初出:2017/7/2 スパイのお仕事2 コピー本

 誰かにつけられている気がして、陸軍参謀本部所属・佐久間中尉は振り返った。
 雑踏のただ中である。行き交う人々は、突然立ち止まった佐久間を不審そうに見ながら通り過ぎた。
 特に何も不審な点はない。よく通る道はいたって普段通りだ。
「……気のせいか?」
 首をかしげつつ再び歩き出そうとした佐久間に、子どもがぶつかった。男の子は手に持っていたおもちゃを取り落とす。かしゃん、と軽い音がした。
「あっ、すみません」
 すぐに母親らしき女性が謝った。
「いえ、大丈夫ですよ」
 佐久間は笑って、おもちゃを拾って子どもに渡した。
「ほら、お礼は?」
 母親に促され、ぼんやりと佐久間を見上げていた子どもは大きな声で元気よく礼を言った。
「ありがとうございます!」
 佐久間はくすりと笑って、子どもの頭をなでた。
 先ほど抱いた違和感は、すぐに忘れてしまった。

 所用から帰った佐久間は古い建物の門をくぐった。
 夕暮れ時だ。橙色の陽光が斜めに差し込み、長い影を作っている。
 九段坂下にある、古びた二階建ての鳩舎を改造した〈大東亜文化協会〉。表向きは、ただの古びた建物である。
 その正体は、帝国陸軍内に秘密裏に設立されたスパイ養成学校――通称・D機関。全国から集めた精鋭揃いの青年をスパイとして育成するための施設だ。一般の大学を卒業した〝地方人〟から学生が選抜される事実が判明した際には一悶着あったが――ともかく、設立者たる結城中佐自らが教鞭を執るそこで、佐久間は陸軍参謀本部との連絡係として在籍している。
 ――最も、機密だらけで外部の人間を安易に入れられないせいで、事実上の事務員と化しているが。
 入ってすぐ、扉が開けっぱなしの食堂を佐久間がのぞくと、数人の学生がいた。D機関の第一期訓練生、すなわちスパイ候補生である。佐久間はここで八人の学生と共同生活を送っている。
 全員が素性を徹底的に秘匿され、普段は偽名で生活している。偽の経歴を皮膚のようにまとった彼らは、陸軍士官学校を卒業した佐久間には理解しがたい論理で動く。何を考えているかわからないなりに、彼らと付き合い方を覚えてしまった。
「あ、佐久間さん、お帰りなさい」
 ひときわ小柄な青年――実井が振り向いた。
「ちょうどよかった、手紙を預かっています」
「手紙? 俺に?」
 実井が封筒を見せた。花柄の透かしが入った、舶来の封筒だ。いかにも高級そうである。柄を見るに、差出人は女性だろう。
「他に誰がいるんです」
「いや、ここには妙齢のご婦人から手紙をもらいそうな奴しかいないだろう」
「やだなあ、そんなの佐久間さんくらいですよ。尾行されて拠点を突き止められるなんて馬鹿な真似、するわけないじゃないですか」
 謙遜するかと思いきや、貶(けな)された。
 ――悲しいことに、今に始まったことではない。八人の〝化け物〟に囲まれて生活する凡人・佐久間は耐えるしかないのだ。
「……本当に俺宛なのか?」
「さきほどご婦人が、中に入ろうとした僕にこれを託していったんですよ」
「俺も見た。可愛らしい女性だった」
 皿を拭いていた小田切が返した。福本の代わりのように厨房に立っている。福本は夜遊びに出かけたのだろうか。よく見れば、実井と小田切も外出する用意をしている。
 今日の夕飯にはありつけなさそうで、佐久間はひそかに肩を落とした。
「先日、甘味処でご一緒なさったのでしょう? そう話していましたよ」
「甘味処って……」
 どの甘味処を指しているのかわからない。
 学生たちにはひた隠しにしているが、佐久間は甘味が好きだ。休日にはしばしば話題の甘味処をめぐっている。故に、どの店のことかわからない。だが、その女学生じみた趣味はなんとか隠しおおせているのだ。迂闊に口にすると露見してしまう。佐久間が考えあぐねていると、
「ただいまー」
 戸口から声が聞こえ、佐久間は振り向いた。
 田崎と神永だった。
 神永が、目ざとく佐久間が手に持っているものを見つける。
「あっ、佐久間さん、手紙なんかもらっちゃって、ご婦人からじゃないですか」
「おや、それは英国のS社のものですよ。裕福なご家庭と見えますね」
 手紙を一瞥した田崎がこともなげに言った。
「ねえねえ、見せてくださいよ」
「俺の手紙なんだから、貴様に見せる義理はない」
「えー、佐久間さんのけち」
「けちで結構」
「ところで佐久間さん、夕食はどうなさるんです?」
 食器棚の整理を終えた小田切が佐久間に声をかけた。
「ああ、そうだった。今日は福本はいないんだろう?」
「そうです。今日は誰も帰らない予定でしたから、何も用意されていませんよ」
「俺も帰らない予定だったんだが、予定が変わってな……参ったな、外で食べてくるか」
「俺も夕食どうするかな」
 神永が腕を組んだ。
「今日の約束の相手はどうしたんだ、振られたのか」
「違うって。たまたま用事ができたからなくなったんだよ。そういう田崎だって」
「俺は鳩の様子を見に寄っただけだ」
「……一度訊いてみたかったんだが、田崎は鳩とご婦人、どちらの優先順位が上なんだ?」
「答える必要を感じないな」
「おい、それはどういう意味――」
 引きつった顔の小田切を気にも留めず、涼しげな顔で田崎は階段へ消えた。屋上にある鳩舎へ向かったのだろう。
「じゃ、僕は出かけてきます」
 すたすたと歩き去る実井を見送り、神永はぽん、と手を叩いた。
「こうしましょう。佐久間さん、一緒に食事に行きましょうよ」
「はあ?」
 佐久間は眉根を寄せた。
「じゃあ俺も」
 さりげなく小田切が手を上げる。神永はともかく、D機関の学生にしてはおとなしい小田切を無下にするのは、なんとなく罪悪感がある。
「しょうがないな」
 佐久間は手紙を懐に仕舞い、神永と小田切と三人で外出した。

