学校が終わったら、ランドセルを家の玄関に放り投げて、近くの公園へ走っていく。母は仕事だから、宿題は帰ってからやればいい。どうせ夕方にならなければ、母は帰らない。母が仕事帰りに保育園から妹を連れて帰るまでは自由時間だ。
 吉峰勇人が公園に着いた時、まだ誰も来ていなかった。今日は一番乗りだ。もう少し待てば、友達も同じように公園に集まってくるはずだ。
 近所の公園はあまり大きくない。三方を戸建て住宅に囲まれているから、ボール遊びは禁止されている。狭い敷地に滑り台、ジャングルジム、ブランコ、砂場、鉄棒――よくある遊具が置かれている。今の時期、花壇にはチューリップが咲いている。
 とりあえず誰か来るまで待っていようと勇人はベンチに向かって歩き出し、そこでいつもと違う風景に気づいた。
 ――滑り台の下に、着物を着た外国人の子どもがいる。白い髪が日に透けて、きらきらしている。
 そいつが振り返って、勇人はびっくりした。日に当たったことがないみたいな白い肌に真っ青な瞳がこちらを見つめている。妹が持っている人形みたいな子どもだ。年の頃は勇人と同じくらいだろうか。
「あ、えっと……」
 勇人は口ごもった。だって、日本語が通じるのかわからない。
 子どもは無表情で瞬きした。白い指が滑り台を指した。
「ねえ、これ何?」
 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「これは何?」
 子どもは問いを繰り返した。
 その淡々とした抑揚の少ない声が白い子どものもので、きちんと日本語であったことが、脳に届くまで少しかかった。
「何って……すべり台だけど」
 勇人は少し怯みながら答えた。意味のわからない問いだ。
 子どもがまた瞬きする。
「すべり台? 何するの?」
「何って……そこの上からすべるんだよ」
「なんで?」
「なんでって……」
 子どもが無表情に勇人を見つめる。
 ――なんだ、こいつは。
 勇人は戸惑いながら子どもを見つめた。落ち着きなく身体が揺れるのを止められない。こんな子ども、見たことがない。
 勇人が返事をしないでいると、子どもも黙り込んだ。じいっと青い瞳が勇人を見つめている。あの目に見つめられると、どうにも落ち着かない気持ちになる。
 固まった空気を破ったのは、友達の声だった。
「おい、勇人!」
 いつものように元気よく名前を呼ばれ、硬直が解けた勇人は振り返った。
 日に焼けた肌をした友達――亮太(りようた)が笑いかけてくる。ちょうど公園に着いたところのようだ。
「今日は何する?」
「あ、えっと」
 そこで勇人の様子がおかしいことに気がつき、亮太は怪訝そうな顔になった。
 勇人が視線で白い子どもを示すと、亮太はずかずかと歩み寄った。
「おまえ誰? うちの学校じゃないよな?」
「学校?」
 白い子どもは、抑揚に乏しい声で問い返した。
 勇人もそうっと近づく。近くで見れば、その子どもは勇人より背が低かった。もしかしたら、まだ学校に上がる年齢ではないのかもしれない。白い髪はお年寄りの細くまばらな髪と違って、綺麗な艶がある。青い瞳は空の色というよりも、深海や宇宙のような色に近い。
 髪や目の色といい、着物を着ていることといい、変な子どもだ。
「おまえ、家はどっち?」
「……わかんない」
「ええ? おまえ迷子なのかよ。つか、名前は?」
 ぐいぐい尋ねる亮太に、子どもはその青い目を向けた。睫毛まで白い。
「名前……」
「名前くらい言えるだろ」
「言っちゃいけないって言われてる」
「は? 何それ、知らないおじさんに、だろ?」
 子どもは首を振った。「誰にも言うなって」
「おまえの親、過保護だな」
 呆れたように亮太が言って、勇人を振り向く。
「いいよ、こいつはほっといて、今日は――」
「ねえ」
 白い手がそっと勇人の服を引っ張った。
「あれ、どうやって遊ぶの」
 再び、子どもは滑り台を指さした。

「ここから……すべる?」
