一



 炎柱・煉獄杏寿郎が死んだ。
 羨ましい――そう思わなかったと言えば嘘になる。

 茶屋で一休みしていたところへ、鎹鴉が知らせを運んできた。へろへろと墜落しかけるように義勇の腕へ降り立った鎹鴉は、途切れ途切れにそう伝えた。
「そうか……」
 しばし、呆然とした。
 思考は停止しても、習慣化した動作は止まらない。老いた鴉を胸に抱いて水を与える。
 温かい生き物を抱きしめ、その熱と柔らかさに自然と手を伸ばして撫でる。艶を失った羽毛は昔ほど触り心地がいいわけでないが、たしかな安心感を義勇に与えた。
「煉獄が……」
 心の奥に石を投げ込まれたようだった。さざ波ひとつ立たない水面に、容赦なく投げ込まれた煉獄の死が波紋を広げる。
 義勇よりよほど柱らしかった彼が先に死ぬなんて。自分はまだ意地汚く生き延びているのに。
 一瞬、息が詰まった。
 鴉を撫でる手が止まっていた。
「義勇……」
 腕の中で鴉が悲しげに鳴いた。義勇よりよほど感情豊かだった。
 義勇は顔色ひとつ変わらない。荒波は心の内にとどめられ、外に顔を出すことはない。そういうふうにして、押し殺す癖がついている。
 死ぬのは怖くない。だが、他人が死ぬのは、何度だって慣れない。慣れてはいけないのだ。特に、自分より優れた人間が死ぬのは。
 鴉を抱く腕に力を込め、顔をすり寄せる。温かい。生きている匂いがする。
「義勇……大丈夫カ……」
 しゃがれた声で鴉が心配してくる。
「ああ、大丈夫だ」
 対処の仕方は心得ている。
 束の間、目を閉じて煉獄の顔を思い浮かべる。
 炎のような男だった。
 闇夜を打ち払う炎を体現したような男だった。
 ひどい同僚だっただろう。言葉を交わしたことは少なかった。
 それでも、その快活な声を覚えている。多くに慕われる、自分とは正反対のような男だった。
 長い歴史の片割れを担う者として、話す機会はいくらかあった。喋るのが苦手だからと、ろくに話もしなかったのを、今になって惜しくなってくる。もう遅い。何もかも遅い。己の浅ましさに反吐が出るようだ。いつだって、義勇は遅い。気づいた時にはすべてが終わっている。
 なぜ死んでしまったのだ、煉獄。浮かんだ疑問が胸中に沈んでいく。
 鴉を抱いたまま目を開ける。何の変哲もない風景が目に映る。日常が続いている。街を行き交う誰も、煉獄が死んだことを知らない。それを、口惜しいと思う。
 なぜ。なぜ死んでしまったのだ。

 ――なぜ俺は、まだ生きているのだ。

                *

 炎柱・煉獄杏寿郎の葬儀は、晴天の下、しめやかに執り行われた。

 産屋敷からは、当主の妻・あまねが代理として参列した。
 ちょうど手が空いていたからと、義勇も呼ばれた。しまい込んでいた白い喪服を引っ張り出し、煉獄家の屋敷に赴く。
 晴れた空の下、屋敷は寂しさをたたえているように見えた。
 恋柱の甘露寺もいる。白い喪服をまとった彼女は、既に泣きそうに眉を下げている。珍しい髪の色が映えて美しい。甘露寺は望まないことだろうが。
 嫁入り前でも白い喪服を仕立てていたのだな、と頭の片隅で考えた。
 すぐに当然のことだと思い至った。互いにいつ死ぬかもわからない身の上だ、柱ともなれば誰かの葬式に参列することも増える。
 微塵も動かない己の表情筋に、感謝すべきか恥じるべきか、わからなかった。
 
