一



 これは血の呪いではないかと思う時がある。
 
 産屋敷一族は、血に呪われている。鬼の首魁を倒すために鬼殺隊を作り上げ、組織を保つ。鬼のせいで短命に終わることを宿命づけられ、己の寿命が終わる前に子を成し、次代に継いでいく。
 煉獄の家も似たようなものではないのか。そう考えたことがなかったわけではない。
だから、この後に及んで、杏寿郎も煉獄家の心配をしてしまう。
 杏寿郎には子がいない。弟では技量が足りない。
 煉獄家は途絶えるかもしれない。長い歴史の中で一度も途切れたことのない炎柱の継承を、ここで途絶えさせてしまうのか。
 この血を憎んだことはない。
 ――だが、重荷に感じる瞬間を、否定することはできなかった。

                *

 煉獄家は代々、鬼殺隊・炎柱を輩出する。
 だからお前は、必ず炎柱にならなければならない。

 煉獄家の長男がたたき込まれる言葉だ。家訓と呼ぶことさえ軽すぎるほどのそれは、必ず果たされなければならない誓いだ。
 ああ、伝統、伝統、伝統!
 時にその言葉は、煉獄家嫡男・杏寿郎に重くのしかかる。
 幼い頃から厳しくしつけられてきた杏寿郎にとって、炎柱になることはごく当たり前の未来にすぎなかった。
 煉獄家の男児は鬼殺隊に入る。鬼を狩り、炎柱になるのが務め。それはほとんど、確定した事実だった。
 他の柱はそうではないらしいと知った時は驚いたものだ。
 現在炎柱を努める父の継子となり、父が引退した後は炎柱を引き継ぐ。疑うこともなかった。代々そうしてきたし、自分もその一員となるだろう。
 だから、父が炎柱を辞したその日、杏寿郎にとっての未来は一度、粉々に打ち砕かれたのだった。



     二



 炎を絶やしてはならない。

「兄上、こちらをどうぞ」
 自分とそっくりな顔をした弟・千寿郎が、洗濯された隊服と羽織を差し出した。
 開いた襖から差し込む夕日が畳を赤く染めている。
 ――鬼の時間が近づいている。
「うむ、ありがとう」
 すっくと立ち上がり、隊服に袖を通し、腰に刀を差す。羽織を肩に掛け、杏寿郎は足を踏み出した。
 無言のまま、連れだって玄関まで行く。
 湿った空気の匂いがする。
「どうかご武運を」
 必ず千寿郎が杏寿郎を送り出し、迎える。兄弟二人だけの儀式だ。母を喪い、父がすべてを放棄して家に戻ってきてから、二人だけの決め事だった。
 杏寿郎が十分に鍛練を積んで柱の名をいただく前に、突如父は家に戻ってきた。
 それからの父は、毎日酒ばかり呑んでいる。
 杏寿郎が自力で――父の今までの教えを思い出しながら――鍛練を積み、最終選別を合格した時も、父はちらりと杏寿郎の顔を一瞥しただけだった。
 屋敷から一歩踏み出し、振り返った。
 父の姿はない。
 鬼殺隊を辞めたとしても、後進を育てるという手段もある。父はそれさえも拒んだ。連綿と受け継がれる煉獄家の伝統を途絶えさせても構わないのだとばかりに、杏寿郎の稽古も放り出した。
 立派な門構えの屋敷が夕闇に沈み始めている。これは煉獄家の積み重ねた歴史そのものだった。鬼を狩るために一生を費やす。それを保つことこそが煉獄家の男の役割であると、杏寿郎に教えたのは父であったのに。
 杏寿郎は首を振って、ぱしりと頬を叩いた。気弱になってどうする。しっかりしろ。今や、杏寿郎がこの家の柱なのだから。

                *

 父は強かった。鬼殺隊の剣士、最高位の柱を拝命するほどの力量を確かに備えていた。
 振るう刀から発せられる炎は、たちまち鬼を焼いて闇を打ち払った。
 そんな父が、ある日突然、何もかもを放り出してしまった。
 何が決定打だったのだろう。母が死んだことだったのだろうか。
 受け継がせるべき息子がいながら、父は煉獄家の定めに背を向け、酒に溺れた。
 
 その日から、杏寿郎は子どもではいられなくなった。

 母が死んでから、屋敷もまた死んでしまったかのようだった。
 やけを起こした父が手伝いの者を辞めさせてしまったせいで、男一人と子ども二人が住む広い屋敷は静まりかえっている。
 喪が明けきらぬうちから、杏寿郎は稽古を再開していた。
 道場に一人でこもり、家に受け継がれた指南書を読んで技を極める。
 息が上がったところで、杏寿郎は木刀を下ろした。額の汗を拭う。
「兄上」
 道場の入り口に立った弟が呼びかけた。ずっとそこに立っていたのだろうか。
 杏寿郎が手招きすると、千寿郎はとことこと歩み寄った。
「兄上」
 まだ幼い千寿郎が杏寿郎の袖を掴んだ。杏寿郎の胸にも届かないほどの背丈で母を亡くした弟を、杏寿郎は精一杯慈しんでいた。
「どうしたんだ、千寿郎」
 千寿郎は何も言わず、袖を握りしめた。兄の側にぴたりとくっついて離れようとしない。
「父上にけいこをおねがいしたのに、今日も……」
 千寿郎はうつむいた。丸い頭を撫でながら、杏寿郎は表情を押し込めた。
 父は杏寿郎にも稽古をつけてくれない。後を継がせねばならない嫡男の教育すら放り投げて、母の死に足を取られている。
「父上もそのうち元気になる! だから今はそっとしておいてくれ。稽古なら兄がつけよう」
「はい……」
 袖にすがりつく弟の手を杏寿郎は握った。水仕事をしていたのか、子どもらしからぬひんやりした手だった。家事をする者がいなくなって、自然と千寿郎が家のことを担うようになっていた。
 父の役割は杏寿郎へ。母の役割は千寿郎へ。
 二人だけの兄弟が、今にも崩れそうなこの家を支えている。
 杏寿郎は剣士にならねばならぬ。父が諦めたとしても――否、だからこそ、嫡男の杏寿郎が後を継がねばならない。杏寿郎が立派に役目を果たせるようになれば、いずれ父も前を向けるようになるはずだ。
 杏寿郎は固く信じていた。きっと父ならば、そのうち立ち直るのだと、信じてやまなかった。あの父が、まさかこのままでいるはずがない、一時的なものにすぎないのだ、と。
 粉々に砕けた未来を必死で拾い集めて、元通りにしようとする子どもじみた行いを――正真正銘子どもだったのだと、教えてくれる人はいなかった。
 杏寿郎が最終選別を受ける前の年のことだった。

