海へ行こうと言い出したのは五条先生で、なんだかんだ僕もみんなもそれに同意したから先生だけの責任じゃないんだけど、それでもこうなるとは思っていなかった。
 ――いや、嘘です。本当はもしかしたらこうなるかもって思ったし、そう先生に言ったんだけど、先生があんまりにも楽観的だからまあ大丈夫かなって、うっかり僕も思っちゃっただけです。
 だから僕も同罪だ。
「硝子ー、急患ですー」
 言葉に反して緊張感のない声で先生がドアをノックなしに開けた。非力な僕と違って、体格のいい先生は息も切らしていないのが少し羨ましい。
「今忙しいから他当たって」
 言葉のキャッチボールを剛速球で投げ返すみたいに、家入さんがすげなく断った。即答したあたり、先生との付き合いの長さを感じる。というか僕たちには目もくれない。ずっと机の上の何かの書類を見ている。本当に忙しいところにお邪魔してしまったのかもしれない。
「ええ? 冷たくない? 可愛い生徒だよ?」
 構わず先生は部屋にずんずん入った。
 僕は入り口に立ったまま、息を整えている。入学した時より体力はついたと思うけど、一日遊び回った後にこれはちょっときつかった。
「私は教師じゃない」
「ええー高専で働いてるんだから教師みたいなもんでしょ」
「違うっつの」
 いかにも大人の女性という感じの家入さんは、冷たいというより関心のない顔で書類から目を上げた。僕と先生を見て、それから僕たちが床の上を引きずるように運んできた〝彼〟で視線を止めた。数秒じっと見つめ、先生を見つめ、僕を見つめ、そして口紅を引いた赤い唇が開いて、
「……それ、何してたの?」
「あの、ちょっと海で……」
 僕はおずおず答えた。
「入ったの? そいつも?」
「はい……」
「やー、憂太が海に行きたいっていうからみんなで海行ってきたんだよ。一年生全員で」
 なんかちょっと話を歪曲されているような気がする。僕そんなこと言ったっけ? まあいっか。行きたいと思ったのは間違っていない。
「本当はちょっと海辺で遊ぶくらいのつもりだったんですけど、うっかり砂浜で転んじゃって……」
「ちょうどそこに波が来てさー、こう、勢いよくかぶったんだよね」
「今何月か知ってる?」
「知ってるけど海行きたかったからいいじゃん」
 呆れたように家入さんは口を閉じた。書類は完全に手放している。
「すみません、お仕事のお邪魔をして……」
 空気に耐えきれず僕が謝ると、家入さんはこちらに向き直った。
「五条に似なくていい子だね」
「あ、ありがとうございます……?」
「でもそれは怪我じゃないから他当たって」
「硝子ここに待機しているだけじゃん! けち!」
「待機してるのも仕事なんだけど」
「でも暇でしょ」
「暇じゃない」
 言い合いを続ける二人をよそに、僕は沈黙し続ける彼の巨体を見下ろした。
「パンダくん、ごめんね、僕のせいで……」
 彼――巨大なパンダのぬいぐるみみたいなパンダくん(この言い方は我ながら意味がわからない)は、ずっと沈黙している。高専に戻ってきてからずっとこうだ。主にパンダくんが原因で電車に乗れないから伊地知さんに車を出してもらって海に行ったけど、高専に戻ってみんなが降りた後、砂まみれの座席にため息をついた伊地知さんを見てからショックですっかり落ち込んでしまった。みんな多少なりとも服に砂がついていたけど、パンダくんは特に身体が大きいし、毛に砂がつきやすいから……。
 改めて見ると、海に入ったパンダくんの毛並みは、見るも無残なことになっていた。特に転んで砂浜にダイブした腹のあたりはけっこう汚い。僕と狗巻くんと真希さんで頑張って砂を払い落としたけど、全然だめだ。それで気力を失って本物のぬいぐるみみたいに動かなくなったパンダくんを、僕と先生でここまで連れてきた――というよりほぼ引きずってきたのだった。中身がぎっちり詰まっていてけっこう重い。パンダくんの中身は綿でいいのかな。僕二人分くらいありそう。――さすがに言い過ぎかな?
