緊急事態宣言の火種がくすぶる令和三年春、警視庁・特殊事件捜査部D課は設立から一年を迎えていた。
「お疲れ様です、佐久間さん」
 部屋に入った途端、同僚の三好が声をかけてきた。
「ああ……戻った……」
 力なく手を振り、佐久間は自席に座り込んだ。
 いつも姿勢良く伸ばしている背を丸め、今にも机に伏してしまいそうな様子に、三好は目を瞬かせた。
「なんか佐久間さん、しおれてません?」
 隣の席の田崎が、透明なアクリル板越しに佐久間の代わりに返事をした。
「行きたいお店になかなか行けてないらしい」
「夜八時に店が閉まってしまうし」
「まあ、この仕事で定時帰りなんか無理でしょ」
「土日も潰れるし」
「佐久間さん、何連勤目ですか?」
 佐久間はどんよりと目を曇らせ、答えた。
「一三連勤」
「うわあ」
 いかにも可哀想なものを見るような目で、波多野に見下ろされた。
「もう嫌だ……こんな仕事……」
 先だっての捜査を振り返り、佐久間は更に気分が沈んだ。
 よくわからないまま決定した人事異動によって、佐久間は何故かこのD課へ配置換えになった。元は捜査一課にいたはずなのに、一課ととてつもなく仲が悪いはずのD課へ飛ばされてしまった(としか言いようがない)のである。一課の武藤課長とD課の結城中佐(と皆に呼ばれているが佐久間は理由を知らない)は犬猿の仲だったはずだが……。
 何のために設立されたのかよくわからない部署で、何故ここに回されるのかもわからない事件を捜査する。どこもやりたがらない案件ばかりが回されている、体の良い雑用係にすら思えて、日々、モチベーションは駄々下がりだ。
 加えて、D課のメンバーは性格がおかしい――もとい、非常に個性豊かだった。よくわからない質問を投げかけては佐久間を悩ませ、なんとか答えを絞り出すと「見事な鰯の頭ですね」とこれまたよくわからない罵りを受ける。実にストレスフルな毎日だった。どいつもこいつも美形揃いなのが更に腹立たしい。
「佐久間さん、今週末休みじゃないですか。二日ともですよ」
 当直を確認した田崎が教えてくれるが、
「本当か……?」
 いまいち信じきれない佐久間がのそりと顔を上げると、向かいに座る小田切が立ち上がり、黙って紙を差し出した。
 連休明けまでの当直が記されているそれには、確かに佐久間の休みが書かれていた。
 一瞬、元気を取り戻した佐久間だったが、すぐに最近を振り返ってうなだれた。
「いや……休みとか言っても、どうせいきなり呼び出されるんだ……俺は知ってるんだ……ぬか喜びするくらいなら、最初から期待しない方がましなんだ……」
「あ、だめだ。死んでる」
 あっさりと田崎は見放した。
「佐久間さん、生きてください!」
 がくがくと三好が佐久間の肩を揺さぶる。
 わざとらしく耳を塞いだ波多野が苦言を呈した。
「三好、うるせえよ。飛沫が飛ぶ」
「うるさいって何だ! だいたいみんなマスクしているだろう」
「声が大きい」
「もしかして、これですか?」
 再び立ち上がった小田切が、仕切りの向こうからスマホの画面を三人に見せた。波多野と三好が顔を向ける。佐久間もちらりと視線を上げた。
「カフェですか?」
「季節のスイーツ、苺フェア。四月三〇日まで――」
 簡素な作りでレトロな雰囲気のホームページに、春限定のメニューが載っている。苺の赤も鮮やかなパフェにショートケーキ、タルト。特筆すべきは、芸術的に飾り付けられたパフェだった。すっと伸びた細長いガラスの容器に薄く切った苺がぐるりと星のように並べられ、中央に絞った生クリームの上に苺が一粒乗っている。苺の下には苺ソースとクリームが何層も重ねられている。
 ――去年、佐久間が食べ損ねた特別メニューだった。
 波多野が興味の薄そうな顔で画面を眺めた。
「これ三月からじゃないですか。もう四月も終わりですよ」
「だから、俺が食べに行こうとする度に呼び出されるからだよ……!」
