どうか、呪いにならないでください。

「悟、遺書は書いたか」
「あ、忘れてた」
「書かないなら卒業させないぞ」
「えー、勘弁してよ」
「最近、傑とはどうなんだ?」
「どうって? どうもしないけど」
「……そうか。それならいいが」
「そういえば次の任務さあ、俺一人で行ってみたいんだけど――」

               *

「さあ、化け物退治の時間だぜ」
 不遜に唇をつり上げた五条は指を組んだ。不揃いな色合いの双眸が、蛇体の呪霊を睥(へい)睨(げい)する。
 眼を奪われようとも、五条悟は五条悟のままだった。傍若無人で、傲岸不遜で、ふてぶてしくて、自信満々で、何にも臆することはない。その眼をもってして五条悟であったはずなのに、眼がなくても五条悟だった。
 夏油は一歩下がり、岸に上がった。川は古来より境界であり、ここでは蛇神の支配する領域でもある。長居するのは得策ではない。呆けたままの小柳を引っ張り上げ、固唾を呑んで待機する長久保に押しつける。
 蛇が鋭く威嚇音を出す。ぞろり、と闇から何匹もの蛇が這い出す。まるで闇から湧いてくるようだ。ちゃぷ、とかすかな水音がする。月明かりに照らされ、濡れた白い鱗が光る。しゅうしゅうと息づかいのような音を立て、長い舌が伸びる。
 夏油は蛇のような姿の呪霊を呼び出した。こちらにも蛇体の呪霊はいる。あまりにもありふれている。そのありふれた呪霊が、ほんの気まぐれのように人を殺すのだ。
「夜刀神は群生する蛇っていうけど、こいつらちょっと細くないか?」
 五条が言うのに、夏油は被害者の損傷を思い起こした。呪霊の正体を知れば、あの奇妙な損傷にも納得がいく。上半身をねじ切られていたのは、太い蛇に締められたからだ。この場にいる蛇も太い方だが、人をねじ切るには足りない。
 夏油は後ろに視線をやった。混乱する小柳を長久保がなだめている。
「小柳さんも、何でこんな夜中に」
「それを言うなら、被害者二人とも、何で川で死んでたって話だろ」
「――早苗は! 早苗はどこだ!」
「ちょっと大人しくしてください、危ないんですよ!」
 叫んで川へ来ようとする小柳を長久保が羽交い締めにしている。意外と小柳の力が強いのか、長久保は眉を寄せて歯を食いしばっている。
「あの子が俺を呼び出したんだ! 話があるって! 早く助けてやってくれ!」
 五条が眉を上げた。
「早苗さんが?」
 ここで名前が出てくるとは思わず、夏油は眉をひそめた。近くにいるなら早く保護しなければならない。
 五条が一歩前に足を踏み出した。ぴしゃり、と水たまりに足が浸る。
「ていうか、なんかこの川、増水してない?」
「何だって?」
 はっと気づけば、足首を浸す程度の水量だったのに、水が岸まで溢(あふ)れている。岸辺に生えていた草を飲み込むように、ひたひたと増水している。岸辺がどんどん水没していく。
「水神だから水の操作もお手の物ってことか――!」
 早苗がどこにいるのかわからないが、増水した川に飲まれたら危険だ。
「早苗さん! どこにいるの!」
「――夏油さん……」
 かすかな声が暗闇から聞こえた。川の上流だ。
「早苗さん! 無事か!?」
 言いながら、夏油は川に足を踏み入れた。先ほど呼び出した蛇の呪霊がぼちゃんと軽い音を立てて水に潜り、するすると夏油の先へ進む。
 間髪入れず、夜刀神が襲いかかってきた。水の中を突き進んで、夏油の呪霊に絡みつく。二匹は互いの身体に噛みつき、ひとかたまりになって激しくもがいた。ばしゃばしゃと水が飛び散る。
「術式順転〝蒼〟」
 小柳を目指して襲いかかる蛇数匹を五条の術式がまとめて虚空に吸い込んだ。ちぎれた蛇の一部がぼちゃぼちゃと水音を立てて川底に沈む。すぐに湧き出た別の蛇が頭をもたげて水の中を泳いでくる。それを五条が消し去る。その繰り返しだ。
「これじゃキリがない!」
「早苗さん! 返事して!」
 返事の代わりのようにぽちゃ、と足音がした。
