0

 入所試験を突破した精鋭たちが八人。
 いずれもスパイ候補生として見込まれ、厳しい試験をくぐり抜けた猛者だ。整った顔立ち、色白で細身の外見からは想像もつかないような、どうしようもない人でなしたち。
 彼もそのうちの一人だった。
 影というものを凝縮したような男が、杖の音を響かせながら一人一人の前に立つ。すべてを仕組んだのはこの男だった。全国から男に見出され、ふるいにかけられた残りが彼らだった。
 この男が、彼の教師となり、上官となるのだ。
 やがて、男は彼の前で立ち止まった。
「今日から貴様は――――」
 男の唇が動くのをじっと見つめる。手のひらにじっとりと汗をかいている。柄にもなく緊張している。
 男がもたらすものを、鳴り止まない残響の終焉を、ずっと待ち望んでいる。

 
   1

 それなりに幸せな人生を送っていたと思う。

 彼が、まだ持って生まれた名前――そして今や忘れ去ってしまった名前で呼ばれていた頃の話だ。
 彼が生まれた家は、有り体に言って非常に恵まれていた。いわゆる名家と呼ばれる家柄だ。明治維新後に始めた事業も波に乗り、潰れていった数々の同類を傍目に、その威光を保ち続けている。
 彼の家は特権階級に属し、資産があり、将来に関して心配することは何もなかった。父の知り合いが良いように計らい、そして父が彼らの息子娘たちを良いように計らう。その繰り返し。急激な時代の変化に顔ぶれが多少変わったが、新入りは古株と縁を結ぶことで――あるいは没落しかかった家に恩を売ることで――一員に迎えられ、閉じられた世界を保っている。
 明治維新によって刷新された中で、彼の家柄は比較的古かった。故に、しがらみも相応にあった。
 しかし、複雑な家族構成にもかかわらず、家族関係は良好だった。振り返れば、これはかなりの幸運だっただろう。
 彼はその中で、四人きょうだいの末弟として生まれた。
 年の離れた兄が一人と姉が二人。
 一人目の妻を亡くした父は、若い後妻を迎えた。その頃には十分、成熟していた兄姉たちも反対しなかった。そうして生まれたのが彼だった。
 上の姉は、彼が生まれる前に結婚して家を出ていた。下の姉もすぐに結婚して家を出た。上の姉はたまに顔を見せるが、下の姉は夫について遠方へ行ってしまった。
 だから、彼にとって、上の姉はあまり親しみを覚えなかった。ほとんど会ったことのない下の姉については言うまでもない。
 年の離れた兄は、腹違いの末の弟を可愛がった。年の頃は既に、弟と言うより息子に近かった。その頃には兄は大学に通いながら父の家業を手伝っており、弟が生まれたところで跡目争いをする必要はなかった。
「坊ちゃま、旦那様がお話があるそうですから、こちらにいらっしゃい」
 乳母の言葉に、庭で土をほじくり返していた彼は手を止めた。彼の屋敷は身分相応の広い庭園を備えており、最近の彼の格好の遊び場だった。
「まあ、またそんなことをして。お召し物が汚れますよ」
「今日はアリを見ていたんだよ。ほら、おさとうをはこんでいるでしょ」
「坊ちゃまのせいでしたのね。床に砂糖がこぼれていましたよ」
 乳母はため息をついた。
 じっとしているより遊びまわっているほうが好きな性質の彼は、しかし聞き分けのいいほうであった。大人しく連れていかれた彼は、待ち構えていた女中たちに着替えさせられた。
 来客だろうか。わざわざ着替えさせるとなると、それなりの地位にある相手かもしれない。であれば、大人しくしているに限る。
 彼はまだ小学校にも上がらない年齢だったが、不相応なくらいに聡かった。
 果たして、呼びつけられた応接間で、父と兄が待っていた。何度かあったことのある父の友人もいる。
 もう一人、女性がいた。兄より数歳若いだろうか。まだ少女と呼んで差し支えない年齢に見えた。父の友人と似た顔立ちをしている。娘だろう。
 そういえば、先日のパーティで兄に挨拶に来ていたのを彼は思い出した。彼の家柄には付きものの、社交の中心を占めるパーティが、彼は嫌いだった。いくら聡明であっても、学校にも上がらない子どもには退屈で仕方がない。その日もだいぶぐずったのだが、抵抗も空しく父に連れて行かれた。むすっとして手持ち無沙汰に卓上の料理を眺めていたところで、その女性に引き合わされた気がする。興味がなかったため、兄の後ろからちらりと顔を見た程度だった。
 教えられた通りに挨拶を交わしたところで(むろん、行儀作法は厳しく躾けられている)、父がにこにこと言った。普段から温和な父だが、今日は一段と機嫌がよかった。
「××に、お姉さんができるんだよ」
 彼は瞬きした。
「ねえちゃん?」
「そうだ」
 姉ができる。弟妹ならともかく、姉はそう唐突に湧いて出てきたりはしない。
 彼は素早く頭をめぐらせ、たどりついた結論を確かめるべく兄を見上げた。
「にいちゃん、けっこんするの?」
「そうだよ」
 兄は微笑んで、彼の頭をなでた。
「ねえちゃん……」
 女性がやや不安そうな顔をした。
「そうだ。これからこの家で一緒に過ごすんだ。仲良くしなさい」
 父が機嫌よさそうに言った。既に決定したことらしい。
 ねえちゃん。彼は口の中で呟いた。
 彼には年の離れた姉が二人いたが、彼が生まれる前に結婚して家を出ている。ほとんど一緒に過ごした記憶はない。
 姉とはいったいどんなものだろう。
「ねえちゃん……ねえちゃん……」
 小さな声で繰り返す彼の前に、女性はしゃがんだ。そっと手が伸ばされ、彼の頭に乗せられた。
「××くん、これからよろしくね」
 女性は笑った。緊張をにじませながらも、幸せそうに。
 ならば、彼の言うべきことはひとつしかない。
「うん。ぼくのあたらしいねえちゃん、よろしくおねがいします」