 神永のおすすめの店で(すぐに女性に声をかけようとする神永にあきれつつ)食事を済ませ、佐久間たちは大東亜文化協会へ戻った。
 一階から明かりが漏れている。先に帰った学生がいるようだ。
「佐久間さん、おかえり」
「今日は神永と小田切も一緒か?」
「どうだ、うらやましいか」
「いや全然」
「なんで俺にだけ冷たいんだよ!」
「そりゃあ……胸に手を当てて、今までの行動を振り返るんだな」
 カードをさばきながら、波多野があきれたように言った。また例のカードゲームをしている。
 佐久間は目をそらした。あれにはいい思い出がない。
 波多野に言われるまま、神永は胸に手を当て、しばらく目を閉じた。
「……何の心当たりもない。俺はいたって普通に、慎ましく正直に毎日を生きている」
「嘘つけ」
「あきれた厚顔っぷりだ」
「まあ、己の欲求に正直に生きているのは嘘じゃないな」
 がやがやと途端に騒がしくなる。化け物揃いの学生といえど、そこら辺の大学生のような気安さが多少なりとも感じられて、佐久間は微笑ましくなった。
「俺は先に戻っているぞ」
「おやすみなさい」
 食堂でカードゲームに興じる学生たちを置いて、佐久間は引き上げた。
 懐に仕舞っていた手紙の存在を思い出し、佐久間は寝室の寝台に腰掛けた。
 きちんと扉が閉じているのを確認し、手紙を開く。
 はらはらと薄紅色の花びらが舞い落ちた。手紙に同封されていたらしい。それに、なんだかいい香りもする。香を焚き染めてあったようだ。細やかな気遣いに舌を巻きつつ、佐久間は手紙を読んだ。
 中には、和歌が一首だけ記されていた。
 和歌に特別造詣が深いわけではないが、どこかで見たような和歌だ。たしか、この内容は一目惚れした相手に宛てた歌だった。となるとこれは――

 ――もしや、恋文なのでは……?