 僕はパンダくんの手をにぎにぎした。表面はだいぶ乾いてきたけど、どこか湿っている。ぺたりと寝た毛は触り心地が悪い。いつもとは大違いだ。パンダくんはいつも毛の手入れを欠かさないから、こんなんじゃ、かなりショックだろうな。
 家入さんがこちらを向いた。
「だからさ、なんでここ来たの? それ、反転術式効かないよ。たぶん。やったことないけど」
「そうですよね……」
 やったことがある方が驚きます。
 あははと無意味に笑って、僕はパンダくんの固まってボソボソになった毛並みを撫でた。本当にボソボソとしか言いようがなくて、普段あんなに手入れした柔らかな手触りが嘘みたいだ。いつもいい匂いがするのに今日は磯の香りがする。あ、なんかざらざらする。砂かな。というか僕も髪の毛がなんかじゃりじゃりするし、顔がべたべたする。早く風呂に入りたいなあ。
 あれ、なんで家入さんのところに来たんだっけ。
 僕が目的を忘れかけたところで、五条先生が言った。
「だから硝子、ドライヤー貸して」
 家入さんが眉をひそめた。
「僕、髪短いからドライヤー持ってないし」
 家入さんの眉間の皺が深くなった。たぶん真希さんから借りればいいのに、と思っているんだろう。でも真希さんにはドライヤー持ってないから無理、と断られたのだ。普段は寮のお風呂についているドライヤーで乾かしているらしい。
 ちなみに僕も狗巻くんも持ってない。高専のドライヤーは備品らしく安物なのか風量がいまいちだけど、髪の短い男子は特に問題ない。あんなに髪の長い真希さんは大変そうだ。
「その大きさなら乾燥機入れた方が早くない? 高専(ここ)にあったでしょ、でかいやつ」
「たしかに」
 先生が頷いたところで、
「おい悟! 俺を何だと思ってるんだ!」
「わっ」
 ずっと本物のぬいぐるみのように沈黙していたパンダくんが突然起き上がった。引きずられて僕もよろめく。
「え、ぬいぐるみ?」と先生が首を傾げた。
「違う! いや違わないけど!」
「先生、それはちょっと……」
「身体はぬいぐるみなんだから、リンスでも使えばさらさらになると思うけど」
 と家入さん。こういうところは先生と似ている。
「いやあ、こんなに大きいと乾かすのが大変でさー。だから先に高性能のドライヤーを」
「それで私のところに来たの?」
「そう。硝子、持ってるでしょ。なんか高いやつ。めちゃくちゃ風が強くてマイナスイオンとか出るやつ」
「なんで知ってるの? 気持ち悪い」
「この前買ったって自分で言ってたじゃん。すぐ乾くし髪がさらさらになるって」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「え、私五条にそんなこと話したの? ていうか覚えてるのキモ……」
 そういえばそうだった。いざ風呂に入ろうとした時に、パンダくんが言い出したんだった。生乾きはいやだって。わかる。ぬいぐるみって乾かすの大変だよね。なかなか乾かないと臭いもするし。妹のぬいぐるみを洗濯した母が文句を言っていたのを思い出す。結局あれはどうしたんだっけ?
「四人もいるんだから全員でドライヤーかければいいでしょ。私の使ったって乾かないよ」
「四人? それ僕も数に入ってる?」
「当たり前じゃん。先生なんでしょ」
 四人がかりでタオルでパンダくんを包み、水分を拭った後、ドライヤーでパンダくんを乾かす。ごうごうと鳴るドライヤーから出る温風が四方からパンダくんに浴びせられる。四人でもそれなりに時間がかかりそうだ。
 その光景を想像したのか、家入さんが笑い出した。
「ていうかドライヤーで乾かすの? もっと……ふふ、他に……ふ、なんかあったでしょ……」
「ちょっと硝子何笑ってるの! 憂太も何か言ってよ!」
「いや、僕も家入さんのところに来る必要はないと思ってましたけど。パンダくんは?」
「早く風呂に入りたい」
「こ、この裏切り者ー!」
 僕の肩を掴んだ先生の顔を見て、僕はようやく気がついた。
 ――なんだ、この人、自慢したかっただけなんだ。
 僕の指輪をつけた左手を掴んでクラス中に見せびらかしていた里香ちゃんのことを思い出した。子どもの指には大きすぎる指輪はいつもくるくる回るし、油断するとすぐに指から抜けてしまうから、僕はもらった後もつけなかった。失くしたらそれこそ大変だ。それを里香ちゃんはめざとく見つけて、どうしてつけてないの⁉と詰め寄ってきた。だって大きくて失くしそうになるし……と僕が言うと、ずっとつけてよ!と怒るから、仕方なく里香ちゃんと一緒にいる時だけ嵌めていた。
 自分から指輪を嵌めるようになったのは、里香ちゃんが死んだずっと後だ。
「パンダって普段風呂入ってるの?」
「いや、ファブリーズ。乾かないし」
「自分でスプレーしてるの? ウケる」
「いちいち腹立つなこいつ」
「そうだ硝子、このパンダの毛並み、おもしろくない? ちょっと触ってみ? 独特のボソボソ感だよ」
「お前何しに来たんだよ」
 と言いながら家入さんが手を伸ばすし、パンダくんは抵抗しない。
 先生は僕たちと海に遊びに行ったのを自慢しに来ただけです。
 ――なんて恥ずかしいから僕は言わない。パンダくんもわかっているだろうけど言わない。
 でも嬉しくて、僕はこっそり笑った。握りしめたパンダくんの手は、僕の体温が移ってほんのり温かかった。

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