 まず見えたのは、白い素足だった。次に着物。膝まで濡れて足に張りついている。昼間の巫女装束ではない。いかにも普段着といった風の着物だ。眼鏡が月の光を反射して表情を隠す。
「早苗さん?」
 三藤早苗は、黙って川の中にたたずんでいる。その後ろでうごめく大きな影がある。夜刀神は水の中に潜ったままだ。
「来ないで……」
 低く、押し殺した声で早苗が言った。長い髪に隠れて表情はよく見えない。
「来ないでって、そこにいたら危ないよ! 早くこっちに!」
 叫んだ夏油の腕を五条が引いた。
「傑、ほんとに気づかなかった?」
「何に?」
 夏油は振り向いた。五条の片方だけの青い瞳が爛々(らんらん)と光っている。夜の底を暴くような瞳だ。
「早苗が被害者の第一発見者だってこと」
 言われて、夏油は補助監督の聞き取り結果を思い起こす。奥田はこう言った。
 ――早苗は川で亡くなっている伯父と叔母を見つけた。
 早苗は親戚の無残な死体を見て、呪霊の更なる被害を恐れた。だから呪霊が現れるであろう祭りの中止を望んでいた。そう解釈していたから気にも留めなかった。
 掴まれた腕が痛い。五条の体格に見合った腕力で手加減なしに掴まれている。ぎりぎりと、締めつけるように。
 見る間に水かさが増して、膝まで浸かる。寒い。冷水に身体の熱を奪われていく。
「第一発見者を疑えって言うでしょ」
「まさか――」
「傑、同情するのもほどほどにしろよ」
 鋭く光る瞳に一瞥され、夏油は一瞬息を止めた。
「自分に嘘をつくのも」
「……」
 きつく歯を噛みしめる。瞼の裏で、救えなかった少女の笑顔がちらついている。どこにも帰れなかった少女の顔が――緊張から安堵したように唇を緩めて、そのまま頭を撃ち抜かれた顔がちらついている。振り払えない後悔が、ずっと頭の隅に居座っている。今度こそは、と思った。それが目を曇らせていた。
 ――否。目が曇った振りをしていた。
「早苗、そこから出てこいよ」
 五条が冷たく研ぎ澄まされた声で言う。
 早苗は沈黙を守っている。ざわざわと木立が揺れている。
「待って、悟」
 夏油は震えそうになる声で言う。――そうと信じたくなかった。けれど、理性は肯定する。五条が正しい。感情というものを置き去りにした五条は、冷徹に事実を見据えている。六眼を封じられても、その眼は曇らない。
「襲われた二人は、早苗が〝お社様〟に選ばれたことを喜んでいた。早苗はそれを嫌がっていた。さっき襲われた小柳の爺さんもそうだ。早苗は被害者のことが好きじゃなかった」
 嫌っていたほどの強い意志ではないのだろう。だが、過ぎたる力は災いを呼ぶ。無意識下でも術式は発動する。人の負の感情を糧として動くのだから、生きている限りは逃れられない。誰にも制御の仕方を学べない環境下では、強すぎる力は不幸しか呼ばない。
「早苗は運悪く、ちょっと強すぎたんだよ」
 だから、これはただの確認作業だ。夏油がわざと目を背けていた、不都合な真実の。
「神社にあった箱、中身には大して呪力がなかっただろう。でも、早苗さんは気味が悪いと言った」
 まるで悪あがきのように夏油は呟く。どこかに隙はないかと。見落としていることはないかと。
「あれは抜け殻なんだ。だからよく見えなかった。見えるほどのものがなかったから。本物のご神体はそっちじゃないって、早苗は本能でわかってたんだろう。あれは触媒だよ。術者にだけ意味を成す」
 術者にしか意味のない代物。珍しいことではない。本人のみに確認できるマーキング、あるいは〝お社様〟に選ばれた印。見える人間にだけ見える。呪術の基本だ。わかっている。わかっている。
「じゃあ、化け物が封印されていたのは……」
 けれども、そんなものはどこにもないのだ。あるのはただ、厳然と横たわる事実だけ。
「決まってる」五条が感情の薄い声で答える。「早苗の身体だよ」
 早苗の背後でとぐろを巻いた闇がほどけた。巨体がうねり、月の光に照らされてその全貌を明らかにする。
