざとなったら後から揉み消すから! 伊地知が」
「あ、そこは伊地知さんなんですね……」
 乙骨は手渡された学生証をしげしげと眺めた。あまりにも荒技すぎるが、短い付き合いながらも五条がそういう破天荒な行為に及ぶのはわかっていた。
「僕だけ入れなかったら五条先生のせいですからね」
「心配しないで。このグッドルッキングガイ五条先生に任せておきなさい!」
「本当かよ」
「不安だな」
「しゃけしゃけ」
 真希が乙骨を振り向いた。
「まあ、いざとなったら私もいるからな」
「うん」
「悟を囮にして逃げよう」
「うん――うん?」
 今度は、五条は何も言わなかった。にこにこしながら乙骨たちを見守っている。そういうところは、教師らしく見えなくもなかった。
「はい、じゃあ準備できたね。出発しよう!」
 ――訂正。何事もなかったかのような顔をしているのは、やはり教師らしくない。
「あの、やっぱり不安なんですけど先生」
「憂太は心配性だなあ」
「だって、もう里香ちゃんはいないし……」
 ――乙骨の莫大な呪力が形を成したのが、里香ちゃんだった。今までは里香ちゃんが自動的に迎撃していたが、これから乙骨は自力でやらなければならない。他人を傷つけられる力を、自分自身の意志で振るわなければならない。
 でも、それが本来は正しいのだ。他人の望みのせいにして、その影に隠れているのはずるいことだ。みんな身体ひとつで立ち向かっているのに、乙骨だけが隠れているなんて許されない。
「里香ちゃんがいなくても、憂太は憂太でしょ」
 不安は常にある。乙骨憂太が乙骨憂太である限り、呪術師でい続ける限り、不安はやまない。でも、信頼できる同級生と、信頼できる先生がいる。
「――そうですね」
 乙骨は指輪を撫でた。少しサイズが合わないこれも、きっとぴったりになる時が来る。
 里香ちゃんが好きだった乙骨憂太のままでいられるかはわからないけれど、里香ちゃんを好きだった乙骨憂太は、これからも指輪を嵌め続けるだろう。

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