00



「いいかい、これは内緒の話だよ」
 父がそう言って、唇に人差し指を立てた。
 うん、と自分は頷いて、しっかりと口を押さえる。
「そこまでしなくてもいいんだよ」
 軽く笑いながら、父は自分の頭を撫でた。
「うちにはね、代々――」
 そっと囁(ささや)くように、父と秘密を共有した。
「いいかい、これは内緒の話だから、誰にも言ってはいけないよ」
「お母さんにも? 禰豆子にも?」
「そうだ。長男だけが知っているべきことだからね。我慢できる?」
「おれは長男だから我慢できる!」
「そうかそうか」
 父が自分の頭を撫でていた手を滑らせて、頬に当てる。それから耳へ。やさしく耳たぶを指で挟まれる。父と違って、まだ何もぶら下げていない耳たぶ。
「今はまだわからないかもしれない。でも、いつかお前がお父さんの耳飾りを受け継いだら、きっとわかるよ」
 自分は誇らしく頷いた。
 自分だけの特別。その響きに心が浮き足立つ。長男はいろいろと我慢しなければいけないことが多いけれど、その分、特別なことも多いのだ。
「どうかお前にも加護がありますように」
 こつりと額と額を合わせて、父は柔らかく笑った。
 
 父がいなくなっても、その言葉の先を、今もずっと信じている。



01



 深夜一時。閑静な住宅街に悲鳴が響いた。
「ギャアアア無理無理無理」
 ぶよぶよしたヘドロの塊のような生き物が、暗い色をした体表をうごめかせている。大人くらいの背丈に、関取かと思うほどの横幅。その表面から突き出た手が伸びてきたのを、村田は間一髪で避けた。自慢のさらさらの黒髪が数本ちぎれた。
 化け物は体表に浮かび上がらせた黄色い目玉をぎょろりと動かした。顔らしきものはなく、ヘドロの表面を自由に行き来する一つ目は村田を追跡している。
「待って本当に無理! 無理だから!」
「うろたえるな」
 状況に似合わない涼しげな声音が、村田の泣き言を切り捨てた。
 ぶん、と空気を切る音がした。
 再び村田へ伸びていた手――に見えるが、どう考えても軟体動物じみた気持ち悪い何かである――が、スパッと切れた。
 男の握る竹刀だ。
 一瞬、真剣のような白刃のきらめきを見たような気がしないでもないが、気のせいだ。そういうことにする。
「キイィィアアァァアア」
 化け物が甲高い悲鳴を上げた。
「た、助かったよ冨岡」
 青いジャージの男――冨岡が無表情のまま、竹刀を構えた。
「油断するな」
 化け物がぎょろぎょろと目玉を動かした。その目玉が冨岡へと移る。
 怒りのためか、体表をさざ波のように細かく波打たせながら、化け物が手を伸ばした。今度は三本。
「――」
 冨岡が深く息を吸う。鋭く空気を切り裂くような音がした。頬にうっすらと渦を巻いたような文様が浮かび上がる。
 次の瞬間、目にも留まらぬ速さで冨岡は竹刀を振り抜いた。
 一拍遅れて、ぼちゃり、と粘度の高い音がした。
 切り落とされた手がアスファルトに落ちた音だ。
 だん、と冨岡が強く踏み込み、地を蹴った。一気に肉薄した冨岡が竹刀を振り上げる。
 月光に照らされた竹刀が――否、研ぎ澄まされた鋼の刃が、水飛沫を上げながら化け物の首を切り落とした。


