1



 帝国陸軍内に、秘密裏に諜報員養成学校・通称〈D機関〉が設立されてから早数年。
 結城中佐が全国から集めた第一期生は卒業し、国内や海外での任務に就いている。一年半後、卒業した彼らと入れ替わるように第二期生が入学し、スパイとしての訓練を受けた。その学生たちもやがて卒業しては、各地に散らばっている。
 卒業生が増えていく中で、D機関には代々(というほど歴史は長くないが)卒業生から在校生へ受け継がれるものがあった――学校にはつきものの、噂話である。
 しかし、彼らは普通の学生と違って入れ替わりで入学し、卒業する。直接の接触がない彼らの間でどうやって噂話が広がり、継承されるのか。
 答えは簡単だった。
 卒業生たちがたわむれに暗号を残していくのだ。
 D機関を卒業すると、それぞれが異なる国、地域に派遣され、任務に就く。ひとつの任務が終われば、次の指示を結城中佐から受ける。結城中佐に会いに行く場合もあれば、結城中佐が機関員のいる現地に赴くこともある。いずれにしても、全員が一堂に会することはほとんどありえない。
 彼らが一時的に立ち寄るD機関の校舎――D機関本部には、在校生へ、あるいは互いへの伝言として、ちょっとした小物類に暗号が忍ばせてあった。
 ほんのお遊びにすぎない。読んでも読まなくても大したことのないような内容だ。化け物ぞろいの彼らといえども、ほとんどが二十代の若者だった。時折、気まぐれのようにたわいもない内容の伝言を残す。
 代々、噂や怪談話といったたぐいが受け継がれるのは、学校という特殊な閉鎖空間ならごくごくありふれたものだろう。D機関も例外ではなかった。設立されて数年といえども、どこの学生も基本的には変わらない。
 違うのは、彼らが怪談話を恐れるような人間ではないという点だ。
 先輩たちはお遊びとして作り話を残し、暗号として校舎のあちこちに隠しておく。後輩たちは、そんな暗号を見つけては、真偽のほどを確かめる。好奇心旺盛なD機関の学生たちは、偽物であると承知の上で、あちこちを探検したりする。ある意味では、D機関の〝伝統〟になりつつあった。
 そして、作り話であることがわかっても、その噂、怪談話は消えなかった。彼らが先輩として、後輩たちにそれらを継承していくのだ。
 そうやって学生たちの間で共有された情報の中で、とりわけ皆の気を引き、まことしやかにささやかれている噂があった。

 ――いわく、〝魔王の宝物〟がどこかに隠してある、と。



     2



 結城中佐がひそかに〝魔王〟と呼ばれているのは、暗黙の了解である。その、魔王の宝物。中世のおとぎ話のような響きが、あまりにも不釣り合いである。
 いや、恐ろしい形相をした魔王に、厳めしい顔つきの結城中佐はぴったりかもしれない。
 その〝魔王〟にも、大切に保管しているものがあるらしい。どこから生じたか定かではないが、にわかには信じがたい噂は、D機関の学生たちの好奇心をいたく引きつけた。
 常に「とらわれるな」と繰り返す結城中佐に、執着するものがあるとは思えない。しかし、結城中佐が大切に、厳重に隠しているものがあるとすれば、それは知られては困るもののたぐいではないのか。
 ――〝魔王の宝物〟とは、誰も真実を知らない、結城中佐の過去にかかわるものではないか?