 三人は憐れみを込めて佐久間を見下ろした。
 換気のために開けた窓から、温かい春の風が吹き込んでくる。
 ひょいとアクリル板から顔を出した田崎がスマホ画面と佐久間を見比べて、一人で頷いた。
「ああ……これですか。去年も緊急事態宣言で行きそびれたと仰っていましたね」
「去年も行けなかった……今年もきっと駄目なんだ……」
 そもそも一四連勤空けなのだ、まずは休息を取りたい。となれば日曜日になるだろうが、安寧とした休日とはずいぶんとご無沙汰だった。期待するだけ失望を味わうくらいなら、最初から希望なんてない方がましだ。
「佐久間さん、本当にこういうの好きですね。顔に似合わず」
「余計なお世話だ……」
「まだ諦めないでください。限定メニューは今週までですよ。土曜日も日曜日もあるんですよ」
「いいんだ三好……また来年があるから……」
「諦めたらそこで試合終了なんですよ!」
「いやこれ試合じゃねえし」
 波多野が突っ込んでいる後ろで、扉が開いた。
「ただいまーっと。あれ、何?」
 神永が部屋を見渡し、佐久間の周りに集まる四人を不思議そうに見つめる。マスクをしているにもかかわらず、相変わらず表情豊かだった。
 小田切が無言で歩み寄り、スマホの画面を向ける。神永は納得したように頷いた。
「ああ、そういうことか。あれ、でも佐久間さん、今週末は非番じゃなかったんですか?」
「今まで何回休みが潰れたと思ってるんだ……」
 地を這うような低い声で佐久間は反論した。
「でも二連休ですよ。さすがにどちらかは空いているでしょう?」
「そうやって一体何回俺の休みが……!」
「ま、明後日のことは明後日考えればいいじゃないですか。今から心配しても何にもなりませんよ」
 神永がウインクする。
 だが、あいにくD課には男しかいなかった。冷ややかな視線が神永に注がれる。
「気障だな」
「そういうサービスは要らない」
「ていうか女にやれよ」
「……滑ったな」
「何だよ、ノリ悪いな」
 神永はむくれた。すぐにその視線がカレンダーに向く。
「そういえば、もうすぐ大型連休だろ」
 波多野がぼやく。
「どうせ緊急事態宣言が出るだろ。数日前から噂でもちきりだぞ」
「このご時世で旅行は無理だからな」
「公務員が旅行なんかしてたら袋叩きだぜ」
「俺、そもそも当直なんだが」
 インスタントコーヒーを開封しながら小田切が言う。
「今年は小田切か」
「後は誰だっけ?」
「確か実井と――」
 ピッと電子音がして、扉が開いた。
「ただいまー」
 甘利が明るい声で挨拶しながら部屋に入ってきた。その後ろから福本と実井も入ってくる。
「おかえり。これで全員そろったな」
「え? 何の話?」
 首を傾げた甘利が自席に向かう。
 思い出したように神永が佐久間たちを見下ろした。
「ていうかお前ら、一応ソーシャルディスタンスな」
「へいへい」
 適当に返事をしながら、佐久間の周囲に集まっていた四人は席に戻った。
「何かあるのか?」
 小田切の入れてくれたコーヒーを手に、ようやく佐久間は背筋を伸ばした。
 神永が咳払いした。
「実は、結城中佐から伝言を預かっています」
 そういえば、D課のトップ、結城中佐がいないことに佐久間は気がついた。会議に呼ばれたのだろうと気にしていなかったが、何かあったのだろうか。
「ええー、悪いニュースともっと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
「どっちも悪いのかよ」
「もったいぶらないでさっさと言え」
 波多野と田崎のブーイングをものともせず、神永は手を挙げた。静まりかえったD課の面々を見渡し、神永はわざとらしくゆっくりと言った。
「とある筋からの確かな情報だが――緊急事態宣言、明日にも発出する見通しだ」
 神永はそこで言葉を止めた。
