お父さん、お母さん。先生。悟。硝子。
先に死んでしまってごめんなさい。

「先生、遺書って返してもらえるんですか?」
「何だ急に」
「今までの遺書、自分で処分したいんです」
「そうか。後で職員室に来なさい」
「何、傑、遺書捨てるの?」
「そう」
「ああ、この間言ってたやつ。新しいのは書いた?」
「まだ」
「書き終わったら見せろよな」
「うん。書き終わったらね」

               *

 一夜明けて、朝食を摂ってから宿を出た。夜半に戻った二人を出迎えた長久保にひとしきり小言を言われたのは聞き流し、今度はきちんと説明した上で宿に置いてきた。少し眠ったおかげでだいぶすっきりしている。
「ずいぶん人がいるね」
「俺もうちょっと寝たいんだけど」
 眠たげに五条が瞬きした。
 まだ朝の早い時刻だったが、神社の敷地には思ったより人が集まっていた。過疎化まっしぐらとはいえ、祭りとくれば集落の人間がほとんど集まるようだ。昨日見かけた、小柳と奥田の姿も見える。
 忙しそうに資材を運び込んだり、長い階段になった参道に紅白の提灯を飾りつけたりしている。数は多くないが、屋台の準備も始まっている。奥には神輿の姿も見える。
 昨夜本殿の中を軽く調べてみたが、結局、呪霊は現れなかった。あれから三人は山を下りて、翌朝に再び集まることにした。五条の眼の件もあり、ひとまず休息を取ることにしたのだ。早苗が気味悪がっていた箱の中には魚の干物みたいなものが入っていたが、何なのか判別することはできなかった。さほど強い呪力を感じなかったため、そっと元の場所に戻してきた。
 さしもの五条もやや疲れた様子が見えたのと、夏油も正直に言って限界だった。ただでさえ寝不足の状態でこの任務に就いた上に、呪霊の術式とおぼしき五条の負傷。この手の呪霊に遭遇するのは久しぶりだ。正面から戦う方がはるかに楽だっただろう。
「早苗、まだ来てないな」
「祭りの準備があるのかもしれないね」
 深夜に少女を一人で帰すのはやや心配だったが、早苗はこっそり家を抜け出してきたらしく、バレたら困るから一人で帰ると主張した。そのため山を下りて別れたのだが、着いていってもよかったかもしれない。
「あら、昨日の二人じゃない」
 不意に声をかけられ、夏油は振り向いた。
 声の主は奥田だった。祭りの手伝いに来ているようだ。
「ここに泊まっていたのね。どうしたの? お祭り見に来たの?」
「そんなところです。この祭りって結構古いんですよね」
「そうねえ……数百年くらいやってるって話みたいよ」
「そんなに? すごいですね」
「ええ、明日やるからぜひ来てね」
「はい、もちろん」
 見慣れない夏油と五条の姿に、祭りの準備をしている他の住民もそわそわと視線を注ぐ。
「みんな聞いて、昨日から旅行しに来てる――えっと、お名前聞くの忘れてたわ」
「夏油です。こっちは五条」
「おい、君たちどこから来たんだ」
「東京です」
「東京? ずいぶん遠くから来たね」
「何でここに? 何にもないだろ?」
「今二人で旅行してて、地図にダーツを投げて、刺さったところに行くっていうのをやってるんです」
「学生さんかい? 学校は?」
「今ちょうど休みなんです」
 説明しながら夏油がちらりと横目で五条を見ると、五条の容貌に色めき立つ女性陣に愛想良く手を振っている。
「祭りって何するんですか?」
「舞があるのよ。今年は早苗ちゃん――後で紹介するわね――、そこの神楽殿で舞を奉納するの」
「舞ですか。大変ですね」
「そうねえ。早苗ちゃんもかなり練習してたみたいだけど、あの子は踊るのが上手いから。――あ、早苗ちゃん! こっちいらっしゃい」