 処分できないほど大切なものか、あるいは処分するにも支障のあるものなのか。いずれにしても、化け物ぞろいのD機関員を育て上げた結城中佐の〝弱点〟かもしれない。
 そうとなれば、俄然気になりだす、好奇心旺盛で恐いもの知らずの学生たちだった。

 それを確かめる機会がめぐってきたのは、その年の五月も終わる頃だった。
「暖かい」を通り越して「暑い」に入りかけた時期だ。まだ梅雨入りはしておらず、からっと晴れた日差しが早くも夏の気配を漂わせている。スーツの上着を着ていると、日中では汗ばむほど気温が上昇する。
 ――今日は、D機関の栄えある第一期生のひとりが立ち寄るらしい。
 その情報は、たちどころに学生たちの間を駆けめぐった。
 その先輩たちに劣るなどとは欠片も考えない彼らであっても、第一期生の先輩には興味があった。陸軍から設立を反対され、予算も限られていた時の先輩だ。彼らがD機関の有用性を認めさせたからこそ、今のD機関がある。会ってみたいと思うのは自然の成り行きだった。
 そして、尋ねたいこともある。
 いつもと違う、どこか浮足立った雰囲気のまま、彼らは授業を受けた。さすがに、結城中佐に厳しく叱られるほどの失態は犯していないが、結城中佐には、学生たちの心のうちなどお見通しだろう。
 学生たちの浮ついた雰囲気を察しているはずの結城中佐は、しかし何も言わなかった。
 いつになく自由時間を今か今かと待っている学生たちを一瞥し、結城中佐はいつも通りに教室を出た。



     3



 神永は、新しくなったD機関の校舎を訪れていた。第一期生の卒業後、校舎は移転し、かつての間借りしていた大東亜文化協会ではなくなっている。九段坂から中野へ移転した校舎を見るのは、初めてだった。
 第一期生の活躍により、所属も参謀本部直轄へと格上げされていた。予算もはるかに増えた。莫大な機密費をせしめた結城中佐の完全な勝利だ。
 神永は校舎を見上げた。表には偽の看板が掛けられ、ここが学校であることを示すものは何もない。ここは、陸軍内でも極秘扱いだった。
 校舎自体に、懐かしさはない。ただ、この中に自分の後輩がいるというのは、不思議な感覚だった。いったいどんな学生たちだろう。自分たちと同じような、手の付けられないほど強烈な自負心の持ち主なのだろうか。
「さて、お手並み拝見と行こうかね」
 神永は帽子の下でにやりと笑って、正面玄関から堂々と入った。

 要件自体は、さほど時間はかからなった。
 結城中佐と面会し、いくつか情報を交換した。珍しく、結城中佐のもとに赴いての報告だった。神永の新任務に関しては、後日通達されることになった。その代わり、時間があるなら授業を見て行けと言われた。
 こんなふうに呼びつけられることはめったにないと思ったら、後輩の様子を見てほしいらしい。入学者の数も少しずつ増えている。正規の教員も、結城中佐だけでは足りなくなっている。もしかしたら、教員へ勧誘されているのだろうか。
 結城中佐に言われるまま、神永は授業中の教室を廊下からのぞいた。
 授業風景は、神永たちの頃とあまり変わらない。ただ、あの頃の純粋な諜報員養成とは違い、もうすぐ遊撃戦の専門教育も授業内容に加わるらしいという噂も耳にした。
 ――大日本帝国は去年、戦争を始めた。
 戦争が始まれば、海外へ単独で潜入するスパイの必要性は低くなる。それどころか、敵国・日本人であれば怪しまれてしまい、潜入などできるはずもない。
 この授業風景も見納めだろう。
 神永は、暗号通信の訓練をする後輩たちを眺めた。まったく同じ授業を、数年前に受けていたのが懐かしい。
 神永が授業参観さながらに教室の外から見学していることに気づいたひとりが、顔を上げた。神永を視界に収めると、彼はわずかに目を見開いた。しかし、すぐに手元に視線を戻した。その間、まったく手元を狂わせることなく、暗号を打ち込む。
 ――これは楽しみかもしれない。