   2

 義姉ができた翌年、兄夫婦は長男を授かった。
 彼はとても嬉しかった。弟ができた気分だった。大人ばかりに囲まれる家の中で、自分よりも年下の小さな命。彼が浮かれるのも無理はなかった。
 彼は甥を自分の弟のように可愛がった。もちろん、彼と同様に――そして兄や姉と同様に――乳母はいたし、女中も何人もいた。面倒を見るのは彼女たちの仕事であるが、遊び相手は彼が務めた。
 彼は学校から戻っては、まだ言葉を話せない甥を眺め、話しかけた。ぐずる甥をあやし、兄夫婦からは微笑ましく見守られていた。彼の差し出す指を握るちいさな手のひらに、言い知れぬ感動を覚えたものだ。
 その頃は、幸せしかなかったように思う。
 甥が生まれる少し前、彼は初等科に入学していた。入学した直後から、彼は瞬く間に才覚を現した。もともと年の割に聡かったが、試験の成績によってそれは明確に可視化された。すぐさま、彼は早熟な秀才として知れ渡った。
 父も兄も、己のことのように喜んでくれた。彼も自慢に思っていた。
 甥が床を這って好奇心の赴くままに部屋中を移動し始める頃、彼は武術を習い始めた。勉強だけでなく、武術も修めるのが家の方針だったのだ。彼はそちらでも優秀な成績を修めた。兄は武術の才がからきしだったが、弟に嫉妬することもなかった。年齢が離れすぎて、ほとんど息子のような扱いだったからだ。彼は家と学校という狭い世界の中で、万能感さえ覚えていた。
 彼はすくすくと成長し、数年後には妹も二人生まれた。彼は相変わらず、学業も武術も優秀な成績を修め、甥と姪を実の弟妹のように可愛がった。
 甥のほうも彼を実の兄のように――実際のところ、年齢差を鑑みればその通りだったが――慕い、姪たちも兄に習って彼によくなついた。仕事の忙しい父と顔を合わせる時間は少なく、兄夫婦が彼の親代わりに等しかった。
 とりわけ、義姉の存在は大きかった。父ほどではないとはいえ、留守がちの兄に変わって一家を取り仕切るのは若い義姉だった。
 実質、彼女は子ども三人の面倒を見ていた。満点の試験結果を報告すれば、義姉は自分の子どものように彼を褒めた。義姉もまた、彼を自分の息子、娘の兄のように扱った。
 母のいない彼にとって、実の姉以上に親しい存在だった。

 長じるにつれ、彼はどうやら己が優れた人間であるらしいと感じ始めた。
 彼がずば抜けた才能を示すごとに、周囲の人間の目が変わった。良い意味でも、悪い意味でも。
 学校というのは、ただでさえ、ほとんど子どもだけで構成される閉鎖的な空間だ。さらにいえば、彼の通う学校は名家の子息ばかりが集まる。初等科から中等科、高等科、そして自動的に帝国大学、もしくは海外留学へ。子どもたちだけの閉じられた社交界。子どもたちはここでふさわしい振る舞いを身につけ、人間関係を築き、やがて父や兄に続き、社交界へデビューする。
 それぞれが自分を世界の中心と信じて疑わなかったのに、入った学校にはどんなに努力しても追い越せない存在がいる――自尊心を傷つけられた子どもたちがどうなるのか、それを知るには、さすがに彼も少しばかり幼かった。
 何の用事だったかもう思い出せないが、義姉が死んだ母の代わりに学校に来たことがあった。
 彼を一方的に嫌う同級生には、それが格好の餌に映ったのだろう。翌日、彼をはやし立てた。死んだ母と義姉、そして彼を貶めた。
 具体的に何を言われたのか、よく覚えていない。聞くに堪えない言葉だったのか、些細な一言が予想外に彼の心をえぐったのか。
 結果として、彼は激昂し、少年に殴りかかった。
 ただの子ども同士の喧嘩と違ったのは、彼には武術の心得があるということだった。彼は殴りかかってきた同級生の少年を返り討ちにした。彼には簡単なことだった。
 仕掛けてきた向こうが悪い、と彼は思っていた。自分の正しさを揺るぎなく信じていた。
 帰宅した彼を待っていたのは、父の怒りだった。
「なぜこんな真似をした」
 見たことのない形相で、父は彼を問い詰めた。普段の穏やかさをかなぐり捨て、つり上がった眦に、初めて父を恐ろしいと思った。
 彼は答えなかった。自分でも感情の処理が追いついていなかった。父に言ったところで何になるのだろう。同級生の言ったことは事実でしかなかった。その事実に、なぜあれほどの憤りを覚えたのか、彼にもわからなかった。
「言わないなら、一晩反省していなさい。食事はなしだ」
「お父さん、何か訳があったんでしょう、××が理由もなくそんなことをするとは思いません」
 兄は彼をかばったが、父の怒りは収まらなかった。いつもよりも大きな足音を立てて部屋を出て行く。何事か指示を出しているのが聞こえた。
「何を言われたんだ、俺には話してくれないか」
 かがんだ兄が彼と目を合わせて、声を潜めて尋ねた。
 彼は目を逸らした。二十歳近く年の離れた、腹違いの兄。今まで何も気にしたことはなかった。あの同級生に指摘されるまでは。
 死んだ母は父の二人目の妻だった。ずいぶんと年齢差があったらしい。一人目の妻が死んでまもなく、父は若い女性と再婚した。同級生の指摘は事実だが、続いた憶測には何の根拠もない。彼の家はそれなりに複雑な関係にもかかわらず、家族仲がよかった。兄は彼に優しかった。少なくとも、彼はそう捉えていた。
 黙りこくっている彼に、兄はため息をついて立ち上がった。駆け寄ってきた義姉といくつか言葉を交わし、兄は父の後を追った。
 まったく、あの家とは次の取引が――と兄に話しかける父の声が彼の耳を素通りした。
 部屋に二人だけになると、沈黙が場を支配した。彼は相変わらず口を引き結んでいた。
 やがて、義姉は彼に近づいた。義姉も、どうしていいかわからない様子だった。大人びた彼がこんな真似をしたのは初めてで、彼女には思いも寄らなかっただろう。
 彼は頑なに目を合わせようとしなかった。視点は床に固定したままだ。
 義姉はしゃがみ込み、彼の顔、身体、あざやひっかき傷のできた箇所を撫でた。おそるおそる、といった手つきだった。深窓の令嬢として大切に育てられた義姉には見慣れないものだったはずだ。
 それが、ひどく気に障った。義姉は彼の母親ではない。そんな単純な事実が苛立ちを生む。そんなことは知っている。兄の結婚式には彼も参加したのだ。
「痛かったでしょう」
 彼は目を上げた。
 義姉は心配そうに眉をひそめている。自分のことのように心を痛めているようだった。
 視線を外し、彼はなおも黙って義姉の肩越しに壁にかかった絵を見つめた。
「……後で食事を用意しましょう、お義父様には見つからないように、ね」
 彼はようやく、まともに義姉の顔を見た。当然のように、彼とは似ても似つかない顔だ。血のつながりがないのだから、当然だ。
 とうに眠っているだろう、甥と姪のことを考えた。腹違いの兄の子どもたち。まだ幼いが、成長したところで顔はあまり似ていないだろう。あれを弟妹のように思っていた。今もそう思っている。これからもそう思うだろう。
 感情が冷え切った塊となって胸の奥に沈んでいく。何をどう言われたところで、彼の兄夫婦や甥姪への態度は変わらないのだ。
 ――全然、たいしたことではなかったのに、どうしてだろう。かっと腹の底を灼いた熱は何だったのだろう。
「……ねえちゃんは、僕のねえちゃんじゃないんだって」
 長い沈黙を破り、彼はそれだけ言った。
 義姉ははっと目を見開いた。
 彼は無感動にそれを眺めた。一般的にはひどい言葉だろう。けれど、実のところ、その言葉が彼を変えることはなかったのだ。だから自分がわからない。何を侮辱と感じて怒りに駆られたのか、自分のことなのにまるで理解できなかった。
 義姉は彼を抱きしめた。先ほどとは違い、何の迷いもない手つきだった。
 ――母親のようだ。不意にそう思った。母親の思い出なんてないのに。その腕が震えているのを感じて、彼は首をかしげた。
「ねえちゃんは怒らないの」
「怒らないわ……怒ったりなんか、しないわ……」
 義姉はだんだんと涙声になった。鼻をすする音、吐息が首にかかる。
 ――無駄なことだ、と彼は思った。彼が夫の腹違いの弟であることは、覆しようのない事実だ。それが何だというのだ。そんなことで母と義姉を侮辱した気になるなんて、愚かとしか言いようがない。
 苛立ちは跡形もなく消え去っていた。