                *

「南東の堀切村か……」
 鎹鴉が先導するように空を舞う。その後ろを追いかけながら、杏寿郎は呟いた。
 今日は一人での任務ではない。どちらかと言えば、杏寿郎を育成するために組まれた任務だった。
 父が炎柱を辞してから、誰かが穴埋めになったらしい。母の喪が明けたのち、産屋敷からそう通達があった。
 当然のことだ。炎柱が絶たれてはならない。煉獄家が代々努めるのだとしても、不測の事態もある。その間、柱の地位を開けておくわけにもいかない。
 急遽、甲の隊士から柱の候補が選抜された。鬼を四十体狩る、もしくは十二鬼月を一体狩ること。条件を満たした者のうち、選ばれた一人が炎柱となった。
 だから、これは顔合わせを兼ねた産屋敷からの気遣いだ。父の現状を知ったお館様が気を利かせて、杏寿郎に指南役を案内しているのだ。その意図に気づかぬほど、杏寿郎は鈍くはなかった。
 さて、これから会う炎柱はどんな人だろう。逸る心を抑え、杏寿郎は駆け足で鴉の後を追いかけた。
 いずれ自分がその地位に就くことになると疑いもしない傲慢さを、知りもしなかった。

「やあ、君が煉獄杏寿郎くんかな」
 壮年にさしかかろうとする男がにこやかに出迎えた。
 先に着いていたらしい。待ち合わせ先の村はずれの大木の側に、その男は立っていた。
「はい! 本日はよろしくお願いします!」
「威勢のいい返事だ」
 父よりいくつか年下だろうか。短く切った黒髪で、がっしりした体型をしている。背丈は同じくらい。まだ成長期の杏寿郎なら、そのうち追い越すかもしれない。
「俺は照沼。お前さんの親父殿とは、同じ呼吸同士、何度か顔を合わせたことがある」
「そうでしたか」
「お前さんにも一度会ったことはあるが、まあ……三つかそこらだったからな、覚えていないだろう」
 杏寿郎は記憶を探ってみたが、とんと思い至らなかった。
「申し訳ございません! まったく覚えておりません!」
 その表情を見て、照沼は破顔した。
「正直な奴だな」
 怒っているわけではなさそうで、杏寿郎は安堵した。
 
 さて、と照沼が地図を広げた。
「隠の報告によれば、この村で三人、行方知れずが出ている」
 杏寿郎は灯りを掲げた。とっぷりと日は暮れ、夜が始まっている。
 灯りに照らされた村の見取り図には、印がつけられている。
「この印がついたのが、今月いっぱいで行方知れずが出た家だ」
 照沼が地図をとんとんと叩いた。
 杏寿郎は瞬きした。
「この一月で、ですか」
「人さらいの可能性も考えたが、同じ村からこれほど連れ去るはずもない。売られたらまだしも、この村はさほど貧しいわけでもないしな」
「売られる?」
「お前には実感がないかもしれないが、貧しい農村なら珍しいことじゃない」
 暮らしに困ったことのない杏寿郎には、ぴんと来ない話であった。母を亡くしたとしても、煉獄家には父の柱としての給金および退職金と、領地からの収入があった。
 かすかに眉根を寄せた杏寿郎に、照沼は笑う。苦みを含んだ大人の笑みだった。
「俺たちは鬼を狩るために来たんだ、取り間違えるなよ」
「……はい」
「さて」空気を切り替えるように、照沼が言う。「報告は聞いているな」
「はい」
 重々しく杏寿郎は頷く。
「山の上の神社で、食い残しが見つかったと」