 神永は、ひっそりと笑いを浮かべた。

 自由時間になった。
 神永は学生たちに囲まれていた。神永がいたあの頃と同じように、軍人にあるまじき長髪、地味なスーツ、これといって特徴のなさそうな外見をしている。整っているがゆえに没個性的な顔がいくつも並び、一目で見分けるのは難しい。経歴、本名、年齢を伏せ、偽の名前、経歴をまとって別人として生活しているのも、同じだ。
 授業が終わって、見学していた神永に学生たちが近づいた。おそるおそる、といったように神永を囲み、あいさつする。互いに似通った、日本人にしては彫りの深い、生白い顔がそろって神永を見つめた。
 学生たちは最初、謙虚な態度を取っていた。本性を隠してしおらしい態度を取る彼らは、その段階では可愛い後輩と評してもよかっただろう。しかし、神永が堅苦しい人物でないと知るや否や、謙虚さをかなぐり捨てて、容赦なく質問を浴びせてきた。
 学生時代の様子、任務のこと、はては神永の個人的なこと(「ご結婚なさっているのですか? お子さんはいらっしゃいますか?」まで!)さえ質問する学生たちは、遠慮を知らない。そのすべてに答える気はなく、また機密を含むため、神永は適当に偽の経歴を答え、煙に巻いた。
 質問があらかた出尽くした頃、学生たちがひそひそと顔を見合わせ、小声で何か相談し始めた。ひとりが隣の学生を肘で小突き、ようやく彼は決心したように神永の顔を見据えた。
 さて、次などんなえげつない質問が飛び出すのかと思っていると、意外な質問だった。
「先輩は、結城中佐の噂をご存知ですか?」
「結城中佐の噂?」
 神永は怪訝そうな顔をした。嘘ではない。聞いたことがないのは事実だった。
「お聞きしたことはないのですか? 先輩からの暗号にあったのですが」
「暗号? 何のことだ」
 学生たちは再び顔を見合わせた。
 学生のひとりがかいつまんで説明した。幸野という、背の高い学生だ。彼がこの期の取りまとめ役らしい。
 幸野の説明によると、上の代の卒業生たちが、校舎のあちこちに暗号化した伝言を残していったらしい。その中のひとつに、結城中佐にまつわるものがあったそうだ。
 初耳だった。少なくとも、神永はそんな真似はしていない。
「存じ上げるも何も、俺がいた時はこんな遊びはしなかったぞ」
「そうなんですか?」
 首をかしげた幸野が、不思議そうな顔をした。
「では、第二期生からの噂でしょうか」
「俺以外の一期生が残したって線もあるがな」
 それで、と神永は続けた。
「噂っていうのは?」
「〝魔王の宝物〟がどこかに隠してある――という内容です。本当にご存じありませんか?」
 見透かそうとするような視線で、幸野が見つめてくる。幸野以外の学生たちも、探るような視線を神永に浴びせた。四方八方から、あらゆるサインを見逃さないというように、神永を視線で包囲する。
 神永は苦笑した。
「俺を疑っているのか? 俺たちの時は、校舎はここじゃなかったんだぜ」
「そうなんですか……。先輩に聞けば何かわかるんじゃないかと思ったのですが」
「ご期待に添えなくて悪かったな」
「いえ、期待はしていませんから」
 別の後輩があっさり言った。彼は中溝と名乗った。小柄な体躯で、学生たちの中では幼さを残す顔立ちをしている。柔らかそうな物腰とは正反対に、ばっさりと切って捨てるような物言いが、実井を思い起こさせた。
「でも先輩、興味ありませんか」
 にやりと笑って、さらに別の学生――高砂が神永に問いかけた。悪戯小僧のように目をくるりと輝かせ、手伝ってほしいと言わんばかりだ。
「僕たちは、これから探しに行こうと思うんです」
「先輩も一緒にどうですか」
 幸野が、包み隠さず正直に神永を誘った。まさか、神永が断るとは夢にも思わないような顔つきだ。
 ――最初からこれを狙っていたのだ。
 ならば、乗るしかない。せっかくかわいい後輩たちに誘われたのだ、断る理由もない。それに、結城中佐の秘密は、神永も知りたい。あの〝魔王〟が大切にするものが、本当にこの世に存在するのだろうか。