 ちっとも傷ついていないことに傷ついていたのだと、後に思い知った。


   3

 同級生との一件後、彼は再び日常に戻った。
 父や兄夫婦との関係も、元通りになった。まるで、何事もなかったかのように。彼は事実そう思っていたし、義姉も努めてそう振る舞っていた。
 幼い甥と姪は何も知らず、無邪気に彼を兄と呼んだ。
 彼らが言葉を覚え、おぼつかない足取りで立ち上がり、やがて歩き出した瞬間すべてを、彼は見守っていた。
 甥と姪は、いつも彼の後ろをついて回った。幼い子どもが甘えてくるのは、彼にとってもまんざらでもなかった。
 広い屋敷でかくれんぼをするのが、甥のお気に入りだった。どこに隠れているのか推測するのはそう難しいことではなかったが、彼はわざと違う場所を探し回った。そして、たっぷり時間をかけて甥の隠れている場所をのぞき込む。たいていの場合、甥は小さな身体を家具の隙間に隠していた。兄の机の陰、寝台の下、あるは義姉のクローゼットの中。
 彼がもったいぶって甥の名前を呼び、見つけたと宣言すると、甥はけらけらと笑って這い出した。その髪についた埃を払い、彼も笑ったものだった。
 上の姪はよく、絵本を読んでほしいとせがんだ。
「おにいさま、これをよんでくださいまし」
 姪は紅葉のような手で、彼女の手に余る大きさの本を差し出した。字が読めるようになると、家族で夕食を取った後、姪は頻繁にそう言ってきた。
 あらあら、と義姉は目を細めた。兄も顔を緩めて子どもたちを眺めた。
 彼は快く承知し、姪を膝の上に乗せて絵本を受け取った。隣に座った甥も耳を傾ける。
「むかしむかし、あるところに――」
 まだ話せない下の姪は、義姉の膝の上でうとうとと微睡み始めた。
 気づいた義姉は娘を寝かしつけに行く。兄は微笑んで、年上ぶる弟と子どもたちを見守る。
 絵に描いたように、幸せな家族像だった。
 幸せというものを、自分が幸せな境遇にあると、確かに感じていたのだ。

 中等科に進学する前には、彼はずいぶんと普通の子どもの振りが上手くなっていた。勉学の手を抜いたわけではない。相変わらず、学年で一位を取っている。自分の立ち居振る舞いがどう他人を刺激するのかを正しく学習した結果だった。
 中等科へは、初等科とほぼ同じ面子で進学した。子どもたちの閉じた世界は、高等科まで外からの空気を入れることはほとんどない。
 悪ふざけもした。もちろん彼はわきまえていたから、ぎりぎり許される程度のことしかしなかった。同級生と殴り合いをしてから、温厚な父に怒られるようなことは一切しなかった。父は、彼の悪戯に顔をしかめていたが、本気で怒るようなことはしなかった。
 母はいなくとも、母親代わりの義姉がいる。自分を慕う甥と姪。
 これが幸せというものだろう。彼は正しく学んでいた。幸せとは、良いものだ。
 だが同時に、彼は早くも飽きていた。
 単調な毎日を繰り返す。古くから続く家柄を保つために生きる。すべては予定調和で、流れを乱すものは徹底的に排除しなければならない。ここは己の生きる場所ではない。彼はそう思うようになっていた。
 ――埋もれていくようだった。
 幸せを享受しながらも、心が干からびていくような気がした。