                *

 灯りを消して、月明かりを頼りに神社へ歩く。手入れされた山道は、さほど労せずして上ることができた。
 見下ろすと、ひとつ、またひとつと人家の灯りが消えていく。
 夜は鬼の時間だ。
 電灯が普及し始めているとはいえ、まだ電気の通らない地域は残されている。そういうところでは、灯りは貴重だった。
「おそらく鬼は神社をねじろにしているんだろう」
「この神社は既に遷座されたと聞きましたが」
「それが三月前のことだ。空いている神社に目をつけた鬼が巣くったとすれば、時期も合う」
「死体の有様は、まるで獣に食い散らかされたようだったと」
「そういう趣向の鬼もいる。獣の仕業と間違われるのは、まあ、定石だな。熊にでも襲われたと勘違いして、調べてみれば鬼だった、なんてのは枚挙に暇がない」
「左様ですか」
 話しているうちに、頂上にたどり着いた。
 まだ廃れた様子も感じない鳥居をくぐり、境内へ踏み込む。
 ――なんだか嫌な臭いがした。
 ぞわぞわと首筋の毛が逆立つような、嫌な気配だ。
「いるな」
 声を潜めて照沼が言う。
 雲が月を覆って、闇が訪れる。
 わだかまる闇に潜む何かがいる。
「来るぞ!」
 ぐるる、とうなり声がした。
 何かが飛びかかってくる。
 杏寿郎は刀を走らせた。
 強い手応えがあって、ぐっと膝を曲げ、踏みとどまった。
 雲の隙間から差した光がそれを照らした。
「狼……!」
 それも一頭だけではない。
 いつの間にか、二人は狼四頭に囲まれていた。
 杏寿郎は息を吸った。
 ――炎の呼吸・昇り炎天。
 下段から振り抜いた刃が、獣の前足を裂いた。ぱっと血が飛び散る。
 痛みに狼が吠える。
 すかさず踏み込んで、刀を突き刺した。ずぶりと柔い腹を貫く。
「杏寿郎――!」
 横合いから別の狼が飛びかかってくる。
 それを炎の獣が噛み砕いた。
 かき消えた炎の向こうで、照沼が伍の型で刀を構えている。
 ぐる、と残った二頭の狼が下がる。
 杏寿郎は腰を落とした。足下に広がる狼の血の臭いが鼻をつく。
 二頭同時に飛びかかってきた。杏寿郎に狙いを定めて、大きく顎を開く。
 とっさに刀を顎に押し込んだ。しかし勢いを殺せず、杏寿郎は地面に押し倒された。腹の上に狼が乗っかる。獣くさい息が顔にかかる。
 もう一体が足にかみつこうとしたところを蹴り飛ばした。腕の力が弱まったところを狙われ、牙が迫る。
「――ぐっ」
 刃を噛まれ、ぶるぶると腕が震える。
 鋭い息づかいがして、狼が吹っ飛ばされた。
 すかさず身体を起こした。
 狼は襲ってこない。
 かわりに、白々しい拍手の音が響いた。
「素晴らしいね、君たち」
「いよいよおでましか」
 照沼が吐き捨てた。
 
 鬼がいた。

「俺の獣を殺したのは、お前たちが最初だ」
 青年の形をした鬼は、狼を狛犬のごとく従え、にたりと笑う。
 狼を操るのがこの鬼の血鬼術らしい。
「そりゃどうも」
 言葉とは裏腹に、空気が張り詰めていく。
「でもなあ、お前さんの狼はもう二頭も死んじまったぜ」
「――俺が操れるのが、狼だけとは言ってないが」
 鬼の言葉が終わらないうちに、何かが横合いから突っ込んできた。
 反射的に刀を構えたが、勢いを殺せずに突き飛ばされる。
「猪か⁉」
 硬そうな体毛に覆われた、一米以上もある躯体が月光に照らされている。
 体勢を立て直し、杏寿郎と照沼は背中合わせに立った。
「囲まれているな」
「狼が四頭、猪が六頭でしょうか」
 月明かりに、濁った目玉が浮かび上がる。
「ちと多いな」
 照沼が顔をしかめた。
 す、と鬼が手を上げたのを合図に、一斉に飛びかかってきた。

 激しい剣戟の音が夜に響く。
 代わる代わる飛びかかる獣をさばくのは、骨が折れた。人間に匹敵するほど重い巨軀をはじき返すと、徐々に疲労が蓄積する。特に猪は、血鬼術で強化されているのか、体毛が異常に硬い。同じく異常に発達した牙が隊服を裂き、細かい傷を負わされる。
 刀を持つ腕が重い。動きが鈍ってくる。
 四つ足の獣を狩るのは、鬼を相手にするのとは勝手が違って苛立つ。
 なんとか一頭を切り伏せ、杏寿郎は神社の奥へ視線を投げた。
 悠々と鬼が立っているのが腹立たしい。
「このままじゃ埒が明かない。俺が狼と猪をなんとかするから、お前が行け」
「承知しました」
 すう、と照沼が息を吸う。
 ――炎の呼吸、肆ノ型・盛炎のうねり。
 ぐるりと渦を巻いた炎が、襲いかかる獣数頭を吹き飛ばした。
 開けた道を、杏寿郎は走る。
「鬼の首を斬れ――!」
 照沼が吠える。
 杏寿郎は柄を握りしめた。
 鬼が慌てたように腕を振った。
 後ろから獣が迫ってくる。飛びかかられ、足を噛まれる。だが、構うものか。
 獣を引きずったまま、刀を構える。深く息を吸う。
 ――玖ノ型・煉獄。

