「灰原の遺書は?」
「読みました」
 七海は絶望していた。期待も希望も夢も、何もかも粉々に打ち砕かれ、足下に散らばっている。拾い集める力は、今の七海にはなかった。
 涙などない。どこまでも乾いた絶望が横たわっている。
 夏油には、ただ隣に座ることしかできなかった。七海の絶望に軽々しく「わかるよ」なんておこがましいことは言えなかった。それは七海のものだ。夏油が同じ絶望を共有することはできない。他の誰にも理解できない。誰かが誰かを代弁することなんてできない。誰かに真に共感することなんてできない。どんなに近くに立っていても。どんなに手を繋いでいるつもりでも。
 夏油は自分の手を見下ろした。ずいぶん大きくなった手だ。何でもできると思っていた、大きな手だ。この手を振りほどいて、五条は遠くへ行ってしまった。五条と出会うまでの方が長かったのに――一人でいた時間の方がはるかに長いのに、どうやって一人でいたのか忘れてしまっていた。「俺たち最強だから」と言った五条の顔を忘れたことはない。だが、最近の五条は夏油のことなんか忘れてしまったように、一人で術式を磨くことに夢中だ。つい一年前のあの言葉が嘘だったとは思いたくない。それなのに、嘘をついたのかと子どもみたいに詰(なじ)りたくなる。
 灰原は七海を置いて死んでしまった。二人きりの二年生は、たった一人になった。もはや学校の体も成していない。
 永遠などどこにもないことを、蝉の声に教えられる。
 ――何故、永遠に続くと思えたのだろう。根拠などまるでないのに、疑いもしなかった。
「夏油さんは」
「読んだよ。灰原って律儀だね。みんなの分があったよ」
「……」
「私の分。悟の分。硝子の分。それから先生の分」
 七海は決して、自分に宛てられた遺書の内容を口にしなかった。夏油にも聞き出すつもりはなかった。それは七海だけのもので、誰にも立ち入ることは許されない。安易な共感は何の役にも立たない。いたずらに傷口を抉るだけだ。
 似ている、と思った。
 片割れを失った七海。片割れにおいていかれた自分。二人でいたのに、一人になってしまった。
 ――果たして今の自分は、五条に必要とされているのだろうか?
 ひとたび芽生えた疑念は、胸の奥で静かに燃えている。がらんどうの胸の内を木枯らしが吹き抜けていく。
 何でも一人でできる五条。五条だったら、きっと一人でも産土神(うぶすながみ)を祓えただろう。五条ならできる。七海と灰原にはできず、夏油にもできないことでも。そうすれば誰も死ななかった。そう考えてしまう自分に嫌気が差す。
 できる人間だけが犠牲を払う。それを何よりも嫌悪しているのに、五条にはそれを期待してしまう。これでは非術師と何も変わらない。強者に頼りきって、救ってもらえるのが当然だと思って、感謝もしないで、そういう猿(ひと)たちと同じことを考えてしまう。
 ――いっそ、救うべき人間を選んでしまえば。
 以前の夏油なら、そんなことは考えなかった。だが、今はそれが悪魔の囁きじみて頭から離れない。救う人間を選ぶなんて独善だ。そう信じていた。
 この世のほとんどはグラデーションだ。どこかで線引きしたところで「何故」という問いからは逃れられない。線を引くことができるのは、強者だからだ。弱者にその権利はない。いつだって強者の引いた線の中で生きている。
 夏油傑が線を引くことができるのは、強者の側に生まれついたからだ。呪力量も術式も生得的に決定している。後天的に努力できるのは、いかにしてそれを効率よく扱うかの技術だけだ。一握りの才ある者だけに許された行為。だから夏油はそれを独占しない。それが強者の努めだと信じていた。けれど。
 限界だった。
 いつまで続くかもわからない消耗戦。失うのは夏油たちばかりだ。――それはいくらなんでも不公平じゃないか?
 もうやめてしまえ、と悪魔の囁きが耳から離れない。
 救った弱者から感謝の言葉があれば良い方だ。大抵は気づかないし、気味悪がる連中だっている。それどころか、時には弱者が弱者を痛めつけている。――何のために救うんだ? 彼らがいない方が、よほど世のためではないのか。
 いっそ皆を殺してしまえば、と考える。かつて、夏油はその提案を口にしたことがあった。その時、九十九は否定しなかった。怖じ気づいたのは夏油の方だった。
 荒れ狂う風の吹き渡る、荒涼とした大地でひとり立ち尽くしている。足下から立ち上った昏(くら)く赤く燃える炎は、凍えた手足を温めることなく、ちりちりと皮膚を焦がしている。きっと、その下の肉も。
 隣に立っていたはずの人は、とっくに先に進んでしまった。
 夏油傑はたった一人で立ち尽くしている。足下でうごめく弱者の手に足を掴まれて動けない。無数の弱者。夏油が救わなければならない弱者。夏油がいなければ理不尽に死んでしまう弱者。強者が救わなければならない弱者。
 夏油がいなくても、理不尽に弱者を虐げる弱者。そのくせ「救ってくれ」と手を伸ばす、図々しいほど恥知らずな弱者。弱者が常に被害者でいるわけではない。被害者と加害者はめまぐるしく入れ替わる。世界はそんなに単純ではない。
 弱者が弱者をいたぶり、傷つける。そんな弱者であっても、強者は救わなければならない。それが強者の義務だからだ。弱者に優劣をつけてはならない。それは強者の傲慢だからだ。
 ――もし、皆死んでしまったら。この世に強者しかいなければ。この世に正しい人間しかいなければ。この果てのないいたちごっこから逃れることができる。七海は死なない。誰も死なない。
 ゆっくりと、足が地面に沈んでゆく。空を駆けているつもりで、羽を持っていなかったから地面に墜落した。地面だと思っていたのは底なしの泥沼だ。
 ――もし、それを実行できるなら。
 一度捨てたそれが、ひどく妙案に思えた。

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