虚無が広がっている。底なしの暗い闇が、ぽっかりと足元に口を開いている。
 踏み入れたら二度と出られない穴に、今、飛び込んだ。
 ――そういう錯覚を抱いている。
 見慣れた日常を惨劇に変えて、明るい日差しの降り注ぐ中で、白昼にふさわしくない血溜まりの中で立っている。
 小学生の終わり頃に引っ越した一軒家だった。ここで高専に入るまで過ごした。ここで育った。ごく普通の両親とごく普通の日常を送っていた。
 それを今、壊した。
 ぐい、と頬を拭うと、跳ねた血が手についた。純粋に汚らしいと思う。
 目の前に転がっている人の姿をした何かが、目を見開いたまま自分を見上げている。よく見なくても自分とよく似た顔だ。ほんの数年前には毎日見ていた顔だ。忘れるはずもないのに、どうしてか見覚えがない。何故、と最後まで問いを発していた唇が薄く開いている。そこから息を吐き出すことは二度とない。震える声帯が言葉を作ることもない。胸に空いた穴から惜しみなく血をこぼし、部屋を汚している。
 致死量の血液をまき散らして、両親は醜く死んでいる。
 醜くて醜くて、直視に耐えられなかった。
 視線を逸らすと、伸ばした手が床に落ちている。その手に頭を撫でられた記憶がある。高専に入学する前に、母の身長を追い越した。もう、父より背が高い。
 頭の後ろのあたりが痺れたような、冷えてゆくような、そんな感覚がする。
 ――気持ち悪い。
 吐き気がせり上げた。口元を押さえる。手を汚した血が顔につくが、それが気にならないほど吐き気がする。呪霊を飲み込んだわけでもないのに、ひどい味がする。息ができなくて思いっきり息を吸い込むと、鉄錆の匂いが鼻腔を満たす。気持ち悪い。
 酸っぱい唾を飲み込む。
 これは、ただ人の形をしているだけだ。かつて父と名がついていた。かつて母と名がついていた。今はただの生物の死骸だ。
 ――こんな表情を見るのが初めてだからだ。だから見覚えがないのだ。だから気持ち悪いのだ。
 伸ばされた手から逃れるように一歩足を引くと、ぴちゃり、と濡れた音がした。靴下はとっくに濡れそぼっている。気持ち悪い。この空間の何もかもが気持ち悪い。何もかもが知らない顔で当たり前に存在しているのが耐えがたい。
 死体から視線を上げると、リビングの窓際に置かれた写真の中で、三人が写っている。今や人間は自分だけだ。残りの二人は人間ではない。
 ――ならば、これは消さなければならない。
 転がる両親だったものを避けて、窓際まで歩く。
 写真立てを手に取った。中学の卒業式の写真だ。高専に入学式はないから、記念写真はなかった。
「家族写真」というものを知らなかった友人のことを思い出した。彼にも生物学上の親は存在するはずだが、一家団欒とはほど遠い生活だったようで、この手のものには疎かった。だからか、しつこく写真を見せてくれとねだられた。恥ずかしいからと見せなかった。見せればよかったのか、わからない。
 写真はこれだけではない。玄関にもある。両親だった人たちの部屋にも、自分が生まれた時からの写真がアルバムに収められている。呪霊が見えるせいで生じた軋轢はあれど、たぶん、愛されていたのだと思う。そう思っても、心は何も動かない。この人たちはもう、自分にとって大事なものではないからだ。
 写真立てから写真を抜き出す。手から炎が立ち上った。めらめらと燃える赤い炎が薄い光沢紙を舐め尽くす。後生大事にされていたって、燃え尽きるのは一瞬だ。
 ――まだだ。全部、燃やさなければならない。
 階段を上り、自室に入る。部屋は綺麗に整頓され、掃除されている。出て行った時の姿のまま、時を止めている。自分がいない間も掃除機をかけていた母の姿がちらついて、すぐに消えた。
 クローゼットに押し込めたアルバムを引っ張り出す。ここに写っているのは自分ではない。これからの自分が自分になる。それまでの自分はもういない。
 アルバムを燃やした。赤い炎が広がって、クローゼットの中身を燃やす。くだらないものばかりだ。もう何の価値もないものだ。
 平日の昼間、住宅街はひどく静かだった。まだ誰もこの家の惨劇に気づかない。気づいて欲しくないから、家を燃やさないのだ。
 静かに歩き回り、家中の写真を燃やす。一枚燃やすごとに、記憶も消えてゆくような心地を覚える。過去そのものは消えずとも、過去の証は消えるのだ。いともたやすく。
 ――いともたやすく、両親だったものだって、殺せるのだ。
 燃える最後の一枚の写真で、歯の欠けた自分が笑っている。
「家族写真」に不思議そうに首を傾げていた青い瞳が一瞬、脳裏をよぎって消えた。

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