 一閃。

 燃える炎が闇を切り裂いた。

                *

 さらさらと崩れる鬼の死体を見つめながら、杏寿郎は額の汗を拭った。乱れる呼吸を整える。破れた血管を意識して、出血を止める。
「止血はできたか」
「はい」
 周囲を見聞して、残った獣がいないことを確認した照沼が戻ってきた。大きな傷は見当たらない。
 なるほど、照沼は炎柱としての力量を十分に兼ね備えた男だった。
 父が炎柱だった頃、杏寿郎はまだ隊士ではなかったから、実践の姿を見たことはない。だから、炎柱という人が戦う姿を見るのは初めてだった。
 血をふるい落とし、刀を鞘に収めた照沼が、冗談交じりに言う。
「どうだ、俺の継子にならんか」
「遠慮します」
 杏寿郎は即答した。
「はは……そうだろうな」
 照沼は苦笑した。
「俺は所詮、お前が炎柱になるまでの中継ぎだからな」
「そのような――」
 何と返事をすべきか迷っているうちに、相手はからりと笑いを見せた。
「まあ、そうは言っても、俺の技を見ることに損はない。直接教わらなくても、見てわかることもある」
「はい」
 今度は素直に頷いた。
「おそらく今後、俺と組まされることが増えるだろう」
「それは……」
「本来なら、親父殿の継子になっていたはずだったが、こうなっては仕方ない」
 返す言葉も見つからない。
 本来なら、今の炎柱の継子になるべきなのだ。それが正しい振る舞いだ。父でなくとも、炎柱にいずれなるためには、炎柱に直接教わった方がいい。いくら父に教わったとはいえ、実地の訓練に勝るものはない。
 わかっている。頭ではわかっているのだ。
 だが――と杏寿郎は思う。それだけは、嫌だった。
「俺じゃなくてもいい。炎を絶やすな」
「はい」
「お前なら、きっとできる」
 教えを請う相手は、父だけだ。
 それが杏寿郎にとっての、唯一で最大の我が儘だった。



     三



「俺のことは放っておいてくれ! それよりもあの鬼を!」
 必死の形相で、血まみれの隊士がそう懇願する。その隣では、意識のない女が倒れている。どちらも出血がひどく、青ざめた顔色で震えが止まらない。
「何を馬鹿なことを言っているんだ! 君、死ぬぞ!」
 杏寿郎はそう叫び返した。
 夜明けが近い。山の際がうっすらと白っぽく、濃い闇に覆われていた空は薄く青みがかってきている。
 切り結んでいた鬼が後ろに飛びすさった。
 後を追おうとして、杏寿郎は踏みとどまった。負傷した二人の出血が止まらない。誰かが手当をしなければ死ぬだろう。
 鬼を逃がせばまた被害が出る。だが、二人を見殺しにもできない。
 ぎりっと歯を噛みしめたところで、一陣の風が通り抜けた。
「待たせたな!」
 大男が変わった形の刀を掲げて鬼に飛びかかる。
 杏寿郎は素直に男に道を譲り、負傷した隊士に駆け寄った。

                *

「真面目だな、お前。真面目すぎてつまらん。地味にもほどがある」
 見上げるほどの大男がそう言った。珍しい色合いの髪が月の光を反射している。人のことを言えた義理ではないが、色素の抜けた銀色の髪はなかなか見かけない。
 少々手こずったが、鬼の討伐を終えたところだった。
 山に逃げ込んだ鬼を追いかけ、首を斬ったのは宇随だった。怪我をした一般人と下級隊士を庇いながら戦っていたが、夜明けが近づいたのを悟った鬼が山奥へ逃げようとした。後を追うにしても、怪我をした一般人と隊士を放置するわけにはいかない。そこを、後から派遣されてきた音柱・宇随がちょうど到着して討伐したというわけだった。
 鬼の身体は既に崩れ始めている。怪我をした女と隊士を止血していたところで、戻ってきた宇随も加わって、てきぱきと応急手当を行った。どうにも手慣れた様子だった。
「宇随殿。それはどのような意味でしょうか」
 杏寿郎は目を見開いて宇随を見上げた。宝石のついた額の飾りは一体何なのだろう。鬼殺隊の制服は比較的自由に装飾品を認めているが、これほど派手な格好をしている者はめったにいないだろう。
 それに、先ほどの言葉がどうにも理解できない。杏寿郎のどこが地味だと言うのか。
「ああ、いいっていいって、敬語なんか使わんでいい」
「しかし――」
 杏寿郎は口ごもった。まだ階級が乙の立場で柱相手にそのような口を利くことには、非常に抵抗があった。
「俺様がそう言っているんだから従え、柱の命令だ」
「はい――いや、わかった」
「お前はその方がいい」
 うんうんと宇随が頷く。
「あの、音柱様」
 がさがさと草をかき分ける音がして、隠が三名現れた。
「おっ、来たか」
 隠の二人が負傷者を確認、もう一人が周囲を捜索している。
「負傷者を搬送しますが、よろしいですか」
「おう。早く連れて行ってやれ」
 隠が意識のない女を担架に乗せて連れて行く様子を見守りつつ、杏寿郎は口を開いた。
「して、地味とは一体どういう意味だ? 俺はよく派手だと言われるのだが」
「髪は派手だな。技も。なんつーか、模範的すぎるんだよ、お前。そんな派手な頭をしておいて」
「髪は生まれつきだ!」
「そうなのか? それは悪かった」
 素直に謝られて、杏寿郎は拍子抜けした。外見から予想するよりもずっと淡々としている。
「負傷した一般人と隊士を庇い、一人で鬼と戦って、逃げた鬼よりも一般人の保護を優先。なかなかできることじゃない」
「そうだろうか」
「煉獄、お前、鬼を恨んでいないんだろう」
 意図がわからず、杏寿郎は首を傾げた。
「それがどうかしたのか」
「鬼に家族を殺されて隊士になるのがほとんどだ。怪我をした一般人なんか放っておいて、鬼を深追いするのもよく見る」
「たしかにそのような者もいるが、うちは代々鬼狩りを生業としているからな。殉職した者がいないわけではないが」
 鬼への憎しみのあまり、自分や周囲を顧みない隊士はごまんといる。もともと鬼殺隊へやってきた経緯が経緯だから、致し方ないことではある。
「ふーん」
 宇随が観察するように杏寿郎をじっと見つめた。見透かすような視線を正面から受け止め、見つめ返した。
「嫌だと思わなかったのか」
「何をだ」
「鬼殺隊に入ることをだよ。あんなバケモノを相手にするんだぜ」
 杏寿郎は眉をひそめた。この男は一体何を言い出すのだろう。厳しい修行を積んできた鬼殺隊士が、今更鬼を怖がるはずがない。
「思わない。弱い者を助けるのは強い者の責務だ。俺が鬼を狩れば、それだけ人が助かる」
「そういうところが真面目だって言ってるんだよ」
「そうだろうか」
 同じ言葉を二度発したことに気づいた。特に親しいわけでもない宇随とこんなに長く話すのは初めてだった。
「はあ……俺とは反対だな。実家が嫌で飛び出してきた」
 杏寿郎は驚きに目を見張った。
「と、飛び出してきただと!」
「そんなに驚くことでも……ってそうか。お前は跡継ぎだったか」
「だから何だと言うのだ」
 宇随の眼差しに憐憫が含まれているのに、杏寿郎は気づかなかった。
「俺は嫌になったから、逃げてきた。それだけだ」
「なんと……」
「そういう煉獄は、他にやりたいことはなかったのか」
 家から逃げる。考えたこともなかった。鬼殺隊に入るのが、あまりに自明だったからだ。自分の意思をねじ曲げて、無理矢理入隊させられたなどと、思ったこともなかった。
 杏寿郎は少し考え込んで、
「特にないが」
 そう結論づけた。
「別に俺は、無理強いさせられたわけではない。鬼殺隊の役割を大事に思っている。好きなことだけをやって過ごせる人生などそうないだろう」
「お前は本当に――いや、なんでもない」
 ため息をついて、宇随は会話を終わらせた。ぼそりと付け加える。
「別に、家を守る必要もないと俺は思うがな」
 ぽりぽりと頭を掻きながら宇随が言う。心なしか、居心地が悪そうな顔をしている。
「ご実家は何をされていたんだ?」
「……時代遅れの家だよ」
 宇髄はそれだけしか答えてくれなかった。