 参列者は少なかった。鬼殺隊が非公式の組織だから、お館様と都合のつく柱、そして古くから支援してくれている藤の花の家。それくらいしかいない。
 遠い昔に教え込まれた作法を思い出しながら、なんとか式に参列した。
「師範が……煉獄さんが……こんなに早く、私、私……」
 棺にすがりついて泣く甘露寺の背を、あまねがさすっている。
 陰鬱な空気が重く垂れ込め、さんさんと降り注ぐ日差しを陰らせている。ひっそりとわだかまる暗い雰囲気を追い払うには、荷が重すぎたようだ。
 棺に花を入れようと身をかがめて、義勇は息を詰めた。
 片目を失った煉獄の顔は、存外、穏やかだった。
 まるで眠っているだけのような、すべてをやりきって満足したようなその顔に、羨望にも似たものを覚えた。ああ、俺もあのような――
「冨岡様」
 声をかけられ、すぐに我に返った。さきほど覚えた感情に、途端に羞恥が湧き上がる。なんてことを考えていたのだ。羨ましいだなんて、煉獄への侮辱に等しい。
「お忙しい中、わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「いえ……」
 煉獄とそっくりの壮年の男性が言う。燃え立つような髪と凜々しい眉。父親だろう。
「あ、えっと……」
 傍らに立つ、泣きはらした目をした少年が義勇を見上げた。
 こちらも煉獄とそっくりだった。十代半ばに届くかどうかといったところか。弟だろう。兄と違って、少し下がりぎみの目元が優しげな印象を与える。
 喪主を務めた煉獄の父も、この弟も、煉獄と同じ顔立ちをしている。燃える炎にも見える髪が血の繋がりを感じさせる。
 まだ、家族がいる。なんて酷なことを。
 家族がありながら鬼殺隊に在籍することがどういう意味になるのか、義勇は知らない。
 何もかもを失ってここにたどり着く者が大半だから、あんな眩しい隊士を見たのは初めてだった。闇夜を照らす光を眩しいと思った。守るために戦える彼を、羨んだ。
 義勇とて、鬼に襲われる人を助けたいと思う気持ちはある。だが、それだけでは足りない。この明けぬ夜を走り抜ける原動力とするには、いささか足りない。
「杏寿郎は未熟者でありましたが、この度は――」
 常ならば張りのあるだろう父親の声が、耳を素通りしていく。
 もとより、気の利いたことも言えないたちだった。
 あまねがお館様の名代として言葉を贈るのを、黙って聞いていた。
 甘露寺が再びその瞳に涙をあふれさせ、しゃくり上げる。その背をさすってやる。
 びくりと甘露寺がこちらを見つめた。頬の上を滑っていく雫が残酷なほど美しい。
「気が済むまで泣けばいい」
「私、もっと師範と、こんなに早いなんて」
 きゅっと唇を噛みしめ、甘露寺は言葉を絞り出した。
「覚悟がなかったわけじゃないんです、でも、こんな、突然、」
 甘露寺はわっと泣き出し、顔を手のひらで覆った。その背をさする。それくらいしかできないのだ。まだ生きている人間には。
 人目もはばからずに泣く甘露寺に、ずっと、そうしていた。

 屋敷に戻り、喪服を脱ぐ。白い着物が畳の上に落ちる。普段とは違う色の服が目に眩しい。
 煉獄の穏やかな死に顔がまざまざとよみがえって、義勇は畳の上に座り込んだ。着替える気力も湧かず、襦袢のまま、視線が喪服の上を滑る。
 なぜ、まだ生きているのだろう。
「煉獄、どうしてお前が……」
 どうせなら、自分が死ねばよかったのだ。そう考えて、力なく頭を振る。それはだめだ。死んではならない。死んだら無駄になるからだ。
 生きている。義勇はまだ生きている。
 ――否。ただ、死んでいないだけだ。
 燃やす怒りもなく、ただ未練だけで立っている。
 死に損なったから、生きろと言われたから。この命は自分のものではない。だから勝手に死んではいけない。
 でも、生きていてもいけない。
 畳に落ちる日差しがゆっくりと移動していくのを、ぼんやりと見守る。泥が詰まっているのではないかと思わせるほど、身体が重い。息をするたびに、何かが抜けていくようだ。
 この身を立ち上がらせていた何かが折れてしまったようだった。人の死など初めてではないのに――どうしてか、疲れ切っている。
 ふと肌寒さを覚えて、ぶるりと身体を震わせた。すっかり日が落ちている。
 もうすぐ、鬼の時間だ。
 なんとか立ち上がった。とにかく、何かを腹に入れて着替えなければならない。鬼は待ってはくれない。
 そう、鬼を狩らねば。無様に生き残ったのだから、それくらいは果たさなければ。
 義務感だけが身体を支えている。
 ずっと、負い目を感じている。だから、何かを守りきって死んだ煉獄が羨ましい。そんな風に死ねたなら。
 白い喪服を衣桁に掛けた。汚れひとつない、まっさらな絹の布だ。あと何回、これを身にまとうことになるだろう。あと何回したら、これを着せてもらえるだろう。
 鬼殺隊にいる以上――柱なんて拝命してしまった以上、遠からず死ぬ定めにある。だが、ただ死んではいけない。死ぬまでに生きなければならない。それがせめてもの手向けなのだから。
 残された言葉に、願いに背く勇気がない。怯懦こそがこの身を生かしている。
 もう、死んでしまえばいいのに。誰もそう言ってはくれない。死者の言葉は呪いだ。生者を縛りつける、恐ろしい呪いだ。
 何を願われたのかも曖昧になるほど時間が経ってなお、その願(のろ)いに縛られている。
 死んではならない。ただそれだけを、擦り切れそうな心に刻んでいる。
 ――ならば、なぜ生きる。
 幾度となく繰り返した問いに、ついぞ答えを見つけることはできなかった。