「どこにあるかは検討がついているのか?」
「やっぱり、あの〝開かずの間〟じゃないかと」
 高砂が真っ先に言った。
「〝開かずの間〟って?」
「あれですか? たしか、鍵がかかっていて入れなかった――」
 中溝が答える。丸い大きな瞳が神永を見上げた。赤い唇がうっすらと微笑むと、ますます実井と重なる。
「鍵をこじ開けなかったのか」
「ええ。結城中佐にやめておけと」
「それで、おとなしく従っているのか。ずいぶんといい子ちゃんになったもんだ」
「まあ、表面上は」
 嘲るようにも聞こえる神永の言葉に、中溝が肩をすくめた。
「ひとりが鍵を開けて入ろうとしたんですけど、結城中佐に見つかったんですよ。そのあとに挑戦した奴も、ことごとく。もちろん罰則が与えられました。それで、〝開かずの間〟になったわけです」
「で、結城中佐の罰則はこりごりだから、先輩と探検したいって?」
「まあ、そんなところです」
「先輩となら、結城中佐も見逃してくれないかな――って」
「あの、これ、地図」
 それまで黙っていた学生――菊井が、手元にあったノートの紙を破り、その場で地図を書き出した。あっという間に、校舎の見取り図が詳細に書き起こされる。
 彼は美術系の高専を卒業したのだろう。あるいは、そういう〝設定〟なのか。
 優れた記憶力はスパイの第一条件だが、それに加えてスケッチの技術。純粋な諜報員としては、やや異色の能力だ。諜報活動に役立てようと思えば、いくらでも使い道のある使い勝手のいい能力だろう。
 D機関もおもしろい人材を採用したものだ、と神永は結城中佐の顔を思い浮かべた。
「じゃあ、恥ずかしい真似は見せられないな」
 地図を受け取った神永は、不敵に笑ってみせた。

 神永たちは、校舎の隅々まで探し回った。ひとまず、他の場所をあたってみることにしたのだ。
 真新しい校舎だ。自分たちの時とは大違いだった。ゴードンの事件以降、格段に増えた予算が投入された結果を見るのは、少し胸のすく思いだった。
 地図をもとに、校舎を片っ端から捜索する。すべての教室、寮の寝室、談話室、応接室、台所も探した。しかし、何もなかった。ある意味、予想通りである。
 やはり、あの部屋しかない――満を持して神永たちは階段を上がった。
 最上階の廊下の突き当たりに、〝開かずの間〟はあった。
「ここか?」
「はい、そうです」
「じゃあ、誰か見張りを」
 無言でうなずいた一人が、廊下の端に立った。
 神永は、〝開かずの間〟の鍵に針金を差し込んだ。
 結城中佐は来ない。いつもなら、学生たちがこの周辺をうろつくだけで姿を現すらしい。それが、今日に限っては現れない。いったい何を考えているのか。
 錠の落ちる軽い音がした。
 後輩たちが固唾をのんで見守る中、神永は扉を押し開けた。真新しい校舎は、蝶番のきしむ音も立てない。
 扉を開けて目に飛び込んできたのは、拍子抜けするくらい、普通の部屋だった。
 使われていない教室といった風情だ。入ってすぐ、扉の左側に黒板があり、奥に机と椅子がいくつか並んでいる。部屋の両側に並んだ窓は、カーテンが閉め切られている。教室の後ろ、部屋の奥には本棚が並んでいる。本棚はびっしりと壁一面を埋め尽くし、窓を塞いでいる。
 鍵がかかっていたせいで掃除はされていないのか、少しほこりっぽい。普段使っている教室よりやや小さいくらいで、他に特筆すべきことはない。
 学生のひとりが窓のカーテンを開けた。窓ガラスから日差しが差し込む。
 妙な違和感を覚えて、神永は教室を見渡した。
「……何もありませんね。ここだと思ったんですけど」
 中溝が首をひねった。
 教室中に散らばった学生たちが、教卓や机の中を調べても、何もめぼしいものは見つからない。
「ここじゃないとすると――」
「どこかに隠し部屋があるんだよ、きっと」
 高砂が言った。
「隠し部屋って言ったって、菊井の見取り図には、そんな余裕なかったんじゃないのか」