                *

 父も逃げたかったのだろうか。
 宇随の言葉を思い出す。彼は実家を出奔したらしい。杏寿郎には到底、真似できない所業だ。
 父は、この煉獄家の定めから逃れたかったのだろうか。
 もし、杏寿郎も逃れることができるのなら。あるいは、剣士の才覚に恵まれない千寿郎だけでも――――そう思って、首を振る。
 杏寿郎はこの務めを嫌だと思ったことはない。それでも、と父の背中を思い浮かべる。影で泣いている千寿郎を思い浮かべる。
「いかんいかん、しっかりせねば」
 余計なことは考えないに限る。迷ってはならない。迷いは切っ先を鈍らせる。この刀で救える人を救えなくなる。
 この刀を握れる限り、己の役割を投げ出すわけにはいかないのだ。



     四



 彼の振るった刃から水しぶきが上がる。一拍遅れて、刃の軌跡を追うように黒髪が跳ねた。ふわりと羽織が風をはらんで膨らむ。
 ちゃき、と彼が刀を鞘に収めるまで、杏寿郎は見とれていた。
 流麗という言葉がこれ以上ないほどふさわしい太刀筋に、刀身の根元、鍔の近くに彫られた〝惡鬼滅殺〟の四文字。
「水柱であったか!」
 彼が顔を上げた。白い顔を縁取る黒髪が闇に溶け込んでいる。能面のような顔に嵌め込まれた青い瞳が杏寿郎を見た。
 それが、当代水柱との邂逅だった。

                *

「なんでお前なんかが!」
 隊士が唾をまき散らしながらわめいている。足を怪我して、座り込んだまま顔を歪めて、彼は指さした。
 指さされた側はといえば、涼しい顔をして刀を収めた。気にも留めていない。
 何か諍いがあったのだろうか、と杏寿郎は訝しんだ。
 応援に駆けつけてみれば、これは一体どういう状況なのだろうか。
 先に鬼と戦っていた隊士が苦戦していたから、近くにいた杏寿郎に救援要請が来た。そこへ、たまたま通りかかったのか水柱――冨岡が加勢して鬼を討伐した。そういう状況だと思っていたが、なぜか助けられた隊士が冨岡を敵視している。
 なおも黙り込んでいる冨岡に、杏寿郎は声をかけた。
「あの、冨岡殿。彼とは知り合いで?」
「知らない」
 にべもなく返ってきた。その顔からは何の感情も読み取れない。
 ばさばさと羽音がして、鎹鴉が冨岡の腕に降り立つ。隠を手配しているようで、杏寿郎はひとまず隊士に近づいた。
「もし、君、一体どうしたんだ」
「どうして、どうしてなんだ、」
 ぶつぶつと隊士が呟いている。不穏な気配を感じて、杏寿郎が隊士の肩に手を置いた途端、
「なんでお前なんかが水柱なんだ!」
 びしり、と空気が硬直した。
 ――なんてことを言うのだ、この男は。
 杏寿郎は絶句した。
「おそらく血鬼術だろう」
 落ち着き払った声で冨岡が言った。
「精神に作用する類いの血鬼術はそう珍しくない」
 怪我をして動けないのが幸いして、隊士は座り込んだままぶつぶつと何事かをこぼしたり、腕を振り回したりしている。これで足を怪我していなかったら、冨岡につかみかかっていたかもしれない。
「しかし、彼は何を言いたいんでしょうか?」
 困惑しながら杏寿郎は尋ねた。
 冨岡は何を考えているかわからない顔で、隊士に向かって言った。
「お前は水柱にふさわしくない」
 冷ややかな声だった。感情の乗らない声がざっくりと隊士の心を切りつけたのが目に見えるようだった。
「なんで! 俺だって修行して、鬼を斬ってきたのに! どうしてお前が!」
「それはお前が弱いからだ」
 切って捨てるような言葉に、隊士が怯む。二の句が継げない様子で口を開け閉めするだけだ。
 ようやく頭が追いついて、杏寿郎は声を張り上げた。
「なんて失礼なことを言うんだ、君は! 仮にも水柱に向かって――」
「事実だから気にするな」
「何を言っているのですか!」
 
