一



「しのぶちゃん、誕生日おめでとう!」
 甘露寺蜜璃が満面の笑みで言った。周囲をぱっと明るくするような笑みだ。上気した頬が、嬉しいのだと言葉よりも雄弁に伝える。緑色に染まった三つ編みの毛先を跳ねさせて、手に持った包みを掲げた。
「ケーキを持ってきたの!」
「まあ、ありがとうございます」
 しのぶもにっこり笑い返した。
 蝶屋敷の庭に咲いた梅は満開だ。起き抜けはまだ寒いが、気持ちよく乾いた空気が日差しに暖められている。
 ――とうとうこの日が来たのだと思った。
 胡蝶しのぶ、一八歳の誕生日だった。

                *

 じゃあ私は任務があるから、と慌ただしく去っていく甘露寺の背を見送り、しのぶは台所に入った。
 箱を開けると、手のひらより二回りほど大きなケーキが鎮座していた。白いクリームの上に赤い苺が乗っている。高級品の乳製品を使った一品。とても一人で食べきれる量ではない。蝶屋敷の皆で食べてくれ、ということだろう。
「今日のおやつにしようかしら……それでも余るかしら……カナヲの分を取っておいて……」
 蝶屋敷にいる人数を数えながらぶつぶつ言っていると、
「しのぶさま!」
 幼さを残した声に呼びかけられた。
 しのぶが振り向くと、
「お誕生日おめでとうございます!」
 三人の少女が小さな細長い包みを差し出した。無邪気に笑うなほ、きよ、すみの後ろで、少しだけ緊張した面持ちのアオイが立っている。
「開けてもいいですか?」
「はい。どうぞ!」
 しのぶは包装紙を開けた。手のひらに乗るくらいの大きさの包みは、少し光沢のある紙に百貨店の名前が入っている。包装紙を剥がすと、黒い箱が現れた。
「まあ、万年筆ですね、ありがとう」
 箱から取り出した万年筆を眺める。金色の輪が光を反射して輝き、つややかな黒い軸に自分の顔が映り込んでいる。姉によく似て――姉とは違って似合いもしない笑顔だ。
「えっと、カナヲさんとアオイさんと選びました」
 三人の少女が顔を見合わせて言った。
 軸に刻まれた英字が舶来品であることを示している。それなりに高価な品だから、給金から捻出するのはそうたやすいことではなかったはずだ。
「これだと硯も必要ありませんから」アオイが三人の後ろから言う。「カナヲは昨夜から任務なので、私から代わりに」
「――ええ。ありがとう」
 しのぶは万年筆を箱に戻した。どんなものでも嬉しいが、実用品を好むしのぶの性格を鑑みての贈り物なら、喜びもひとしおだ。
 両親が生きていた頃は、着物を仕立ててもらっていた。比較的裕福な家だったから、櫛やかんざしの時もあった。
 鬼殺隊の隊服に身を包む今は、あまり私服を持ち合わせていない。唯一の装飾品は、蝶の髪飾りだけだ。姉と蝶屋敷の少女たちと揃いのもの。化粧も薄く紅を差すだけで、年頃の娘にしては質素な部類だろう。
 無意識に頭の後ろに飾った蝶に触れていた。
 ちらりと胸をよぎった感情を押し込めて、とびっきりの笑顔を作った。
「甘露寺さんからケーキをいただいたの。みんなで食べましょう」
 箱の中身を見せると、なほ、きよ、すみがきゃあと歓声を上げた。

 甘露寺のケーキは実に美味だった。
 つついただけで崩れそうな繊細なつくりで、砂糖を惜しまず使っている。
 これほどの菓子はめったに口にできるものではない。柱の天井知らずの給金であれば不可能ではないが、しのぶは自分のために給金を使ったことがほとんどなかった。
 きゃあきゃあと高い声で騒ぎながら、少女たちがケーキを食べている。
「きよ、頬にクリームがついていますよ」
「あっ、すみません」
 恥ずかしげに頬のクリームを拭ったきよに、しのぶは微笑む。
 しのぶの柱としての給金とは別に、蝶屋敷は特別に資金を得ている。だから慎ましい生活をしなければならないわけではないが、過度に甘やかしてはならないと、買い与えるような真似は控えてきた。
 ――でも、たまになら、いいかもしれない。
 微笑むしのぶの横顔を、アオイはじっと見つめた。