 稲妻のように、可能性が脳裏を走った。
「そんな馬鹿な……」
 顔も知らない相手からもらったところで、嬉しさよりも不審さが先立つ。相手は佐久間を店で見かけたらしいが、佐久間に心当たりはない。
 もしかしたら、何かの悪戯かもしれない。むしろ、そのほうが可能性が高い。D機関の学生たちでもあるまいに、ずいぶんと手の込んだ悪戯だ。
 だが、見るからに高級そうで上品な手紙を捨てるのも忍びなかった。現時点では、実害があるわけでもない。
 しばらく考えた後、手紙は佐久間の机の引き出しに仕舞われた。
 D機関の連中に中身を読まれそうだなと一瞬考えたが(なにせ彼らは開封跡を残さずに手紙を盗み見る技術を習得している)、そもそも共同生活を送っている時点で無駄な心配だった。佐久間には隠し事などできやしない。
 ――明日、絶対にからかわれるだろうな。
 諦めの境地で、佐久間は寝間着に着替えた。

     *

「おっ、また手紙ですか」
 興味津々にのぞこうとする神永を押しのけ、佐久間は二通目の手紙を開封した。一通目の時と同じく、たまたま大東亜文化協会にいた福本が預かっていたものだ。
 中には、再び和歌が一首。振り返ってくれない恋人へ宛てた切ない恋の歌だ。
「ラブレタア、というやつですね」
「佐久間さんも隅に置けませんね」
 甘利が上からのぞきこんできた。
 佐久間の予想通り、手紙のことは瞬く間に学生たちの知るところとなった。誰が手紙を盗み見たか知らないが、意外と噂話が好きな連中である。
「返事は書いてます?」
「返事も何も、まだ会ったことはないし、名前も住所も知らないんだぞ」
 佐久間は顔をしかめた。
「ふうん、大胆な女性ですね」
「実井と小田切と福本は顔を見ているんだろう? どうだった?」
 甘利の言葉に、三人は顔を見合わせた。
「教えたらつまらないじゃないですか」
 実井がにっこりと笑った。福本と小田切も微笑んでいる。
「まあ、それもそうだな」
 甘利はあっさり追求をやめた。
「というわけで、佐久間さん、ご自分で頑張ってください」
「……ああ」
 佐久間に日夜、入れ替わり立ち替わり悪戯するD機関の学生が、素直に教えてくれるわけがない。期待していたわけではないが、こうもはっきり断られると少し悲しい。
「じゃあ、予想してみましょうよ」
 神永が自分のことでもないのに、うきうきと提案した。すかさず実井が乗る。
「正解者には、福本が新作の冷菓を作ってくれます」
「おい実井、何を勝手に」
「俺は構わないぞ、小田切」
「福本がそう言うなら……」
「田崎はどう思う?」
「うーん、手紙の方、後先を考えないところ、ずいぶんとお若いのでは?」
「俺は、恋に恋する女学生だと思う」
「ははあ、ロマンチックな恋に憧れるあまり、店でたまたま見かけた佐久間さんに手紙をよこした、と」
「それでここを突き止めたなら、なかなか才能があるな」
「結城中佐は女を採用しませんよ」
 憶測を並べる学生たちをよそに、佐久間は忙しく頭を回転させていた。
 大東亜文化協会へ手紙を届けたということは、佐久間がつけられていたと感じたのは気のせいではなかったということだ。一通目の時に実井に言われたとおり、迂闊だったと言わざるを得ない。実井、小田切、福本はうまくごまかしてくれたはずだが、機密情報の塊のようなD機関の拠点へ近づかれるのは甚だ不都合だ。
 ――こうなっては、本人に会ってなんとかしなければ……。
 佐久間の心配をよそに、その日は夜遅くまで手紙の主の正体で盛り上がった。

「佐久間さん、どこかへお出かけですか。珍しいですね」
「ああ、ちょっとな」
 同じく出かける準備をしている甘利が朗らかに言った。
 午後の自由時間である。
 軍組織としては、D機関は破格の自由が学生たちに与えられていた。基本的に授業は午前中だけ、休日もしっかりと確保されている。門限もなく、学生たちは自由きままに過ごしている。
 しかし、佐久間のほうはそうもいかない。平日の午後は、D機関の授業計画を確認したり、武藤大佐への報告書を作成したり、その他、やる人のいない雑用を片付けている。
 金曜日には武藤大佐の元へ赴くが、月曜日から木曜日はあまり外出しない。
 だが、手紙は佐久間が出かけた隙を狙って、大東亜文化協会に届けられている。佐久間が外出するのを見計らっているに違いない。
 佐久間が外出しなければ、手紙の主は現れないだろう。ちょうど、足りない備品があったのだ。これを機にあの手紙の主を突き止めたい。
 ひそかな決意と共に、佐久間は外出した。