「あ、あのー……よろしいでしょうか……」
 申し訳なさそうに、声を潜めた黒ずくめの人影が現れる。隠だった。
 張り詰めた空気が霧散する。
 微動だにしない表情のまま、冨岡が指示を出す。
「足を怪我している。歩けないだろうから連れて行け」
「はい」
 てきぱきと担架を用意し、呆然としている隊士を乗せていく。
 その様子を見守っていると、
「そういえば、お前は煉獄杏寿郎か」
「ご存じでしたか」
 名を言い当てられ、杏寿郎はじっと冨岡を見つめた。
「お前は有名だろう」
「そうでしょうか?」
「煉獄家の跡継ぎ、次の炎柱だと」
「恐れ多いことです」
 口さがない者たちが噂しているのを、彼も耳にしていたのだろう。当代炎柱を侮辱するような噂にはうんざりだった。
「あまり、そういう風に言われるのは好かないのですが」
「そうなのか」
 ぱちりと冨岡が瞬きした。
 噂が立てられているのは知っている。当代炎柱――杏寿郎の父が引退したのちにその座についた隊士を、ある者はこう呼んでいる。いわく――次の煉獄家の者が炎柱になるまでの代役だと。当の炎柱でさえ、そう思っている節がある。
 鬼殺隊もまた人間の集まりであるからして、そのような噂が流れることは珍しいことではない。入隊直後から煉獄家の人間として注目され続けてきた杏寿郎であっても、その類いの噂には腹を立てていた。
 そも、煉獄家以外の人間が炎柱になったことがなかったわけではない。鬼殺隊は殉職する者も多い。鬼殺隊士の例に違わず、煉獄家の者も短命だった。子が十分に育っていなければ、他のふさわしい者が炎柱になる。子に素質がなければ、炎柱に就かせることはない。当然のことだ。
 それを、まるで炎柱の地位が煉獄家のために用意されているかのような物言いをするのは、柱を任命する産屋敷への侮辱にも等しい。
「先代の炎柱も煉獄だった」
「父です」
 冨岡は穴が空くほど杏寿郎の顔を見つめた。
 少しためらった後、杏寿郎は尋ねた。
「あの、先ほどのはどういう意味ですか」
 冨岡はどこか幼い仕草で首を傾げた。
「言った通りだ」
 なぜ冨岡が水柱なのか。隊士はそう言った。単純に考えれば僻みなのだろうが、杏寿郎にはわからない感情だった。
「あいつは水柱になりたかった。だが、なれなかった。俺よりも弱いからだ」
 すっぱりと切りつけるような物言いをする。事実だからこそ、それを眼前に突きつけられれば、弱い者は耐えられない。
「手厳しいのですね」
「柱になったところで、何かが変わるわけじゃない」
 なにがしかの感情の揺らぎを嗅ぎ取って、杏寿郎は冨岡の顔を見上げた。
「そうでしょうか」
「お前は知らないからだ」
「若輩者で申し訳ありません」
 冨岡は少し黙った。
「俺はお前とは違う」
「それはそうでしょうな」
 水柱たる冨岡と未だその地位に届かない杏寿郎では立場が違う。
 すっと根負けしたように彼は目を逸らした。
「お前はまだ弱い」
 現場の後始末をしていた隠がぎょっと目を見開く。
 だが、事実であったので、杏寿郎は頷いた。
 冨岡はそんな反応を歯牙にも掛けず、問うた。
「何のために鬼を斬る」
「弱き者を助けるためです」
 冨岡は瞬いた。
「あなたは違うのですか」
 たっぷり沈黙した後、冨岡は口を開いた。かすかに鼻に皺が寄っている。まるで、心底嫌そうな表情だ。
「……なりたくてなったわけじゃない」
「なんと! そうなのですか!」
 柱の称号は名誉だった。階級を上り詰めた頂点の剣士にのみ与えられる称号。すなわち、呼吸を極めたという証。
 つまりは、鬼を狩る技術が最高峰に達したということだ。鬼を狩るために存在する鬼殺隊士にとって、喜びこそすれ、嫌がる者などいない。そのはずだった。
 だからこそ、意外だった。柱として十二分に力量を備えた彼が、それを不服としているらしいことが解せない。
「お前は炎柱になりたいのか」
「なりたいというか、ならねばなりません。それが煉獄家に生まれた男の勤めなので」
「柱になってどうする」
 まるでなりたくなかったと言わんばかりだ。
「より多くの鬼を狩ります。そして鬼に襲われる人を減らします」
 杏寿郎はそう答えた。そう信じてきたし、疑うこともない。この刀で多くの人が救える。修練を積んで、柱に届くほどの技術を身につければ、さらにたくさんの人を救えるのだ。
「そうか」
 茫洋とした瞳が煉獄の顔を見つめた。
「お前は……先代とよく似ているな」
「よく言われます」
 何を考えているかわからない瞳で、冨岡は杏寿郎を一瞥した。そのまま背を向けて歩き出す。杏寿郎が慌てて後を追っても、振り向きもしない。
 寡黙であると聞いた通り、冨岡はそれ以上口を利くことはなかった。