     二



「残されたものを継いでいかないんですか」
 赤い瞳がそう言う。責めるつもりなどないのだろう、無垢と言っていいほどのひたむきさでもって、義勇にそう言う。

 太陽を見た。
 明けぬ夜を照らす太陽を、この手で見つけた。

 どうして忘れることができていたのだろう。
 寄る辺のない子どものような瞳で、義勇は炭治郎を見下ろした。
 殴られたように痛む頬を押さえる。鮮やかによみがえった記憶が、凍りついた心をじわじわと溶かしていく。止まっていた血が巡り始めたように、痒みに似た疼痛が生じる。
 後悔と痛みに彩られた記憶を封印したその日から、声の出し方を忘れていった。
 いつか失うと知っているなら、知らなければいいと、変わらないように心を凍りつかせていた。願いが呪いに変わるほどの歳月で、底に沈めたものを見失っていた。
 それを引きずり出したのは、この少年だった。
「義勇さん」
 炭治郎の赤い瞳が義勇を映している。幾分か低い位置にある炭治郎は、目を逸らさない。
 身が竦むほど赫々と燃える炎を、その瞳に見た。その時になってようやく、煉獄の炎を見た。
 受け継がれるもの。それが今、煉獄から炭治郎に渡されたのだと知った。
「……俺は」
 炭治郎の指が義勇の指を握った。いとけない子どものような仕草に反して、潰れた豆の硬くなった皮膚がざらざらとした感触を伝える。
 ただの子どもなどではない。強い意志を持つ一人の人間が、義勇と相対している。
 瞳と言わず、全身からきらきらと光が散って、まばゆいばかりだ。義勇には眩しすぎる。
 直視できなくて、義勇は目を逸らした。
 ――お前の炎は眩しすぎる。
「ねえ、義勇さん。義勇さんがいてくれたから、俺も禰豆子もここにいるんです」
 はっと義勇は息を呑んだ。
 考えてもみなかった。ただ、生きていてくれと願(のろ)われたから。それだけで、今日まで生きてきた。
 視線を戻せば、炭治郎は笑った。つらいことも飲み込んで、そうして成長してきた子どもだった。子ども扱いを許されなかった不幸こそが、炭治郎をまばゆく輝かせているのだ。
「俺は、義勇さんが生きていてくれてよかったと思います。俺を、禰豆子を生かしてくれたのは義勇さんですから」
 だから、おそるおそる尋ねた。子ども相手に、などと言うまい。炭治郎は義勇より、よほど強い。逃げ続けてきた義勇などより、よほど。
「本当に……本当に、そう思うか」
「ええ。心の底からそう思います」
 屈託なく炭治郎は笑った。
「そうか……そうか……」
 ぽろりとこぼれ落ちた言葉が心を溶かす。
 呪いがほどけていく。この身を縛りつけるそれが、温かく身を包む祈りとなる。
「――俺は、生きていてよかったんだな」
「生きてください。これからも」
 新しい呪(ねが)いをかけられる。それがどんなに難しいことでも、そう呪(ねが)われたから、きっと大丈夫だと思える。
 新しくこの身を縛るそれを、義勇は迎え入れた。
「うん……うん」
 子どものように頷いた義勇の手を、炭治郎は強く握った。温かな手だった。
 かすかな震えに、炭治郎の緊張を感じ取った。まだ子どもで、もうすぐ子どもでなくなる手を、義勇は握り返した。
 生きている者の温度だった。

