一
背が伸びている。
気づいたのは出立間際だっだ。鬼を狩った翌日の昼頃、藤の花の家紋を掲げる家から出て行こうとしていた時のことだ。
義勇が隊服を着込んで羽織に袖を通すと、支度を手伝ってくれた奥方がふと呟いた。
「そろそろ、丈を直してもらった方がよろしいんじゃありませんか」
何のことかと義勇が首を傾げると、
「ほら、裄丈がちょっと」
「……ああ」
一拍遅れて、義勇は頷いた。たしかに、言われてみれば袖が短い。
「育ち盛りなんですものね――あら、私ったら、失礼しましたわ」
どこか母を思い出すような女性だった。鬼に食われた息子が、ちょうど義勇と同じくらいの年だったと聞いた。駆けつけた鬼殺隊士に自身を救われたが、息子は助からなかったそうだ。
夜半に訪れた義勇をもてなし、食事と湯の用意をした。それが藤の花の家紋の家の役割とはいえ、息子を見るような彼女の温かな眼差しがくすぐったくもあった。用意された浴衣はおそらく、亡き息子のものだったのだろう。
彼女は義勇に息子の面影を重ねて、義勇は彼女に母の匂いを感じた。
――失った者ばかりがここに生きている。
じっと袖口を見つめる義勇を、奥方はにこにこと見守る。
「あまり見ない柄ですね。大切なお着物なんでしょう」
つ、と少しだけ高い位置にある奥方の顔を見上げると、やわらかな笑顔が日差しのように降り注いだ。
義勇は黙って頷いた。
背中でつなぎ合わせた違う柄の羽織を、奇妙な目で見ることもなく、彼女はそっと撫でた。
「あなた様の年頃なら、すぐに背も伸びますでしょう」
懐かしむような声だった。とっくに時を止めた亡き息子を、彼女は大切に抱えている。義勇と同じく。
彼女が義勇を通して何を見ているのかは知っている。
皆、失ったものを代わりで埋めて生きている。そうしなければ、弱い人間は立っていられない。
左右で柄の違う羽織を見下ろした。これは義勇が抱える〝失ったもの〟だ。失ったものの欠片を後生大事に抱えて、重さに潰れそうになりながら立っている。捨ててしまったら身軽になれるが、そうしたらきっと、立っていられない。一度膝を折ったら、二度と立ち上がれない。
奥方の手が隊服の袖に触れた。
「もっと、うんと背が高くなるかもしれませんね」
そういえば、隊服の丈も少し短い気がする。最近、膝を曲げると、袴が突っ張って窮屈さを感じる。肩もなんだか詰まっているような。初めて隊服に袖を通した時は、もっと大きくて持て余していたのに。
昔、伸びた背を柱に刻んでいたことがあったのを思い出した。両親が流行病で死んだ後も、姉は義勇の背を測った。義勇も姉の背を測り、めいっぱい背伸びして柱に姉の身長を刻んだ。姉が大して伸びなくなって、義勇がどんどん姉に迫っていくのを、無邪気に喜んでいた。
まだ追いつかない、と拗ねた顔をする義勇の頭を姉は撫でた。きっと今に姉さんを追い越すわよ。お父さんも背が高かったのだもの。
そういえば、姉の背丈はどれくらいだったか。そろそろ追いついただろうか。
そう考えて、ふと、心臓に氷を差し込まれたような心地がした。
成長するのは喜ばしいことだ。背が伸びれば、体格が良くなれば、筋肉がつけば、もっと多くの鬼を斬れる。なのに、なんだか素直に喜べない。なぜだろう。
「お気をつけて」
背中で火打ち石を打ち付けられる音を聞く。
もう、慣れたものだった。一人で鬼を狩り、宿を借り、束の間の休息の後に出立する。その繰り返しを数年。それ以外の生き方はない。全部捨ててしまった。残ったのは、この羽織だけだ。もう、これしかない。
早く、羽織の丈を直してもらわなければ。
二
声が低くなっている。
訪れた蝶屋敷で、胡蝶カナエがふわりと笑った。
「なかなかここに寄りつかないくせに、どうしたの」
カナエとしのぶの姉妹が切り盛りする蝶屋敷は、ようやく体裁が整ったばかりだった。以前の主を突然失い、新しい主を受け入れたばかりの屋敷は忙しい。診療所としての機能を円滑に果たせるようになってまだ日も浅い。
「ひどい怪我をしているわけでもなさそうね。運ばれてくるばっかりで自分で来てくれないのに、今日はどういう風の吹き回し?」
義勇は憮然とカナエを見つめた。軽傷なら手を煩わせるのも悪いと思っていただけだ。