   4

 変わらぬ日常は、唐突にさざ波を立てた。
 甥が死んだのだ。
 美しい紅葉が庭園を彩る中、屋敷は悲しみに包まれていた。
 流行病だった。大勢の子どもが死んだ。甥も例外ではなかった。こればかりは、家柄も金も解決できない。甥は、運がなかった。
 姪たちは幸い、病にかからずに済んだが、わずか十歳にして短い生涯を終えた甥の死を皆が悼んだ。
 彼はただ、こんなにもあっけなく人が死ぬ事実をぼんやりと受け入れていた。
 義姉の憔悴ぶりはひどかった。
 葬式の間じゅう、彼は幼い姪たちをあやしていた。義姉がそれどころではなかったからだ。息子を亡くしたばかりの彼女には、残された子どもの面倒を見る余裕もなかった。父も兄も、姉たちも、義姉に寄り添い、慰めの言葉をかけていた。むしろ、義姉がひどく取り乱していたせいで、かえって他の者たちは落ち着きを取り戻していたようにさえ見えた。
 上のほうは兄が死んだことを理解しているようだが、下のほうはまだ理解の及ぶ年齢ではない。下の姪を抱き上げると、上の姪は彼の制服の裾を掴んだ。
「おにいさまはどこへいくの」
 無邪気な声が言った。下の姪は首をかしげ、美しく死化粧を施されて棺に収まった兄を見ている。
「……遠いところだよ。もう会えなくなるんだ」
 陳腐な言い回しを返すと、上の姪の手の力が強くなった。頭の片隅で、服に皺ができるな、と思った。
「あえない? どうして?」
「それは……」
 彼は言いよどんだ。単純に、どう説明すれば幼い姪が理解できるのかわからなかった。残酷ささえ感じる幼い子ども特有の問いかけに、悲しくて言葉に詰まったのではなかった。
 彼はいたって冷静だった。
 思ったほど、衝撃はなかった。それがかえって彼を動揺させたくらいだ。あんなにも可愛がっていた甥が死んだのに、涙ひとつこぼれない。感情がわからないのではない。むしろ、そうであればよかったのだ。そうであれば、言い訳もできたのに。
 姪たちは無事だ。甥が死んでしまったのは残念だが、まだ姪が二人残っている。甥の死には胸を締め付けられるような感覚を覚えるが、姪たちが病気にならずに済んだのは幸運とさえ思っていた。
 肩を震わせる義姉に、慰めの言葉をかける。彼は黙って、姪の体温を感じながら見ていた。
 兄が義姉の震える肩を抱き寄せ、ぎょっとしたように目を見開いた。
 義姉は笑っていた。涙を流しながら笑い、引きつった笑い声のように嗚咽を漏らしていた。ほとんど悲鳴じみた声が、甥の名前を呼んでいる。
 ――気が触れたのだと思った。
 すぐに、そうではないと思い直した。悲しみのあまり、持て余した感情が奔流となって溢れているのだ。
 兄が義姉を抱きしめた。彼もそばに座って、義姉の手を握った。強い力で握り返された。
 姪は飽きてしまったのか、彼の髪を掴んでは離し、ひとりで遊んでいる。上の姪は口を引き結んだまま、彼にしがみついている。
 死んでしまった甥のことは悲しい。もう一緒に遊べないと思うと寂しい。彼も弟のように思っていたから、なおさらだ。
 だが、それだけだった。義姉のように感情を爆発させることはなかった。兄のように、抑制されつつも隠せない沈痛な面持ちをすることもできなかった。感情はすべて、己の制御下にあった。
 ――そうだ、自分は異常なのだ。
 感情を理解しながらも、それに身を委ねることができない。
 彼はただ、残された姪たちが病にかからずに済んだことを喜んでいた。この葬式で置き去りにされている二人の子どもたち、彼の妹に等しい存在。
 口にしてはいけないとわかっていた。三人の内、二人が助かっているのだから――そんなことを言うのはふさわしくない。その判断はできる。うっかり実行に移す愚かさもない。
 彼にとって、甥の死は終わったことだった。誰にもどうしようもない。いなくなってしまったのだから、悲しんだところで帰ってくるわけでもない。
 けれど、周囲はそうではなかった。別れの儀式を行い、それでも未練がましく死んだ者の面影にすがる。彼には、無駄なことのように思えた。
 家族が悲しむのは理解できた。彼だって同じ気持ちだ。明日から甥と遊ぶことはできない。生まれた瞬間から知っていて、床を這い、立ち上がり、歩き始め、言葉を話し――その成長過程を見守ってきた。もうその先はない。喪失感はあった。
 けれど、それだけだった。そしてそれが、彼と他の家族を隔てるものだった。
 はっきりとした温度差が、超えられない溝となって横たわっている。
 彼は己がひどく冷めていることを自覚した。甥の死は、彼の精神を揺るがすことはない。もしかしたら、姪たちが死んだとしても。彼は、どこまでも通常通りの精神状態だった。
 ――これが初めてではないことに、彼は思い至った。
 以前、同級生に母と義姉への口さがない憶測を言われた時と同じた。彼は極めて冷静だった。無感動と言っていいほどに。そして、その無感動さが真っ当な人間としてあってはならないことであると知っていた。
 家族を侮辱されて怒らない人間はおかしい――彼の持っている常識を、彼自身が裏切っている。彼はそれを受け入れられず、同級生の言葉に逆上したように見せかけただけだった。
 今や、彼は明確に己の本性を理解した。肉親が死んでも心は動かない。彼はそういう人間なのだ。今度は、その事実を受け入れられた。
 ただ、義姉の笑っているような嗚咽が、耳にこびりついて離れなかった。


   5

 甥の死はひっそりと屋敷に影を落としながらも、皆が日常に戻ろうと努力していた。
 子どもが死ぬこと自体は珍しくない。死病は常に傍らに存在し、運のない子どもはあっけなく命を落とした。
 家族は前向きになろうと務めていた。まだ幼い娘が二人残っている。また生めばいい――周囲はそうやって義姉を慰めた。
 義姉もだんだん日常に戻りつつあった。手のかかる年齢の娘たちが、息子の喪失を癒やした。完全に元通りとは言わないまでも、きちんと食事を取り、夫や娘、義父、義弟と接し、回復していた。
 誰もがそう思っていた。
 彼もそう思っていた。

