初出:2017/1/15 ディセプティブエージェント4



 一瞬の意識の断絶。
 暗い海の底にいるようだった。分厚い膜が、周囲から意識を隔てている。息が苦しい。周りにあるはずの空気が吸えない。頭上から押しつけられる水圧が、肺から酸素を奪っていくようだ。
 浅い息遣いが聞こえる。誰かの苦鳴。もがくような物音。泣き叫ぶ子どもの声。それらの織りなす不協和音が頭を揺さぶる。
 とりわけ近くで、ひゅうひゅうと空気が漏れるような不自然な音がする。
 それが自分の喉から発せられたものだと気づく頃には、事態を把握しきっていた。

 目を開ける。

 霞む視界に飛び込んできた光景は、予想通りだった。瓦礫と化した車両の中に投げ出された人影。動かない人のほうが多い。最も被害の大きい車両に当たってしまったようだ。なんて運がないのだろう。
 苦笑しようとして、身体を走り抜けた痛みに顔が歪む。
 痛みに慣れるのを待ち、ゆっくりと息を吸って、自分の身体を見下ろした。
 鉄の棒が突き刺さっている。

 ――これでお終いか。

 あっけないものだ、ともうひとりの自分が嘲笑う。ここで運に見放されるとは。たった一度の失敗によって、半世紀にも遠く及ばぬ人生が、ここで途絶えるのだ。
 だが、感情は波打たない。必要な対処はすべて済ませてきた。常に万が一を想定して、手は打ってある。その安心感のような微睡みが、ひそやかな足音を立てて近づく。打ち寄せる波に、意識がさらわれそうになる。

 ――まだだ。

 のろのろと手を持ち上げる。ひどく重たい。自分の意思が末端まで届いていないような感覚。身体、心、自分自身のすべてを、欠片も漏らさず意思の支配下に置いていたのが嘘のようだ。
 ぐっと襟を掴む。赤い滲みが白い布に広がる。

 ――これでいい。

 重りをつけたような腕が、なけなしの力を失ってだらりと垂れ下がった。
 知らず、笑みが刻まれる。
 後を任されるのは誰だろうか。共に過ごした彼らのうちの誰かであるならば、と思う。誰でもいいのに、どうしてか、彼らのうちの誰かであるような気がした。根拠のない希望が――希望と呼んでも差し支えないだろう、それが心のうちから湧き上がる。

 最期の時くらい、感傷は許してほしい。

 目を閉じると、微睡みがひたひたと近づいてくる。かわりに、痛みが遠ざかる。つま先からぬるま湯に浸すように、ゆるやかな終焉がこの身を覆うのを感じる。

 瞼の裏に、走馬灯のように光景が駆け抜ける。数年前の、たった一年ほどの出来事が、とりわけ鮮明に蘇る。忘れることを許さない記憶力が、それらを色鮮やかに描く。

 彼らと共に過ごした日々の重さを、今になってずっしりと感じる。もう、受け止める腕も動かないのに。

 だからだろうか。逃げられないとわかっていて、迫ってくる記憶の渦が、眩しく目を灼く。とっくに閉じた瞼の裏に再現される光景は、だからこそ目を背けることはできない。

 まぎれもなく、楽しかった。

 仕舞い込んだ箱の蓋を開くように、心の底に眠らせた遠い日を思い起こす。自分と同類の、人でなしどもの顔を思い出す。それは今なお色彩を保って、微睡みの淵から手を差し伸べている。
 偽装に偽装を重ねた日々の中で、本当に楽しいと思えた。誰も彼もが自身を偽る日常で、その瞬間の感情は真実だった。
 この日々を胸に抱いて、戻らぬ旅路を行く。
 恐れはなかった。一足先に旅立つ悔しさは、否定しがたかったが。
 微睡みが手足をからめとり、水底へ引きずり込もうとする。もう、抵抗はしなかった。
 空が白んでゆくように、夕闇に没するように、すべてが輪郭を失い、無に還る。
 その中にふと浮かんだ顔が振り向く。あやふやに溶けた輪郭のまま、その口が動く。

 名前を呼ばれた。

 懐かしい名前だ。それを呼ぶ人は、随分と限られている。
 境界を失くした輪郭が、ふっと焦点を結んだ。

 ――最後に見るのが、あなただなんて。

 彼は、覚えているだろうか。あの日々を。短くも鮮烈だったあの時を。
 忘れていればいい、と思う。覚えていてほしい、とも思う。忘れられているなら、諜報員として冥利に尽きる。覚えていてくれるなら――嬉しいのだろうか。あの日々を、彼も楽しいと思っていてくれたなら。
〝人でなし〟になった時に捨てたはずの感情が、頭をもたげる。〝見えない存在〟として、生きた証が残るのは歓迎すべきではない。それでも、それが少しでも彼の安らぎになるのならば。
 矛盾した想いは、ほんの少しの我が儘と、誰かの幸せを願う祈りにも似ていた。

「――――……」

 あえかな吐息と共にこぼれた言葉を拾う手はない。
 最後に残した自らの声が耳に届く前に、意識は闇に呑まれた。





みなそこへ

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