「いや、この部屋の見取り図は想像だ。少し違うかもしれない」
 幸野の言葉に、菊井がぼそりとつぶやくように返した。
「わかったぞ!」
 ひらめいた、といった顔で高砂が少し興奮したように早口で言った。
「この部屋、見てみろよ。地図より小さくないか」
 菊井の描いた詳細な見取り図を広げ、皆でのぞきこむ。
 校舎の外観から想像される部屋の大きさ通りに、この〝開かずの間〟の間取りが描かれている。何度見ても、間取りとしてはごく普通だ。しかし、その間取りと実際の部屋を見比べると、
「――窓の間隔がおかしい」
 菊井がつぶやいた。
 他の教室は、黒板に向かって右手の前と後ろに扉がひとつずつあり、教室の奥、黒板に向かって左手に窓がある。教室を出れば廊下が続いている。この部屋は突き当たりに位置するため、他の教室とは扉、黒板、窓の向きが違う。扉は一カ所、教室の前方にあり、部屋の両側に窓が位置している。配置が違うため気づきにくかったが、外から見える窓と教室の窓では、間隔が微妙に合わない。
 音もなく移動した菊井が窓を調べた。窓と本棚の隙間に指を突っ込んで確かめる。
「……この窓、偽物だ」
「ほら、やっぱり隠し部屋だよ。この本棚が偽物の窓を塞いで、部屋の大きさをごまかしていたんだ」
 高砂が、同意を求めるように神永を見た。
 さきほどの違和感は、まさにそれだった。見取り図と比べて部屋が小さすぎるのだ。いくらこの部屋が他の教室より小さいといっても、校舎自体の大きさと合わない。
「高砂の言うとおり、隠し部屋だな」
 神永が同意すると、高砂は得意げに胸をそらせた。
「では、改めて探検と行きますか」
「本棚の裏ですね」
「ああ、そうだろうな」
 無言の菊井が先頭に立ち、ぞろぞろと本棚の周囲に集まった。手分けして、本棚を調べる。天井に届きそうなガラス戸つきの本棚は、教室の後ろの壁とほとんど同化している。
「……見つけた」
 菊井が聞こえるか聞こえないか、というくらいの低い声で言った。
 皆が手を止め、菊井の周りに集まる。ごくりと唾をのむ音が聞こえた。
 菊井が赤い背表紙の本を軽く押す。がしゃん、と何かが落ちる音がした。本棚がゆっくりと向こうへ開く。
 ――隠し部屋だ。
 声にならない歓声が聞こえた。静かな興奮が、伝染する。
 神永たちが部屋に入ると、そこは雑然と物が積まれた物置だった。何の規則性も見いだせないような配置をされている。ほこりが舞って、誰かがくしゃみをした。
 壁際には本棚があり、ジャンルのばらばらな本が適当に突っ込まれたという風に収まっている。うっすらとほこりの積もった机の上にも、物が乱雑に積まれている。
 机の引き出しをあけた高砂が、声を上げた。
「何だ、これ……」
 隠し引き出しの中にあった本に挟まっていたのは、数枚の写真だった。
 何気ない日常を切り取った写真だった。当時の第一期生が写りこんでいるものもある。神永には見覚えのありすぎる代物だった。
「……俺が撮った写真だ」
 神永がカメラの練習として撮影したものだ。写真屋として英国へ渡る前に撮った写真が、処分されずに保管されている。フィルムは自分で処分したが、写真は結城中佐に渡した。この腕なら合格だと結城中佐に言われたのだ。それが、こんな場所に保管されていたとは――。
 神永は写真を手に取った。
 年齢のわかりづらい彼らは、けれど今よりも少しだけ若い姿をしている。もう、その姿を留めている者はいない。顔を変え、名前を変え、すっかり当時の痕跡を消し去った別人として生きている。D機関第一期の〝訓練生〟だった彼らは、ここを卒業すると同時に死んだ。存在を抹消された。今や、彼らを記憶しているのは結城中佐と佐久間中尉くらいだ。
 だから、その写真がここにあったとしても、それほど問題ではないかもしれない。そもそも、ここに盗みに入るような人がいるのだろうか。
 ――いや、そういう問題ではない。