 ――特に何のリアクションもなかった。
 神永は不満そうに腕を組んだ。たぶん、マスクの下で唇をとがらせているだろう。
「もうちょっと驚いてくれないか」
「驚く余地がどこに?」
「まあ、順当な判断だろ」
「それくらいの情報を手に入れないでD課なんてやってられるか」
「そもそも数日前から出るとか出ないとか、騒いでただろ」
「それもそうだけどさあ、もうちょっと反応ってもんがあるでしょ!?」
「俺たちもリモートワークするか?」
 問いかける田崎の声に薄く笑みが含まれている。
「いやリモートワークで何するんだよ。刑事だろ」
「現場に出てこそだよね」
「サボりまくってるお前が言うか?」
 甘利がのほほんと言うのに、波多野が顔をしかめた。
「しかし、ようやく決まったな」
「また百貨店が臨時休業するんですかね」
「困るなあ。ただでさえ飲食店も早く閉まって困っていたのに」
「ほんとだよ。こっちの仕事は八時じゃ終わらないのに」
「なんか夜に電気を消す案があるらしい」
「灯火管制? 戦時中かよ」
「似たようなもんでしょ」
「それ、どこ情報?」
「秘密」
「はあ、いつまでこの調子なんだか」
「出たところで大して変わるとは思えないけど」
「路上の酔っ払いをしょっ引く手間が減ればいいんだが」
 いつも通りの調子で話を続けるD課の中で、佐久間だけが無言で混乱していた。
 ――緊急事態宣言。数日前から噂されていたから、驚きは大きくない。生活スタイルも今更変わらない。仕事も性質上、今まで通りだろう。だが、ひとつだけ問題があった。
 佐久間は恐る恐る手を挙げた。
「はい、佐久間さん」
「それっていつから――」
「結城中佐の見立てでは、日曜日から。正式な決定は明日、金曜日ですが、既に内部では決定の方向で調整が進んでいます」
 意外そうに甘利が目を瞬かせた。
「日曜? 早いな」
「駆け込み需要を防ぐためでしょう」
「でもそんなに急に……」
 日曜日から適用ということは、つまり、飲食店が閉まるのも日曜日からだ。佐久間の休みは土日だが、用事は土曜日中に済ませる必要がある。
 佐久間はがたりと立ち上がった。つかつかとロッカーへ歩み寄り、分厚いファイルを取り出す。
「あれ、佐久間さん、どうしたんですか」
「いきなりそんなにやる気を出して――」
「お前ら、土曜日、絶対に俺を呼び出すなよ」
「はあ。休日に呼び出しているのは事件であって、僕たちじゃありませんけど」実井がそっけなく言う。
「いいから! 絶対に呼び出すなよ!」
 事情を知らない甘利と福本、実井が顔を見合わせた。
 すっと小田切が無言でスマホを差し出した。
「ああ、そういうこと」
「佐久間さん、可哀想に……」
 再び、佐久間は憐れみの視線を向けられた。
「そういうわけで、今年も春限定フェアの苺パフェを食べられるか食べられないかの瀬戸際なんです」
 沈痛そうな面持ちで三好が言った。
 そこで佐久間ははたと思い出した。そもそもこいつらは緊急事態宣言が出ると予測していた。それなのに、週末が二日もあるから、だなんて慰めてきた。ということはつまり――
「お、お前ら! 謀ったな!」
「いやだな、人聞きの悪い」
 にやりと田崎の目が弧を描いた。
「想像できない佐久間さんが悪いんですよ」
「さっきの優しさを返せ!」
 波多野が挑発するように頭の後ろで腕を組んだ。
「優しさで苺パフェが食べられるんですか?」
「う、うるさい!」
「――何だ、騒がしい」
 音もなく部屋に入ってきた結城中佐に、佐久間は凍りついた。
「いえ、何でもありません……」
 おとなしく席に座り、佐久間は仕事を再開した。
 結城中佐の抑揚に乏しい声が続ける。
「神永から話は聞いたな。駆け込みで出歩く人間が増える土曜日は気をつけるように」
 どこか不吉な響きに、佐久間は机の下で拳を握った。
 ――今年こそは絶対に、限定メニューを食べてやる。

