お父さん、お母さん。恨まないでください。呪いにならないでください。
*
右目の調子が悪い。
五条はサングラスの下で目を閉じた。ちらちらと視界に幻影が踊っている。
明け方に少し睡眠を取ったが、右目の違和感であまり休めていない。意図を見極めるために好きにさせているが、果たしてこれに何の意味があるのだろう。普段から六眼に見える世界と通常の視界が重なっているのに、それに加えて過去の光景を見せられている。六眼と呪術的に〝接続〟しているせいで、サングラスで視野を閉じても見えるのだ。さすがに疲労が蓄積する。
補助監督は五条といるとずっと緊張した顔をしているので、情報収集に出かけさせている。何か新しい情報が掴めれば御の字だ。何も掴めなくてもさほど問題はない。
祭りは明日。呪霊を祓ったのも五年前の〝明日〟だった。あの時と同じ呪霊なら、必ず姿を現す。
呪霊が何故復活したのかは不明だが、少なくとも、殺された二人には明白な意図がある。
一人目の被害者、三藤敏司。
二人目の被害者、三藤恭子。
「またこの家系か。ほんと、呪われてるね」
愚痴の一つも言いたくなる。補助監督が調べてきた被害者の情報は、予想通りと言えば予想通りだった。
殺されたのは、三藤早苗と三藤章の両親だ。
この時期は日が暮れるのが早い。
再び神社へ赴けば、過去そっくりに祭りの準備が進んでいる。壮年の男性もいるが、やはり年寄りの姿が目立つ。若者に至っては数えるほどだ。提灯の明かりが灯され始め、作業する男たちを照らしている。
奥田を手招きし、少し離れたところへ呼び寄せた。あまり姿を見られたくない。
「五条さん、何かわかったの」
「早苗ちゃんってここにいたの?」
「ええ、そうよ。ちょうどそこの神楽殿で……」
奥田が視線を投げた。神楽殿では今まさに、住民たちが舞台を掃除している。今年の踊り手らしき少女が側に立っている。
「それ、他の人には言ってないよね」
「言ってないわ。縁起でもない。ご両親だって――」
「そう。ならいいよ。僕はちょっと近くを見回ってくるから。何かあったら知らせてくれる?」
「わかったわ。気をつけてね」
何かを察したように、奥田はそう言った。呪霊が見えないにしても、不穏な気配を察しているのだろう。死者の姿を見たというならなおさらだ。
ざくざくと下生えの草を踏み分け、鎮守の森を歩き回る。美しく赤に色づいた葉が常緑樹の合間から覗いている。秋らしく、名前も知らない木に小さな赤い実が生っている。森の中は日中でも薄暗いが、日の沈もうとする今、すべてが青黒い闇に呑まれようとしている。常に何かが潜んでいるような、そんな不気味な気配がそこら中からする。そんな中でも五条は躓くことなく歩く。六眼に可視光線は不要だ。ここは命の気配が濃い。
森の中でひときわ濃く、闇がわだかまっている。
「さて、ようやくお出ましか」
薄闇の中に、見知った呪力が渦を巻いて形を成していく。
忍び寄る夜闇に紛れるように、五条は囁いた。
「そろそろ姿を見せてくれよ」
空間が裂けるように、溢れた呪力が人らしき形を取る。胸までの真っ直ぐな黒髪。華奢な少女らしい体格。眼鏡はやめたらしいが、それ以外は何も変わらない。五年の歳月が存在しなかったように、何もかも変わらない。右目に映る過去の幻影と全く同じ姿。
その人の名を、五条は知っている。
名前を呼ぼうと口を開いた時、足音が聞こえた。
「誰だ」
一条の光が薄闇を一瞬切り裂き、聞き覚えのある人の声が誰何(すいか)した。
「こんなところで何をしている」
木立の向こうから懐中電灯を手に現れた小柳が、五条の姿を認めて警戒心をあらわにした。おそらく、祭りの準備をしていたところで五条の姿を見かけ、後を追ってきたのだろう。この老人は多少なりとも事情を知っているはずだが、五条への風当たりはきついままのようだ。
「だいたい想像がつくんじゃない?」
小柳は黙り込んだ。視線が落とされ、すぐに顔を上げる。苦々しい表情だった。その皺が深く刻まれた顔に後悔と懺悔がよぎる。
「五年前のことは俺も……」
小柳は何かを言いかけたが、続きは途切れた。
少女の姿をしたそれが笑う気配がした。袖から白い蛇が這い出る。
「――ッ、待てッ」
一瞬、右目に走った激痛に五条の動きが止まったと同時に、小柳の首に蛇が音もなく巻きついた。
「なん――ッ、」
首を絞められた小柳が首元を掻きむしる。しかし、抵抗もむなしく、足が浮いた。小柳の身体が完全に持ち上がる。
「離せ! このッ」
じたばたともがく小柳を袖から伸びた蛇でつり上げて、彼女は笑った。一見すれば普通の少女の姿をしているが、袖や着物の裾からぽろぽろと蛇が無限に這い出てくる。
五条は痛みと熱を無視して、サングラスを外した。呪力を練り上げ、指を組む。
「――術式反転〝赫〟」
塊になった五条の呪力が飛んだ。
少女は意外に俊敏な動きを見せ、するりと蛇のように躱した。狙いを外した五条の術式は木の幹を弾き飛ばす。飛び散った破片があたりに降り注ぐ。折れた木が傾ぎ、隣の木に受け止められてかろうじて倒木を免れる。
五条は舌打ちした。やりづらいことこの上ない。無下限呪術は破壊力に秀ですぎて、人質を取られた場合には向かない。それに、あまり派手に動いては他の人間を呼び寄せてしまう。五条は自他共に認める最強だが、他人を守りながら戦うのは不得手だ。
再び飛んでくる〝赫〟を避けて、蛇は小柳を投げ出した。
「〝蒼〟」
宙を蹴って無下限呪術で手元に引き寄せ、抱き留める。少女も引き寄せるはずが、またもや躱(かわ)された。照準をずらされるような感覚。六眼が正常に作動していない。やはり術式は解いておくべきだったか。
五条はふわりと着地し、そのまま小柳を地面に降ろす。顔色が悪い。意識が朦朧としているようだ。もしや首でも折られたのだろうか。運が良いのか悪いのか、呪霊に二度も襲われるとは。――いや、殺されないだけましなのかもしれない。
「聞こえる? 小柳さん」
返事はない。呼吸はしているようで、浅く胸が上下している。
他人に反転術式を施すのは得意ではない。五条はほとんど何でもできるが、それは己が対象の場合だけだ。
「硝子がいればよかったんだけど」
呟きながら、小柳を横向きに寝かせ、回復体勢を取らせる。いない人間のことをとやかく言っても仕方がない。
更なる足音が聞こえて、五条は顔を上げた。騒ぎを聞きつけて、但野と他に数名、男衆が来たようだ。
「何かあったのか!?」
「この人怪我してるから病院に運んで。頭揺らさないでよ」
「え、あ、おい、ちょっと待って!」
言い捨てて五条は駆け出した。