 神永は震えそうになる指で、そばに置いてあった箱を手に取った。いつもより心拍数が上がっている。呼吸が早く、浅くなりかけている。
 ――問題は、わずかでも正体の露見する可能性を結城中佐がつぶさなかったことだ。
 小箱を開くとボタンがひとつ入っていた。赤茶色の汚れが付着している。血痕だろう。
 一同がざわめいた。
 明らかに、ここにあるのはD機関に関連するものだった。それも、任務に必要なものではない。むしろ任務に差しさわりのあるかもしれない、きわめて個人的なものだ。
 そして、二重になった箱の底には、畳まれた紙が入っていた。耳に痛いほどの静寂の中、かさりと紙の擦れる音を立てて開く。
 ――死亡通知書だった。
「これは……」
 ざわめいていた皆が一斉に黙り込んだ。
 書類に記された名前に、見覚えはない。しかし、同封された写真が、神永の呼吸を一瞬止めた。
 死因は、異国での事故死。
 神永は、じっと写真を見つめた。不慮の死にしては、安らかそのものといった死に顔。変装を解いた彼の素顔。それを、見間違えるはずがない。
 死亡通知書が偽造である可能性を頭の片隅で認識しつつ、どうしてもそうとは思えなかった。その写真が、神永には偽物には見えなかったのだ。安らかに眠るようなその表情が、やけに真実味を帯びている。彼ならきっと、死に際でもそういう顔をしそうだ、と納得してしまうような。
 神永はその紙を元通りに畳んで箱にしまった。後輩たちの視線が横顔に、背中に突き刺さる。物理的な痛みを伴いそうなほどだった。
 血痕の付いたボタンと死亡通知書。彼が今はどうしているかなど、考えるまでもない。
 無言の沈黙が重くのしかかった。
「――戻りましょう。長居したら中佐に見つかってしまいます」
「……そうだな」
 重い沈黙を中溝が破る。幸野が同意し、神永たちは引き揚げた。
 本や小箱を元通りの位置に置き、落としたものがないか確認する。
隠し扉を通り抜けるその時、神永は振り返った。窓から差す日差しの中に、ほこりが漂っている。
 時を止めたような部屋の中に、ひっそりと保管される、誰かの生きた証。他の誰も覚えていなくても、入学試験を課し、指導し、任務を命じた結城中佐は、いつまでも覚えているだろう。彼が、彼らが、確かにここで訓練を受け、巣立っていったのを。
 周囲の人間から忘れ去られても、記録から消されても、結城中佐だけは、絶対に忘れないだろう。
「――確かにあれは、宝物だったな」
 神永の前にいた中溝が振り返った。
「何か言いましたか?」
「いや、何も」
 なんでもないふうを装って、神永は答えた。
 ここは、魔王の宝の隠し場所であり、D機関員の墓場だった。偽りの経歴を身にまとったまま死に、本当の姿を忘れ去られた機関員の、最期に眠る場所。
 ――さしずめ、俺たちの〝柩〟といったところか。
 魔王に育てられ、魔王が手ずから作った柩に眠る――冗談にもほどがある。そんなものは願い下げだ。死してなお、魔王の掌の上にいるなんて。
 だが、この場所を用意したのは結城中佐に他ならない。
 手塩にかけて育てた諜報員が、死すらも偽装されて歴史の狭間に埋もれていくのを、結城中佐はどう感じているのだろう。毎年、卒業生の背中を見送っていくのは、どんな気分なのだろう。
 彼らに過酷な任務を命じるのは、結城中佐本人だ。その卒業生の物言わぬ躰を迎える時、何を考えるのだろう。経歴、氏名、年齢までも一切が〝極秘事項〟として扱われ、公的な記録から抹消された彼らの素顔を知るのは、結城中佐ただひとりだ。誰とも共有できない情報を、ひとり胸に仕舞い込んでいる。
 厳めしい顔の下に隠した感情の行方が、ここなのか――。
 柄にもなく感傷的になっているのを、神永は自覚した。
「先輩、早くしてください」
「ああ、ごめんごめん」
 平静そのものといった顔を作って軽く中溝に謝り、神永は〝柩〟の扉を閉めた。



     4