「なあに、その顔。言わないとわからないわよ」
かすかに眉を寄せた義勇に、カナエは他の患者たちと同じく温かい笑顔を振りまく。自分にはもったいない。
「何でもないのなら、せっかくだし、健康診断しましょうか」
「必要ない」
「なんで? 義勇くん、成長期なんだから」
「その必要は――」
「ね、そうしましょう」
笑顔のカナエに、義勇は思わず頷いてしまった。カナエには何を言っても無駄だ。姉のように、有無を言わせず従ってしまう。
「いや、でも、その前に――」
義勇が要件を告げようとしたところで、
「あ、ちょっと姉さん、荷物が届いて――って、冨岡さん⁉」
廊下を通りかかったしのぶが声を上げる。まなじりをつり上げ、義勇につかみかからんばかりの勢いで近づく。
「ちょっとあなたどうしたんです⁉ どこを怪我したんですか‼」
「しのぶ、落ち着いて。義勇くんはどこも怪我をしていないわ」
「じゃあ何の用ですか?」
義勇より頭ひとつ分は小さい少女を見下ろし、義勇は口を開いた。
「怪我をしているからだ」
「は?」
しのぶが義勇を睨(ね)め上げた。カナエも身を乗り出す。ちらりと姉妹は目配せした。
しのぶが猛然と義勇につかみかかった。襟元に伸びたその手を、一歩下がってよける。しのぶが舌打ちしたそうに顔を歪めた。
「いきなり何をする」
「怪我をしているんですよね、あなた」
「していない」
「……義勇くん、ちゃんと話して。誰が、どこに怪我をしたの?」
「羽を」
「は、羽?」
しのぶはぽかんと口を開けた。
義勇はそっと懐から鎹鴉を出した。鴉の黒いつぶらな瞳が姉妹を見つめた。
「鬼に」
「なんで鎹鴉が鬼に襲われるんですか⁉」
「俺が戦っていたら、足下に出てきて、」
「あらあらそうだったの。もっと早く言ってほしかったわ。てっきり常備薬でももらいに来たのかと思ったじゃない」
のんびりとカナエが言う。
「姉さん、そうじゃなくて! うちは人間専門なんです!」
「そうか……」
義勇は肩を落として手の内の鎹鴉を見つめた。羽を痛めて飛べなくなってしまったら、この鴉も引退するのだろうか。あまり若くないようだし。与えられた時からやや年嵩の鴉ではあると思っていたが、鴉のくせに義勇をどこか子ども扱いするのがそれほど嫌ではなかった。変わってしまうのは、寂しい。
「鎹鴉のことは聞いてみるわね」
「もう、姉さんったら」
眉をつり上げたしのぶが、やれやれと言わんばかりに肩の力を抜いた。
おっとりと笑っている姉と、ややきつい物言いだがしっかり者の妹。違う性格の姉妹で互いを埋め合わせている。
「そういえば義勇くん、この前より声が低くなっているわね。背も伸びた?」
「伸びた。声は……」
意識すると、たしかに声が低くなっている。自分の声を耳にするのは久しぶりだ。あまり話すのは好きではないから、意識していなかった。
「自分で気づいてなかったんですか?」
「……話すのは好きじゃない」
「呆れた人ですね。自分の声の変化にも気づかないなんて」
しのぶがこれ見よがしにため息をついた。義勇の方が三つほど年上なのに、これではまるで姉のようだ。
「もう少しお話ししてもいいと思うんだけれど」
「そうやって話さないから、いつまで経ってもだめなんですよ」
しのぶの言う通りだったので、義勇は黙り込んだ。
「ほら、またそうやって黙って。言わなきゃわからないんですよ」
そんなことはわかっている。だが、適切な言葉がわからない。いつも義勇が話す前に話題が移ってしまうし、なんとか言葉を発してもどうもずれてしまう。話さない方がましだ。
「さあ、まずは身長を測りましょう。もう私より背が高いかしらね」
ぐいぐいとカナエが義勇の背を押す。
――そういえば、彼女も〝姉〟なのだった。
たぶん、カナエの方が義勇の姉よりも背が高い。義勇は姉を追い越したのだ。
女子の成長は早く始まって早く終わる。カナエの背はもう、あまり伸びないだろう。姉もそうだった。義勇はどこまで伸びるだろうか。
喉を撫でると、喉仏が以前より出っ張っている。
しのぶが変な顔をしている。
「何だ」
「いえ……冨岡さんも、大人っぽくなったんですね」
「お前の方が年下だろう」