「ハア……お疲れさま、冨岡」
 冨岡は無言で頷いた。
 月光に照らされた白い貌は怜悧に整っているが、能面のように表情に乏しい。背中に届くほどの黒髪を無造作に束ねている。ぬばたまの黒髪は、村田とは正反対に手入れを怠っているのか、てんでばらばらの方向に跳ねている。細身ながら鍛えられた体躯を包むのは、実用性を第一としたデザインの青いジャージ。
 美しいと言って差し支えない外見を台無しにするファッションをしたこの男が、竹刀でぶよぶよの気持ち悪い化け物を斬った張本人だった。
 村田は電柱の影からそっと出た。ごく普通の人間並みの運動神経しか備えていない村田では足手まといになりがちなので、冨岡が前に出ている時は後方で待機している方がいいのだ。こんな真似を何度も繰り返した結果、村田がたどり着いた最適解である。
 冨岡に斬られた化け物にそうっと近づく。
 ぶよぶよの塊は、見ている間にもするすると縮んでいく。数十センチ程度の大きさまで縮んだところで、さらさらと灰になった。
 後に残ったのは、ひとつまみの灰の山。
 ひゅう、と吹いた風が灰の山を吹き飛ばした。
 これで完了だ。村田は額の汗を拭った。
 冨岡は何を考えているのかわからない無表情で、灰の山があったあたりのアスファルトをじっと見つめている。白い頬には何も浮かんでいない。
「他にはいそう?」
「いや」
 冨岡が顔を上げ、短く答える。
「よし、じゃあ帰ろう」
 こくりと冨岡が頷いた。
 村田が手に持っていた袋を差し出すと、冨岡は竹刀を丁寧に包んだ。どこからどう見ても竹刀だ。本物の刃物ではない。しかし、化け物を斬った瞬間、たしかに白刃のきらめきが見えた。どういう仕組みなのか、未だに村田にはわからない。
 近くの家の壁に貼っていた人避けの呪符を剥がす。冨岡がどこかから調達するこれも、どういう仕組みなのかさっぱりわからないが、そういう効果があるということだけ知っている。
 すべての呪符を回収し、念のため、辺りを警戒する。誰もいない。目撃者なし。
 後始末も済ませた。
 その間、冨岡はぼんやり突っ立っているだけだ。先ほどの立ち回りが嘘だったように、ぱちぱちと瞬きして道路の先を見ている。
 等間隔に並んだ街灯が、誰もいない住宅街の道路を照らしている。
「ていうか俺、今回も必要なかったよね?」
 今夜も村田は何もしていない。冨岡に助けられて隠れていただけだ。ちょっと泣きたい。ていうか帰りたい。お布団が恋しい。
「なんで俺がこんな目に……? そりゃあ、後始末とかするけどさ……一人じゃ大変だろうけどさ……俺じゃなくてもよくないか?」
 冨岡が首をめぐらせ、村田に視線を向けた。
「やめてもらっても構わない」
「別にそうは言ってないだろ」
 村田はちょっと苛立ちながら言った。これは軽い自己嫌悪なのだ。何もできない自分への。
「村田がいてくれて助かる」
 冨岡に曇りなき眼(まなこ)で見つめられた。その目に、村田はひどく弱かった。だから、頼まれてもいないのにこんなわけのわからない、逃げ出したくてたまらない仕事をずるずると続けてしまうのだろう。
 ――夜な夜な町中を徘徊しての怪異退治。
 それが、村田と冨岡の小さな秘密である。