 たどたどしい口調で子どもが言った。眉根が寄っている。無表情だったのは遊具に気を取られていたからのようだ。勇人の妹もそうだ。何か知らないものを見ると、そうやってじっと見つめ、勇人や母に説明を求める。この子どもは勇人の妹よりは年上のようだが、勇人よりはひとつふたつ年下のような気もする。
 子どもは滑り台の上に登っていた。その後ろに亮太。スペースがもうないので、勇人は足場から身を乗り出して二人を見ている。
 着物を着ているのに、器用な子どもだった。どう見ても動きにくそうな服装をものともせず、滑り台の上に立っている。
「おまえさあ、その服で遊んで怒られない?」
 じろじろと眺めながら亮太が言うのに、子どもは首を傾げた。
「なんで?」
「だってその服、なんか高そう」
 子どもは自分の着物を見下ろした。
「いつも着てるよ」
「ほんと? いつも着物着てるの?」思わず勇人は口を挟んだ。
「うん」
 お祭りでもないのに着物を着ている家。変わった家だ。お祭りに行く時、勇人の母は浴衣を着せてくれるが、この子どもが来ているのは浴衣とは少し違う気がする。
 同じことを思った亮太が率直に言った。
「変な家」
 子どもは聞こえないふりをした。振り返って勇人の顔を見る。
 青い瞳に心の奥を見透かされたようで、どきりとした。
「ねえ、次は?」
「次は、そこ座って」
「座るの?」
 恐る恐る、子どもは腰を落とした。
「ほら早く早く!」
「ま、待って――」
 少し慌てたように子どもが言った。
 だが、にやにやと笑った亮太が子どもの背を押した。
「あっ――」
 短く声を上げた子どもが、なすすべもなく滑り落ちていく。数秒で下に着いた。滑り台から飛び出した足が地面に着いて、子どもはびっくりしたように固まった。
 笑いながら亮太も滑り落ちる。どん、と座り込んだままの子どもの背にぶつかった。
「勇人も来いよ!」
 言われるまま、勇人も滑った。すぐに滑走は止まり、亮太の背中にぶつかる。三人で滑り台を占有していると、不思議といつもより高揚感があって、勇人も笑い出した。
 子どもはようやく滑り台から立ち上がった。続いて亮太、勇人も下まで滑ってから立ち上がる。
「もう一回やっていい?」
 言いながら勇人たちの返事を待たず、子どもは白い頬を紅潮させ、滑り台の足場を登り始めた。

 何度か滑り台で遊んで、今度はブランコに乗った。
 子どもはブランコも初めてらしい。
 かなり〝変わっている〟家であることに薄々気づきながら、勇人は黙っていた。〝変な家〟の子どもは学校にもいる。でも、あまり関わってはいけないのだ。そういう家にはたいてい、とても恐いお父さんやお母さんがいる。子どもを公園に連れて行ってくれない親はいるのだ。この子どものお父さんとお母さんはどんな顔をしているだろう。やはり白い髪と青い瞳をしているのだろうか。
 ぶらぶらと足を揺らし、ゆっくりとブランコを漕ぐ子どもが、隣で同じくブランコを漕ぐ亮太に顔を向ける。
「これ、楽しいね。初めてやったよ」
 声が弾んでいる。
「初めて? おまえどこ住んでるんだよ。公園もないのか?」
「ない」
「連れてってもらったことないの?」
 子どものブランコを押してやりながら勇人は尋ねた。
「勝手に家から出ちゃいけないから」
「おまえ何歳?」
「教えない」
 さすがに亮太が鼻白んだ。
「名前も歳も言えないのかよ」
「うん」
 何でもないように子どもが頷く。
 やや不機嫌そうな顔をして、亮太はブランコを大きく漕ぎ始めた。古いブランコはぎい、ぎい、と音を立てる。
 ふと、子どもが瞬きした。勇人を見上げる。
「それ、いつまでそのままにしてるの?」
「えっ?」
 子どもの白い指が勇人の肩を指した。
 思わずブランコから手を離して肩に触るが、何もない。
「な、何?」
「見えないの?」
「だから、何を?」
「お父さん」
 子どもが口にした言葉に、どきりと心臓が跳ねた。
「な、何の話?」
 隣の亮太は気づかずに、ブランコを大きく漕いでいる。だんだん揺れる幅が大きくなっていく。ぎい、ぎい、とブランコの軋む音がどこか耳に障る。
 勇人が手を離しても慣性でゆらゆらと揺れていた子どもは、ぴたりと止まった。