 奥田が手を振った。その向こうから早苗が早足で歩いてくる。今日も着物だ。眼鏡は外している。緋袴に白い千早、手には扇。髪飾りこそつけていないが、本番の衣装を身につけている。祭りを嫌がりつつも、真面目に練習しているようだ。――あるいは練習せざるを得ない、と言うべきか。
「夏油さん、五条さん、来てくれたんですね」
「約束したからね」
 奥田が不思議そうに首を傾げた。
「知り合いだったの?」
「昨日神社の森で迷っていたのを道案内してくれたんですよ」
「あらそうだったの。早苗ちゃん、明日は頑張らないとね」
「あ、うん……」
「緊張してるの? 大丈夫よお、今までたくさん練習したんだから。恥ずかしがることないのよ」
「そんなんじゃないよ」早苗が言い返す。
「よその人に見てもらえるなんて、珍しいわねえ」
 くすくすと女性陣が笑うのに、早苗が顔を赤くした。
 その時だった。
「いつまで言ってるつもりだ!」
 怒鳴り声がした。
 本殿の方へ顔を向けると、昨日の老人――小柳が誰かを怒鳴りつけている。
「そうやって人の意見無視して! 何が町のためだ!」
 叫び返した声は若い。声変わりの途中のような不安定さがある。夏油が首を伸ばして見てみれば、中学生くらいの少年が言い争いをしている。
 五条が尋ねた。
「何? 喧嘩?」
 奥田が気まずそうに視線を逸らした。
「ごめんなさいね、小柳さん、祭りのことになるとああだから。章(あきら)くんもあんな言い方しなければいいんだけど」
「章くんって誰ですか?」
「――私の弟だよ」
 早苗が小さな声で教えてくれた。
「章が祭りを中止してくれって小柳さんに何度も頼んでて……小柳さんが祭りを取り仕切ってるから……」
 なるほど、それで喧嘩しているらしい。中止に値する理由を説明できないなら、突っぱねられるのも当たり前だ。気持ちはわからなくはない。呪霊による殺人事件など、言われたところで信じないだろう。見えないものはないのと同じだ。人は自分の見たものしか信じない。いっそここで呪霊が出現してくれれば楽なのだが――と本末転倒なことを考える。
 後ろで更にざわめきが聞こえた。
「三藤さん、今大変だろう、来て大丈夫なのか」
 早苗がはっと振り向いた。
 壮年の大柄な男性が参道を登ってきたところだった。髪に白髪が交じっているが、広い肩幅と日に焼けた肌は力仕事を続けている者特有の体格だ。
「お父さん」
「早苗、ここにいたのか」
 早苗を一瞥し、早苗の父は小柳に近づく。
「小柳さん、章がご迷惑をおかけしてすみません」
「親父、俺は――」
 早苗の父は申し訳なさそうに謝りながら、口を開きかけた章の頭を強引に下げさせた。
 険しい顔をしていた小柳も毒気を抜かれたか、肩の力を抜いた。
「そっちも大変だろう。気持ちはわかるが、伝統をここで途絶えさせるわけにはいかん。今年は特別なんだ」
「ええ、はい、その通りです。そうだな、章、早苗」
 名前を呼ばれた早苗が肩を揺らした。
「あの……私……」
 おずおずと早苗が口を開いた。
「その……祭り、やるんだよね」
「何を言ってるんだ。舞の練習してるだろう」
「そうだけど……だって、伯父さんと叔母さんが」
「まだそんなことを」
 この様子だと、早苗は何度か父には祭りの中止を訴えたようだ。だが、早苗の父はとりつく島もないといった様子だ。章も黙り込んだまま父親を睨みつけている。
 夏油は何でもなさそうな態度で尋ねてみた。
「あー、その、早苗さんの伯父さんと叔母さん、亡くなったんですよね?」
「なんだね君たちは」
 早苗の父が訝しげに夏油を見やった。隣に立つ五条の銀髪とサングラスに驚いたような顔をする。
 早苗が慌てて言い足した。
「あ、この人たちは昨日から旅行に来てて」
「旅行? そうか。明日の祭りは見ていくといい。長い伝統があるんだ」
「――こんな状況でもやるつもりなんだ?」
 五条が薄ら笑いを浮かべた。