02



 あらかた桜の散った四月中旬。戦前に建てられたという古めかしい校舎を背景にした葉桜の下で、村田は空を見上げた。
 中高一貫校、キメツ学園高等部。村田はここの用務員をしている。
 今日は気持ちのいい快晴だ。昨日見たぶよぶよの化け物が夢だったみたいに、何事もなかったかのように日常が戻っている。
「おはようございます!」
「おはよう」
 校門の前を掃除していると、生徒たちが挨拶してくる。みんな行儀がよい。
 ――ああ、愛しい日常。なんて素晴らしい。
 感慨にふける村田の耳に、男の冷たい声が飛び込んだ。
「佐々木、スカートが短すぎる」
 冨岡だった。昨晩、一緒に化け物退治をしていた時と同じ青いジャージを着ている。手には竹刀。
「ええ、これくらいいいじゃないですか!」
「だめだ」
 女子生徒が唇をとがらせ、腰で折っていたスカートを長く伸ばす。膝上まで伸ばしたところで、ちらりと上目遣いで冨岡を見上げた。
 冨岡の隣に立つ男子生徒も冨岡を横目で窺っている。
 キメツ学園の風物詩、毎朝恒例の服装チェックだ。校門の前には体育教師と風紀員が立ち、登校する生徒の服装をチェックする。これを担当する冨岡は非常に厳格なため、大半の生徒には恐れられている。
 冨岡もまた、キメツ学園の教員だった。担当科目は体育。剣道部の顧問でもある。生活指導を兼ねており、毎朝、風紀委員と共に校門の前に立っている。深夜に化け物と大立ち回りを演じていた気配は欠片もない。
「まあいいだろう、次」
 どうやら、膝上丈で妥協したようだ。
「あいつもよくやるよな……ほんとに人間か?」
 村田はあくびをかみ殺しながら独りごちた。いくら体育教師で鍛えていると言っても、平然と立っている姿を見ると、身体のつくりが違うのだろうかと考えてしまう。
「そろそろ授業が始まる。戻っていいぞ」
 冨岡が隣に立っていた風紀委員の男子生徒を帰らせた。
 ――そろそろか。
 村田は箒を握りしめ、息を殺した。
 始業時間が近づき、人の流れが途絶えた頃、その生徒はやってくる。
「竈門、そのピアスは外せ」
 竹刀を持った冨岡の冷徹な声が青空の下に響いた。春風が吹いて、青ジャージを着た彼の長い黒髪が揺れる。無造作に束ねられた髪が風に乱されても、一向に気に留めない。能面のごとき顔が無表情に生徒――竈門炭治郎を見つめる。
 炭治郎の耳元で、花札のような耳飾りがからりと風に翻った。
「おはようございます冨岡先生! すみません嫌です!」
 炭治郎は元気よく即答した。
「校則違反だ。外せ」
 冨岡が淡々と言った。
 既に何度目かのやりとりだった。
 冨岡が携えていた竹刀を地面に突き立てた。仁王のような立ち姿に、たいていの生徒は恐れをなしておとなしく従うだろう。だが、炭治郎に引くという選択肢はないようだ。
「はい! 知っています!」
 はきはきと返答した炭治郎は、さっと身をかがめ、冨岡の脇をすり抜けた。
 とっさに出た冨岡の手が腕を掴む前に、炭治郎は校門をくぐる。
 無言で眉をほんの少しだけ動かした冨岡が、竹刀を肩に担いで炭治郎を追いかける。
 振り向かず、炭治郎は走り続ける。校門を入って右に折れ、銀杏の下を駆ける。
 冨岡が宙で竹刀を振り回した。炭治郎は気づかない。
 そのせいで遅れた冨岡を振り切り、炭治郎は突き当たりで左に折れた。その先には生徒用の下駄箱がある。
 冨岡も左折する。
 村田の視界から二人が消えた。
「今日もだめかあ……」
 村田の視界の中で、冨岡の竹刀が叩き潰した黒いもやがスウッ……と消えた。


