初出:スパイのお仕事3 無配 

 目が合ったのは偶然としか言い様がない。
 人には言えない手段で潜り込んだ外務省。本来なら裁判にかけられるはずだったが、そこはうまく躱し、再び似たような職に就いた。戦後の処理に追われる混乱の最中、案外簡単に事は運んだ。
 新しいカバーも身体になじんだ頃だった。
 出張先で、見たことのあるような人物を見た。他部署から派遣された職員だ。記憶を探っていると、彼と目が合った。ちり、と指先を焦がす感覚がした。気づかれない程度に眉をひそめていると、彼は目礼を返した。妙な既視感。すぐにそのことは忘れた。
 それを、ひどく後悔している。
「今日から配属になりました。椿(つば)本(もと)です。よろしくお願いいたします」
 出張から戻ってみれば、新顔がいた。出張先で見かけた彼だ。それだけなら気に留める必要はなかった。彼が、彼でなければ。
「えー、椿本君は――の部署にいたんだが、この度うちに配属になりました」
 上司の言葉を片方の耳で聞きつつ、ため息をつきたくなった。
 ――まさか、こんなことになるとは。
「席は――小柴くんの隣」
「はい。……はい?」
 不意に名前を呼ばれ、小柴は思わず聞き返した。
「どうしました?」
「あ、いえ。何でもありません」
「小柴さん、後輩ができましたね」
「そうですね」
 はは、と乾いた笑いがこぼれた。
「よろしくお願いします。小柴さん」
 椿本が丁寧に頭を下げた。自分より小柄な男性の、丸い瞳が見上げてくる。かつて小柴がスパイとして訓練を受けていた頃にもよく見た瞳だ。それが、
 ――よりによって、同僚だと?
 ここまで来ると、作為的ですらある。信じてもいない神を恨みたい。
 椿本を観察するが、彼は微塵も動揺を見せない。ごく普通の後輩だ。一体何歳の設定でいるのか知らないが、ともかく小柴より年下らしい。
 ――いいだろう、貴様がそういう態度を貫くというなら、こっちもそうしてやる。
 小柴も素知らぬ顔をして、普段通りに仕事に取りかかった。
 きりがいいところで、煙草を吸いに廊下へ出る。
 部屋を出ると、少し気が緩んだ。知らず知らずのうちに気が張っていたらしい。さすがに、同僚に彼のような存在がいると気を遣わざるをえない。
 こんな偶然があるとは――と内心で独りごちた。ありえないことではない。小柴――田崎がこの職を選んだように、椿本も選んだだけだ。もともと同じ訓練を受けただけあって、適性も似たようなものだ。にしても、まさか隣の席に配置されるとは……。
 苦笑いが浮かんだ。吸い終わった煙草を灰皿に押しつける。
 ――まあ、なるようになるだろう。気を揉んでも仕方がない。彼とて同じ境遇だ。
 戻ろうとしたところで、椿本がこちらに歩いてくるのが見えた。お疲れ様、と挨拶する。
 すれ違いざま、ささやかれた。
「言うまでもありませんが」
「わかっている」
 口をほとんど動かさずに言葉を伝える。
 言わんとするところはひとつ。――互いの過去を黙っていること。片方が露見すれば、即座にもう片方も終わりだ。一蓮托生だなんて、とんでもない状況に笑えてくる。
 椿本が足を止めた。しげしげと小柴を眺める。
「……なんだ」
「いえ。せいぜい頑張ってくださいよ、先輩」
「どういう……」
「二股かけるのもいい加減にしては? そろそろばれますよ」
 ぎくりとした。
「……誠意を持って対応している。断じて二股などでは」
「女性と遊ぶのは結構ですけど、職場で面倒事は避けてくださいよ。先輩の尻拭いなんてごめんです」
 言葉とは裏腹に、椿本は破顔した。お手本にしたいくらい、いい笑顔だ。ちょっとした不幸な行き違いから(断じて俺が悪いのではない、たしかに誤解を招くような言葉は言ったかもしれないが)修羅場寸前になっている同僚を、心の底から楽しんでいるのだろう。尻拭いをする気などさらさらないくせに。
「あいつ……」
 歩き去る椿本――実井の後ろ姿を見送る。
 こんな調子で、はたしてやっていけるのだろうか。
 先が思いやられてならない。しかし、それもまた、愉快な日常なのかもしれなかった。

旧設定より。
それぞれ別ルートで外務省に潜り込んだ実井と田崎。ばったり現場で鉢合わせて苦々しく思いつつ、口外するなよと釘を刺す。早く転属になれと願うもむなしく、同僚となって仕事をする羽目に。うっかり職場で三角関係を作り出した田崎を軽蔑しながら事の成り行きを見守る実井、こんな奴とまた一緒になるなんて何て俺は不幸なんだ……と嘆く田崎。何にでもなれる彼らだけど、再び同じ道を選ぶこともあるのかなと。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

inserted by FC2 system