     二



 夕暮れ時になって、カナヲが帰ってきた。息せき切って屋敷に駆け込んでくる。
「あ、あの……師範」
 ちょうど縁側を通りかかったしのぶをカナヲは見上げた。
 庭先の梅の匂いを連れてきたようで、ふわりと甘い匂いがした。いつもはガラス玉のように風景を映すだけの瞳に、別の色が乗っている。
「おかえり、カナヲ」
 乱れた髪を整えもせず、カナヲは立ち尽くした。よく見れば、手に風呂敷包みを持っている。
 しのぶは微笑んだ。
「そんなところに立っていないで、早く上がりなさい」
「は、はい」
「頭の上に梅の花がついてますよ」
「あ……」
 カナヲがかすかに頬を赤らめた。

「あの、今よろしいでしょうか」
 軽く顔を拭って汚れを落としてきたカナヲが診察室の入り口に立っている。
 ちょうど患者はいない。
 しのぶはもじもじしているカナヲを手招きした。
「何ですか?」
 要件の検討はついているが、本人に言わせたい。
「師範、これを」
 そっと包みを差し出される。
 風呂敷をほどくと、色とりどりの飴玉だった。透き通る色合いが美しい。ほのかに甘い香りが部屋に漂う。
「まあ、これは……」
 カナヲは黙ったままだ。
「もしかして、私の誕生日祝い?」
 カナヲは頷いた。
 しのぶはカナヲの顔を見つめた。何をするにも指示されなければ動けないカナヲのことだ、アオイが助言したのだろうか。
「あ、あの……」
「飴を買ってきてくれたのね」
「何を買えばいいかわからなくて……」
 カナヲは視線を落とした。途切れ途切れに言葉を紡ぐのを、しのぶは忍耐強く待った。
「アオイには、みんなで万年筆を買うから無理しなくても、菓子でも買えばいいからって言われましたけど、あの、私……」
 カナヲの手がスカートを握りしめた。
「ありがとう、カナヲ。とても嬉しいわ」
 ふわふわとほころぶような喜びがこぼれ出て、しのぶは微笑んだ。今日はいつもより笑っている気がする。
 自分の意思というものを持てなくなったカナヲが、それでも祝いの品を選んできた。これを喜ばずしてどうするというのだろう。
 指で箱のふちを撫でる。
 たしかに時が進んでいるのを感じた。
 妹に等しいカナヲも、ひどくゆっくりであっても、前に進んでいる。
「そろそろ夕飯ですから、これは後で食べますね。それとアオイ、そんなところにいないで入っていらっしゃい」
「しのぶさま……」
 決まり悪そうに、扉を開けたアオイが顔を出した。
「ちゃんと渡せるか心配で……盗み聞きみたいになってすみません」
 アオイはカナヲを見やる。
 カナヲはちらりとアオイに目を向けた後、しのぶを見た。
 くすりと笑いが漏れた。
 アオイはずっと妹をほしがっていたから、カナヲを妹のように扱うのだ。蝶屋敷の誰も、血の繋がりはない。それでも姉妹であった。しのぶはそう断言できる。
「あ、しのぶさま、その」
「何ですか?」
「必ず、ご自分で召し上がってください。しのぶさまの誕生祝いですから」
 こくこくとカナヲも頷く。
 どきりとした。
 菓子を分け与えるつもりなのを見透かされていた。
 姉が死んでから、蝶屋敷の頭となって運営してきた。自分のことはいつも後回し。気づかれていたのだ。
 不意に鼻がつんとした。
「しのぶさま、御夕飯ができました」
 ちょうどよく三人娘が呼びに来たから、しのぶはこっそり羽織の袖で目元をぬぐった。
「ええ、今行きますよ」
 妹たちの成長が嬉しい。
 しのぶが年を取るごとに、妹たちは大きくなる。そんな当たり前の喜びを噛みしめる。
 記憶の中の姉が脳天気に笑っていた。