 義姉がおかしくなったのは、数ヶ月経った頃だった。
 塞ぎ込んでいた義姉は、しばらくすると再び笑顔を見せるようになった。当初、息子を亡くした衝撃から立ち直ったと周囲は喜んだ。
 最初に異変に気づいたのは彼だった。義姉を心配して、ここ最近は早めに帰宅している。友人と寄り道することも控えている。精神的に不安定な義姉には、誰かが側にいてやったほうがいいと思ったからだ。
 義姉の部屋のドアをノックする。
 許可を得て、彼は部屋に入った。義姉は起きていた。
「ねえちゃん、具合はどう」
 義姉は以前と比べて少々痩せてはいたが、顔色はそれほど悪くない。心配するほど悪い状態ではなさそうだった。
「大丈夫よ。××のほうは疲れていない? お稽古があったんでしょう?」
 一瞬、聞き間違えたかと思った。
 義姉は、彼に向かって自分の息子の名前を呼んだ。硬直した彼に気づく素振りも見せず、義姉は呼び鈴を鳴らして女中を呼んだ。
「どうしたの? ××、やっぱり疲れていたのかしら、少し休みましょうか」
 間違えたのではない。
 義姉の目が、彼を通して別人を――死んだ息子を見ている。
「……ねえちゃん、今日は稽古は休みなんだ」
 衝撃から立ち直り、彼はなんとか言葉を絞り出した。無様に震えたりはしなかっただろうか。そんな心配をした。
「あらそうなの。ほら、昨日お爺さまが買ってきた洋菓子があるの、一緒に食べましょう」
 呼ばれた女中が支度をし、彼と義姉は間食を摂った。
 和やかで、どこかかみ合わない会話を続ける。
「あなたももうすぐ中等科へ上がるでしょう、勉強のほうはどうかしら」
「ねえちゃん、僕はもう高等科だよ。もうすぐ帝大に入るんだよ、忘れたの」
「あら、そうだったかしら。そうね、時間が経つのは早いわね。あんなに小さかったのに、もう大学生だなんて」
 彼は懸命に、義姉に己の存在を示した。しかし義姉は全く取り合わなかった。
 諦めたのは彼の方だった。義姉には何を言っても通じない。都合よく、彼の話を息子に変換している。まだ小学生だった甥と高校生の彼を頭の中で置き換えてしまう。
 ひどく疲れて、彼は部屋を後にした。閉めたドアを眺める。つややかに磨かれた木材に顔が写っている。こんな時でも、彼の表情はさほど変わらない。疲れを感じたのも錯覚なのだろうか――。
 廊下で立ち尽くす彼を、通りかかった女中が不思議そうな顔をして見た。
「坊ちゃま、どうかなさいましたか」
「いや……何でもない」
 彼はとっさにそう答えた。これは、隠しておかなければならない事実だ。
 さすがに付き合いの長い女中は怪しみ、
「もしかして、お加減がよろしくないのではありませんか?」
「大丈夫だ、ちょっと疲れているだけだから。少し休んでくる」
 心配する女中を言いくるめ、彼は自室に戻った。ドアを閉めてもたれかかる。
 一人になりたかった。
 義姉は彼に向かって死んだ息子の名前を呼んだ。つまり、彼を甥の身代わりとしている。
 息子を亡くした悲しみは、時が癒やしていくはずだった。誰もが、義姉は立ち直りつつあると思っていた。
 しかし、義姉の回復は真実ではなかった。義姉は逃避しただけだ。
 ――哀れだ、と思った。
 人の心はかくも弱かったのか。甥が死んだ時よりもずっと、その事実は彼の精神に衝撃をもたらした。
 一方で、今後の対処についても冷静に検討していた。
 いつまでも隠してはおけない。彼が四六時中側にいるわけにはいかないのだ。やがて、家の者の誰かが気づくだろう。そうすれば、父と兄の耳にも届く。頃合いを見て話しておかねばならない。
 醜聞は隠さなければ。たとえそれが彼を縛り付ける家だとしても、伝統を保ち続けてきた父や兄たち、ひいては養っている使用人たちの生活を守らなければならない。
 いつ打ち明けるかと悩む時間は、結果的にはほとんどなかった。義姉の異変は、すぐさま父と兄に知れた。
 夕食の席のことだ。義姉は彼に、死んだ息子の名で呼びかけた。
 ぎょっとして兄が食器を取り落とした。食器のぶつかる固い音がした。行儀が悪いと叱る者はいなかった。
 父もまた、表情を凍りつかせた。
「お母様、何を仰るの?」
 上の姪が義姉を訝しげに見やった。
 しかし義姉はすべてを気にかけることもなく、凍った空気の中で話し続けた。彼は昼間と同じく、それとなく義姉の間違いを正した。しかし義姉は頭の中で修正を重ね、彼を息子として扱い続ける。
 異様な光景だった。
 我に返った兄が、義姉を促して部屋に連れ戻した。
 彼は姪たちに早く寝るよう言いつけた。戸惑う姪をなだめすかし、食事の部屋から追い出す。ついでに使用人たちも下がらせた。
 兄が戻ってくると、部屋には三人だけになった。
「……お前は驚かないんだな」
 兄が静かに言った。その顔に、言いようのない悲しみを見た。
「いつからだ」
「僕が気づいたのも今日です」
 父の簡潔な問いに答える。父はこめかみを押さえた。
 医者の手配を、と父は命じた。そして、一言付け加える。
「……このことは内密に」
 兄と彼は頷いた。それ以外の術は知らなかった。

 彼が大学へ進学しても、義姉の態度は変わりなかった。義姉は、それを除けば病弱な母親でしかなかった。娘たちのことを忘れたわけではなく、床に臥せりがちだったため面倒は乳母が見ていたが、母親であることを放棄したわけではない。
 ただ、彼が息子であると思い込んでいるばかりだった。年齢差を考えれば、少し大きすぎる息子だ。しかし、義姉の中でどう処理されているのか、違和感を覚える様子は全くなかった。
 医者も厳しい表情を見せた。こればかりは、義姉自身の問題だ。薬で治るものでもない。
 ――治る見込みはないだろう。彼はさっさと見切りをつけ、義姉の前では甥を演じることにした。
 上の姪には、兄から事情を話してある。下の姪にはまだ早い。
 頭のおかしい母親を抱えて、可哀想なことだ。他人事のようにそう感じた。
 兄はだんだんと家から遠ざかりつつあった。相変わらず娘たちを可愛がってはいるが、何かと理由をつけて妻には会いたがらない。
 無理もない。義姉のせいで、乗り越えたはずの息子の死に直面し続けるのだ。義姉が現実から目を背けたせいで、兄もまた家から逃げ出しつつあった。
 義姉とは離縁するだろうか。ふとその考えが彼の頭をよぎった。まだ子を産める年齢だが、気が触れたとなっては、次の子は望めないだろう。
 しかし、父がそれを許すだろうか。対外的には、義姉は体調を崩して伏せっていることになっている。
 義姉のことを思うと、彼の心臓の収まるべき場所も痛むような気がした。しかしこれも錯覚なのだろう。普通の人間の振りが上手くなって、まるで普通の人間のような反応ができるようになったに違いない。
 なにせ――彼は楽しくて仕方がなかったのだ。
 義姉の前で甥を演じる度、父と兄が顔を歪めているのは知っていた。だが、彼にとってはさほど苦痛ではなかった。それどころか、甥が成長すればどうなっていたかを再現するのは――不謹慎なことだが――彼にとっては楽しみでさえあった。
 薄氷を踏むような日々を維持することは、どういうわけか以前よりも格段に愉快だった。その異常性を、彼は正しく自覚していた。