          *


 実家のパン屋――かまどベーカリーを手伝って毎朝ぎりぎりに登校する炭治郎には、朝の服装チェックは難関だった。
 毎朝五時に起床して、母と二人で店の準備。この時期は、まだ夜が明けきっていない。
 材料を量り、生地をこね、発酵させる。オーブンを温めて、パン生地を焼く。
 炭治郎の後に起きてきた妹の禰豆子が朝食を用意し、下のきょうだいたちに食べさせる。炭治郎自身はパン作りの合間に朝食を取り、学校へ行く準備をする。焼きたてのパンを店に並べたら、もう登校時間になる。
 今日も慌ただしく家を出た炭治郎の耳元で、父の形見の耳飾りが揺れた。
 入学式早々に生活指導の冨岡に目をつけられたせいで、必ず注意されるのだ。すんなり通してもらえないから、走って教室に逃げ込むしかない。
 冨岡の脇をすり抜け、脇目も振らずに下駄箱への道をひた走り、銀杏の下を通り過ぎる。
 何故か突然ペースを落とした冨岡を振り切って、炭治郎は生徒用の玄関にたどり着いた。
 すみやかに靴を脱いだら、下駄箱から上履きをひっつかんで、片手にぶら下げたまま階段を駆け上がる。
 ここまで来ればもう安心だ。
 ちらりと振り返ると、冨岡は生徒用の玄関で立ち止まっている。教師用の下駄箱はこちらにないから、上履きがないのだ。
 土足のままで校舎に上がるわけにはいかないし、靴下で廊下を歩くなんて真似を生活指導の教師が行えるはずもない。
 炭治郎の作戦勝ちである。
 上履きを下ろして廊下で履く。がらりと引き戸を開けて、炭治郎は教室に入った。
「おはよう善逸」
 額に汗を光らせながら、炭治郎は爽やかに中等部からの同級生に挨拶した。
「お前、毎朝よくやるよな……」
 顔を引きつらせた同級生――我妻善逸が呟く。珍しい金髪が日差しに透けている。
「何が?」
「なあ炭治郎、お前本当に新入生なの? なんでそんなに堂々としてるの?」
「やだなあ善逸、二週間前、俺と一緒に入学式に出てたじゃないか。もう忘れたのか? もの忘れが激しすぎるんじゃないか?」
「いや炭治郎がおかしいからな!?」
「そうかな?」
「そうだよ!」
 すっとぼける炭治郎に、善逸が金切り声で反論した。


          *


「炭治郎、なんでそんなに大胆なの!? 冨岡先生のこと怖くないの!?」
「怒ると怖いけど、普段は優しいよ」
「嘘だ! 俺、冨岡先生の優しいとこなんか見たことないんだけど!」
 二階の窓から降ってくる炭治郎と善逸の声に、村田は苦笑した。元気なのはいいことだ。元気すぎるのも問題だが。
 炭治郎の走り抜けた後に漂う黒っぽい残滓を、えいっと箒で叩き潰した。ふわりともやが広がって消える。
 とぼとぼと冨岡が戻ってきた。
「……今日も逃げられた」
「あいつもなかなかやるよな」
 冨岡がわかりづらく眉根を寄せた。それが困っている表情だとわかるのは、腐れ縁の村田くらいなものだ。
「ま、明日もあるさ」
 村田は冨岡の背を軽く叩いた。
 入学してまだ二週間、毎朝の恒例行事であった。

 

03

 

 夢を見る。
 雪にも似た、白い花びらが舞い落ちてくる。ひらひらと、夜闇を切り裂くように。
 月の光が目の前の光景を照らしている。
 うずくまった少年。
 額から角を生やした少女。
 血にまみれた母親と弟妹。
 地に縫いつけられたように、足は動かない。
 視線を落とすと、黒い手が何本も地面から生えている。それらががっちり足を掴んでいる。

 ――踏み越えてはならない。
 誰かが囁いた。

 