     三



 灯りをともした私室で、羽織を脱いで衣桁に掛けた。蝶の羽を模した羽織は姉の遺品だ。女性にしては長身の姉に合わせて仕立てられたそれを、丈を詰めて着ている。もう背は伸びきってしまった。
 電灯の黄色がかった光が部屋を明るく照らしている。昼間の明るさには届かなくとも、闇が追い払われた空間には、やはりほっとする。
 夜は鬼の時間だ。
 お館様が気を利かせたのか、ここ数日は任務が入っていない。お館様のことだ、しのぶの誕生日も把握済みだろう。
 おかげでささやかな祝いを楽しめた。
 それでも完全な休息というわけにはいかない。急患がいつ運び込まれるかわからないのだ。蝶屋敷の主人に収まってから覚悟していたことだから、今日はとても運がよかった。

 文机の前に座って、二つの箱を開ける。
 アオイの説明を思い出しながら、万年筆を取り出して、キャップを回して開ける。金色のペン先が光を反射した。次に、軸の後ろをつまんで回す。一緒に渡されたインク瓶の蓋を開け、ペン先を浸した。軸の後ろをねじってインクを吸い上げる。キャップを閉めて万年筆を机の上に置く。
 インクが馴染むのを待っている間、もう一つの箱を開けた。カナヲが選んだ菓子だ。砂糖は貴重だから、これも安い買い物ではない。
 美しい色合いの飴をひとつつまんで、口に入れた。
 じんわりと甘さが広がる。少し、肩の力が抜けた。

 もう、四年も経った。
 今日、姉の享年を超えた。

 その事実を純粋に喜べない自分がいる。
 部屋に一人になると、追い払ったはずの感情が再び湧き上がってくる。
 鬼を狩り、怪我人の処置に当たり、そうしてめまぐるしい日々を送ってきた。気づけば自分も一八歳だ。
 姉が死んでしまって、自分だけが生き残った。
 ――違う。しのぶは自分を否定する。生き残ったのはしのぶだけではない。カナヲもアオイも、なほ、きよ、すみも。自分にはまだ妹たちが残されている。
 蝶屋敷に住まう少女たちの庇護者。しのぶは姉の代わりにその肩書きを担った。ここではしのぶが姉だ。
 今日の彼女たちの様子を思い出す。誰も血縁でなくとも、ひとつ屋根の下で暮らしている。彼女たちは立派な家族だ。
 どうか、あの子たちにはいつか平穏が――そう思って、しのぶははっとした。
 姉も、しのぶにそう願ったのだ。
 死の間際に、普通の幸せを願われた。
 それを思い出すたび、怒りがこの身を焼いて、指が震える。
 普通になんて生きられない。
 鬼を殺すための毒を食って、もう、普通の女ではいられない。この身体は文字通り、鬼に食われるためにある。
 姉に願われた幸せ。普通の女の幸せは何だろう。結婚して、子どもを産んで、おばあちゃんになるまで生きる? そんなのはごめんだ。
 鬼に両親を殺されてから、そんなものは捨てたのだ。
 姉は勝手な人間だった。
 たかだか数年先に生まれただけで、大きな顔をしてしのぶをこの世すべての災いから遠ざけようとしていた。姉妹で鬼殺隊に入って、自分たちのような悲しい人を一人でも少なくしようと約束したのに、しのぶを遠ざけようとする。体格が劣るから。ただ一人の妹だから。妹を守るのは姉の務めだから。
 勝手だ。あまりにも勝手だ。それがしのぶの幸せだと決めつけた。
 姉というのは、長子というのは、みんなそんなものなのだ。
 万年筆をじっと見つめる。つややかな黒い樹脂に映る自分の顔を見つめる。その顔に、姉の面影を探す。
 すっかり口の中の飴が溶けていた。