   6

 放課後、彼は友人と連れ立って、いつものように下宿先を抜け出していた。
 その日は、中等科からの付き合いである友人の課題を見てやり、ぶらぶら街を散策していた。途中で、友人は待ち合わせている女がいるとかで、先に消えた(彼と同じく裕福な友人は女の金蔓にされているだけなのだが、彼は賢明にも黙っていた)。
 一人になった彼は、当てもなく散策を続けていた。
 ――予兆めいたものは何もなかった。
 なんとなしに目をやった路地裏で、痩せた背の高い男が柄の悪そうな連中に絡まれているのを見かけた。だらしなく服を着崩した青年たちは、たしか愚連隊と呼ばれていたか。面倒事に巻き込まれたくない正直な思いと、助けなければという常人らしい正義感が拮抗し、彼は迷った。
 結局、彼は助けてやることにして――親切心からではなく、刺激に飢えていただけである――路地裏に踏み込んだ。
 立ちふさがるように、表通りに通じる角に立つ。
 そして、奥にいる男と目があった。
 ――瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
 青年たちは路地に落ちた人影に振り向いた。集団で気が大きくなっている彼らは、人影が体格に恵まれない一人分と見ると、途端に侮った態度を取った。
 一人が体を揺らしながら彼に近づく。彼の身なりを見るや、にやにやと下卑た笑いを浮かべた。
「おいおい、お坊ちゃんがこんなところに来るなんていけないなあ」
 彼は黙殺した。視線はずっと、愚連隊の連中に囲まれている男に向けていた。
 異様な雰囲気をまとった男だった。地味な背広に帽子。背は高いが、横幅が足りない。しかし、彼はその男から漂う薄暗いにおいに気づいていた。ただの痩せぎすの男ではない。おそらく、武術にも通じているだろう。
 ――なぜだ、なぜ黙って見ているのだ、あの男ならこんな連中を叩きのめすなど容易いはずなのに……。
 黙っている彼にしびれを切らし、青年が殴りかかってきた。
 彼は半歩身をずらし、攻撃を躱す。続いて相手の手首を掴み、体勢を崩して転ばせる。
 体格の劣る青年一人に軽々とあしらわれ、愚連隊の連中は色めき立った。
 次々と向かって来る連中をすべて躱し、投げ飛ばし、転ばせる。彼はほとんどその場を動いていなかった。
 最後に残った主格の男が歯ぎしりしながら襲いかかってきた。彼はやはり同じように男を軽々と投げ飛ばし、地面に転がした。
 立っているのは、二人だけになった。
 こつり、と騒ぎもしなかった男が近づいてきた。暗い影の中から歩み出す。
 影のような男だった。路地裏の暗がりは、男自身の影のようだった。その影が翼を広げて、男を包むように背後からつき従っている。一瞬、そう錯視した。
 ――先ほど叩きのめした連中とは、格が違う。
「見事だ。子どもの時分から合気道を習っているのか」
 低い声が耳朶を打つ。大声でもないのに、よく通る声だった。怯えた様子は一切なかった。
「……そうですが」
 彼はややぶっきらぼうに答えた。そうでもしないと声が震えそうだった。わけのわからない威圧感が覆い被さってくる。
 男が喉の奥で笑った。彼に助けられたにもかかわらず、礼を言う気はないらしい。そもそも、男はあんな連中など見ていなかった。ずっと彼だけを見ていた。
 背筋がざわつく。
「そう怖がるな」
 怖がってなどいない、そう反論しかけて、彼は口をつぐんだ。では、震えそうになるこの手はなんだ。まさか、怖いのか、この俺が――
「退屈なのだろう。私を助けたのも、親切心などではなく、刺激が欲しかったからだ」
 違うか、と男がわずかに首を傾けた。
 ――ああ、そうだ。その通りだ。
 会ったばかりの人間に言い当てられ、彼は息を呑んだ。
「普通の人間の振りをし続けたいなら別だが――私なら、貴様の納得のいく場所を用意してやれる」
 彼は眉をひそめ、戸惑った。何を言い出すのだ。初対面の人間に、一体何を。
 男が歩み寄る。こつ、こつ、と固い踵の音が近づき、すれ違う瞬間、耳元で囁かれた。
「私が満足させてやる。共に来る気はないか」
 息が止まった。金縛りに遭ったように動けない。足を地面に縫い止められたかのようだ。
 男の足音が遠ざかって、どっと汗が噴き出した。心臓が早鐘を打っている。
 ――何だあの男は、あの男は何なんだ!
 理解不能な怪物に遭遇したような気分だった。彼の理解を超えた何か。足下に転がした男たちのことは頭から消し飛んでいた。
 彼がようやく振り向いたときには、男は姿を消していた。

 どうやって帰ったのか、記憶がない。
 彼は布団にくるまり、暗闇の中で天井を見つめていた。
 ――共に来る気はないか。
 去り際、男が囁いた言葉がよみがえる。
 その夜は眠れなかった。次の日も、男のことを忘れることはできなかった。講義を受けている最中でも、気づけばあの男のことを考えていた。
「最近どうしたんだ。ずっと上の空だろう」
「大したことじゃないさ、ちょっとねえちゃんのことが気になって」
「……ああ、そうか。大変だな」
 心優しい友人は、自分のことのように心を痛めたようだった。あの男に会うまで一緒にいた友人だ。昔からの付き合いで、彼の家庭事情もよく知っている。幼い息子を亡くして伏せっている義姉を心配してくれる、人のできた友人だった。精神を病んだことまでは打ち明けていないが、うまい具合に勘違いしてくれた。彼にはもったいないくらいのお人好しだ。
 現に彼は、今も義姉のことではなく、あの男のことを考えている。
 誰にも話していない。話せるはずもない。彼自身、白昼夢ではないかと疑ったくらいだ。
 影のような、痩せぎすの男。あまり背の高くない彼が見上げるほどの長身。顔だけがぼんやりかすんで思い出せないのが不可解だった。
「お姉さんの具合はそんなに悪いのか」
 友人の声に、彼は意識を引き戻された。気遣わしげな表情をしている。
「……あまり、よくはない」
 彼は目を落とした。彼がいなくなれば、義姉はどうなるのだろう。症状が悪化するかもしれない。かろうじて、彼を息子と思い込むことで精神の均衡を保っているのだ。彼もいなくなれば、どういう行動に出るか。
 ――だめだ。姪たちにはまだ、母親が必要だ。
 強い意志の力で、彼は己の欲求をねじ伏せた。少なくとも、今はその時ではない。
「そんなに心配なら、今度の休み、帰ったらどうだ」
「ああ、そうするよ」
 彼はぎこちなく笑い返した。
 この優しい友人と二度と会えないとしても、己の精神には何も影響しないだろう。それに、お情け程度の申し訳なさを覚えた。