 猛然と仕事を片付けた佐久間が慌ただしく帰宅した後、ふと甘利が呟いた。
「そういえば、もっと悪いニュースって?」
 神永が椅子をくるりと回した。芝居がかった仕草で髪を掻き上げる。
「聞いて驚け。俺たちの休日出勤が決定した」
「……ええ、せっかくの休みなのに」甘利が眉をひそめる。
「いやでーす」子どもっぽく波多野が椅子を揺らす。
「つべこべ言うな。仕事だぞ」
「もしかしてこれ、社畜っていう奴?」
「公僕と言え」
「あんまり変わらないだろ」


        


 迎えた土曜日。佐久間は繁華街にいた。
「しまった寝過ごした……」
 デパートの中を早足で歩きながら、佐久間は歯噛みした。なるべく混まないうちに来たかったのだが、既に時間はランチタイムに突入している。もう少し待つのも考えたが、個数限定メニューだ、売り切れてしまうかもしれない。
 本来であれば外食も控えるべきなのだろうが、これだけは我慢できなかった。だいたい一四連勤なんて訳の分からない勤務体制なのだから、これくらいの我が儘は許されてしかるべきだろう。一人だし。黙って食えばリスクも低いはず。
 名簿に名前を書いて店の前の椅子に座る。少し気が抜けて、佐久間はぼんやりとデパートの中を見渡した。
 最上階、一〇階のレストランフロアにはそれなりの人がいるが、全体を見ればとても休日とは思えないほど閑散としている。同じフロアの衣料品店など、ほとんど客がいない。
 この分であれば、きっと限定メニューも食べられるだろう。なんとか間に合いそうで、佐久間は胸をなで下ろした。連勤の疲れが溜まっていたせいで、だんだん瞼が落ちてくる。
「ちょっと!」
 女の甲高い声が佐久間を眠りの淵から引き戻した。はっと目を開くと、走ってくる男と、その後ろを追いかける女が目に飛び込んでくる。男の手には紙袋。
「返して!」
 女が叫んだ。そのせいでバランスを崩して足がもつれる。
 佐久間は思わず立ち上がった。女に駆け寄り、間一髪で倒れる女を抱き留めた。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ありがとうございます……」
 呆然とした女が呟くように礼を言う。その視線は佐久間を向いていない。
「荷物を盗まれたんですか?」
「あ、そうです! あの人が私の荷物を」
 女を立ち上がらせ、佐久間はため息を吐いた。ひったくり犯はまだ遠くへは行っていないだろう。
「あなたは警察を呼んでください」
 言うが早いか、佐久間は駆け出した。
 ――まったく、運がないにもほどがある。

        *

「思ったより逃げ足が速いな」
「デパートに逃げ込まれるとねえ」
 のんびりと甘利が言う。
「他に客がいるのが面倒ですね」
 実井がフロアマップを睨む。本館は一〇階建てのデパートだが、隣の棟とは六階まで連結している。臨時休業前日だからか、最近では人出の多い方だった。
「そう長く自粛もしていられないだろう。特に、終わりが見えないなら」
 三好がつまらなさそうに言う。
「あちらを立てればこちらが立たず、だな」
「ま、経済の心配をするのは俺たちの仕事じゃないし」
 軽く言いながら神永も実井の持つフロアマップを覗き込んだ。
 実井がかすかに眉をひそめた。
「落とし物として届けられていればいいのですが」
「まだデパート内にいると思うか?」
 神永は顔を上げてエスカレーターの先を見上げた。一昨年と比べれば客の数は激減しているが、それでもゼロではない。あまり大暴れすると後始末に苦労するだろう。
 甘利が思案げに顎に指を当てた。
「容疑者は荷物を取り間違えたことに気づいたはずだ。まず自分の荷物を回収しに行くだろう。他の人間の手に渡ったとなると面倒なことになる」
「甘利の言う通り、まずはブツの確保だ。犯人の顔は防犯カメラに写っているだろう。そちらから追いかけてもらおう。今日本部にいるのは――」
「福本です」実井が即答する。
「じゃあ福本に手を回してもらう。俺が連絡するから、実井は逃走経路の絞り込み。三好と甘利は犯人の捜索」
「了解」
 各々が行動を開始するのを見ながら、神永はスマホを取り出し、電話をかけた。