 用事を果たし、佐久間は帰路についた。
 尾行してくるかと思ったが、そんな気配は一切ない。
 ――そううまくはいかないか……。
 当てが外れて、佐久間はいささか落胆した。
 赤みの強くなった日差しの下で、佐久間と同じように帰路につく人が多い。ひとかたまりになった女学生がすれ違う佐久間をちらりと見つつ、何やら盛り上がっている。
「何をやっているんだろう、俺は……」
 腕に抱えたD機関の備品(文房具その他)と食材(出かける前に福本に頼まれた)がぐっと重さを増した。
 疲れを感じ、佐久間はぼんやりと今日の夕食へ思いを馳せた。
 いつになく覇気のない足取りで歩いていると、黒髪の少女とすれ違った。ふっと甘い香りが漂う。
 佐久間は振り返った。つい最近、どこか嗅いだことのある香りだ。
 袴にブーツ、赤いリボンを三つ編みに結んだ背の高い少女は真っ直ぐに背筋を伸ばし、歩いていく。どこかの女学生のような出で立ちだ。
 ――これはたしか、あの手紙の――。
 視界の隅で、黒髪が曲がり角の向こうへ消えた。
 一瞬動きを止めた後、佐久間は迷いなく走り出した。
「おい、君っ、ちょっと――」
 少女が走り出した。黒髪の三つ編みとリボンが揺れる。
 佐久間は確信した。彼女が手紙の差出人なのだ。学生たちの憶測は、あながち間違いではなかったらしい。
 それにしても、結構な早さだ。頑強な肉体を誇る陸軍中尉がなかなか追いつけない。
 少女にしては背の高い身体で、器用に人混みをすり抜けるように走る。佐久間のほうはそうもいかず、人にぶつかっては謝りつつ後を追いかける。
 みるみるうちに引き離される。
 ――逃がしてたまるか。
 佐久間から逃げようとした時点で、手紙の主に違いない。
「きゃっ――」
 軽い悲鳴が上がった。少女が女性とぶつかりそうになったのだ。少女は類(たぐ)い稀(まれ)な反射神経で、倒れそうになる女性の腕を掴んで支えた。
 ――好機だ。
 佐久間は一気に距離を詰めた。
 少女はすぐに女性の腕を放し、再び駆け出した。横顔に焦りが見える。
 次の曲がり角の先は行き止まりだった。逃げ場はない。
 よし、追いついた、と思った瞬間、
「は⁉」
 少女は袴をたくし上げたかと思うと、自分の身長よりも高い塀を軽やかに飛び越えた。
 袴の裾から垣間見えた白肌が眩しい。不覚にも、佐久間は一瞬見惚れた。
 遅れて黒髪と赤いリボンが塀の向こうへ消え、はっと我に返った。
「おいおい、嘘だろ……」
 なんて運動神経をした女学生だ。袴は比較的動きやすいとはいえ、そこらの女性にできる真似ではない。しかも、成人男性、しかも現役軍人の佐久間に追いかけられて、まだそんな余力があったとは驚きだ。
 しかし、ここで引き下がるのは沽券に関わる。
 佐久間は地図を脳裏に思い浮かべ、追跡を再開した。

