2019年エイプリルフール企画

「わたしは誰の代わり?」
 寝台から言葉を投げつけられた。
 男はシャツを拾い上げながら振り向いた。
「死んだ妻の代わり、とでも言えばいいのか?」
 女が失笑した。
「動揺もしないのね。つまらないわ」
 シャツのボタンを留め、男は顔を上げた。
 洋風に仕立てられた部屋の中、涙の気配もない女が布団にくるまって肘をついていた。嫉妬深い台詞を吐いた唇の口紅はにじみ、けだるい雰囲気を漂わせている。
 さすが、俺が見込んだ女なだけはある。そう胸の内で独りごちて、男は服を身にまとう。次々と衣服を身につける度、余計な感情がそぎ落とされていくような感触を覚える。
 鋭く冴えた意識が部屋中のあらゆるものから情報を拾う。たとえばこの部屋の前の持ち主の痕跡。たとえば寝台の主の抱える、他の男の数。たとえば自分の服に移った夜の残り香。
 男は顔をしかめた。匂いが染みつくのはまずい。女遊びはたしなみでさえあるが、彼の職業上、故意のものをのぞけば痕跡を残すのは褒められた行為ではない。彼が嫌がるのをわかった上で、女はわざと部屋に香を焚いている。
 この女とは何回か会っているが、そろそろ潮時だろうか。
 あまり、彼の好みの女性ではなかった。それでもこの女の元に時折訪れていたのは、彼女が詮索しないからだ。
「賢い女性は好きだよ」
「あら、褒めてくれるの? 嬉しいわね」
「嫉妬されるのは面倒だからね」
「罪深い男だわ。いつか刺されるわよ」
「君もね。あの服の送り主、独占欲が強そうだから気をつけた方がいいよ。情死も厭わない性格だろうから」
「ご忠告、ありがとう」
 赤い唇が歪む。この女だって、幾人もの男を惑わせている。お互い様だ。
 思わせぶりな態度を取って、近づいてきたところを手玉にとる。相手にはこちらから近づいていったように見せかけて、その実、操られるまま引き寄せられているのは向こうの方。飽きたら次の相手に乗り換える。そういう遊び。いつ姦通罪で訴えられるのやら。
「それで、さっきの話だけど」
「さっきの話って?」
「あなたが忘れられない女の話よ」
「その話? もういいだろう」
「女の勘を侮ってもらっては困るわ」
「君は詮索しない女だと思っていたんだけれど」
「詮索じゃないわよ、あなたの困った顔が見たいだけ。それとも、答えられないようなつまらない男なのかしら」
「本当に君は……」
 ため息をついた。やはり、この女と会うのはこれが最後だ。
「昔の女ならいたさ。誰の話が聞きたい?」
「そうね。最初の女がいいわ」
「最初ね……」
「聞くなら、最初と最後がいいでしょ」
「最初の女……」
「思い出せないの? 色男さん」
「別にそういうわけじゃないが」
 ――最初の女。
 姉と呼んだ女がいた。あれに対する感情の名を、彼は決めかねている。
 姉だった。母親代わりだった。年上に憧れる、ほのかな初恋であったかもしれない。
 カーテンの隙間から、昇り始めた朝日が差し込んでいる。眩しい光が部屋に満ちた不健康な空気を駆逐していくようだ。
 これは、ただの遊びだ。女も本気で聞き出そうとしているわけではない。ただの、嫉妬する恋人ごっこ。可愛らしい恋人を装う裏で、冷徹に観察されている。彼女の遊び相手が務まるかどうか。
「だってあなた、わたしのことあんまり好きじゃないでしょう」
「そんなことないよ」
「嘘だわ。あなた、二度と来ないつもりだもの」
 少し驚いて――本当に驚きだった――男はぱちぱちと瞬いた。
「やっぱり君は賢いね」
「でも、賢い女が好きじゃないんでしょう。本当は、どうしようもない男に振り回されて破滅するような女が好きなんでしょう」
「――そうだね、愚かな女も好きだったよ」
 いや、と首を振る。
「好きな女が愚かだっただけさ」
 カーテンを開けると、朝日が目を灼いて、視界が真っ白になった。
 一瞬浮かんだ女の影が、光に溶けて消えた。

(『XX』前夜。書いた時はどうにも気に入らなくて『銃口にくちづけを』に入れそびれた)

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