        *

 ――何だって休日にまでこんな真似をしているのだろう。
湧き上がる後悔と戦いながら、佐久間は通路を足早に抜けた。眠気は跡形もなく吹き飛んでいた。左右の店舗を油断なく観察しながら、見失ったひったくり犯の姿を探す。人は少ないが、商品のディスプレイが多く、あまり見通しはよくない。
「いた……! あいつ……!」
 ひったくり犯の男は、紙袋をしっかり抱えたまま一目散にエスカレーターへ向かっていた。デパートの外に逃げる気だろう。いくら人手が少ないとはいえ、ここは都内でも有数の繁華街だ。外に出てしまえば追跡は困難になる。通報を受けた警官が来る頃には、とっくに逃げ切っている。逆に、デパート内にとどまっていても捕まえられるとは限らない。隣の建物と連結しているせいで、敷地が無駄に広いせいだ。
 佐久間が追いかける義理はどこにもない。それなのに、無駄な正義感で自ら進んで自分の休日を潰している。頼まれたわけでもないのに。
 ――馬鹿だ。本当に馬鹿みたいだ。おとなしく通報すればよかったのだ。だけど、見過ごせなかった。そういう自分が馬鹿みたいで嫌になる。でも、自分に嘘を吐くのはもっと嫌だ。
 幸いと言うべきか、佐久間にとっては不幸と言うべきか、下りのエスカレーターには誰も乗っていない。あっという間にひったくり犯はエスカレーターを降りて下の階に到達した。
 ――このままでは逃げられる。
 焦りながらエスカレーターを駆け下りた先で誰かとぶつかりそうになり、慌てて佐久間は踏みとどまった。
「すみません――って、なんでお前らがいるんだ!?」
「おや、奇遇ですね、佐久間さん」
 そこにいたのは三好だった。休日仕様の私服だった。すらりとした体躯を包む服は洗練されているが、どこか景色に溶け込むような絶妙な地味さを併せ持っている。
「俺もいますよ」
 甘利が三好の隣でにこやかに手を振った。こちらも私服。モデル並みに目立つはずの美貌の二人だが、何故か周囲の目を集めることはない。
 だが、佐久間は知っている。D課の連中は休日に仲良く連れ立って出かけるような関係ではない。
 とても嫌な予感に、そうであってほしくないと願いながら、佐久間は尋ねた。
「……お前ら、何してるんだ?」
 二人は顔を見合わせた。マスクで顔を半分覆っていてもわかる、端正な顔がそろって佐久間の方を向き、声を揃えた。
「仕事に決まっているじゃないですか」

 閑散とした休憩スペースに三人は移動した。
「佐久間さん、休みじゃなかったんですか」
 とぼけたように言う甘利に軽く殺意が湧きつつ、佐久間は三好の持っていた見取り図を覗き込んだ。
「俺の行こうとしたカフェがここに入っているんだよ」
 佐久間が軽く経緯を説明すると、甘利がすっとぼけた言葉を続けた。
「それで、休日なのにひったくり犯を捕まえようと? やはり佐久間さん、ワーカーホリッ――」
「皆まで言うな」
 佐久間は目を閉じた。自分でもわかっていることだが、他人に指摘されるのは辛い。とても辛い。
「でも、僕は心強いですよ。佐久間さんが加わってくださって」
「三好……!」
 佐久間は感激して三好の手を握ろうとしたが、三好はひらりと躱した。
「これで僕の仕事も減りますし」
「おい! 俺の感動を返せ!」
「はいはい、じゃれ合いはその辺にしてくださいね」
「お前が言うな!」
 いつも通りのやりとりをしつつ、てきぱきと甘利は他の面子に連絡し、鮮やかに作戦に佐久間を組み込んだ。さすがにD課の面々は優秀だった。あれよあれよという間に、共同戦線(?)の完成だ。
 スピーカーにされた三好のスマホから実井の声が言った。
『犯人は現在、中央エスカレーターから降り、六階の婦人服エリアを通り抜けようとしています』
「どこに向かっているかはわかるか?」甘利が尋ねる。
『進行方向から見て南エスカレーターに向かっているようですが、その近くのトイレに隠れるつもりかもしれません』
「南エスカレーターって、隣の別館と共通のエスカレーターだろ」
「まずいですね。隣まで逃げられると面倒です」
 佐久間は顔をしかめた。このデパートは複雑なつくりをしているせいで、逃げ場が多い。本館と別館が途中まで連結しており、南エスカレーターは二つの建物のちょうど間に位置している。別館には別のテナントが入っているせいで、捜査の許諾も別々に取る必要がある。
「待て、このエリアは紳士服もあるぞ。着替えるつもりなんじゃないか?」
「トイレで着替えて、別館から出て行くプラン、と」
『その線が濃厚ですね』
「僕もそう思います。であれば、トイレから出てきたところを捕まえるのがいいでしょう」
「よし、俺が行こう」佐久間は手を挙げた。
「では、僕は念のため上の階で待ち伏せします。甘利は五階で。実井は隣のテナントにも話を通しておいてください」
『了解』
 通話を切ると同時に、三人は別々の方向へ歩き出した。