 炎を継がなければならない。父が投げ出したものを継がなければならない。
 この炎が闇を照らすと信じているから、なんと言われようと、杏寿郎は炎柱にならなければならない。



     五



 炎柱が死んだのは、杏寿郎が十八の時だった。
 まるで杏寿郎が柱になるまで見守っていたかのように――柱たりうる資格を手にした途端に、すべてを杏寿郎に手渡して死んだ。
 死体は鬼に貪り食われ、ほとんど原形をとどめていなかったという。

                *

 お館様から炎柱を拝命した。
 思い描いていた通りの未来だった。

「父上、炎柱を拝命しました」
 父の背中に声を投げかける。
 縁側に横になった父は振り向きもしかなった。身に染みついてしまった酒の匂いがする。
 しばらく座っていても、何も言わない。諦めて、杏寿郎は立ち上がった。
「――大した才能もないのにか」
 覇気を失った父の声がして、杏寿郎は振り向いた。
 相変わらずの背中だ。あんなにもたくましかった父は、見る影もない。これが元炎柱だと誰が信じようか。
「未だ父上には及びませんが、柱の名を汚さぬよう精進して参ります」
「どうでもいい」
 まだ杏寿郎が未熟だから。もっと強くなれば、もしかしたら。
 もう何年も、そうやって言い聞かせてきた。諦めたりしない。父はまだ生きている。炎が陰ったとしても、まだ消えていないと信じているからだ。
 少なくとも、杏寿郎は在りし日の父から炎を受け継いでいるからだ。
 続く言葉はなかった。
 それでもめげなかった。父本人にだって、かつての父の言葉は取り消せないのだから。

「あの、兄上。おめでとうございます」
 喜びの裏に気遣いを感じ取り、杏寿郎は笑って千寿郎の頭を撫でた。
「今夜はお祝いですね。何か食べたいものはありますか」
「そうだな! それじゃあ――」
 兄弟二人だけの、ささやかな祝宴。杏寿郎の好物を中心にそろえられた料理。千寿郎の家事の腕前は上達するばかりだ。
 三人目の膳には、何も載っていない。
 やがて千寿郎が膳を片付けるのを、杏寿郎はじっと見守った。
 何かが変わると思っていた。
 何も変わらなかった。何も戻らなかった。
 父は相変わらず酒浸りの毎日で、弟には剣の才能がない。
 けれど、もう後戻りはできない。
 自分は、炎を継いだのだから。



     六



 振るった刀から、幻の炎が立ち上る。ごうっと空気を焼く熱気すら錯覚しそうだ。
「師範! どうですか!」
 明るい少女の声が道場に響いた。先日継子に取った甘露寺蜜璃は、長い髪を跳ねさせながら杏寿郎にそう尋ねた。
「うむ、今のはなかなかよかった。ただ、もう一歩踏み込んだ方がいい。踏み込みが甘いと力が逃げてしまう。硬い体表の鬼だと致命的になる。もう一度だ」
「はい!」
「甘露寺は力が強いし、柔軟性もある。そうだな、ここをもっとこう――」
「こうですか?」
「いや、そうだな。もう少しぐっと」
「こう、ぐっと」
「うむ、いい調子だぞ!」
「あの、兄上、甘露寺さん、そろそろ休憩なさってはいかがですか」
 加わった声に、二人は振り返った。
 お盆に湯飲みを乗せた千寿郎が立っていた。

 甘露寺と二人並んで縁側に腰掛けた。
 初夏の日差しが中庭に降り注いでいる。
 千寿郎の用意した茶をすする。
「甘露寺はどうして鬼殺隊に入ったんだ」
 甘露寺はもじもじと指を組み合わせた。少しうつむいてからちらりと杏寿郎を見上げる。編み込んだ薄紅色の髪が乱れて、紅潮した頬にかかっている。
「私、あの、師範みたいな立派な目的はなくて、その」
「どんな理由でも、俺は笑いはしないぞ。理由がどうであれ、それが人の役に立っているのなら、それで十分だろう」
「――私、結婚したいんです。私と一生を添い遂げてくれる殿方を探しているんです」
 ひたむきな瞳で、甘露寺は言った。きゅっと握り込まれた拳が膝の上に置かれる。浮ついたようにも聞こえる言葉に反し、静かな決意がうかがえた。
「私が私のまま、人の役に立ちたいんです。そんな私を受け入れてくれる殿方は、鬼殺隊ならきっと見つかると思って」
「そうか! それはそれでいいと思うぞ!」
「本当ですか⁉」
 ぴょん、と甘露寺が軽く飛び上がった。
「恥ずかしがることはない。人の役に立ちたいと思うのはいいことだ」
 杏寿郎は湯飲みに口をつけた。
「私も、師範みたいになれますか?」
「俺みたいにか?」
「弱い人を救うために、私も戦えますか」
 新緑のようなみずみずしい瞳が杏寿郎を見つめた。
 強い少女だと思う。杏寿郎よりひとつ年下の、良いところのお嬢さんであっただろう彼女は、杏寿郎の厳しい修行に耐えている。鬼殺隊に入る前は鬼なんて見たことも聞いたこともなかったはずなのに、異形の化け物に立ち向かう勇気を持っている。並大抵の努力で為せることではない。
「それは君の心次第だ。俺も柱になったからには、よりいっそう心構えをしっかり持たねばならない」
 人を守る力を持って生まれたのだから、そうあるのが正しい。一度たりとも疑ったことはなかった。
「あの、柱になるってどんな気持ちなんですか?」
「そうだな……」
 柱とは頂点だ。上り詰めた最も高い地位。己の剣術の研鑽に果てはないが、それとは別の大事な役割を負う。
 ――すなわち、後進の育成。
 父の後を追って、父と同じ立場になった。だから、次は杏寿郎が父にならねばならない。
「俺は、新しい火種になりたいのかもしれない」
「火種……」
 ――そうだ。火種だ。
 すとん、と胸に落ちた。ようやく言い表せる言葉に巡りあった。杏寿郎はひとりで頷く。そうだ、今度は自分が火種になる番なのだ。
 どんなに小さくても、一度その心に火をつけられたなら、それで十分なのだ。
 杏寿郎は湯飲みを置いて、甘露寺に向き直った。
「甘露寺も、俺の炎を受け継いでくれると嬉しい」
「はい! 頑張ります!」
 頬を紅潮させたまま、甘露寺は力強く頷いた。
 彼女にも受け継がれるだろう火種になるために、自らの命を燃やそう。
 絶望と悲哀ばかりが敷き詰められた道なき道を往くと、少しでも闇夜を照らそうと、そう決めたのだ。