 早苗の父は怪訝な顔をした。
「いやだって、早苗ちゃん、喪中でしょ? そんな人が舞を奉納して大丈夫なの?」
「何が言いたいんだ、君」
 早苗の父が表情を険しくする。
「いやあ、ちょっと不吉じゃないかなって。代役立てた方がいいんじゃない? 本人も集中できなさそうだし」
「早苗はずっと練習してきたんだ。今から他の子にやらせるわけにはいかないだろう」
「一応訊くけど、中止っていう案はないんだよね」
 ごく軽い調子で五条がそう言った。
「は? 中止だと?」
 途端、じろりと小柳に睨(ね)めつけられた。
 騒ぎを聞きつけたのか、老人が一人、汗を拭きながら近づいてきた。
「ちょっとちょっと君たち、一体どうしたんだ」
「但野さん、あの若いもんがわけのわからないことを――」
 早苗の父に、但野と呼ばれた老人も困った顔をした。
「本人が乗り気じゃないのに無理強いは可哀想じゃない? それに噂聞いたよ? 祟りだって――」
「黙れ!」
 小柳が怒鳴った。
「あの、但野さん、私が教えたの。だからね、」
 言いつのる早苗を遮り、小柳は激怒した。
「よそ者にとやかく言われる筋合いはない! お前もまだそんなふざけたことを!」
「ふざけたことじゃねえよ、この祭りは呪われてるって――」
「章!」
 今度は早苗の父が大声で怒鳴った。
 すっと章が表情を消す。早苗はうつむいた。
「あのねえ、これは伝統行事なの。もう明日だから、今から中止するのは無理なのよ」
「もう準備もしちゃったし」
「祭り、うちの子も楽しみにしてるのよ」
「そりゃあ、三藤さんのとこは不幸があったけど……」
「今からじゃあね……」
 遠巻きにしていた他の住民にも口々に反対される。
「ふうん、死人が出てるのに続けるつもりなんだ?」
 五条があっけらかんと言い放った。日本人とは思えない色彩のサングラスの男が言うと、やけに迫力がある。
「悟……」
 夏油は頭に手を当てた。どういう意図かは知らないが、これでは意固地にさせるだけだ。
 案の定、鬼の形相になった小柳が唾を飛ばしながら叫んだ。
「よそ者は出て行け!」
 他の住民からの視線が痛い。皆、口にこそ出していないが、心は同じだ。口出しするよそ者は出て行けと、いくつもの目が語る。
 ――失敗した。
 夏油は顔をしかめた。交渉の手段を誤った。こうなってしまえば、手のつけようがない。
「待って、夏油さんたちは助けに来てくれたのに、追い返すなんて……!」
「お前さんもだ、早苗、役目をなんだと思っているんだ!」
 擁護しようとした早苗にも非難がましい視線が浴びせられる。
「姉ちゃん、行こう」
 章が早苗の手を引っ張った。
「すみません……向こうで舞の練習をしてきます」
 無言の視線にせき立てられるように、夏油たちはその場を離れた。

「ごめんね、早苗さん。ほら悟も謝って」
「ごめんごめん。やりすぎた」
「心がこもってない」
「すみませんでした」
 真剣に謝るつもりのなさそうな五条に、章がため息をついた。
「別にいいですよ。どうせ何言っても無駄だし」
「えっと、早苗さんの弟くん――でいいんだよね」
 夏油は警戒されないよう、にこやかに声をかけた。
「そうだけど」
 夏油の気遣いもむなしく、章からぶっきらぼうな答えが返ってきた。夏油をじっと見上げている。相当警戒されているらしい。
「アンタたち、何」
「ちょっと章、失礼だよ」
 早苗がたしなめた。章はふてくされたようにそっぽを向いた。姉弟らしく、目鼻立ちが早苗と似通っている。成長期特有の、ひょろひょろした体格。背は早苗と同じくらいだ。これから姉を追い越すだろう。
 章から渡された眼鏡をかけて、早苗が尋ねた。
「五条さん、目は大丈夫なんですか」
「ああ、気にしないで。大したことじゃないから」