 太陽が墜ちるのを見た。
 堕ちた太陽をこの手で掻き切った。



     三



 忘れてください、と言ったお前を、俺は――――

                *

 痩せ衰える一方の身体を起こし、義勇は床から這い出た。
 火鉢のぱちぱちとはぜる音がする。禰豆子が用意してくれていたようだ。よく気の利く娘だった。義勇にはもったいないほどに。
「あ、起きたんですか。今日は冷えますから、温かくしてくださいね」
 ひょっこりと襖の向こうから禰豆子が顔を出した。
「今日は朝ご飯、召し上がられます?」
「少し」
「はい。温めますから、ちょっと待っていてくださいね」
 ぱたぱたと軽い足音が遠ざかる。
 禰豆子が義勇の屋敷に通うようになって、季節がいくつも過ぎていた。敵にも等しい男の元へ、世話をしにやってくるのを、既に受け入れてしまっていた。残り火がくすぶるに任せて、残り少ない日々を怠惰と言っていいほどに浪費する義勇には、到底真似できないことだ。
 枕元に用意されていた上着を羽織り、義勇は襖を開けた。

 白銀の景色が広がっていた。

 庭木も飛び石も、何もかもが白く覆われている。踏み荒らす人もおらず、ただ積もっていく一方だ。
 空からゆっくりと落ちる白い塊が、音もなく地面に吸い寄せられる。
 しんしんと降り積もる雪が、音を吸い取っていくようだ。だだっ広い屋敷は常日頃から静かなものだが、今日は格別だった。
 ――あの日も雪が降っていた。
 凍えた空気が鼻から入り込み、肺を冷やす。こほり、と咳が落ちた。全集中の呼吸をしなくなって――維持できなくなったと言い代えてもいい――すっかり弱った肺には、少しばかり厳しい天候だった。
「あっ、義勇さんそんなところにいたら風邪引きますよ」
 盆を手に持った禰豆子に布団へ戻された。
「襖は少し開けておきますから、縁側じゃなくて部屋の中から見てください」
 てきぱきと配膳し、禰豆子は義勇の隣に座った。懐かしそうに目を細める。
「雪ですね。明け方から降っていたんでしょう」
 あまりにも懐かしそうに、愛おしそうに言うものだから、義勇は思わず尋ねた。
「雪は嫌いじゃないのか」
「嫌いじゃないですよ。あなたと出会った日ですから」
 穏やかに言われる。義勇は何も答えられない。
「よく覚えていないこともいっぱいあるけど、つらかったけど、でも、それだけじゃなかったから」
 振り返った禰豆子はふんわりと笑った。哀切をにじませながらも、それさえも抱えて前に進もうとする気概を読み取った。
 忘れてしまえ、とは言えなかった。

 夜、灯を落とした闇の中で考える。
 ――もし、お前が。
 闇が訪れると気弱になっていけない。そう思っても、思索を止められはしなかった。
 ――もし、お前がここにいたなら。
 まだ義勇は生きている。血を流しながら生きている。
 傷は塞がらない。塞がりかけてかさぶたができるたびに掻き毟っているからだ。痛みを忘れないように、治癒を許さないように。そんなことは自分には許されていない。
 痛みを、痛みを。胸を掻き毟っても埋まらない空虚を、叫びだしそうな声を抑えて唇を噛む。
 これくらいしか残せないから。どうか忘れないでいて。覚えていて。
 胸の上で残った手を握りしめる。
 固く目を閉じ、顔を思い浮かべる。太陽のような瞳。温かな手。もらった手紙の重さ。握りしめた手が思いのほか大きくて――握った刀が血で滑って、そうして、重い刃を突き立てた。
 大丈夫だ。まだ思い出せる。
 生きていくなら、いつまでも抱えたままではいられない。抱えたまま歩き出す力がないのなら、なおさらだ。かつての義勇がそうだったように。
 それでも、手放すのは嫌だった。
 もう、立ち止まってもいいかと思うたび、生きてください、と記憶の中の彼が囁く。重い。重くてたまらない。刀を握らなくなった義勇は、弱くなってしまった。
 違う。義勇は弱かった。ずっと弱かった。刀が弱い心を支えていただけだ。炭治郎が――義勇の太陽が、弱さを許してくれていただけだった。弱さを持ったまま立ち上がる理由をくれた。
 生きていくのは、こんなに苦しいことだったろうか。
 忘れてください、とお前は言った。その言葉に従って、ずいぶんと置いてきてしまったようだ。もう、細かいことは思い出せなくなっている。
 いつか、この痛みも忘れてしまうのだろうか。

