がらり、と遠慮容赦なく扉が引き開けられた。鴨居に頭をぶつけそうなほど無駄に背が高い人影が顔を出す。
「ヤッホー伊地知! 今日も景気悪い顔してるね! 元気にしてた?」
「ええ、はい。元気です」
 書類から視線を上げず、先輩は返事をした。まだ二十代半ばだというのに四〇歳手前に見える老け顔の先輩は、私の正面に座っている。
 月末である。請求書やら何やらの処理で、高専の補助監督および事務員は大忙しだった。誰もが切羽詰まった表情で様々な大きさの紙切れを見比べ、画面に入力している。壁際に置かれた複合機は、絶えず騒音をまき散らしながら紙を吐き出している。たまに誰かが紙を取り、自分の分以外をついでとばかりに同僚の机へ載せる。
 私の手元の紙束は印刷したてのほやほやで、まだ熱が残っている。
 補助監督になったばかりの頃の先輩があの手この手で事務作業の電子化を推し進めたらしいと噂で聞いたが、それ以前はもっと大変だったに違いない。ペーパーレス化にはほど遠いが、これでも昔よりだいぶましになったらしい。先輩より年上の補助監督は、口を揃えてそう言う。一見して気弱そうに見える先輩だが、やる時にはやる男なのだ。ありがとうございます。でもこの繁忙期、もうちょっとなんとかなりませんかね。
 私が視線を上げると、部屋の入り口から一歩入ったところで五条さんは突っ立っていた。黒い布で目を覆い隠した不審者そのものの格好で、五条さんはぐるりと部屋を見渡した。あれで見えているらしいのが驚きだが、五条さんなのでそういうものなのだろう。深入りしないのが幸せに生きるコツである。
「何だ、めちゃくちゃ忙しそうじゃん」
「ええ、月末ですから。五条さんもまだ提出していない領収書があれば出してください。処理しますので」
 相変わらず視線を交わさず、先輩がやや早口で言った。
「領収書? なんかあったっけ?」
 五条さんが腕を組んだ。さらさらの銀髪が照明の光に輝いている。
「三一日を過ぎたら無効になります」
 現在時刻は一七時二四分。定時までもうすぐだ。もちろん、今日は月末の処理のため定時で上がれない。というか、定時で上がれる日の方が少ないので、これが通常である。
「え、それって今日じゃん」
 言いながら、五条さんはポケットに手を突っ込んだ。上着のポケットには何もなかったらしく、続いてズボンのポケットに手を入れる。出てきた何かの包み紙をぽいっと投げ捨てる。そして尻ポケットからようやく、くしゃくしゃの紙切れを引っ張り出した。
 顔を上げた先輩が、眼鏡越しに五条さんの手の中の無残な姿を見つめる。
「それは――」
「あ、これは先週の秋田までの新幹線代。往復ね。立て替えといたよ」
「そういうのは早く出してください!」
 悲鳴じみた先輩の声に、五条さんは笑いながら耳を塞いだ。先輩以外からも数人分の鋭い視線を浴びているが、ものともしない。なんて図太い神経なのだろう。これくらいでないと特級呪術師は務まらないのだろうか。
「いいじゃん、今日までなんでしょ」
「出せばいいってものじゃありません! 立替精算の処理が必要なんですよ!」
「伊地知が今やってるやつ?」
「わかってるならもっと早く出してくださいよ! いつもいつも――!」
「ええ? 僕だって忙しいんだよ? 今日高専に寄れたの一週間ぶりだって伊地知も知ってるでしょ?」
 ぐっ、と先輩が言葉に詰まった。
 五条さんの言うことは正しい。高専に常駐する唯一の特級呪術師として、五条さんは息をつく間もないほどの間隔で任務が振られている。そのどれもが一級以上だ。高専は慢性的に人手不足だから、桁違いに強くて尋常でないほど働ける五条さんに頼っている部分は否めない。そのせいで常に全国を飛び回っているから、領収書の提出が遅れるのは仕方のないことである。
「今日はすっごく貴重な休みだってのに、いきなり呼び出されて小言だよ? 僕すごく可哀想じゃない?」
「それは、ええ、はい、お疲れ様です」
 先輩がしおれながら言う。そういうところに付け込まれるのだ。
「自分のベッドで寝たの、今月は七日しかないんだよ? もっと同情してほしいんだけど?」
 確かになかなかにひどい勤務形態だ。だが、文句を言っている割に元気そうなテンションである。本気だろうか。
 悄然とした様子の先輩が五条さんに尋ねた。
「……五条さん、他に未提出の領収書はありますか」
「たぶんないと思うけど。あ、部屋にあるかも」
「じゃあ、それをなるべく早く持ってきてください」
「え、嫌だ。これから休みだし。明日でいいよね」
「明日じゃだめです! 今日でないと!」