「はあ、休日にまで張り込みするなんて……俺は一体何を……」
 独りごちながら、佐久間は南エスカレーター近くの店舗にいた。店の中を見て回る振りをしつつ、時折トイレを監視する。幸いにして紳士服エリアだったので、さほど不自然に見えないだろう。
 防犯カメラ担当の実井いわく、犯人は買い物をしてから佐久間たちの見立て通り、トイレに入ったらしい。まったく、防犯カメラの映像を即時開示してもらった手腕を教えてほしいくらいだ。
「こちら佐久間。奴さん、まだ出てこないぞ。そっちはどうだ?」
『こちら三好。それらしき人は来ていません。甘利は?』
『こっちも。やはりトイレで着替えていますね』
「何を買ったかはわかっているか?」
『すみません、買い物の内容まではカメラで追えていません』
「さすがに無理か……」
『佐久間さん、顔は覚えていますか?』
「いや……実は正面から顔を見ていないんだ」
 佐久間は歯噛みした。女から荷物をひったくった時とエスカレーターで追いかけた時、いずれも後ろ姿だった。服装を変えられたら、おそらく見分けがつかない。
『実井、買い物した店はわかるか』甘利が言った。
『ええ、ポール・エイデンです』
『じゃあ、犯人はその袋を持っているはずだ。脱いだ服をトイレに置いてくるわけにはいかないだろう』
 通話口で一瞬の間があり、次いで佐久間のスマホに通知が来た。
『紙袋の画像、転送しました』
「助かる」
 待つこと数分、ようやく男子トイレから人が出てきた。
「トイレから出てきたぞ」
 声を押し殺しながら佐久間は報告した。画面にロゴを表示させ、男の持つ紙袋と照らし合わせる。
「――当たりだ」
 男は着替え終わった安心感からか、悠然とした足取りでエスカレーターへ向かう。
『こちらも今確認しました。やはり着替えていますね。服装は青いストライプのシャツに紺のスラックスです』
 男が上りエスカレーターに乗った。
「上に向かうみたいだな」佐久間は報告した。
『上ですか? 下ではなく?』三好が訝しげな声で言う。
『気づかれないように距離を取って追いかけてください。甘利も階段で上へ』
『了解』
「わかった」
 短く答え、佐久間はさりげなく店から離れた。スマホを耳に当てたままエスカレーターに向かう。上に向かうという行動には不信感を覚えるが、とにかく後を追いかけるのが先だ。
 男はやや落ち着かなさそうに周囲を見渡している。
 ――どこまで行くつもりだろうか。屋上へ行ったところで逃げ場はないのに。
 友人と通話している振りをしながら、佐久間は油断なく男を監視する。
 七階に到達したところで、男は更に上へ向かうエスカレーターに乗った。どうやら別棟へ逃げるのではなく、最上階へ戻るつもりのようだ。
『佐久間さん、犯人の持ち物は紙袋だけですか?』
「ん? ああ、ポール・エイデンの袋だけだ」
 話している間にもエスカレーターを乗り継いでいく。
『じゃあ、ひったくった女性の荷物は――』
 三好が何か言いかけたが、ちょうどその時、一〇階へのエスカレーターに乗った男がふと振り向いた。その目が見開かれる。
「悪い、気づかれた!」
 男が紙袋を抱きしめて、エスカレーターを駆け上がる。
 佐久間も後を追い、エスカレーターを駆け上った。
『――仕方ありません。B案へ切り替えです』
 佐久間はスマホを切って乱暴にポケットに突っ込んだ。こうなれば、穏便に事を運ぶのは諦めるしかない。
 B案――力ずくで相手を捕獲。
 佐久間はため息をついた。自然と苦笑いがこぼれる。結局、いつもこうなるのだ。

 佐久間は再び、最上階に戻っていた。
 閑散とした衣料品店内を疾走する男。その後ろを佐久間は追いかけるが、なかなか容疑者は素早かった。売り場と売り場の間の通路ではなく、わざと売り場内をジグザグに曲がりながら逃げるせいで追いつけない。加えて、マスクのせいで息苦しくスピードが出ない。
「ああ、もう!」
 やけくそになって佐久間はマスクを剥ぎ取った。格段に息がしやすくなる。
「うわっ」
 何が起こっているのかわからない店員と衝突しかける。なんとか佐久間が避けると、肩が陳列棚にぶつかった。その衝撃で積まれていたルームシューズが落下、床に散乱する。
「そこのお前、止まれ……!」
「お、お客様!」
 混乱しながら制止する店員を振り返る余裕もなく、佐久間は走った。
 二人が走り抜けた棚から様々なものが落下していく。
 男が振り返る。焦った顔で佐久間を見て、
「――おわッ」
 床に落下した衣類を踏んで、思いっきり顔から転んだ。抱えていた紙袋が宙を舞う。
 痛そうな音を立てて、男が床に転がる。ぐしゃりと紙袋が床に落ちる。男は身を起こしてなおも逃げようとするが、
「おとなしくしろ」
 追いついた佐久間は男の背中に馬乗りになり、取り押さえた。
「犯人、確保」
 男の向こうから歩み寄る甘利が紙袋を拾い上げた。