     七



 これは血の呪いではないかと思っていた。
 
 連綿と受け継がれる誓い。いつか悪鬼を滅ぼさんとする覚悟。己の身で足りないのなら己の子が。子でも届かないなら、孫が。その次代が。
 煉獄の家はそうやって繋いできた。後を継がせるための男児が必ず生まれることも、男児がことごとく燃えさかる炎のような髪を持って生まれることも、呪いじみた何かを感じさせる。
 それは重い鎖となって、煉獄家の男児をがんじがらめにしている。
 ――鬼と一体何が違う? 鬼舞辻無惨の血の支配下にある鬼と何が違う?
 杏寿郎はこの身に流れる血に縛られている。鬼殺隊に入る以外の道はなかった。疑いもしなかった。
 弱い者を救うのは、強く生まれた者の定めだ。
 それを嫌だと思ったことはない。己に課せられた運命も責務も、杏寿郎は受け入れていた。過酷な道を歩むことを定められていたとしても、この道に大切な意味を見いだしていた。
 杏寿郎には、鬼に対する強い憎しみはない。それは、鬼に肉親を殺されて入隊する大勢とは違った心根であっただろう。それを揶揄されたこともなかったわけではない。
 ずるいと、直接的に詰(なじ)られたこともあった。そうだ、杏寿郎はずるい。炎柱になるために教育されてきた。杏寿郎が柱になるということは、他の誰かはなれないということだ。
 誰かを押しのけて、その地位に座るということだ。
 もちろん、実力が伴わない者に柱の位が与えられることはない。決まりが緩和されることもない。他の柱と同じ条件を達成することでしか柱に任命されることはない。ただのやっかみだ。歴代の炎柱は炎柱と認められるにふさわしい力を備えていた。
 そこだけは、胸を張って答えることができる。父もその地位にふさわしい力量があった。顔も知らない祖父もきっとそうであったはずだ。曾祖父も、その前の代も。
 それを、血の呪いだと思っていた。
 鬼を狩るという宿命と等しいくらいに、その座につかなければならないという、無言の圧力。
 それでも、杏寿郎は己が定めを受け入れ、刀を取った。
 杏寿郎が鬼を狩った分、誰かが救われる。刀を振るう力を持って生まれたのだから、当然の勤めだ。
 ――ああ、でも。
 たぶん、父の心が折れたのは、そういうことだったのかもしれない。自分で選び取った妻を喪って、耐えられなくなった。代々継いできた炎が、始まり呼吸の後追いでしかないと知った時に、立ち上がれなくなった。
 自ら道を退いた父を、杏寿郎は恥とは思わない。耐えられなくなったのだから、次代に譲り渡すのは当然のことだ。
 杏寿郎も自分の後を継がせる者を探し続けてきた。それが直系の子でなくとも、問題はない。
 今ならそう思える。
 炎柱の継承が途絶えることは怖くない。それよりも、もっと大事なものがあるからだ。
 炎柱はひとつの手段にすぎない。炎は分け与えることができるからだ。たったひとつの火種から、たくさんの火を分けることができるからだ。
 ――炎を絶やすな。
 誰だったか、そう言っていたのを、覚えている。

「心を燃やせ」

 死ぬのは怖くない。本当だとも。
 自分より若い命を、未来を守って死ぬのは本望だ。それが役割なのだ。柱はその技を後輩に受け継がせるためにいる。
 一度頂点に上り詰めれば、後は落ちるだけだ。だから、次の世代を育てるのだ。老いる人の儚さを、弱さを、杏寿郎は愛おしく思っている。終わりが来るから今を大切に思える。永劫など要らない。いつか終わるその時まで、一瞬たりとも粗末にはしない。
 少しばかり早すぎる終焉だとしても。
 嫌だ、死なないでくれ、と叫んでいる瞳を真正面から見据える。欠けた視界の中で、その瞳を焼き付けるように。
 想いは滅びないのだと、杏寿郎は信じている。
 今しも沈みそうな誰かの心に火をつけられたのなら、杏寿郎の短い人生だって意味がある。
 血が繋がっていなくとも、受け継ぐことができる。
 ――この炎はきっと、お前の中で燃え続けるだろう。
「煉獄さん――!」
 悲痛な声が聞こえる。涙を浮かべた瞳の奥に燃える炎を見る。
 己の炎が、赤い髪の少年に受け継がれたことを悟って、杏寿郎は安堵した。そっと唇がほころんだ。
 昇る朝日が眩しくて、目を細める。
「   」
 母の呼ぶ声を聞いた。
 そして、温かい泥のような闇が身体を浸して――――――

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