 もうすぐ夜が明ける頃、束の間の眠りに就く前、外から足音がした。
 しのぶは羽織を羽織った。障子を開ける。
 縁側に出れば、黒い人影が立っている。闇と同化しそうな黒髪に、月明かりに照らされた派手な柄の羽織。白い貌が月光に浮かび上がって見える。
「何の用ですか」
 人影が近づいて、縁側に立つしのぶを見上げた。
 いつも通りの能面に、しのぶは息を吐いた。
「まだ寝ていなかったのか」
「あなたが来ましたからね」
 水柱・冨岡義勇は少しだけ眉を動かした。見回りから帰ってきただけのか、それほど身なりは乱れていない。それでも一応尋ねた。
「怪我でもしましたか?」
「いや」
 義勇が首を振った。
「常備薬が足りなくなりました?」
「いや」
 水をたたえた湖面のような瞳がしのぶを見上げる。
「じゃあ、何しに来たんですか」
 義勇は少し口を開いて考え込んだ。
 しのぶが辛抱強く待っていると、義勇はようやく言葉を発した。
「お前の顔を見にきた」
 多大な誤解を招く表現に、しのぶは深いため息をついた。

 縁側に並んで腰掛ける。冴え冴えとした月明かりが二人を照らす。面倒なので茶は出さなかった。屋敷の者を起こすのはしのびなかったからだ。どうせ唐変木の義勇には必要ない。そこそこ付き合いも長いのだし。
「休まないのか」
 義勇の視線がしのぶの隊服に注がれる。詰襟の上着と脚絆は脱いでいたが、白いシャツと洋袴は身につけたままだった。
「夜に眠ることなんてできませんよ、知っているでしょう」
 少し仮眠を取るつもりだった。夜は長い。柱ともなれば、いつ緊急招集されるとも限らない。急患は時間を鑑みてはくれない。
 義勇は黙っている。
「見回りは終わったんですよね。何かご用ですか?」
「さっき言った通りだ」
「……まさか、本当に私の顔を見に?」
 義勇は頷いた。
「胡蝶が」
 それきり口を閉ざす。続く言葉を待っても、義勇は何も発しなかった。
「何なんですか……」
 さっきからため息ばかりついている。付き合いは長くとも、義勇が何を考えているのかわからない。親しげに下の名を呼んでいた姉はわかっていたのだろうか。わからなくても気にしなかったのかもしれないが。
「胡蝶カナエが」
 出し抜けに義勇が言った。
 不意打ちすぎて、しのぶは一瞬息を止めた。胸を浅く切り裂かれた気がした。
 義勇がしのぶをじっと見つめている。凪いだ湖面のような瞳からは何も読み取れない。
「姉さんが、何ですか」
 努めて平静に尋ねる。
「今日誕生日なんだろう」
「もう昨日ですけど……ご存じだったんですか」
「以前、お前の姉に聞いた」
「……そうですか」
 しのぶは目を逸らした。
「だから胡蝶が……」
 再び義勇は黙り込む。寡黙な上に壊滅的に言葉選びの悪い人だから、何を言えばいいのか悩んでいるのだろう。いつもは言葉を補ってやっていたが、そんな気持ちにもならない。勝手にすればいい。
「今日は――いや、昨日は楽しくなかったか」
 ぴくりと指が動いた。かすかに頭をもたげた感情を押し込めるように、しのぶは笑顔を作ってまくし立てた。
「楽しかったですよ、もちろん。甘露寺さんがケーキを持ってきてくださって、アオイたちには万年筆をもらいました。そうだ、見ますか冨岡さん。舶来の品で、とっても珍しいんです。ああ、あとカナヲに飴をもらったんです。何をするにも自分では決められないカナヲが、店で散々悩んで選んできたんですよ、どうです、羨ましいでしょう」
 義勇はじっとしのぶを見つめている。やはり、表情は動かない。
「羨ましい限りだな」
 ちっとも羨ましそうではない声で言われた。
 なんとなく苛立ってきて、しのぶは顔を逸らした。そうだ、言われるまでもない。しのぶは幸せなのだ。妹同然にかわいがっている少女たちと同僚に誕生日を祝われたのだ。この、見るからに親しい者がいなさそうな男よりもずっと幸せなのだ。
「悲しむなよ」
「何を言っているんですか」
 悲しんでなどいない。朝から嬉しいことばかりだ。同僚と妹たちから言祝いでもらって、一体何を悲しむというのだ。
 しのぶはきっ、と義勇を睨みつけた。言葉選びが悪いにもほどがある。
「悲しむ必要がどこにあるんです? おかしなことを言わないでください」