         *


「冨岡ー――って、また一人でご飯食べてるのか」
 昼休み。屋上へつながる非常階段に座った冨岡に、村田はため息をついた。
「他人と食べてもつまらない」
「お前が、じゃなくて、お前と一緒に食べる人がつまらないんじゃないか、ね」
 冨岡がこくりと頷く。
 村田はその隣に座った。ひやりとした感触が尻に伝わる。あと固い。何もこんな場所で食べなくても……と思うのだが、ずっとこの調子なので仕方がない。
 村田も弁当の蓋を開けた。昨日の残り物を詰めただけの代物だ。
「ほんと、言葉が足りないんだよお前」
 村田の苦言を意に介さず、冨岡はもそもそとパンをかじった。
「それ、かまどベーカリーの?」
 再び冨岡は頷く。
「冨岡、けっこう好きだよね、かまどベーカリー」
 頷くだけで、冨岡は言葉を発しない。食事中は喋ることができないたちなのだ。
「で、竈門炭治郎はどうなんだ」
 冨岡がパンを食べきったのを見計らい、村田は尋ねた。
「あの耳飾りがよくないものを呼んでいるようだ」
「やっぱりか……」
 村田は煮物のにんじんを箸でつまみながら呟いた。
 この世には人ならざる者――怪異が存在する。
 昨晩の化け物がまさにそうだった。
 冨岡いわく、神、妖(あやかし)、物の怪、はたまた幽霊といった類い――人には成し得ない力を持つものすべてが怪異らしいのだが、冨岡の断片的な説明しか聞いていない村田にはよくわからない。
 冨岡の手伝いをしているが、村田はそういう方面にはとんと詳しくなかった。人ならざる存在が見えるだけの人間なのだ、専門家でも何でもない。
 加えて、冨岡は話すのが苦手だった。
 怪異の中でも、とりわけ害を為すのが鬼と呼ばれるらしい。今まで怪異を退治してきた中で、一度もお目にかかったことはないが。
 ――ともかく。
 人に仇為す怪異を退治して回っているのが冨岡だった。なお、付き合っているのが村田である。
「お前と出会ったのが幸運だったのか、運の尽きだったのか……」
「後悔しているのか」
「いや?」
 村田は軽く答えた。
 高校生の時、村田はそういった怪異のひとつに襲われた。そこを冨岡に助けられた。それを契機に怪異が見えるようになった。以降、冨岡の怪異退治に付き合っている。
 そこそこ長い付き合いであるにも関わらず、冨岡が何故自ら進んで怪異を退治しているのかはよく知らない。聞いてもはっきりと答えないからだ。
 しかし、夜中に一人で怪異退治をしていたら補導されかけたこともある冨岡を放っておくことは、村田にはできなかった。
「お前に出会わなきゃ、今頃死んでるし」
 村田は弁当を食べながら言い切った。別に後悔はしていない。人生、なるようにしかならないのだ。
「ていうかあの耳飾り、何なんだろうな? お守りに見えるのに」
 村田は今朝のことを思い返した。
 黒いもやがまとわりついていたのは、炭治郎の耳飾りだった。花札にも似た、何かの護符のような模様が描かれている。
 炭治郎本人には何も見えていないのだろうが、村田にははっきり見えた。
「怪異があれを狙っているように見える」
「やっぱり?」
 冨岡はぼんやりと宙を見据えている。その視線が、見えない何かを追いかけるようにふらふらとさまよっている。何が見えているのだろうか。ちょっと怖い。
 冨岡がぼんやりとした口調で言う。
「父親の形見と言っていた」
「形見かあ……ますますお守りっぽいのに、そのせいで怪異に狙われているなら本末転倒だな」
 新入生、竈門炭治郎の周囲には、何故だかよくないものがまとわりついている。気づいた冨岡が毎朝祓っているのだが、来る日も来る日もついているのだ。
「父親が生きていた時は、怪異に取り憑かれているようには見えなかった」
「その時は耳飾りもしていなかっただろうし……やっぱりあの耳飾りを外してもらえばいいのか?」
「わからない」
 冨岡がぽつりと言った。
 壊滅的に口下手な冨岡から聞き出したことをまとめると、竈門炭治郎には確実に何かが取り憑いているが、一体それの正体が何なのか、冨岡にもわからないらしい。ただ、常に黒いもやがまとわりついている。
 村田も冨岡も高等部に勤めているから、中学生だった頃の炭治郎のことはよく知らない。
 だが、目の前で襲われかけている人間を見捨てるほど非道でもない。
「そういえば、今朝もかまどベーカリーに行ったんだろ? どうだった?」
「……特に何も」
 去年、村田と冨岡がキメツ学園へ赴任した頃、ちょうど炭治郎の父が亡くなった。それからずっとかまどベーカリーへ通っているらしい。何故そんなに炭治郎を気にかけるのか聞いても、曖昧な答えしか返ってこない。
「となると、竈門炭治郎本人を狙っているのか」
「おそらく」
「しばらく警戒するしかないな」
 冨岡は頷いた。
「とりあえず、見かけたら殴る」
「……暴力はやめよう? お前PTAから目をつけられてる自覚ある?」
「殴ればだいたい消滅する」
「そうだけど……いやそうじゃない」
 村田は頭を掻きむしった。言い訳するこっちの身にもなってみろ。

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