 ――大蛇だった。白い鱗に覆われ、赤い瞳をしている。頭にはねじくれた角。右目には上から下へ真っ直ぐに傷跡が刻まれている。まるで刃物で一直線に切られたようだ。
「あれが本体か。右目のは神剣に斬られた傷かな」
「あれだけでかけりゃ、人間をねじ切るのも簡単だろ」
 夏油は更に一匹、呪霊を呼び出した。龍に似た姿の呪霊だ。宙に浮かび、ひときわ大きな蛇神と相対する。
 五条が呟いた。
「これじゃあ、まるで蛇神憑きだな」
 血筋に憑くとされたあやかしも、おそらくはそういう術式だった。呪術師がいない片田舎では、憑き物筋として忌み嫌われる。
 思い返せば、早苗の集落での扱いはそれと似ていた。〝お社様〟に選ばれたことを――術式の発現を喜ばれながらも、どこか恐れられ、村から出られないよう閉じ込められる。
 長年の信仰が作り上げた呪霊は術者と〝目〟を通して繋がり、術者が〝目〟を通して呪霊を封印する。術者はその血で呪霊を縛り、呪霊は術者の血族に代々取り憑く。右目が欠けていることが両者の縁(えにし)として機能する。同じ要素を持つものを〝見立て〟にするのは呪術の基本だ。
 互いの尾を噛む二匹の蛇のように、互いの存在が互いを補強している。まるで共犯関係のように。
「……ひどいマッチポンプもあったものだね」
 これを虚しいと呼ぶのだろう。田舎で大切に継承されてきた儀式なんて、こんなものだ。そのために何人もの少女たちが苦しんできただろう。
「見方を変えれば、負の感情を化け物に向けさせてコントロールしてきたとも言える。それが祭りの本当の目的だったのかもな」
「だからって……」
 冷めたように言う五条も、何も感じていないわけではない――はずだ。夏油はそう信じている。こんなところでいくら議論したところで、早苗が助かるわけでもない。夏油だってわかっている。わかっているからこそ、行き場のない感情が渦巻いている。
「聞いてるか、早苗。オマエが犯人だ。その呪霊を使役して、二人殺した」
「わ、私は……」
 か細い声で早苗が何かを言いかけた。そのまま言葉が見つからずに再び黙り込む。
「本意か不本意かは知らないけど、その呪霊はオマエの望みを叶えた」
 望んでいるからといって、実行してほしいとは限らない。だが、ろくに呪力のコントロールも学んだことのない早苗に憑いた呪霊は、その〝本能〟のままに人を襲い、右目を喰った。そして、三人目の被害者として選ばれた五条で失敗した。そのせいで今まで動かなかったのかもしれない。
「私、そんなつもりじゃ……違う、私じゃない。あの日だって、たまたま伯父さんが神社に来たから……一緒に川まで歩いたの。私が祭りは嫌だって言ったら、そんなこと許さないって腕を掴まれて……そしたら川から急に蛇が出てきて、伯父さんが蛇に……」
 ぶつぶつと言う台詞は、罪の告白に他ならない。
「叔母さんも同じ……嫌だって言っても聞いてくれないの……だから、だから私、でも、そんなつもりじゃなかった、私じゃない、蛇が――だから祭りなんて止めないと、あの蛇が、」
「オマエだよ」
 囁くように、憐れむように、五条は告げる。その無情な言葉を。真実を白日の下に晒し、逃げ道を断つ言葉を。
「三藤早苗。オマエが伯父と叔母を殺したんだ」
「ちが――」
 早苗が顔を覆う。指の関節が白くなるほど力を込めて、爪を立てるように。目を抉り取るように。
「悟!」
「同じだよ。それとも傑は事情があれば殺人はオッケーだって言いたい?」
「そこまでは言ってないだろ! でも無意識の術式なら――」
「こんな危険な術式、生かしてもらえると思う?」
 一度目は事故だったかもしれない。だが、二度目ともなれば言い逃れはできない。被害者と加害者の立場は簡単に入れ替わる。いつまでも被害者でいることはできない。
 三度目が五条だったのは偶然だったのだろうか。強い〝眼〟があったから喰おうとしただけなのか、それとも。
「私は……!」