「……お前がそう言うのなら」
 だけど。そう、少し、ほんの少し。
 ――寂しいのだと、その心を持て余しているのだと、とうとうしのぶは認めた。
 しのぶは一八歳になった。姉は一七歳で死んだ。とうとう年齢が逆転した。
 この日を心の奥底では恐れていたのかもしれない。
 ――まるで、姉が姉でなくなってしまうような。
「俺ももう、姉さんより年上だから」
 ぽつりと、静かな夜闇に言葉が落ちる。
 義勇の家族の話を聞いたのは初めてだ。何年もの付き合いなのに、今まで口にしたこともなかった。
 ――そうだ。誰もが何かを、誰かを失っている。この人だって。
 だから気づかれてしまった。
 普段はぼうっとして鈍いくせに、どうして気がつくのだろう。完璧に隠していたはずだったのに。
 するりと言葉が口をついて出た。
「ずるいですよ、冨岡さん」
「何が」
「こんな時ばっかり」
 義勇は少し視線をさまよわせた後、ためらいがちに手を伸ばしてきた。ぎこちなく頭を撫でられる。きっと、彼が姉にしてもらったことなのだろう。
「あなたなんか大嫌いです」
 義勇がびっくりしたように目を少しだけ見開いた。その顔がおかしくて、しのぶは笑った。豆鉄砲を食らった鳩みたいだ。見たことはないけれど。
「冗談ですよ」
「そうか」
 義勇はすっと表情を消した。見間違いだったかと思うほどの無表情だ。
「ええそうですよ、あなたなんか」
 これが甘えなのだと知っている。
 贅沢なことだ。両親を失っても、姉を失っても、しのぶにはまだ残されている。大切な人たちがいる。身を焦がす怒りは消えずとも、何もかも失ったわけではない。失う前に得たものが残されている。失った後に得たものがある。
 しのぶはそれを大切にしたいと思っている。いつ失うかもしれないものだから、幸せはいつまでも続くわけではないから。
 姉が期待した幸せではないだろう。だが、しのぶはこの道を選んだ。他ならぬ、自分自身の意思で。完璧な幸せなんかではなくて、つぎはぎだらけで、ほころびに目を背けながら走っているだけなのだとしても。時にほころびからこぼれる感情に溺れそうになっていても。身も蓋もなく泣きわめきたくなっても。
 しのぶは弱い。その弱さを受け入れている。受け入れて生きている。
「……ありがとうございます」
 小声で礼を言うと、義勇は不思議そうに小首を傾げた。なぜ礼を言われたのかわかっていないようだ。
 まったく、だから義勇のことは嫌いだ。姉にあんなに心を砕いてもらっておきながら、とうとう心を閉ざしたままだった。姉の優しさを無下にした。しのぶにだって、心を開いているわけではない。
 義勇は誰にも心を許さない。鬼殺隊の中ではそれなりに付き合いのあるしのぶにだって、その本心はわからない。
 だが、しのぶの寂しさを理解してくれるのもまた、義勇だけだった。
 この屋敷に住む少女たちには決して明かせない感情。皆の姉でいるためには、弱さをさらけ出すわけにはいかない。
 だから、この瞬間だけだ。
 姉の形見の羽織を目に押し当てる。
 頭を撫でる手がそっと離れる。
 明日からはいつも通りだ。姉の代わりに蝶屋敷の主として振る舞う。そう自分に課した。
 義勇は隣に座ったままだ。何もしない。
 それでいい。しのぶも何も望まない。慰めはいらない。これはしのぶだけの感情だからだ。安っぽい同情なんかいらない。
「あなたなんか――」
 引きつった呼吸になりかけた。しのぶが泣き出したところで、きっと、何も言わないのだろう。だから泣かない。
 ――きっと、妹でいたかったのだ。
 おっとりした姉と、しっかり者の妹。どっちが姉かわからないわね、なんて冗談を言われて、でも、いつだって姉がしのぶの手を引いていた。
 しのぶはもう、妹ではいられない。心に空いた洞を、血の繋がらない妹たちでは埋められない。誰も代わりにはなれない。代わりなんていない。
 しのぶだけの姉はもう、どこにもいないのだ。
 この唐変木の朴念仁にだけ、それを理解されてしまうことが、たまらなく悔しかった。

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