 後日、再び用事があった神永が校舎を訪れると、いささか悄然とした後輩たちが出迎えた。
 改めて結城中佐の目を盗み、あの部屋を探しに行ったが、見つからなかったらしい。たしかにあったはずの隠し扉は、忽然と消え失せていたそうだ。影も形もなく、絶対の自信を持つ己の記憶力を疑いたくなるくらいに(余談だが、その際に逃げ遅れて結城中佐に見つかった高砂は、きつい罰則を与えられたらしい)。
 狐につままれたような顔をする学生たちに、神永は吹き出しそうになった。
 あれが夢かうつつだったか、物的証拠は何もない。ただ、神永たちの記憶に刻まれているだけだ。
 もしかしたら、全員が幻覚を見ていただけかもしれない。食事に薬物を仕込むくらい、結城中佐なら朝飯前だろう。
 あるいは、料理当番を買収したのかもしれない(校舎が移転し、広くなっても料理当番は存在しているらしい。外部の人間をなるべく入れないためと、あらゆる技術を身に着けさせるためだろう)。料理当番――すなわち彼らの同期だが、料理に薬物を混入させる程度に抵抗を覚えるはずもない。そんな仲良しごっこをするために、入学したわけではない。訓練だとでも言えば、一も二もなく協力しただろう。少なくとも、福本ならためらわない。
 それとも暗示か催眠術の類か――。
 結城中佐なら、訓練と称してやりかねない。ちょうど学生たちの間に広まっていた噂にかこつけて訓練の材料にでもしたのだろう。結城中佐はあらゆる状態を想定して訓練を行う。そのひとつだったかもしれない。なにせ、自白剤を打たれた場合の訓練もするくらいなのだから。
〝魔王〟がにやりと口元をつり上げている顔が思い浮かんだ。
 結局、真相はわからずじまいだった。
 すべては夢まぼろしで、あの死亡通知書の写真の彼も、死を偽装しただけかもしれない。
 少なくとも、あの名前を用いていた青年は、どこにもいない。そういった意味では、あの死亡通知は紛れもない本物だった。神永は、二度とあの名前の彼に会うことはない。あれが、実在するとするならば。
 ただ、あの場所は神永とD機関の学生たちに少なからず衝撃を与えた。
 ――どこまでも結城中佐らしい。
 それでいい、と神永は帽子をかぶった。
 今回の〝探検〟で、神永もまだ心を揺さぶられるものがあると気づかされた。きれいに消したはずの過去に直面すると、完璧に掌握しているはずの感情に乱れが生じるくらいには。
 後輩たちもそうだろう。動揺を隠せない学生もいた。察しのいい彼らなら、結城中佐があそこに葬ったのが何か、勘づいているはずだ。
 ――貴様らの末路のひとつだ、と。
 たとえ幻覚だったとしても、彼らに起こりうる未来のひとつの形だった。ひやりとした死の予感を突きつけられ、何も感じずにはいられまい。
 しかし、それで挫折するようなD機関ではない。そんなやわな神経の人間は、ここでは生きていけない。学生たちは、これを機にますます化け物じみていくだろう。自分だけはあそこで眠る先輩のようにはならない、という絶対の自信を持って、あらゆるものを切り捨てて。
 実際、彼らは転んでもただでは起き上がらなかった。〝魔王の宝物〟に関して、また新しい暗号をどこかに残しておいたらしい。次に入学する後輩への置き土産にするつもりだろう。
 そうやって、あの噂は上の代から受け継がれてきたのかもしれない。暗号に気づいた前期の学生たちも校舎を探検しては、あの部屋を発見していたのだろうか。
 上の代と同じことをしているのなら、魔王が気づかないはずがない。それとも、訓練としてわざと残しているのか。そうだとすると、噂を流したのは結城中佐本人である可能性さえある。
 そこまで予想し、仕掛けたのなら、それこそ〝魔王〟の所業と言うべきかもしれないが。

 神永が校舎の外へ出ると、強い日差しが照りつけた。わずかに傾いてきたが、まだ日中の熱を含んでいる。日の落ちる時間も遅くなった。もうすぐやってくる梅雨が終われば、ますます容赦なく降り注ぐだろう。