 祭りを止めたいと言った早苗の顔は、嘘ではなかった。
 ――止めてほしいと思ったのだ。この凶行を。
 大蛇が口を開けた。
「うわ……!」
 大蛇の呼んだ洪水が押し寄せた。一気に流されそうになり、夏油は呼び出した呪霊の足を掴んだ。身体がよろけた五条の腕を掴み、二人で呪霊にしがみつく。龍に似た呪霊はふわりと浮かび上がって、二人を水中から脱出させた。
 見下ろせば、水面が月の光を反射して、場違いなほどきらきら光っている。
「長久保さん、大丈夫ですか!」
「こっちはいいから! とにかく呪霊を倒すことだけ考えてください!」
 木にしがみつきながら長久保が叫んだ。鉄砲水に押し流されそうになりながら、小柳と共になんとか耐えている。とはいえ長くは保たないだろう。早急に増水を止めなければならない。下流にある町の様子も気がかりだ。
「悟! 何か案はあるか!」
「今考えてる!」
 ごうごうと鳴る水音にかき消されないように叫ぶ。二人を乗せた呪霊は宙を滑る。
 台風の目のように、渦巻く水の中心に早苗が立っている。その華奢な身体をぐるりと取り囲むように、大蛇がとぐろを巻いている。風に乗ってかすかに腐臭がする。
 ――人を喰った呪霊だ。
「術式反転――」
 五条の手のひらに収束した呪力が、一瞬の後に霧散した。
「やっぱ上手くいかねえ……!」
「ほんと、肝心なところで使えないね!?」
「うるせえ!」
 叫び返した五条は掌印を組んだ。軽く手を動かせば、無下限呪術に蛇が吸い込まれる。
 大蛇が牙を剥いた。龍にまたがった五条めがけて、巨体が跳躍した。
「ははっ、俺の右目がそんなに欲しいか! 意地汚えな!」
「ちょっと悟! 煽らないでくれるかな!?」
 尾に噛みつかれそうになった龍が急旋回した。身体を振り回される。二人を乗せたまま、夏油の呪霊と大蛇が空中戦を繰り広げる。揺れに酔うどころではない。慣性に振り回され、視界も身体も安定しない。
 攻めあぐねているのは、あの呪霊を倒したら早苗がどうなるかわからないからだ。呪霊と右目という〝縁〟で繋がった術者。血筋に憑く呪霊を使役する術式。式神使いとも呪霊操術とも違う。
 幾度目かの五条の術式が大蛇を水面に叩きつけた。ひときわ派手な水柱が上がる。
 逃げることもなく、渦巻く川の中心で立ち尽くす早苗が泣いていた。その手が何かを握っている。
「私、私が悪いの……だから祭りなんかやっちゃいけないの……」
 水面に沈んだ大蛇がうねったかと思うと、頭を突き出した。口を大きく開く。鋭い牙が銀色に光る。
 はらりと布が川面へ落ちる。その下にあるのは神剣だ。古びた装飾の施された神剣を握りしめ、早苗は自分の喉に当てる。
「私が舞を奉納したら、こんな町……」
 襲いかかったのは――早苗だ。
「あいつ自殺する気か!」
「そんな――!」
 届かないのを知りながら、夏油は思わず手を伸ばした。大蛇の方が早い。このままでは喰われる。間に合わない。
「早苗さん!」
「姉ちゃん!」
 暗闇に章の声が響いた。
「章?」
 泣き濡れた顔のまま、早苗が声の方に顔を向ける。
 息せき切って走り寄った章が早苗を突き飛ばした。
 大蛇が大きく口を開いている。月の光に照らされて、神秘的なアルビノの鱗が輝く。開いた口から伸びた牙が冴え冴えと光っている。
 焦りを浮かべた章の顔は、大蛇に飲み込まれた。
「あ――――」
 吐息のような声が漏れて、神剣を握ったまま早苗が後ろに倒れる。ばしゃりと水音を立てて、川底に尻餅をつく。その上半身に血が降り注いだ。
 残された下半身が倒れる。断面から流れ出した血で、川の水が赤く染まっていく。
 呆然としていた早苗が起き上がろうとした。しかし足に力が入らず、川底に這いつくばった。赤い水が着物を染めていくのを見つめる。水の中に横たわる、弟の足を見る。いかにも慌てて出てきたような服装だった。家にいない姉を探しに出てきたのだろう。
 早苗は濡れた顔を拭い、手のひらについた血を見つめる。