 五条がさりげなくサングラスの位置を直しながら、何でもないように言った。そうすれば目の色をごまかせるからだ。右目は治っていない。痛みは消えたようだが、本人いわくよく見えないらしい。反転術式も試してみたが、上手くいかなかった。まだ術式の扱いが不安定なせいなのか、他に原因があるのかわからない。わかっているのは、六眼が万全の体勢ではないということだけだ。
 正直なところ、これは結構な痛手だった。どこに現れるのかわからない呪霊を見つける有力な手段を一つ失ってしまったからだ。地道に呪霊の出現条件を探るしかない。
「ところで君たち、学校は?」
「章は休みなの。明日祭りだから」
 答えたのは早苗だ。章はそっぽを向いたままだった。
「早苗さんは?」
「私は……学校には行ってなくて」
「早苗さん、いくつ?」
「一六歳」
 義務教育は中学までだから、高校に進学する義務はない。とはいえ、困窮して働き手が欲しいわけでもないのに高校へ行かせてもらえないのは、少々やっかいな臭いがする。
 夏油は五条の様子を窺(うかが)ったが、興味なさそうに地面をつま先でほじくり返している。
「祭りの準備でみんな集まってるから、説得するなら今日だと思ったんだけど」
 早苗が呟く。
「説得ねえ……あの調子じゃ無理でしょ。祭り明日だし」
 やる気がなさそうに五条が言った。
 章が疑り深い視線を五条に向ける。
「姉ちゃん、ほんとにこの人たちでいいの」
「大丈夫だよ」
「知らない人を信用しすぎじゃない?」
 章は警戒心が強いが、もっともな台詞だ。知り合ってから半日も経っていないよそ者に対する態度ではない。それだけ、呪霊が見えることで孤立感を味わっていたのか。
「一応確認するけど、章くんも見えるってことでいいよね」
 答えたくなさそうな顔をした章だったが、早苗に促されてしぶしぶといった風情で頷いた。
「ここで見えるのは俺たちだけだよ」
 術式まで持っているならともかく、「呪霊が見える」なんてたいしたことではない。それでも、この田舎では珍しくて排斥されかねないのだろう。狭い社会は構成員に同質であることを求める。〝普通〟から外れた者は時に冷酷な仕打ちを受ける。そこから逃げ出せないのなら、針のむしろの上で生活するようなものだ。
 自分の過去を思い出しかけて、夏油は顔をしかめた。
「そうなると説得の難易度も上がるね。祭りの中止はともかく、舞の踊り手に代役も立てないのはさすがに……家のことで大変だろう?」
「……」
「姉ちゃん、みんなが何であんなに反対するか、説明してないんでしょ」
 章がぶっきらぼうに言った。
「それは……」
 早苗が目を伏せた。
「姉ちゃんから聞いたよね、伝説の話」
 夏油は頷いた。
「聞いたとも。化け物は〝お社様〟に退治されたのではなく、封印されているって話だよね」
「そう。その話には続きがある」章は眉根を寄せた。「化け物を封印し続けるために毎年、舞を奉納する。でも、捧げるのは舞だけじゃない。もうひとつ、捧げるものがある。それをやらないと災いが訪れる。何十年か前にちょうどいい娘がいなくて、代わりに別の人が舞を奉納したら、洪水が来たって言ってた。おばあちゃんの前の話」
「災い……」
 そういえば、と夏油は記憶をたどる。資料によれば、過去にこの周辺で大きな水害の記録があった。それを指しているのだろう。だが、水害なんて日本では珍しくない。だからこそ信仰と結びつくことも多いのだが。
「捧げるものって?」
 章は真っ直ぐ夏油を見上げた。
「右目だよ」
「それはどういう――」
 言いかけて、夏油は言葉を飲み込んだ。
 ――右目。嫌というほど出てきたキーワードだ。
 五条が首を傾げる。
「右目を捧げるって、具体的にはどういうこと?」