「で、こんなことまでして、こいつは何を盗んだんだ?」
「ああ、見てもいいですよ」
 マスクを付け直し、男の腕を背中でひねり上げる佐久間に、甘利が紳士服ブランドの紙袋から更に一回り小さい紙袋を取り出した。中身が佐久間に見えるように口を広げる。
 ――女性服だった。春の新作とおぼしき、薄い生地のワンピース。
 甘利が服を取り出して見せた。他に何も入っている様子はない。ワンピースもタグがついたままだ。
 佐久間はじろりと甘利を見上げた。
「おい、これは何なんだ。服しか入ってないじゃないか」
「ええ、こっちは違いますよ。後であの女性に返してあげます」
 けろりと甘利が言った。
「はあ?」
 やや怒りを覚えながら佐久間が更に尋ねようとすると、
「回収作業、完了しました。取引相手も確保済みです。守衛室に預かってもらっています」
 甘利の背後から実井がしれっと現れた。手には甘利と同じ、女性服ブランドの紙袋。
 佐久間は実井と甘利を見比べた。二人とも同じ紙袋を持っている。佐久間はせわしなく瞬きした。
「……同じ紙袋が二つあるということは、つまり……?」
「そこの間抜けが間違えて、無関係の女性からひったくったってわけです」
 追いついた三好が通話を切って説明した。
 三好たちが追いかけていた男は、盗んだ荷物をデパートで依頼主に渡すつもりだったらしい。紙袋に入れた品物をベンチに置き、隣に座った依頼主も同じ紙袋を置く。そしてダミーの紙袋とさりげなく交換する――はずだった。しかし、不幸にも同じ紙袋を持った女性がたまたま隣に座ってしまった。女性を取引相手と勘違いした男は、女性の紙袋を持っていこうとして、女性にひったくり犯と騒がれた――という顛末らしい。
「窃盗の現行犯で逮捕します」
 三好がどこからともなく手錠を取り出し、男の両手に掛けた。がちゃん、と金属音が響く。
 佐久間は額に手を当てた。ひどく疲れていた。
「つまり、俺が追いかけていたのはただのひったくり犯じゃなかったってことか?」
「僕たちの休日出勤の原因ですね」
「それは……ご愁傷様……?」
「佐久間さんも、休日にご苦労様です」
「どういたしまして……?」
「なんでさっきから疑問形なんです?」
 三好が男を引っ立てながら言った。
「いや、まだ飲み込めないんだが……」
 着信音がして、実井が電話に出た。
「もしもし、実井です。神永の方は……はい、今確保しました。もう一人は――そうですね……」
 三好が実井を見ながら、男を立たせた。
「神永が処理してくれるみたいなので、僕たちはこいつを署まで連行しましょう」
「思ったより被害が少なくて助かった。緊急事態宣言のおかげだな」
 甘利が苦笑いする。
 佐久間は顔を上げた。棚から落下した衣類が散乱しているが、裏を返せばその程度だった。これが以前の賑わいの中だったら、怪我人も出ていただろう。
 D課がわざわざこの人数を割いて捕まえようとする相手だ。もっと惨事になっていてもおかしくなかった。
 ようやく理解が追いついて、佐久間は息を吐いた。ともあれ、骨折り損のくたびれ儲けは免れたらしい。
「――つまり、これはお前らの事件だったわけだ」
 佐久間はそうとは知らず、いつも通り仕事をしてしまった、ということになるらしい。
「手伝っていただいてありがとうございます」
 三好が丁寧に礼を言うのに、佐久間は手を振った。そう考えれば、この疲労も悪いものではなかった。
「いや、仕事だからな。それはいいんだが……で、結局、こいつは何を盗んだんだ」
「それは機密事項です」
 三好がかすかに笑いを含ませて紙袋を掲げる。
「知らない方がいいこともあるんですよ」
 実井が肩をすくめた。
「ああ、はいはい、いつものあれね」
 佐久間はげんなりした。
 D課の面々はいつもこうなのだ。佐久間には雑用を押しつけられているとしか思えない事件ばかりなのに、何か裏がありそうな含み笑いを見せる。佐久間が聞いても、真相は教えてくれない。
「それより佐久間さん、カフェはいいんですか?」
「あ」