 大蛇はとぷりと水に潜った。巨体は見かけと質量が一致しないのか、波を起こすことなく川に潜ってしまう。そのまま溶けるように姿が見えなくなる。
「あ、章……」
 現実を拒否するように、早苗が呼びかける。返事はない。返事をする口も喉もない。必死になる姉の声を聞く耳もない。
 夏油は滑るように呪霊を降下させた。慎重に川に降りる。夏油の後ろから五条も降りた。油断なく水面を見下ろしている。
 夏油は早苗に歩み寄った。水かさは脛(すね)まで下がっているが、足にまとわりつく水は重い。
「早苗さん」
 夏油の声が聞こえないように、早苗は膝で章の下半身へにじり寄った。
「章、章、」
 喰われた上半身を探すように、早苗が川底をまさぐる。全身が濡れそぼるのも構わず、鬼気迫る表情で水の中を探す。その手が夏油の足に触れた。ゆっくりと早苗は顔を上げる。
 視線が合った夏油は静かに告げた。
「章くんは死んだよ」
「嘘!」
 早苗が叫んだ。濡れた髪が血の飛び散って汚れた頬に張りつく。
「嘘じゃない」
「そんな、そんなはず、だって、」
「呪霊を制御できないんだね。大変だっただろう、辛かっただろう」
 まったくの本心だった。過ぎたる力に振り回されて、人生を台無しにされて、あげくに実の弟を死に至らしめた。
「……私が、私の、私のせいで、」
「そうだ。オマエのせいで今、三人目が死んだ」
 不揃いな色合いの目で五条は早苗を見下ろした。今度は、夏油も止めなかった。
 不幸な事故だったが、死んだ人間がいるのは事実だ。そして、人を殺した人間は、何食わぬ顔をして社会で生きていくことを許されない。罪は償わなければならない。
「三藤早苗。連続殺人事件の容疑者として高専まで来てもらうよ」
 三人も殺した術者がどうなるかなんて、火を見るより明らかだ。十中八九、死刑に決まっている。高専へ入学して二年弱だが、夏油にもやり口はわかっている。上層部は制御できないものを過剰に恐れる。恭順の意を示したところで無意味だ。一度危険だと判断したなら、この世から消し去るまで許さない。まして、それが仮想怨霊の憑き物筋なら。
「だって章は……」早苗がかぶりを振った。
「行こう、早苗さん」
 伸ばした夏油の手を早苗は無視した。髪を振り乱し、倒れる章の足にすがりつく。
「嫌、章はここにいる」
 現実を認めたくない一心で言う台詞が心を刺す。
「章! 私はここよ! 起きて!」
 呼びかけに応じるように、大蛇が水面から頭をもたげた。赤い瞳が瞬く。
 ――早苗の呪力が、溢(あふ)れた。
 水に浸かった章の下半身がどろりと溶け出した。夏油にはそう見えた。死体の断面から立ち上る禍々しい呪力が欠けたヒトの形を補っていく。泥をこねて作ったような粗雑な胴体が見る間に整えられ、腕が生える。ただ丸いだけの頭部が変形し、頭蓋骨の形を作る。耳介が生じ、頭髪が伸びる。刷毛で一撫でしたように肌の表面がなめらかに整形され、眼窩と鼻梁と唇が形成される。
 ヒトによく似たそれが身体を起こした。右目を閉じ、虚ろな左目は蛇のように瞳孔が縦に裂けている。右目の瞼をまたぐように、傷跡に似た文様が顔を走っている。姿はヒトによく似て、纏(まと)う空気は禍々しい。
「なんだ、あれは」
 まるで人の姿に――三藤章の姿になったそれに、夏油は思わず呟いた。
「――怨霊だ」
 五条の声が凍えた風のように夜闇を切り裂く。感情をそぎ落とした横顔が、章の死体だったモノを見つめている。
「まさか、章くんの身体を喰ったから……?」
「喰った肉を再構成したのか? そういう術式だとすれば、じゃあ今まで喰った右目はどこに」
 眉をひそめる五条の前で、章だったモノが右目を開いた。青い瞳だ。銀河のようにきらめく、至宝の瞳。その瞳がサングラスの下から見上げてくるのを、夏油は何度も見ている。
「悟の右目……!」
「なるほど、そう来るわけ。俺の眼なら呪物としての機能も十分だし」