自分の声が耳に入って、はっとした。姉と笑っていた声はもっと高かった。一人きりの親友と笑っていた声も、今よりも高かった。
――錆兎はどんな声をしていただろう。
義勇より早く変声期を迎えた声は、今の義勇よりも高くはなかっただろうか。
自分だけが、着々と大人に近づいている。
その事実に気がつきたくなくて、義勇は唇を引き結んだ。自分の声を聞きたくなかった。
三
髭が生えている。
顔を洗ったら、指が何かに引っかかった。顎のあたりに生えた何かがちくりと指を刺した。
水面に映る少女じみた顔が、いつしか男に近づいている。ひょろひょろとした体格にまだ筋肉が追いついていないが、もう性別を間違われることもない。
つい先日、同じ年頃のカナエを背が追い越したことを思い出す。
おぼつかない手つきで、剃刀を顎に当てる。一本だけ生えた毛を剃った。
もう子どもではない。子どもでいたかったわけではないが。
目を背け続けていた事実に、とうとう追いつかれてしまった。
*
水柱の位を拝命した。
お館様にそう言い渡された時、胸をよぎったのは歓喜でも達成感でもなかった。お館様に力量を認められた誇らしさもなかった。
ただ一心不乱に鬼を狩っていただけだ。そうしなければならない。何に代えても。
水柱にはもっと他に適任がいるはずだ。今はいなくても、そのうちきっと現れる。柱にふさわしいのは自分ではない。だから、これはただの穴埋めだ。
居並ぶ先達の柱たちから目を逸らした。視線を玉砂利に落とす。
「おめでとう、義勇くん」
一足先に花柱に就任していたカナエが、にこにこと祝いの言葉をくれた。
義勇は顔を上げた。かすかに口を開いて、何も言わずに口を閉じた。返す言葉が見つからない。
「なんだ、お前、地味な奴だな」
派手な身なりの音柱が言う。頭の飾りがきらきらと日差しを反射している。珍しい色の髪も日差しに透けて輝いている。
義勇はさっと目を伏せた。興味はない。伝統を途切れさせないためだけに、柱を拝命したのだ。自分はこの場にふさわしい人間ではない。
きびすを返した義勇の背中に、カナエの声が投げかけられる。
「義勇くん、後で蝶屋敷にいらっしゃい」
無言で振り向いた。
もう慣れたもので、返事がないことにカナエは腹を立てなかった。
「羽織、預かります」
「なんで」
蝶屋敷に赴くと、しのぶに出迎えられた。どこか憮然とした顔つきで手を突き出される。意味がわからない。
「みっともないですよ。柱ともあろうものが、そんなつんつるてんの格好でいるつもりですか? また背が伸びたんですよね」
「なんで?」
「姉さんに頼まれたんです。姉さんの優しさに感謝してください。さあ、早く」
ぱちりと義勇は瞬きした。
「ちょっと、とうとう声も聞こえなくなったんですか?」つっけんどんにしのぶが言う。「まったく、なんで私が……自分で頼めばいいでしょう。子どもじゃないんだから」
「俺は……」
言いかけて、義勇は視線を落とした。羽織の丈を直してもらうのは、これで何度目だろうか。
「背など……」
面倒なことだ。背丈が伸びるたびに、隊服を取り替えなければならない。羽織は仕立て直しだ。身体が大きくなるのは、鬼を狩るためには喜ばしいことに違いないが、同時に煩わしさも感じていた。
しのぶがきっ、と義勇を睨みつける。その視線の強さに義勇はたじろいだ。小柄なしのぶが急に大きく見える。
「背が伸びて羨ましいですよ。わたしなんて……」
膨れ上がった怒りと羨望を懸命に押し殺した声だった。
小さな身体に詰まった感情が今にも爆発しそうだ。それをなだめる術を義勇は教えてやれない。義勇も知らないからだ。
ただ、じっと嵐が過ぎるのを膝を抱えて待っているだけ。受け流してやり過ごす方法しか知らない。凍えた感情は心の底へゆっくり沈んでゆく。そうやって凪いだ水面を保っているだけだ。
かたりと戸の開く音がした。
玄関からカナエが顔を出した。
「あ、義勇くん、ちゃんと来てくれたのね、……」
妙な雰囲気を察したのか、カナエは黙り込んだ二人の顔を見比べた。
「喧嘩しちゃだめよ」
その一言で緊張が解けたように、しのぶがため息をついた。
「羽織を貸してください」