 佐久間が慌ててカフェに向かうと、転倒の看板に張り紙がしてあった。
「本日、完売……パフェも……ケーキ、タルトまで……」
 うなだれる佐久間の肩に、追いついた三好が慰めるように手を置いた。


        


「また休日が潰れてしまった……」
 絶望したように佐久間は呟いた。
 デパートで出会った四人と事件の後始末をして、D課本部へ戻ってきていた。同行する義理はなかったのだが、悲しいかな、つい習慣で佐久間も着いてきてしまった。
「災難でしたね」
 出迎えた福本が気遣わしげに言った。
「俺、なんでこんなに運がないんだ? お前らが俺の運を吸い取ってるんじゃないのか?」
「疫病神扱いですか」
 実井が手を消毒しながら薄く笑う。
「そんな佐久間さんに、じゃーん」
 遅れて部屋に入ってきた神永が、後ろ手に隠していた箱を掲げた。自慢げに胸を反らす。
「パフェはさすがに無理でしたが、苺のタルトです」
 神永が箱を開けると、艶やかな苺が蛍光灯の光を反射した。その下にはカスタードクリーム。アクセントに乗せられたミントの緑が鮮やかだ。
 佐久間は興奮に声を震わせた。
「こ、これは限定フェアの苺タルト……!」
「おお……!」
 緊急事態宣言にも動揺しなかったD課の面々もどよめく。
「本当は明日までのフェアの分でしたが、休業に伴って破棄されることになったので、特別にもらってきました」
「神永、お前……!」
 瞳を輝かせて、佐久間は神永の背中をバシバシ叩いた。
「礼を言うぜ! ありがとう!」
「どういたしまして」
 神永がウインクした。
 三好が常備している紙皿とフォークを空いている机の上に置いた。タルトを紙皿にひとつずつ乗せていく。
 いつの間に準備していたのか、福本が二リットルのペットボトルをケーキの隣に置いた。佐久間の隣に立ち、これまたいつの間にか準備されていた佐久間のマグカップにお茶を注ぐ。
「俺のケーキでは不満でしたか?」
「福本、違う、そうじゃなくて」
 慌てふためく佐久間に、わざとらしく悲しげに眉を下げる福本。
「ほら、たまには店の味もいいだろ?」
「まあ、参考にはなりますね」
「そこ、黙って食えよ」
 神永の声が飛んだ。

「なあ神永。あれは本当なのか?」
 満面の笑みで静かにタルトを頬張る佐久間から距離を取り、コーヒーをすする神永の隣に甘利が立った。
「何が?」
 甘利が穏やかな表情のままタルトにフォークを刺した。
「あのメニューは佐久間さんが行った時点で売り切れていたはずだ。休業が決まっているのに、翌日の仕込みをするはずがない。あらかじめ取り置きを頼んでおかない限り」
「想像にお任せするよ」
 神永がにやりと笑う。
「ただ三好が、佐久間さんがあんまりにも可哀想だと言うからさ」
 甘利が眉を上げる。
「相変わらず、佐久間さんにだけは甘いな」
「仲が良いのは良いことだろ」
 神永は肩をすくめた。
 頬を緩めてタルトを完食した佐久間の元へ三好が近寄っていく。
 がちゃりと扉が開いた。
「結城中佐」
「お疲れ様です」
 条件反射のように佐久間が背筋を伸ばし、挨拶する。しかし、手に紙皿を持ったままでは締まらない。
 凍てつく魔王の瞳が部屋を一周し、事態を把握したのか、かすかにほころんだ――ように見えた。
「結城中佐も召し上がります? まだありますよ」
 三好が箱を指し示した。
「いただこうか」
 可愛らしい苺の乗ったスイーツを手にするいかめしい中年男性。あまりも似合わない絵面に神永は笑い出しそうになる。
「何だ」
「いえ、何も」
 結城中佐が自席に座り、タルトにフォークを刺す。
「いやあ、春だな」
「何を急に」
「別に」
 不審そうな顔をする実井に、神永は笑顔で応えた。
 魔王の全てを見透かす視線も、今だけはどこか温かさがあった。

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