「お父さん、きみに会いたいんじゃないの」
「……おまえ」
「それとも、お母さん? 妹?」
 ――さあっと血の気が引いた。
 勇人に父はいない。妹が産まれてすぐ、両親は離婚した。最近、父がよりを戻したがっているのに母が困っているのを知っている。母が働いている隙に、父がこっそり会いに来たことがあるのだ。
 酒に酔うと勇人や母を殴っていた父だった。酒を飲んでいない間は優しい父だった。ある日、生まれたばかりの妹にも手を上げて、母は勇人と妹を連れて家を出た。貧しさや寂しさはあれど、殴られない安心感の方が大きかった。妹はきっと、父の顔を覚えていない。
「今日は帰らない方がいいよ」
 いつの間にか、子どもはブランコから立ち上がっていた。
 青い瞳が勇人の向こうを見ている。何が映っているのか、勇人にはわからない。
 亮太が大きく弧を描いたブランコから飛び降りた。
「見ろよ! 今日はここまで飛べた!」
 答えがないことに不審な顔をして、亮太が振り返った。
「何してんの?」
「もういい。帰る」
 思ったより強い口調になったのを、勇人は後悔した。
 亮太が不思議そうに首をひねった。
「勇人? どうした?」
「帰るのはやめた方がいいよ」
 子どもが無感動に言った。あの抑揚に乏しい声だ。すべり台やブランコに興奮していた様子は綺麗さっぱり消え失せていた。白い頬が紅潮していたのも見間違いだったかもしれない。ここにいるのは、人形みたいに無表情の子どもだけだ。
「おまえに何がわかるんだよ!」
 思わず怒鳴った勇人に、亮太は目を見開いて二人を見比べた。
「勇人? おまえ勇人に何言ったんだ?」
 子どもが亮太に視線を向けた。「きみは見える?」
「何が?」
「……」
 子どもは答えなかった。
 ぎゅっと唇を噛みしめて、勇人は逃げ出した。

 冷え冷えとした心地で、家のリビングで膝を抱える。いつもより早く帰ったから、母と妹が帰るまでまだ時間がある。
 ――あの子どもはなぜ知っていたのだろう。
 何不自由ない満ち足りた生活ではない。だけど、あの父親から離れた母は笑顔を取り戻した。妹は父親の顔を知らないから、何も不思議に思わない。あんな父親なら、いない方がましだ。そうしてだんだん顔を忘れていっていたのに、最近会ったせいで記憶が上塗りされてしまった。それが嫌でたまらない。
 どれくらい経ったか、部屋がすっかり暗くなった。
 のろのろと玄関に放置したままのランドセルを拾って、中身を出す。学校からのプリントをテーブルの上に広げ、母親に渡す必要があるものをより分ける。それから部屋の掃除をする。料理はまだできないが、忙しい母親に代わってできる家事をやる。それが自分の義務なのだと思っている。
 やがて、家の外で足音が近づいて、がちゃりと鍵の回る音がした。
 ――母と妹が帰ってきたのだ。
 出迎えようと、勇人は玄関に向かった。
 入ってきた妹の小さな靴を脱がせてやり、家の中に入れる。今日あったことを舌っ足らずにとめどなく喋る妹の上着を脱がせる。
 買い物袋を下げた母が冷蔵庫に向かう。
 そこで突然、冷たい手に首筋を掴まれた。
「あ――」
 きょとんとする妹の首にも、何かが巻きついている。奇妙にねじくれて、人の手には見えない。ありえないほど伸びた爪が、妹の柔らかい肌に突き刺さっている。
「――、ァ――」
 かすれた声が喉から飛び出して、消えた。
 息ができない。視界が点滅している。首に巻きついた何かを掴もうとするが、とても皮膚とは思えない固い感触がする。妹が手足を振り回しているのが見えるが、何もできない。
 冷蔵庫を閉めた母が血相を変えて駆け寄ってくる。その母の髪を何かが掴む。枯れ木のような、獣のような、手のような細長い何かが母を床に引き倒した。ぶちぶちと髪を引きちぎられながら、母が床の上を引きずられてゆく。
「イッショニ、ク、クラ、ソウ」
 耳障りな笑い声を立てる何かが、父に似た声でわめいている。

          *