 大蛇を通して取り込んだ五条の〝右目〟を、今しがた怨霊として蘇らせた章に渡したのだ。血族だからこその芸当だ。意識してやったわけではないだろう。無意識下でこれほどの術式。危険すぎる。
「倒す敵が増えたな」五条が唇を歪めた。わざとらしいほど軽口を叩く。「仮想怨霊にこっちは本物の怨霊? 大盤振る舞いだな。出血大サービス?」
 言いながらも五条は右目を押さえた。やはり何か違和感があるらしい。
「勘弁してくれ」
 夏油は顔をしかめた。冗談にもならない。
 薄く笑いながら五条が掌印を組んだ。
「術式順転〝蒼〟」
 五条の術式に、大蛇が牙を剥いた。虚空に吸い込まれそうになるが、すぐに水面に潜って五条へ襲いかかる。五条が宙へ飛び、上空から無下限呪術を浴びせる。派手に水飛沫が上がり、様子が見えなくなる。
 同時に、夏油は怨霊と化した章に向けて呪霊を放った。犬と鳥を混ぜたような呪霊が章に飛びかかる。
 虚ろな目をした章が緩慢にこちらを向いた。借り物の右目が薄く光る。視線を浴びた夏油の呪霊の動きが止まった。見えない縄に縛られたように硬直する。
 ――五条の六眼とも違う能力だ。
 夏油は舌打ちした。術者である早苗にもよくわかっていない術式だ。何が起こるかわからない。既に伝承から外れたことばかり起きている。
 だが、この状況は長続きしない。呪霊を二体維持するほどの呪力を早苗は持ち合わせていない。持久戦ではこちらに分がある。
 もう一体呼び出した呪霊が章に襲いかかる。それも途中で動きを止められる。その呪霊に隠れるようににじり寄った夏油は、章に殴りかかった。章はたたらを踏んで、数歩後ろに下がった。泥を殴ったような手応えのなさに、夏油は顔をしかめる。
「――」
 姿勢を整えた章は無表情だった。表情というものを置いてきてしまったような、表情筋を作られていないような。
「嫌、止めて……もう嫌……」
 だが、早苗のすすり泣きを聞いた瞬間、その顔が動いた。焦りのような表情を浮かべ、身を翻して早苗の元へ駆け寄ろうとする。
 夏油はその隙を見逃さなかった。
 水面下を突き進んだ蛇体の呪霊が章の足に噛みついた。足首を食いちぎる。がくりと章が膝をついた。それでも膝で前に進もうとする。追いついた獣の呪霊が更に襲いかかり、腕をむしった。蛇の呪霊がもう片方の足を脛まで喰った。章はびしゃりと川底に這いつくばった。断面から薄く呪力が漏れる。必死に顔を上げて、姉の姿を探す。
「ね、えちゃ――」
 残された片腕を章が伸ばした。
 その向こうで、無下限呪術が大蛇を砕いた。ばらばらと大蛇の破片が降り注ぐ。破片は空中で灰になり、水に触れて溶けた。
 無言で夏油は早苗と五条に歩み寄った。五条が恐ろしいほどの無表情で、川底から神剣を拾った。墓標のように川底に突き刺す。
 水が引いていく。水中に潜っていた夜刀神たちは、水面へ出るとぼろぼろと身体が白い灰になって崩れていく。かすかに風が吹いて、すぐに吹き飛ばされる。
 いつの間にか、空の端が白み始めている。
「章――」
 身体の欠けた怨霊に這い寄る早苗を、夏油と五条は黙って見つめた。呪力が底をついている今なら、もう何もできないだろう。
 怨霊となった章に、早苗が儚く微笑んだ。差し伸べた白い手が章に触れる。
 そこから呪力が受け渡されるのに、夏油ははっと身を乗り出した。既に早苗の呪力は使い果たされている。ならば、あれは自らを贄として変換した呪力に他ならない。
 死んだ弟のなれの果てに囁いた声は、愛おしげだった。
「章、生きて」
 微笑んだ早苗の手が力を失う。
 章の残された片手が、落ちる早苗の腕を掴んだ。夏油の呪霊に喰われた損傷が見る間に修復される。パキパキと音を立てて、食いちぎられた腕が、足が、元に戻ってゆく。
「あ、アぁア――!」
 章の姿をした怨霊が慟哭した。
 微笑んだまま、早苗は絶命した。

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