「そのままの意味だよ。祭りの主役は神楽を奉納し、右目を差し出す」
「右目を差し出す……?」
 夏油は思わず聞き返した。
「お年寄りならみんな知ってる。知ってて黙ってる。でないと恐ろしいことが起こるから」
 章が言うのに早苗は黙っている。ならば事実なのだろう。今年の祭りで舞を奉納するのは早苗だ。すなわち、右目を捧げるのも早苗になる。
 しばらく黙り込んでから、早苗が震える声で言った。
「右目が見えなくなるの。おばあちゃんも右目が見えなかった。〝お社様〟が右目を受け取った踊り手は神聖な存在だから、村から出ては行けなくて家に閉じ込められた」早苗はきつく腕を掴んだ。「私もきっとそうなる。だから高校にも行かせてもらえない……」
「待って。それは、祭りで目を――」
 言いかけて夏油は口をつぐんだ。非術師の少女相手に残虐な表現を口に出すのはためらわれた。もし本当に行われているなら、犯罪に他ならない。さすがにそれはありえないだろう。おそらく、右目は物理的な話ではない。それこそ呪術の類いだ。
 早苗は首を振った。
「詳しいことは……おばあちゃんも教えてくれなかった。元から目が悪かったんだけど、祭りの後、全く右目が見えなくなったって。右目を失った踊り手はこの村の守り神だから、外に出てはいけないの」
 いつの時代の話だろうか。戦前ならいざ知らず、二一世紀に、まさか本当に人間を一生家に閉じ込めるというのか。
「それは、毎年?」
 五条の質問に早苗は首を振った。
「〝お社様〟に選ばれた人だけ。選ばれた人には〝印〟がある。他の人には見えないモノが見えるっていう」
「――だから〝今年は特別〟なんだ」
 五条が小柳の台詞を引用すれば、早苗はびくりと肩を揺らした。
「右目を差し出し、村に閉じ込められる……」
 まるで生贄だ。この集落を生かすための生贄。
「ま、やるところならやるでしょ」五条が何でもないように言った。「重要なのは実際に意味があるか、じゃない。意味があると思われているか、だ」
「そんな馬鹿な祭りが……?」
 夏油は絶句した。ここはいつの時代だ。そんな人身御供があってたまるか。
 やがて腹の底からこみ上げたのは、怒りだった。
 理不尽に晒される少女。同じだ。天内理子の笑顔が脳裏にちらつく。世界を廻すために自分を犠牲にする定めの少女。彼女は役割を果たさなかったのに、世界は廻り続けている。――では、天内理子の役割とは一体何だったのか。果たさなくてもいい役割なら、自分を殺す必要なんて。
 夏油は首を振った。今、そんなことを考えている暇はない。
「どうして〝今年は特別〟ってわかるんだ?」
「私、見えるから」震える声で早苗が続ける。「見える人は目を取られるの。おばあちゃんも見えていたから。だから、私じゃないといけないの」
 呪霊が見える人間は、目を取られる。まさしく呪いだ。見てはならないモノを見たから、目を失う。伝承としてはありがちだが、それが現実に起きているとなれば話は別だ。
「君は、止めたいとは思わないのかい?」
「え……」
 早苗が弾かれたように顔を上げた。
「出て行きたいとは思わなかったのかい?」
 夏油はできるだけ穏やかに尋ねた。そんなところ置いて出て行ってしまえ――と言う権利はよそ者にはない。それでも、なんとかしてやりたいと思った。
「傑――」
 五条が顔を夏油に向けた。
「出て行けないの。夏油さんたちにはわからないかもしれないけど」
「知ったような口を利くなよ。災いがあるって言っただろ」
 章も怒りをあらわにして口を挟んだ。
「姉ちゃんが逃げたらうちがどうなると思ってるんだ? こんな狭い町で」
「逃げ場なんてないの」
 早苗が泣き出しそうに顔を歪めた。