 一週間ほど経った頃、授業後、彼はひとりで街を歩いていた。
 だんだんと冷えてきた。上着を着てくればよかったと思いつつ、彼は公園に入った。
 子どもたちには寒さは関係ないらしい。きゃあきゃあと騒ぎながら駆け回っている。甥も生きていればあの中にいたのかもしれない。
 長椅子は背中合わせに二つ。身なりのいい初老の男性が座っていた。鳩に餌を与えている。足下に群がる、丸々と太った鳩たち。他の鳩もばさばさと羽を広げ、次々と男性のもとに舞い降りた。
 なんとなく下宿先には戻りたくなくて、彼は公園の長椅子に座った。
「また会ったね」
 覚えのある声が背後から響いた。
「また会いましたね」
 彼は振り向かずに答えた。内心の動揺は押し隠した。
 忘れもしない。あの日、路地裏で助けた――と言って良いのか彼にもよくわからないが――正体不明の男だ。外見が違いすぎて、気づかなかった。声の調子さえ違う。好々爺といった風情だ。とても同じ人物には見えない。
 偶然とは思えなかった。彼がここに来るのを待っていたのか。そこまでして、何のために。
 子どもたちがはしゃいでいる中、長椅子の周りだけが静まりかえっていた。
「興味を持ってくれたかな」
「詳しい話も聞かずに、一緒に来てくれって? 誘拐でもしたいんですか」
「誘拐、か」
 男は吐息を漏らした。笑ったようだった。そう言われるとは思いもしなかったが、と独り言のように呟いた。声音に鋭さが宿る。
「いいや、違う。スパイの勧誘だ」
 スパイ。その勧誘。
 男はそう言った。聞き間違いなどではない。
「スパイ? あの、マタ・ハリみたいな?」
 いまいち意味がわからなかった。彼はとっさに、思い浮かんだ女スパイの名を口にした。先の大戦で名を馳せた女――その美貌で多くの高官に取り入り、ベッドの上で秘密を引き出したという。その程度で集めた情報は正確さを欠くばかりだろうに。馬鹿な真似だと思ったその女と同じ行為を……?
 彼の鸚鵡返しに男は笑った。
「いいや、違う。あれは三流のすることだ。本物のスパイは、誰にも気付かれずに情報を盗まなければならない。自らを見えない存在にして初めて、スパイになれる」
「どうして俺にその話を」
「向いていると思ったからだ」
 彼は初めて視線を動かした。長椅子に背中合わせに座る、初老の男性の後頭部を見つめる。どこからどう見ても、あの男ではない。
「もうすぐ、陸軍内にスパイ養成機関が設置される。その候補を探している」
「……そうですか」
「スパイになる者は、あらゆるものを捨てなければならない。何者でもない者になるためには、己自身にまつわるすべてのしがらみを処分する必要がある。できるだろう、貴様は」
「……何を根拠に」
 男は不意に、優しげな声になった。外見にふさわしい声音だ。教え子を諭すような口調が、彼を説得するように言葉を紡ぐ。
「私はね、常々、日本にもスパイが必要だと思ってきたのだよ」
 彼は視線で続きを促した。
「優秀な者は多くとも、スパイに適性があるとは限らない」
「俺にはあると?」
「そうだ。現に、君は退屈している。人が羨むような環境に生まれ、それをありがたく思う精神も備えている。しかし、それは本心ではない。いくら凡人の反応を身につけようとも、君の本性は、まともな人間ではない」
「……名前も知らない人間に、よくもそこまで言えたものですね」
「だが君は怒らないだろう。なぜなら事実だからだ。君は、その家から逃れたいと思っている」
 彼は拳を握った。そうだ、自分は逃げたいと思っている。あのつまらない家から。
「だから、君の義姉が精神を病んでも不幸だと思っていない。むしろ、」
 彼ははっと顔を上げ、男の言葉を遮った。思わず声が上擦る。
「どうして義姉のことを――!」
「私が何も調べないで君に近づいたと思ったのかね」
 彼の隠し通してきた内心が無遠慮に暴かれる。ぞっとする感触だ。この男はどこまで知っているのか。
「義姉の息子の振りはよほど楽しいと見える」
 笑みの混じる言葉に、反応を観察されていることに気づいた。この男は彼に適性があると言いながら、本当に素質があるのか見極めようとしているのだ。
「いい刺激になっていますよ」
 負けじと彼は言葉を返した。生来の負けず嫌いが顔を出す。スパイになりたいわけでもないのに、どうしてか、この男には失望されたくなかった。
「スパイになれば、刺激などいくらでもあるぞ」
「……できませんよ。そんな卑怯な真似」
「本気で言っているのかね」
 即答できなかった。
 男は喉の奥でくぐもった笑い声を上げた。
「君はいつか、必ず私の誘いに乗るだろう」
 待っているよ、と言い残して男は去った。
 馬鹿な、とは言えなかった。それくらい、男の言葉は確信に満ちていて、彼の反論を許さなかった。

 下宿先に帰った彼は、またも眠れぬ夜を過ごす羽目になった。
 昼間の男の話を思い出す。あれは本当の話なのだろうか? 帝国陸軍内にスパイ養成機関を設置する――卑怯な行為だとして蛇蝎のごとく嫌われているスパイを、よりにもよって育成するだと?
 話の端々から、あの男が陸軍関係者、それも高級将校のたぐいであることが匂わされている。
 だが、男が軍人である保証はない。異様な雰囲気をまとっていたが、その身分を証明するものは何も示されなかった。もしや、騙されているだけなのか。
 しかし、そんな嘘をついてどうするというのだ。まさか、本当に誘拐か?
 彼は失笑した。この年齢になって、そんなお粗末な嘘で誘拐して身代金でも要求しようというのだろうか。ありえない。
 喉につっかえた小骨のように、男の言葉が引っかかっていた。再び平和な日常を享受しながらも、あの影が凝り固まったような男を忘れられなかった。
 あれは、彼の平穏をかき乱す存在だ。それに心がざわめく。凪いだ湖面に石を投げ込まれたように、小さな波紋が無視できないほど大きく広がる。不快さを感じないことに驚いた。
 きん、と耳鳴りがする。頭の片隅で、息子を失った義姉が泣いていた。


   7

 躑躅の咲く頃、義姉が死んだ。

 知らせを受け取った時、真っ先に浮かんだのは、ああ終わったのか、というどこか残念な気持ちと、これで解放されたという思いだった。
 感情は波打たなかった。甥の時と同じだ。ひどい人間だろう。自分でもそう思う。
 彼は大学を卒業し、就職していた。実家を出て地方の支店で、父の用意した席に収まっている。
 学生時代と同様、平和で、どこか退屈だった。跡を継ぐ必要のない彼には、果たす義務も大してなかった。ここにいていいのか、自分にはもっとできることがあるのではないか――その考えを拭えない。
 義姉の前で甥の振りをするのは、平和すぎる日々の中の刺激だった。義姉のためではない。彼自身の暇つぶしにすぎなかった。それも、就職して家を出てからは遠い。
 退屈な夜を過ごすたび、大学時代に現れた男の影がちらついた。得体の知れない男。陸軍の者と名乗ったが、信頼に足る人物か判断しかねた。
 あの時、あの男の誘いに乗ってしまえば……。
 そう思っていた矢先に、義姉の訃報が届いたのだ。
 ――ついに、その時が来た。
 知らせを持ってきた使いの前でうっかり口元が緩みそうになり、彼はしっかりと口を引き結び、消沈した表情を作った。
 世間一般的には、そのような振る舞いは狂人と取られかねない。彼はもちろん狂ってなどいないが、そう思われてしまえば、義姉のように扱われる恐れがある。それは彼の意に反する。
 使いの男は、汽車の切符も持っていた。抜かりないことだ。彼が休みを取ったところで、この会社は回る。そういうふうにできているし、そういう階級に生まれついた。
 ――もしかしたら、兄もこの日を待っていたのかもしれない。義姉の死を悲しむこともない彼は冷静に打算した。後妻を取るなら、彼はますます必要ない。
「ひとまず、明日から帰る旨をFさんに伝えてきますから、あなたはしばらく休んでいてください」
 彼は上司に報告して休みを取り、荷造りを始めた。