 角を曲がる。走る。人混みをすり抜け、時にぶつかりながら、先回りできる道筋をたどり、分岐の少ない路地へ誘導する。
 気づけば、大東亜文化協会の目の前だった。無意識のうちに最もよく知る場所へ追い込んでいたらしい。
 人通りの少ない場所だ。少女も観念したのか、ようやく立ち止まる。
「やっと追いついた……」
 さすがに佐久間も少し息を切らせていた。呼吸を整え、背筋を伸ばす。つかつかと少女に歩み寄った。
 少女は俯いている。ほとんど息を乱していないのはさすがだ。
 ――ふと、妙な既視感を覚えた。
「君、手紙はありがたいんだが、どうしてあんな回りくどいことを――」
 言いかけた佐久間は気づいた。
 少女の口元がうっすら笑っている。
 猛烈に嫌な予感がした。
 少女が顔を上げた。かわいらしい童顔に、大きな瞳。しかし、表情がすべてを裏切っていた。
 ふてぶてしい微笑み。純真そうな女学生には不釣り合いな表情。そして、佐久間の知る人物とよく似ている。
「は、波多野……⁉」
 波多野が黒いかつらを被って、薄化粧まで施していた。
 完璧な女装だった。一見した限りでは、誰も気づかないだろう。女性にしては少々背が高くとも、それを隠して余りある変装術だった。
 おそらく波多野が選ばれたのは、身長だろう。他の学生たちでは背が高すぎる。D機関の学生では、女装しても不自然でないのは波多野と実井くらいだ。その波多野でさえ、一般的な女性より背が高い。
 頭の片隅で妙に冷静にそんなことを考察しつつ、佐久間は息を吸った。一周回って、かえって頭が冷え切っている。
「佐久間さん、引っかかりましたね!」
 突然物陰から現れた神永が、佐久間の肩に手を置いた。
 佐久間が振り向くと、神永は親指を立てて、爽やかな、とてもいい笑顔を浮かべた。満面の笑みだ。端整な顔立ちがますます輝いている。
 それに、ぷつんと糸が切れた。
「……また貴様らか! いい加減に! しろ!!」
「ははは、騙されるほうが悪いんですよお」
 握りしめた拳を振るわせる佐久間からさっと飛び退き、神永は悪びれずに言い放った。
「き、貴様ら、よくも――」
「佐久間さん、学習能力ないですねえ」
「なんだと⁉」
 悪ガキのようににやにや笑って、波多野が身を翻して建物内に駆け込んだ。
「こらっ……、待て!」
 佐久間は慌てて後を追いかけた。

 どたどたと荒々しい足音が数人分、古びた木目板を軋ませながら駆け抜ける。
 食堂からは、一部始終が見えていた。
「今日も平和ですねえ」
「ああ。今日も平和だな」
 実井はおやつをつまんだ。
 向かいに座った福本がお茶を啜った。
 本日のお茶請けはレモン・クッキーである。メリケン粉にバターや砂糖、卵を混ぜて焼き上げ、すりおろしたレモンを加えてある。仕上げに表面に卵黄が塗られており、表面はさくっとした食感が楽しめる。先日、どこぞへ出かけた波多野が持ち帰ったものだ。当の本人は、佐久間と楽しげに追いかけっこに興じている。
 クッキーは、明らかに手作りだった。雛に餌を与えたくなるのか、波多野はよく家庭的な手土産を持ち帰る。
「今度の彼女は料理上手ですね」
「前回はひどかったが、これはなかなか」
「僕もいただこう」
 ちゃっかり三好が加わった。
「あなた、よくもまあ平然とこんなところにいますね」
「気づかない佐久間さんが悪い」
 三好は肩をすくめた。
「手紙を書いたの、三好だろう?」
「そうだけど」
「三好も懲りませんね。尾行の次は偽の恋文ですか」
「楽しいのか?」
「ああ、僕はとても楽しい」
「あっそう」
 実井は興味がなさそうに返事をし、クッキーをもうひとつつまんだ。
「あっ、それ、僕のぶん」
「早い者勝ちです」
「貴様ら、全部は食べるなよ。たしか波多野はまだ食べていないだろう」
 階上から足音が聞こえる。追いかけっこはまだまだ続きそうだ。佐久間は追いかけっこまで含めて遊ばれていることに気づいているのかいないのか。
「佐久間さん、僕が書いたことに気づくかな」
「無理でしょう」
「なんだ、知られたいのか」
「別にそういうわけじゃないけど」
 感情をむき出しにして怒り狂う佐久間の顔は素晴らしい。氏名・経歴から性格まで、偽物だらけのD機関に紛れ込んだ、疑いようのない〝本物〟だからだ。
 どんなに悪戯をされても、常識を知った上で無視するような変人奇人揃いの学生たちと付き合い続けられる佐久間は、自分の貴重さを自覚していない。学生たちにしても、自覚させる気はない。
 そういう、どこか曖昧な関係を楽しんでいる。だから、これからも悪戯はやめないだろう。
 三好はレモン・クッキーをつまんだ。指に着いたクッキーのかすをぺろりとなめる。爽やかなレモンの香りが砂糖の甘さとちょうどいい。
「さて、佐久間さんの分を取っておくか」
 実井がもの言いたげに三好を見やった。
 あまり機嫌を損ねられたら面倒だから――と聞く人もなしに心の中で呟きつつ、三好は福本の持ってきた皿にクッキーを取り分けた。

 今日もD機関は平和である。

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