「はー、疲れた。今何時?」
「一〇時半をちょっと過ぎたところ」
 肩をぐるぐる回しながら尋ねた釘崎に、スマホを確認した伏黒は答えた。
 生温い風が吹いている。日が落ちてもあまり気温が下がらなくなっている。既に暦の上では春が過ぎ去っている。
 一年生三人に割り振られた呪霊を祓い終わって、既に夜も遅い時間である。中高生が出歩いていい時間ではない。そろそろ条例違反になりそうな時刻だが、伏黒たちは学生であると同時に呪術師として働いている。この場合、自分たちの扱いはどうなるのだろうか。
 ――まあ、警察に見つかっても補助監督がなんとかするのだろう、などと適当なことを考える。
 虎杖が自分のスマホを見て驚いた。
「うわっ、もうこんな時間なの⁉」
「ええっと、車で高専までだいたい三〇分だから、今から帰ると……、ああ、早く寝ないとお肌が……!」
「そんな年じゃねえだろ」
「伏黒、わかってないわね。こういうのは若い頃からケアしてないとだめなのよ」
 釘崎が偉そうに指を振った。
 面倒な気配を感じた伏黒は、視線を釘崎の後ろに投げた。
「お肌に大事なのは一にも二にも睡眠なの!」
「ああ、そうかよ」
「興味薄っ」
 実際に興味がなかったので、伏黒はもう一度スマホを確認した。特に連絡はない。今日はこれで帰れそうだ。
「あ、じゃあ新田さん呼ぶね」
 言った虎杖がすぐに電話をかけた。現場近くで〝帳〟を降ろし、待機している補助監督を呼ぶ。
「こんなに夜遅いんだから、明日の授業は遅くしてくれてもよくない?」
「それは五条先生に言ってくれ」
「伏黒から言ってよ。前から知り合いなんでしょ」
「言っとくけど、五条さんは結構厳しいからな」
「そういうとこあるわよねー、五条先生」
 はあ、とわざとらしくため息をついた釘崎が空を見上げた。
 伏黒も釣られて夜空を見上げた。
 頭上を覆っていた〝帳〟がするするとほどけていく。文字通り幕を通して見ていた夜空が本来の色を取り戻す。非日常から日常へ帰る瞬間だ。見慣れたはずのこの瞬間は、何度経験しても慣れない。
 化け物と戦っていた伏黒たちを、街の人は知らない。自分たちが生み出した醜い化け物の姿を見ることができるのは、ごく一部の人間だけだ。
「つか、東京って全然星見えないじゃん。さすが大都会だわ」
「釘崎、どこ出身だっけ?」
 うーん、と伸びをした虎杖が訊いた。
 動き足りないのだろうか。元気なやつだ――と伏黒は呆れた。さっきまで呪霊と追いかけっこしていたのに、その疲れはほとんど見えない。体力自慢なだけはある。
 伏黒もさすがに眠くなるような歳ではないが、明日もあるから早く休みたい。釘崎の言うことに乗るわけではないが、授業の始まる時間はなんとかしてほしい。呪術師の本領が夜なのは当たり前のことなのに。そういうところは、教育機関に位置づけられたせいで融通が利かない。
「クソ田舎よ。街灯なんてまばらで、懐中電灯がないと危なくて歩けないとこあるし。あー、でも、ちょっと懐かしいかも」
「俺もそこまで田舎ってわけじゃないけど、ここよりは見えてたかな」
 伏黒も空の星を数えてみた。ぽつぽつと星が浮かんでいる。北極星はわかりやすい。その周囲にいくつか星がある――北斗七星だ。肉眼で見える星はそれほど多くない。地上が明るすぎるからだ。
「んー、天の川は……よく見えないわね。薄いっていうか――東京ってこんなもん?」
「こんなもん」
「つまんないわね。あっ、あの星は何?」
 釘崎が指した方向を見て、伏黒はこともなげに答えた。
「あれはデネブだろ。はくちょう座の」
「ああ、あれが。じゃあベガと……ええっと……なんかもう一個あったような……」
 曖昧に記憶を探る虎杖から、伏黒は言葉を引き取った。
「アルタイルか?」
「そう、それ!」
「ベガはあそこ。アルタイルはあっち」
「へえ」
 夜空に瞬く星を見ていると、懐かしい気持ちになる。星座を教わったのは、ほんの数年前のことだ。
 記憶を手繰りながら、夜空を指でたどる。あの時、伏黒はまだ背が低くて、自分より頭ひとつ背が高い手の指し示す星座を見上げるだけだった。白い息を吐きながら、ダウンジャケットにマフラーを巻いて、寒空の下で得意げに教えてくれたのを、まだ覚えている自分に驚く。それから季節が一巡するまで、星座を教わったのだ。
「で、この三つを結んで夏の大三角形――」
 記憶と重ねて伏黒が空に指で三角形を描いたところで、釘崎と虎杖が黙っていることに気づいた。あっけに取られたように伏黒を見つめている。
 急に恥ずかしさが込み上げて、伏黒は目を逸らした。柄にもなく、つい解説してしまった。
「まあ、夏の星座はそんな感じで――」
 言葉は途切れた。
 がばり、と釘崎に勢いよく肩を掴まれたからだ。
「伏黒、なんで星座なんかわかるの⁉ アンタそんな趣味なかったでしょ⁉」
「は? ちょっと教わっただけだって――」
「彼女か⁉ 彼女なのか⁉ 紹介しなさいよ!」
「伏黒彼女いたの⁉ どんな子⁉」
 ものすごい剣幕で詰め寄ってくる釘崎に、虎杖が全力で乗っかってくる。肩に食い込んだ釘崎の指が痛い。
 ――非常に誤解を招いている。伏黒は叫び返した。
「姉貴だよ!」
 しかし二人は止まらなかった。むしろ燃料を投下されたように、いっそう熱が入る。
「ねえ、お姉さんってどんな人⁉ ちょうどいいから洗いざらい吐きなさいよ!」
「なんでだよ⁉ ただの姉だっての!」
「いいから教えなさいよ!」
「別に面白い話なんかねえよ!」
「それはこっちが決めるの! いいから話してみなさい!」
「しつこいな⁉」
 助けを求めるように虎杖を見ても、
「俺も聞きたい! 俺きょうだいいないんだよね! いいなあ! お姉ちゃんいるってどんな感じ?」
 きらきらと輝く虎杖の純粋な目に、伏黒は弱かった。
「いや、その、津美紀は……」
 やや顔を赤らめながらもごもごと言葉を濁す伏黒になおも掴みかかる釘崎。追い討ちをかける虎杖。
 三人の後ろで気配を消していた新田は、声をかけるのを控えて見守った。実は伏黒による星座の解説が始まった頃からいたのだが、三人とも気づいていない。
 三人とはさほど歳が離れているわけではないが、弟と同じ年頃の子を見ていると微笑ましい気持ちになって、思わず呟いた。
「いやあ、カワイイっスねえ」

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