 通夜に出席するため帰省した彼は、そこで思わぬ人物を見かけた。
 ――あの男がいる。陸軍の高級将校の制服を身にまとって。
「今日いらっしゃってくれたのは、陸軍の結城中佐だよ。ほら、お前も挨拶しなさい」
 ――まさか、本当に軍人だったとは。
 男は、まるで初対面のように彼に挨拶した。彼も驚きをおくびにも出さず、素知らぬ顔で挨拶を返した。
 どんな手を使って通夜に潜り込んだのだろうか。
 いや、と彼は思い直した。父の態度を見るに、元から関係があったのかもしれない。そうだとすれば、家のつながりから義姉のことを知ったのだろう。種を明かされれば、どうということはない。もはや今の彼には関心のないことだったが。
 あの男を捜し出す手間が省けて、運が良い。今はそれだけだ。
 葬式はつつがなく終わった。さすがに二回目ともなると、兄は憔悴していた。物の道理を理解しはじめた下の姪は泣いて、母親の棺から離れようとしない。上の姪が――彼女もまた泣いていた――いじらしくも妹を引き剥がそうとしている。
「お母様は死んだのよ! もうお別れなの」
 妹はますます激しく泣きわめいて抵抗する。姉も諦め、ふたりして泣き始める。
 ぽつんと椅子に座って、彼は沈黙していた。母親代わりだった義姉が死んで悲しんでいるものと周囲は放っておいてくれた。
 悲しくなどなかった。そんな自分を完全に受け入れていた。
 棺に横たえられた義姉の青ざめた顔が、彼に最後の決断をさせた。
 親族としての義務を果たすと、彼は会場の外で佇んでいた男に近づいた。
 足音に男が振り向く。彼が何か言う前に、男は鼻を鳴らした。
「決心はついたんだな」
「ええ」
 彼は頷いた。
 これで、彼と関係のある、あらゆるものと別れを告げることになる。温厚な老いた父も、年の離れた優しい兄も、まだ小学校に通っている小さく可愛らしい姪たちも。
 義姉の死が、決め手だった。
 決して不幸な家ではなかった。義姉が精神を病む前は、絵に描いたような幸せで裕福な家庭だった。何ひとつ不自由はなく、かつ突出した才を持つ彼を受け入れる場所だった。どこか感情の抜け落ちた彼でさえ、それが幸せであると理解できるくらいには。
 甥が幼くして死んでからは、義姉が家の不幸の中心だった。まだ義姉は若かったから、次の子どもを望むことも十分にできた。娘も二人いる。婿を取るのもいいだろう。父も兄も、実子が跡を継がなくとも、あまり気にしないだろう。
 しかし、義姉は精神を病んだ。犠牲の仔羊――あるいは〝標的〟に選ばれたのは彼だった。死んだ息子の代わりを誰かに求める。七歳も離れていたのに、彼をどうして息子だと思い込めたのかはわからないが、そういう役回りだった。
 周囲は、彼にもそれを求めた。義姉の前だけでいいから、だってあまりにも可哀想でしょう――それには彼も同意した。あんなにも可愛がってくれた義姉があんまりだったから。そのくせ、彼が甥の演技をすると複雑そうに顔を歪める。
 義姉が嫌いになったわけではない。ただ、可哀想な人だ、と思った。
 彼がいなくなれば、義姉はさらに精神の均衡を崩すだろう。
 そう思って、わずかばかりの憐れみでもって、彼はその場に留まっていたのだ。義理と言ってもいいかもしれない。彼が、凡人として過ごすために己に課した責務だった。
 だが、もうその必要はなくなった。
 義姉の記憶が急速に色褪せていく。父や兄、甥と姪は、とっくに古い写真集となって記憶の片隅に納められている。もう、思い出すことはないだろう。
 後悔は微塵もなかった。自分の薄情さには驚くばかりだ。
 それを知らしめたのは、目の前の男だ。
 すべては、この男に出会ったからだ。己の本性を殺して生きていくこともできた。それ以外の道を教えたのは、この男だ。
 この男から、自分の人生が始まる。だとすれば、今までの人生は何だったのだろう。凡人の真似をするだけだった日々から解放される。いくつかの規則を守っていれば、それなりに幸せに過ごせる――今までそれを大して負担に思ったことはなかったが、未練もなかった。
 思い返せば、楽しいこともあった。だが、それが何になる。幸せな記憶、それらすべてが彼を縛る枷になる。
 息苦しさと常に同居していた。
 所詮は、自分にとってそれだけの価値しかなかったのだ。もっと価値のあるものを提示されて、留まる理由もない。
 一歩、足を踏み出す。
 踏み出した先は、沼か、闇か。
 底なしの暗い瞳が彼を見据える。深淵をのぞき込むような――否、のぞき込まれているのはこちらだ。背筋を伸ばして立つ彼を見据える視線に、丸裸にされる。どこまでも透視しそうな、冷徹な眼差しが彼の内面を舐め尽くす。
 震えるほどの興奮が背筋を駆け上る。
 今日着ている喪服は、義姉を弔うためだけではない。
 ――これは、彼自身の葬式だ。
 彼を殺すのは、この男だ。何の凶器も必要ない。言葉で惑わし、あちら側へ拐かしていくのだ。子どもをさらう魔王のように。
 違う。彼は拐かされるままの子どもではない。これは彼の選択だ。彼を殺せるのは彼自身しかいない。男は選択肢を提示し、彼が選び取るのを待っていたにすぎない。
 ならば、この男は優秀な猟師だろう。狙った獲物は逃がさない。自ら望んで手の中に落ちてくるのを待っていればいいだけなのだから。
 彼はにやりと唇を吊り上げた。
 ――いいだろう、喜んでその手の中に落ちてやろうじゃないか。
 己自身の首に手をかけ、縊り殺すように、幸せで息の詰まる過去を塗りつぶす。
 あの耳鳴りがする。甥の葬式で狂ったように笑う義姉の声に似ていた。いや、あれは泣いていたのだったか。どちらでも同じことだ。彼は、すべてを置いていく。
 ――恨むだろうか、薄情な自分を。
 しかし、それも知ったことではない。彼はそういった心の欠けた人間なのだから。

 すみやかに、彼は下準備を整えた。公的な証明に関してはさすがに彼も手が回らないため、男の手も借りている。
 彼は満州に渡り、不慮の事故で死んだことになった。今頃、赤の他人の遺骨が送られているはずだ。
 家族は嘆き悲しむだろう。彼によく懐いていた小さな姪たちは特に。ちらりと彼女たちの泣き顔が頭をよぎったが、すぐに忘れた。今や、彼にとってはどうでもいいことだった。
 最初からどうでもいいことだったのだ。もう隠す必要はない。
 入学試験を突破した彼を、暗い眼窩が見据える。あの日のように、すべてを見透かす瞳だ。
 低い囁き声が終わりを告げる。
 ――ずっと待っていた。この時を、彼が〝彼〟を終える瞬間を。
「今日から貴様は――〝波多野〟だ」
 あの葬式の夜から耳元で続く残響が、ふつりと途絶える。足下に転がった自身の死体が、虚ろな目で見上げてくる。
 死刑宣告にも似たその言葉に、彼――波多野はようやく、安らぎと心地よさを覚えた。

inserted by FC2 system