 しかし、五条さんは聞いていなかった。
「じゃあ後はよろしく! 入金は遅れてもいいよ!」
「そういう問題じゃありません!」
 手を上げて、颯爽と五条さんは退室した。
 ――嵐のような人だ。
 止まっていた空気が再び動き出して、各々が作業を再開する。
 ピピーッと複合機が鳴った。紙がなくなったのだ。
 私が紙を補充して机に戻ると、ため息をついた先輩が仕事を再開せず、ごそごそと引き出しを探っている。やがて、何かの箱を取り出した。
「富江(とみえ)さん、これを五条さんに」
「これ何ですか、先輩」
 先輩は眼鏡の位置を直しながら、再びため息をついた。
「五条さんへの差し入れです」
「差し入れ?」
 私はそれを見下ろした。なんだか高級そうな包み紙である。縦にやや長い箱だ。持ち上げると重さはさほどない。振ってみると、かさかさと乾いた音がした。
「五条さんが甘い物が好きなのは知ってますね」
「はい」
 補助監督になってすぐ、先輩から「五条悟の取り扱いについて」とかいう謎の講習を受けている。私だけではない。先輩の後輩たちは全員、その講習が必修になっている。内容はタイトル通り、五条さんの扱いについてだ。
 その講習会には五条さんの趣味嗜好も含まれていた。頭を使う分、甘いものが好きらしい。コーヒーには角砂糖を最低でも三つ入れるから、必ず砂糖かガムシロップか茶菓子を添えること、できれば砂糖の方が望ましい――五条さんにお茶を出す時の我々のルールだ。不機嫌になった五条悟は手がつけられないからだ。完全に扱いが猛獣である。
「あの人が機嫌が悪いと大変困ったことになるので」
「つまり、ご機嫌取りですか?」
 先輩が重々しく頷いた。
 たしか、五条さんは先輩より二つ年上だったはずだ。常にサングラスやら包帯やら布で顔の半分が隠れているので年齢がわかりづらいが、立派な成人男性である。
「子どもみたいですね」
「そうですね……」
 先輩がため息をついた。これで三回目だ。こんな人の世話係をさせられている先輩が哀れである。でも自分に回ってくるのは勘弁なので、先輩には悪いがこのまま世話係でいていただきたい。
「あれは上に何か言われましたね。何か理由をつけて抜け出してきたところでしょうか」
「そうなんですか?」
「機嫌が悪かったでしょう」
「全然わかりません」
 私は首をひねった。全くもっていつもの五条悟だった。少なくとも、私には違いはわからない。いつも通り、はた迷惑で傍若無人に場をかき回していたようにしか見えない。
「愚痴を言うのはいつものことですし、忙しいこと自体は気にしない性質(たち)ですが、何分、立場があれなので……」
「ああ……」
 私は曖昧に頷いた。こんなに人手不足で忙しいというのに、お偉いさんは重箱の隅をつつくのが趣味なのだ。歴史だか伝統だか格式だか知らないけれど、現場の邪魔はしないでほしい。――とかいう話を率直にするから、仮にも御三家の当主なのに五条さんは睨(にら)まれるのだ。
「じゃあ渡してきますね」
「待ってください。今は機嫌が悪いので、明日がいいでしょう。明日、次の任務の詳細を取りに来ますから、その時に渡してください」
「先輩から渡さないんですか?」
「私にできると思います?」
 先輩が画面を疲れた目で見た。
「……はい。渡してきます」
 私はしぶしぶ了承した。

 翌日、五条さんは先輩の言った通りの時刻にやってきた。五条さんのスケジュールを完璧に把握している先輩はさすがだ。この人、五条悟の付き人になった方がいいのではないだろうか。
「おはよー。相変わらず忙しそうだね」
「わかっているなら領収書を溜めないでください」
「それは無理」
 脇目も振らずに猛然とキーボードを叩く先輩の横を通り過ぎ、私は用意していた書類と菓子折りを差し出した。
 五条さんが少し首を傾けた。
「これ――ああ、伊地知のくせに気が利くじゃん」
 一目で先輩の用意したものだと見抜いたのが恐ろしい。
「このお菓子、時間がなくて買い損ねたんだよねー」
 箱を見た五条さんがにこにこしているので、機嫌は直ったのだろう。――と思うのだが、先輩から見たら違うのかもしれない。そもそも口元しか見えないので、作り笑いかどうかを判別するのも難しい。
「自慢の先輩ですから」
「君、伊地知の後輩?」
「はい」
 私は胸を張って答えた。
 五条さんがにやにや笑った。
 そこでようやく、五条さんが何かを持っていることに気がついた。細長い紙の束だった。変な折り癖のついた感熱紙の束だ。手書きの文字が走っている紙も何枚か混じっている。
「じゃ、これお返しね」
「あ、ちょっと五条さん……!」