 眼球を突き刺すような日光に目を閉じると、瞼の血管が赤く透けた。
 再び目を開く。神永は空を仰いだ。
 青く澄み渡った空に、白い雲が浮かんでいる。今日は湿度が低く、空の色が一段と鮮やかだ。青々と茂った街路樹の葉が、道路に日陰を作っている。背広の上着を着るには、少々暑い天気だった。
 これから神永は、次の任務地に赴かねばならない。
 今度はどれくらいの任期になるのだろう。何カ月か、何年か――戦況はいつ変わるかわからない。
 日本は開戦してしまった。
 ――真珠湾攻撃に端を発する、大東亜戦争。
 いくら結城中佐といえども、時計の針は戻せない。
 今はまだ、日本が優勢だ。犠牲者は出しているが、戦局はそれほど悪いものではない。
 だが、ソ連軍は手ごわい。近代化の遅れた陸軍はその事実から目をそむけ、精神論に傾いていった。情報は捻じ曲げられ、鮮度を落としていく。
 陸軍だけではない。米英を相手にする海軍も、今後の見通しは決して明るくない。日本には米国ほどの資源も工業水準もない。長期戦になれば、圧倒的に不利だ。そんなものは、世界各地に散らばったスパイたちの情報が示しているはずだった。それが、上層部に届いているならば。
 いや、届いているはずだった。海軍では正確な試算がなされた。開戦直後は日本が有利な立場を取るが、その後は米国の造船能力、石油備蓄率から戦力の格差が開き、互角に戦えるのは一年ほど。それ以上は国力が疲弊し、日本は負ける――明確すぎる答えは、すでに示されている。
 しかし、情報は軽視された。楽観的な予想に基づき、日本は宣戦布告した。
 開戦に反対していた将校は、出世街道を外された。
 D機関設立時よりましになったとはいえ、相変わらず人員は不足している。そのうえ、陸軍と海軍はまったくもって協力する気配を見せない。圧倒的に人手の足りていない情報部でさえも、その例外ではない。
 こんな戦争を、勝つほうが難しい。
 タイムリミットの一年は、刻一刻と迫っている。
 神永があえて言わずとも、結城中佐も十分承知しているだろう。
 命を懸け、危険を冒して集めてきた情報は、捨てられていくだけだった。
 ――死ぬな、生き残れ。
 結城中佐の声が耳の奥でこだまする。
 安易な自死を選ぶな。生きて必ず、情報を持ち帰れ。
 その言葉を繰り返した結城中佐は、何を思っていたのだろうか。
 皺の刻まれた厳めしい顔をした魔王は、相変わらず内心を悟らせない。魔王の手足となった青年たちが集めてきた情報を上層部に伝えるのが、結城中佐の役割だ。誰よりも、情報が無駄になっていくのを目の当たりにしているはずだ。
 それを、悔しいと思うことはないのだろうか。逮捕、殉職、行方不明――失われる人員は、これからも増える一方だろう。
 こんな情報部のもとでは、莫大な機密費を注ぎ込んで養成された人員すら、使い捨てられていく。
 ただでさえ、危険な任務だ。
 ほんの些細なことから捕まったスパイがいる。どんなに過去を消し去り、別人に成りすましても、思わぬところから過去の関係者が現れる。その時に完璧な対処ができなければ――過去にとらわれてしまえば、一貫の終わりだ。
 一瞬でも気を抜けば、それが致命的な失敗につながる。誰にも心を許してはならない。
 たとえ、それらを骨の髄まで叩き込まれた優秀なスパイであっても、不慮の事故には逆らえない。
 次にあの部屋に葬られるのは、神永かもしれない。
 それでも、と神永は思う。ここにいるのは自分の意思で、選んだのも自分の意思だ。真っ暗な孤独の中で、自負心のみを支えに生きていく。情報を集めるのは、軍や国のためでさえない。
 ならば、後悔などしない。するはずもなかった。
 彼もそうだっただろう。
「さらばだ、――」
 魔王謹製の柩に眠る彼の名前を呟き、神永は初夏の日差しの下へ足を踏み出した。

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