初出:スパイのお仕事3 無配

 店じまいを始める頃、決まってその客はやってくる。

 音もなく引き戸から滑り込むように、いつの間にかカウンターに座り込んでいるのが常だった。
 彼がやってくると、店の看板ひっくり返して閉店にする。手伝いの女性を帰した後を狙い定めたかのようにやってくるから、彼とはいつも二人きりだ。
 注文は取らない。その日の残り物を適当に合わせて出す。彼とはそういう暗黙の了解だった。
 平塚は終戦後、料理店で働き始めた。
 焼け落ちた東京、しかしそこで生きる人々はすぐに生活を再開した。飲まず食わずでは生きていけない。街が焼け野原になろうとも、今日を明日を生きていかなければならない。
 引き揚げに混じってしれっと帰国した福本は、露天での商売を始めた。混乱の最中、身分証明など必要ないのは好都合だった。
 平塚が実際に軍で何をしていたかなど、気にする者はここにはいない。たとえ彼がスパイ――通称D機関に所属していたとしても。
 闇市で食材を仕入れ、調理して売る。大した料理は作れなくとも、飢えた人々が次々と買っていく。
 時折現れる摘発を逃れつつ商売を続けていると、幸運にも腕を見込まれて小さな料理店で雇ってもらえることになった。
 折しも、店の場所は霞ヶ関。政府の中枢だ。焼け落ちたこの国を立て直すために、ひときわ人が集まる。日本人だけでなく、GHQも相手になる。彼らの口に合う料理を出せば、繁盛は間違いない。
 その店で働きながら、腕を磨く。料理は機関に所属していた頃からよくしていたが、なかなか楽しいものだった。あの頃はただの偽装(カバー)だった。今では本業になってしまったのは、不思議なものである。
 そして、あれよあれよと言う間に老いた店主から店を受け継ぐことになった。
 カウンター席とテーブルがいくつか。常連がほとんどだ。平塚と手伝いの女性一人と切り盛りしている。
 終戦から五年余り。結城中佐からの再招集、渡英。潜り込んだスパイの追跡、始末。そして、同胞たちとの再会。うち一人の任務を下りる原因となった少女が全員を再会へ導いたのは、笑うしかないだろう。
 わずかばかりの逡巡の末、平塚はここに帰ってきた。もはや、平塚にとって諜報活動は昔の話だ。あの大戦で、平塚のスパイとしての人生は終わった。後始末を終え、するべきことはもうない。
 思えば、平塚にも未練はあったのだ。だから霞ヶ関なんかを選んだのだ。どこでもよかったのに、わざわざ危険性の高い場所を――過去が露呈する恐れがある場所を選んだ。
 活かす機会もないのに、情報を集め続けていた。
 それが変わったのは、最近のことだ。
 客の姿をちらりと見る。いつも地味なスーツを着込み、人混みに溶け込んでしまえば誰も顔を覚えていられない。しかし、帽子の下には案外整った顔があることを知っている。
 ――知っているのだ。
 アジア人には珍しいほどの彫りの深い顔立ち、白い肌。男にしては赤い唇。どれもこれも、見覚えがある。
 適当に合わせたつまみを出す。彼も夕食は済ませているだろう。酒を注ぎ、皿をカウンターに出す。平塚もカウンターから出て、彼の横に座る。
 彼は公職にあるらしい。地位が高いわけではないが、それにしてはいろいろと知りすぎている。彼から身分どころか名前すら明かされたことはなく、すべては平塚の推測だ。外れているとは思わない。
 ぽつぽつと取るに足りない話をする。今日の客が話していたことを、それとなく話に混ぜる。次の法案、内部の動き、水面下で進められる政策。酒と食事はたやすく人の口を軽くする。目の前の料理人が元スパイであることも知らずに。
 外のほうが得られやすい情報もあるのだ。彼がそれを目当てにしているのか、単に平塚の料理に郷愁を覚えているのかはわからないが。
 会話が途切れ、沈黙が場を支配した。
 彼が煙草を取り出し、口にくわえた。
 赤い唇に映える白いフィルターを目の端で捉え、平塚はもう一杯酒を呑んだ。
 かちり、という音と共に小さな灯が彼の手元でひらめいた。ふう、と煙が吐き出される。
「店の調子はどうだ」
「おかげさまで安泰だ」
「そうか」
 とんとん、と細い指が動き、灰皿に灰が落ちる。
「――貴様はずいぶんと楽しそうじゃないか」
 なあ、福本。
 低く、掠れた声で名前を呼ばれる。珍しく、酔いが回っているのかもしれない。
「……その名前は」
「二度と呼ばないさ。貴様も、俺も」
 ならばこれは感傷か。捨てたはずの人間らしさを、いつの間にか取り戻したのだろうか。
 互いの道は分かたれた。平塚は元の名を捨て、ここで料理人として生きていく。
 彼は唯一戻った。かつて存在したスパイ養成機関、その後継たる組織に。風の噂で当時の連絡係を呼び戻したとも聞いたが、真偽のほどは定かではない。
「料理人も向いていたんだな」
「自分でも驚いているよ」
「趣味が高じて?」
「趣味……たしかに、趣味みたいなものだったな」
「割烹着もなかなか似合っていたぞ」
「それはどうも」
 悪くない日々だった。回想してもいいくらいには。
 するりと金がカウンターに乗せられる。帽子を手に取り、彼は立ち上がった。
 今日はこの辺で仕舞いだ。
「またのお越しをお待ちしております」
 口調とは裏腹に、ぞんざいに彼を見送る。立ち上がったりはしない。これくらいの距離感が彼と自分にはふさわしい。
 彼は振り返らず、ひらひらと手を振った。
 きっとまた来るだろう。他の元機関員たち――平塚のかつての同胞たちも。店の場所は伝えていないが、元スパイなのだ、それくらい自力で掴んでくるに決まっている。
 いずれ、あの連絡係も店に来るかもしれない。仲間と呼べるほど親しい関係ではなかったが、幾年を経て再びまみえる。それは――――ひどく心を躍らせる想像だ。
 その感情の動きが、存外、不愉快ではなかった。

福本は本当で料理人になっていたらおもしろいなと。ただの偽装から本業にしてしまうのは運命の悪戯というか、嘘から出た誠というか、結城中佐と機関員たちも影で笑っている。霞ヶ関なら情報収集にも事欠かないし、店には元機関員が入り浸っている。昼間に他の客に紛れてやってきてもいいし、夜にひっそりと二人だけの晩餐会をしているのもいい。でもお互い鉢合わせないようにしているから、すべてを知っているのは実は福本かもしれない。

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