「私がここを出て行ったら、誰が祭りを行うの? あの箱の中にいる化け物が出てきちゃうでしょ。そしたらお父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんもおじさんもおばさんもみんな死んじゃうかもしれないんだよ。そうじゃなくても、祭りをやらなかったらここじゃ生きていけない」
「でもそれは、早苗さんの事情じゃなくてこの町の事情だよ」
「同じよ、同じなの、どうすればいいっていうの……!」
 早苗が服の裾を握りしめて、叫ぶように夏油に言葉を投げつけた。
 答えたのは、夏油ではなく五条だった。
「右目を捧げて、本当に封印された化け物が大人しくなるのか?」
「それは……」
「俺、そういうの嫌いなんだよね。自分だけ不幸ですって顔。こんなに可哀想な自分に同情してくれって顔だよ」
 吐き捨てるような口調だった。
「オマエには足があるだろ。逃げられないって自分に言い聞かせてるだけじゃん」
 手厳しい言葉だ。だが、五条家から逃れて高専へ来た五条が言うのには説得力があった。
「悟――」
「言い訳して、そこで一生終わるつもり? 何にも努力しないで? 言われるがまま右目を失うわけ? 一生家から出ないわけ?」
「悟、そこまで言わなくても」
 五条は鼻を鳴らした。
 怯んだように早苗が手を握りしめる。章も言葉が紡げないまま、五条を睨みつけた。
 夏油は努めて冷静に深呼吸した。ここで熱くなってもどうしようもない。集落の事情は夏油や五条に解決できることではない。
 ぱっと五条が表情を切り替えた。
「ま、そんなの些細なことだけど。俺たちはその化け物を退治できる。そうすれば、早苗は右目を捧げなくて済むし、家に閉じ込められる必要もない。ほら、何の問題もないだろ?」
「ごめんね、さっき言ったことは忘れてくれ」
「傑は優しいからな、俺と違って」
 軽口を叩いた五条がさて、と話を切り替えた。
「右目の話は呪いの一種だろう」
 五条が無意識にか右目に触れようと手を上げて、すぐに下ろした。
「特定の日に特定の場所で舞を舞った人間に発動する術式。極めて限定的だから、今まで祓除されなかったんだろう。なんせ、全然出てこないからな。被害も限定的だし。たぶんここの呪霊、この町から出られないんじゃない?」
 ずいぶんと気の長い話だ。祭りがいつから始まったかは定かではないが、ここ数十年というわけでもないだろう。少なくとも、五〇年前にはあったのだ。
 右目の話は、おそらく町ぐるみで隠蔽していたのだろう。あるいは、それが異常だと感じないほどこの地域に根付いた信仰なのか。
「となると、術式の発動する瞬間、ほぼ確実に呪霊は現れるはずだ。できれば祭りの前に祓いたかったけど」
 当初の予定とは異なるが、呪霊が出てくる可能性が最も高いのは、祭りの当日だ。そこで夏油と五条が待ち伏せすればいい。
「帳を降ろすにしても、人が多いな……どうやって神社から遠ざければいいんだ」
「そんなの、そん時に考えればいいでしょ」
「あのなあ悟。先生に怒られたの忘れたのか?」
「え? そんなことあったっけ?」
「都合のいい記憶力だな」
 夏油が呆れるのにも五条は平気そうな顔をしていた。
「見える人間っていうのは、ある程度呪力量がある人ってことか」
「たぶんそう。それを餌に――っていうと聞こえは悪いけど、それで化け物を大人しく眠らせてたんじゃない?」
「でも右目が見えなくなるっていうのは……」
「そこはまだ不明。でも、大筋としては間違ってないと思う」
「右目を奪う瞬間、確実に呪霊は姿を現す」
「つまり、呪霊が現れるのは明日」
 不安げな早苗に、夏油は笑った。
「安心して。なんとかしてみせるから。私たちは最強なんだ」
 笑って、小さな嘘をついた。

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