『次のニュースです。京都府京都市B区で、子ども二人の遺体が見つかりました。遺体はこの家に住む小学三年生の吉峰勇人くんと、四歳の沙(さ)希(き)ちゃんと見られています。二人は母親と暮らしており、同居する母親の行方は見つかっていません。数日前から、母親は近所の人に「不審者がいる」と相談しており、警察は事件に巻き込まれたものと見て捜索を続けています――』
「どうかなさいましたか、坊ちゃま」
 答えずにテレビを見つめる。アナウンサーが硬い表情で詳細を続ける。
 見られる番組を極端に制限されたテレビで、これは許されているひとつだった。分刻みで定められた一日の、わずかばかりの休憩代わりだ。
 世俗と隔絶された家だったが、世間のことを何も知らないでいるわけにはいかない。とりわけ、何が人の負の感情を掻き立てるのか――どこで呪霊が発生しやすいのかは、さしもの彼も知らなければならない。呪霊が現れるのは世俗のただ中だからだ。
「あれも呪霊でしょ」
「そうかもしれませんが、あの程度を気に掛ける必要はございませんよ」
 乳母代わりの女はそう言って、ふと眉をひそめた。
「もしや、先日坊ちゃまが家を抜け出した日に会った子どもですか?」
「……たぶん」
「いけません。そのような方と関わりになってはなりません」
 スイッチが入ったように、女が蕩々と語り出した。五条家の跡取りともあろう者が、無下限呪術と六眼を受け継いだ者が、非術師と関わりあいを持ってはならない――そんな類いの話だ。物心ついてから、耳にたこができるほど聞き飽きた内容。彼が外界へ興味を示すと必ず、異口同音にそう諭される。
 適当に女の説教を聞き流し、画面を見つめる。画面の下に表示される被害者の名前と、どこかの写真から切り抜いた少年の笑顔。幼い妹のぼんやりした顔。少年にべったりと貼りつく呪霊、そこから漂う父親の怨念。出来の悪い呪詛師が差し向けた呪霊。
 ――くだらない。あんな弱い呪霊、彼には何の脅威でもない。そんな呪霊でも人を殺せる。まだ見つかっていない母親は、死体を細切れにでもされたのだろうか、それとも攫われてから殺されたか。いずれにしろ、今頃は依頼した父親の方が死んでいるだろう。人を呪わば穴二つ――そういう手合いだ。だから簡単に人を殺せる。代償に何を支払うかも知らずに手を出しただろうことは想像に難くない。
 本当に、くだらない。
 ニュースはすぐに終わり、画面は切り替わった。
「ですから坊ちゃまは――」
 まだまだ話し足りないようで、女はずっと喋っている。彼が家を抜け出したことできつく折檻されたのだろう。次はないようにと、最近は血眼で監視されている。以前にも増して粘ついた視線は、一秒たりとも側を離れないと言わんばかりだ。
 ――別段、逃げたかったわけではない。ただ、見てみたかっただけだ。
 高揚は一瞬だけだった。
 何も楽しくなかった。
 どこまで行っても、自分の異質さを突きつけられるだけだ。
 この家の中ですら皆と違う扱いを受けているのに、家の外で〝普通〟になれるはずもない。道ばたに転がっているはずの〝普通〟は、この家では金よりも貴重だ。知っている。知っている。
 ――だって、自分は。あの少年に名前を明かさなかった。
 どこに行こうと、この身に課せられた因果と宿命からは逃れられない。
 逃げ場はないことを、年齢にそぐわず聡い彼は知っている。
 名前は呪術的に重要な要素だ。名を知られるということは、存在を掴まれるということ。呪いを向けられるということ。不用意に名を明かし、呪われた例は枚挙に暇がない。
〝普通〟でないことを望まれ、〝普通〟でないように振る舞うことを求められ、〝普通〟は罪ですらあると、無言で圧力をかけられる。
「吉峰、勇人――」
 呟いて、記憶を箱にしまって鍵をかける。誰にも手出しされないように。
「――さん、そろそろ悟様を――」
 別の人間が入ってきて、女は喋るのをようやく止めた。
 女がテレビの電源を消す。
 促されるまま、彼は立ち上がる。
 先ほど画面に映った少年の顔は、もう覚えていなかった。

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