 ばさり、と領収書の束が先輩の机に追加された。
「あとさあ、先々週の京都までの新幹線、領収書もらうの忘れちゃった」
「は……?」
 先輩が手を止め、幽鬼のような表情で五条さんを見上げた。
 無言のまま、事態の推移を見守っていた他の面々の視線が五条さんに突き刺さっている。視線に質量がないのが残念でならない。きっと五条さんは穴だらけになっているだろうに。
「持ってる奴はこれで全部だから! ちゃんと出したからね!」
 じゃあね、と手を振って五条さんは颯爽と去っていった。
「……」
「……」
 先輩の視線は紙の束に注がれている。キーボードの上に置かれた両手が動かない。
 私は立ったまま、先輩の頭を見下ろした。私は温厚――冷淡とも言う――なので普段は怒ったりしないが、今はちょっとだけ腹を立てていた。
「まだこんなに隠してたんですか。ていうか領収書ないって……」
「……仕方ないんですよ……忙しい方なので……」
 五条さんを庇うようなことを言う先輩も、かなりやつれた顔をしている。
「でも、本当に今日持ってくるなんて……! 〆切わかっててやってますよね。わざとですよね?」
「そうですね……」
 先輩は虚ろな目をしている。何のための菓子折りだったのだろうか。ふつふつと怒りが湧いてくる。まるっきり子どものように振る舞って、先輩に迷惑ばかりかけている。まさか、補助監督のことを馬鹿にしているのだろうか。
「これを今から処理して……そうするとあれが……いや……領収書がないのは……先々週の出張は一五日から一六日までの一泊で……Suicaの履歴を見れば……それよりもカードの履歴……だめだ、五条さんは自分のカードを使っているはず……」
 虚ろな目のまま、先輩がぶつぶつと予定を修正し始めた。
 私は眉をぐっと寄せた。
「あんな人、放っておけばいいんですよ。恩を仇で返すようなものじゃないですか。金だって腐るほど持ってるんですから、新幹線代くらい自腹させればいいんですよ」
「それは規則に反しますから」
「先輩、頭が固いんだか柔らかいんだかわかりませんね!」
「五条さん、昨日ここに来た後も〝お叱り〟を受けているはずです。遊んでいたわけではないでしょう。あの人、まともな遊び方なんて知りませんから」
「でも……!」
「私たちの代わりに戦っている上に、私たちを守ってくれているんですから」
 先輩は眼鏡を外した。そういう時の先輩は、少し悲しげだった。
 補助監督は戦えない。最前線に立つのは呪術師だ。いくら忙しくたって、書類に殺されることはない。ただの補助監督では、お偉いさんに立ち向かえない。それを成し遂げられるのは、同じ地位を持つ人だけだ。
「……」
 納得しがたいけれど、先輩の言うことは事実だった。
 席に座り、仕事を再開する。比較したところで無駄だ。私たちにできる戦いはここにしかない。苛々しながらも、仕事に手をつければそんな気分は静まってくる。月初は忙しいのだ。
「――あ」
 唐突に、先輩が声を上げた。
「どうかしました?」
「いえ。ふふ、あの人も――」
 私が首を伸ばし、うずたかく積まれた書類の向こうに座る先輩を見ると、何かのパッケージを手にしている。
「それ何ですか?」
「茶葉です」
 先輩が袋を振った。厚みのある和紙に飾り紐をかけた、上品なデザインの緑色の袋だ。薄い長方形のパッケージだから、領収書に紛れて気づかなかったようだ。
「高級なやつですか」
「高級なやつです」
 少し元気が出たのか、先輩がかすかに微笑んでいる。嬉しそうに茶葉のパッケージを眺め、ひっくり返して裏側の説明を読んでいる。
「レシートに挟まってたんです」
「つまり、五条さんが――」
「そうですね」
 先輩が薄いパッケージを書類の山の側面に立てかけた。まるで額縁みたいだ。もう怒っていないのだろう。――というより、先輩は最初から怒ってなどいなかった。
「そんなんだから仕事、増やされるんですよ」
 言ってすぐ、私は後悔した。ちょっと辛辣すぎたかもしれない。
「いえ、これでいいんですよ」
 先輩の言葉は独り言めいていた。
 勝手に苦労を背負い込む先輩に、私はやれやれと肩をすくめた。
「そういう先輩だから、五条さんも信頼してるんですね」
「はい? 何です?」
 画面から顔を上げた先輩は訝しげな顔をした。
「何でもありません。それよりここ、計算間違ってます」
「え? うわ、本当だ……!」
 慌てて計算機を叩き出す先輩に、私も思わず笑った。

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