                *

「義勇、息災か」
 春の匂いがする頃、鱗滝先生が訪ねてきた。
 身を起こそうとして、ぐらりとよろめく。片腕では身体を支えられず、慌てて駆け寄った先生に背を支えられた。
 情けなさに心が苦しくなる。また、先生より先に逝ってしまう。先生の弟子は、誰一人、先生より長生きできない。
 匂いで感情を気づかれてしまったのか、先生に抱きしめられる。
「何も言うな」
 天狗の面に隠された先生の顔はうかがえないが、声は震えていた。
「何も言わなくていい、義勇」
 先生の肩に顔を押しつけられる。熱い先生の手が、あばらの浮いた薄い背を抱いている。
 のろのろと上げた左手を、先生が掴んだ。いっそう、きつく抱きしめられる。今にも消える火を、この世につなぎ止めようとするように。
 最後に残ったのがこの不肖の弟子では申し訳が立たない。
 先生は察しがいいから、何も言う必要がなかった。それでも、義勇は声を絞り出した。こほ、と咳をこぼしながら、なんとか言葉を紡ぐ。言わなければならない。言葉は、生きているうちでなければ届かない。
「先生、申し訳ありません……」
「何も言わないでくれ」
 天狗の面の固い感触が肩に乗っている。
 残される者の哀しみが、心を切り裂いた。ずっと、それは義勇のものだった。先生も同じ思いをしていたのだと、ようやく気づいた。
 自分のことで手一杯だったから、気づこうともしなかった。
「先生……」
 二度と離すまいと抱きしめられたまま、先生は冷える一方の義勇に熱を与え続けた。
 禰豆子が来るまで、そうしていた。

 明け方、目が覚めた。
 起き上がって、ふと疑問に思った。身体が嘘のように軽い。まるで数年前のように、痣の呪いにむしばまれる以前のように。
 襖を開けると、庭木が朝露に濡れている。まだ白い雪が溶け残っている。朝方はまだ、かなり冷え込む。それなのに、ちっとも寒さを覚えなかった。
 肺いっぱいに空気を吸い込んだ。縮んだ肺が元通りになったかのように、澄んだ空気を味わった。
 春の匂いがする。どこか心を浮き立たせるような、生命の芽吹きの匂い。鈍化する一方だった感覚も、以前のように鋭敏さを取り戻したようだった。
「義勇さん」
 声がした。

 庭に炭治郎が立っていた。
 
 黒い詰襟の隊服に、市松模様の羽織。両目のそろった顔が、義勇を見てほころんだ。
 さく、と残った雪を踏んで、炭治郎が歩み寄ってくる。
「炭治郎――」
 ならば、これは夢か。
 頑なに夢に出ようとしなかったのに、今になってどういうつもりだろう。義勇が忘れたくないと願っても、夢にも出てきてくれなかったのに。
「義勇さん」
 ただ、懐かしい声に名を呼ばれる。
 義勇は縁側に立った。
 炭治郎は、すぐ目の前まで来ていた。
「忘れてくださいと言ったのに」
「そんなこと、できるはずがない」
 義勇を見上げる瞳に、赫々と燃える炎を見た。消えることのない炎。義勇があの日助けて、様々な人が分け与え、様々な人に分け与えた炎。
 忘れるはずがない。忘れようがない。この炎が、たやすく折れそうになる義勇を支えてきたのだ。
「義勇さん、見てください」
 炭治郎の瞳に映る自分自身を見る。
「義勇さんにも、炎はあるんです」
 言われて気がついた。鏡のように映し出された自分自身の瞳にも、静かに燃える炎がある。
「お前が――お前が俺にくれたんだ」
「返しただけです。義勇さんが、俺に火をつけたから」
 うん、と子どものように頷いた。
 ふらりと庭に踏み出した。知らず伸ばした手を、炭治郎は取った。義勇の瞳を覗き込んで、炭治郎は笑った。
「義勇さんが、持っていたんですよ」
 うん、とまた頷く。
「お前は、ずっとそこにいたんだな」
 花びらが舞い落ちるように微笑んだ義勇の右手を、炭治郎はやさしく握った。

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