「家、引き払うんだって?」
 椅子を軋ませながら振り返った硝子が、カップを片手に問いかけた。
 五条は書類をばさりと机の上に放り投げた。勝手に椅子に座る。
「うん。全然戻ってないから、高専に引っ越そうと思って。無駄に家賃払ってるだけだし。高専は部屋が有り余ってるでしょ」
 硝子がカップの中身をすすった。五条が仕事をするふりをして逃げてきたのを、硝子もわかっているが何も言わない。優しさと紙一重の無関心さだ。
「腐るほど金あるくせに。どうせ家事がめんどくさくなったんでしょ」
「それもあるけど――」
 その通りだが、帰らない家というのも虚しいものだ。実際に五条が虚しさを感じているわけではないが、一般的にはそうらしい。ほとんど家に帰っていないことを運転手代わりの補助監督に漏らしたら、憐れみのこもった目で見られた(たぶん新人だったのだろう、自分も同じ運命をたどることをまだ知らない目だった)。
 週に一回、敷居をまたげばいい方だ。出張が多く、こき使われている――と世間一般には映るらしい――五条にとって、家は単なる拠点のひとつに過ぎない。特別な思い入れとも無縁だ。
「――広すぎるんだよ」
 特級呪術師にして御三家がひとつ、五条家当主の人間にふさわしい広い家だった。
 高専を卒業して、実家には戻らなかった。家の人間には嫌な顔をされたが、知ったことではない。様々な〝交渉〟を経て、実家の連中が納得する家を借りたのだが、何ら意味のないことだ。家の主がそこに価値を見いだしていないのだから。
 帰らない家は家ではない。それならホテル代わりにしている高専の方がまだ〝家〟に近い。
 硝子はちらりと五条の顔を見上げた。カップを置く。
「あ、そう。これで一歩、社畜に近づいたね。おめでとう」
「はあ⁉ 硝子には言われたくないんですけど! 硝子だって高専(ここ)に住んでるようなもんじゃん! 僕が社畜なら硝子もとっくに社畜じゃん!」
「喧嘩売ってんの? ねえ、今なら買うけど?」
 隈が常駐する顔が珍しく不快さを表している。徹夜明けだろうか。反転術式持ちは希少なため、交代要員すらほとんどいない。結果として、硝子は高専の医務室に缶詰になっている。元々、呪術高専は全寮制だから設備も整っている。職員が詰めていても何の問題もない。――そういうつくりなのだ。
「ていうか社畜じゃねえし! 帰るのめんどいから高専に引っ越した方が楽なだけだし!」
「そういうのを社畜って言うんだよ。そうやってプライベートも高専にいて仕事と区別つかなくなってくのを社畜って呼ぶんだよ」
「プライベートまで捧げたつもりはないんですけど⁉ 今月家で寝たの七日もあるし!」
「私なんか五日も帰れたんだけど!」
「僕より少ないじゃん⁉」
 叫んで、少し冷静になった。
「……この話題、やめようか」
「……そうだね……」
 無駄に気力を消耗した気がする。社畜自慢をしたところで、労働環境が改善するわけでもない。果てしなく不毛な行為だ。
「ねえ硝子、僕のコーヒーとかないの」
「自分で淹れてきたら」
 硝子が顎でポットを示した。雑な扱いだが、これは心を許している証拠だ。五条が書類を渡すのを言い訳にしているのを咎(とが)めない程度には。
「ところで硝子、前回家に帰ったのはいつ?」
 硝子が卓上カレンダーを見つめ、指を折る。
 両手を使い切ったところで、五条は折れた。
「ごめん僕が悪かった」
「ワンオペ医者を舐めるなよ」
「それさあ、勤務形態おかしくない? 僕が言えた義理じゃないけど」
 硝子が肩をすくめた。
「そんなもんでしょ」
 わかってたでしょ、と硝子の視線が言う。
「そりゃあ、ね」
 万年人手不足なところに、特級呪術師と反転術式遣い。オーバーワークになりがちなのも無理はない。こんな勤怠なのに、特に何の支障もなく働けるお互いの頑丈さが恨めしい。もっと壊れやすかったなら、休ませてもらえただろうか。
 壊れるまで酷使するということは、壊れるまで働き続けるということだ。失敗した前例があるくせに、悪習を改めようともしない。そういう愚かしさを五条は嫌悪している。
 そのくせ、相反する感情を抱く。その感情を振りほどけない。
「家ってさあ、くつろげるところって言うじゃん」
「言うね」
 ――違う。振りほどきたくないと思っているからだ。
「僕さあ、よく考えたらここがいちばん〝くつろぐ〟んだよね」
「……」
 硝子が煙草をくわえた。いつからか紅を差すようになった赤い唇から白い歯が見える。
「でも出てったでしょ」
 罰のつもりか、とその瞳が問う。
 ――くつろいではいけないだなんて、そんな自罰的なことを考えたことはない。ただ、重たく身体にまとわりついて、鬱陶(うつとう)しかった。泳げないほどではないけれど、無視できないほどの重さだった。いっそわかりやすく、苦痛なほど重たければよかった。
「忘れようと思ったわけじゃないよ。でも、ここを出た方がいいと思ったんだよね」 
 高専には思い出が詰まりすぎている。いい思い出も悪い思い出も、何もかも。青春の影を、ふとした瞬間に鼻先に突きつけられる。それが嫌で、近場に家を借りたのだ。
 逃げた、と言っていいのかもしれない。結局舞い戻ってきているのだから、失敗に終わったわけだが。
 何からも逃げることはできない。過去がこの身を織りなす限りは。
「高専に何もかも揃ってるのが悪いんだよ。管理人がいて、食事も出てくるし。生活に必要な物、何でもあるでしょ、ここ」
 言って、硝子が視線を下げた。
 高専に部屋を借りている呪術師は何人もいる。そういう風にできているからだ。呪術師を育成し、呪術師に任務を割り振り、呪術師の生活の面倒を見る――すべてがここで完結できるようになっている。もちろんどこに住むかは個人の自由に委ねられているが、人は楽な方に流れるものだ。
 それが実家を思い出させるから、わざわざ出たのだ。
 ――なのに戻ってきてしまうのだ。
「つまり、マイスイートホーム?」
「高専がスイートホームとか冗談じゃないよ」
「違いない」
 五条は声を立てて笑った。
 硝子が煙を吐き出す。
「五条と一緒に住むとか、やだなあ」
「何同棲するみたいな言い方するの⁉ 部屋は別だからいいじゃん⁉」
「やだよ」
 もう一度、硝子は言った。その声が笑いを含んでいる。
「そういうのは学生時代で充分だよ」

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