言われるがままに羽織を脱いだ。まだ体温の残るそれをしのぶはたたむ。
「これは隠に頼んでおきますから、三日後にもう一度いらしてください」
ぼんやりとたたずむ義勇を一瞥し、しのぶは奥に引っ込んだ。
その後ろ姿をただ見送る。
何かに追い立てられているような心地がする。焦燥感が身体を苛むのに、何をすればいいかわからない。最近はずっとそうだ。いや、もっと前からそうだったかもしれない。
「義勇くん」
目の前に立ったカナエに声をかけられた。
「何をそんなに怖がっているの」
「……何も」
カナエは可憐な顔を曇らせた。
「義勇くん、さっさと帰っちゃったけど、柱就任祝いをしようと思っているのよ」
「必要ない」
傷つける物言いであることはわかっていた。だが、事実なのだ。祝われる立場にない。義勇にその価値はない。どうせ、すぐに誰かが水柱になる。
「そんなこと言わないで」
姉みたいな顔をして、悲しげにカナエが言う。同い年とは思えないほど大人びた眼差しだ。義勇をたしなめるような響きのうちに、心配を匂わせている。
姉というのは、みんなこういう生き物なのだろうか。
「せっかく巡りあったんだもの、仲良くしましょうよ」
鬼にさえ情けをかけるカナエの優しさが重い。
それを受け取る資格は、義勇にはないのだ。
*
甲高い子どもの声がした。甘えた口ぶりで、何かを一生懸命、姉に話しかけている。
小さな子どもの手のひらを、年嵩の少女が握り込んだ。
自分より大きな手を握り返した。
いつまでも泣くな、と少年に叱り飛ばされる。
少し大きくなった手を乱暴に握られた。温かい手だ。自分よりも少し大きい。
同い年なのに、兄のようにぐいぐいと手を引っ張られる。つんのめりそうになりながら、一緒に歩いた。
背中を追ううちに、少年が縮んでいく。
――違う。自分が大きくなっているのだ。
少年が己の手を振り切って走っていく。
少年よりはるかに背が高いのに、どうしても追いつけない。
*
おいていかないで。
沈み込むような夜のふちで、ようやく眠りに就いたばかりだった。
わなないた唇から、音はこぼれなかった。言葉は喉に張りついたままだ。出口を失った言葉はいつも、義勇の心の内でぐるぐると渦を巻いている。いつも持て余すそれを、自重で沈むまで待ち続ける。それ以外の扱い方を知らない。
姉の死から、錆兎の死から、輪をかけて義勇の口下手は加速した。声を届けたいと思った相手はもういない。
話すのが苦手になって、そうして言葉の選択を誤るたびに遠巻きにされる。違うのだと説明するだけの言葉を、義勇は持っていない。だから諦めて話さなくなった。
死ぬのは怖くない。とっくに死んでいたはずの身で、だから今生きているのは屍だ。息をしているだけの屍だ。
天井にかざした手のひらが、以前より大きくなっている。ひょろりと伸びた指。まだ頼りない細さのそれが、しっかりと大人の手になるには後何年――そこまで考えて、息が止まる。
手が喉の出っ張りを撫でる。あの頃には、こんなものはなかった。確かな成長の証が、恐ろしさを掻き立てる。
義勇だけが時を刻んでいる。姉はもう年を取らない。錆兎はもう成長しない。
とっくに二人を追い越してしまった。
鬼を狩っているうちに、階級は勝手に上がっていく。
そうしているうちに、頂点に達してしまった。最終選別を通っていないのに、何かの手違いで柱になんかなってしまった。
――錆兎は鬼殺隊に入れなかったのに。
どくり、どくり、と心臓が嫌な音を立てている。ひゅうひゅうと息をしている。血を巡らせ、指先まで送り込み、そうして生きている。まだ生きている。
立ち止まったらそのまま歩けなくなってしまうから、振り向くのが怖くてがむしゃらに走り続けてきた。
親友は、どんな声をしていただろう。どれくらいの背丈だっただろう。生きていたら、義勇より背が高かっただろうか。もう、姉の年齢に追いついただろうか――。
耳元で潮騒のような音が聞こえる。血潮が流れている。義勇だけが、まだ生きている。ひとりの夜を数えている。
布団を握りしめた。
まだ。まだだ。まだ戦える。
見開いたままの瞳は天井だけを映す。まなじりから滑り落ちた雫が、静かに頬を伝って枕に吸い込まれた。
――おれはまだ、戦える。