「みんな注目ー、これは何でしょうか!」
 A4サイズくらいの硬い表紙の本を掲げて、五条がにやにや笑った。手に持っているのは、ハードカバーのずっしりした本だ。艶(つや)消(け)しした革のような質感の表紙に〝絆〟と箔押しされている。
「そ、それは……!」
「卒業アルバム……!」
 虎杖と釘崎が仲良く声を揃えて、大仰に驚いてみせた。
 二人して反応がとてもいい。さぞかしからかいがいがあるだろう。またこの人は変なものを――と伏黒は視線を上げ、ぎょっとした。
 五条が手にしているもの。実物を見るのは初めてだが、写真で見たことがある。いくつかの候補の中から多数決で決めることになっていて、特に興味がなかったから適当に票を入れた。
「な、なんでそれ持ってるんですか⁉」
 一人慌てふためく伏黒に、虎杖と釘崎は怪訝な顔で振り向いた。
「アンタ……もしかして、この卒アルって伏黒の?」
 答えず、伏黒は立ち上がった。慌てて五条の手から卒業アルバムを奪い取ろうとする。しかし五条に軽く躱(かわ)された。五条の方が頭ひとつ分以上背が高く、その分、腕も長い。頭上に掲げられると、伏黒の身長では手が届かない。
 思わず指を組んで式神を呼ぼうとしたのを、五条の片手で押さえつけられる。五条の長い五指が伏黒の手を上から完全に握り込み、拘束する。手のひらも大きいのが腹立たしい。
「これはねー、恵の中学のアルバムだよ」
 片手で持った重そうな本を五条は揺らした。
「なんでアンタが持ってるんですか⁉」
「さっき届いてさ。恵の住所、高専(ここ)になってるでしょ」
「人の荷物を勝手に開けないでください!」
 ものすごくまっとうな伏黒の抗議を、五条は聞き流した。机の上にアルバムを置く。
「はーい、じゃあご開帳ー」
 しかも勝手にアルバムを開いた。プライバシーとかいう概念も、天下の五条悟には通用しないらしい。――むしろ、そういうのが裸足で逃げ出すクズ野郎なのだった。
 ようやく五条に手を離された伏黒は、すかさず玉犬を呼ぼうと指を組み直し――やめた。あまりにくだらない。
「おー、入学式だ」
 釘崎が興味津々といった様子でページを覗き込んだ。
 虎杖もわくわくという言葉が当てはまりそうな顔でアルバムを見ている。
「まだ子どもじゃん」
「まあ僕から見たら、君たち全員まだ子どもだけどね」
「せんせー、おっさん臭い」
「ひどい! 僕まだ二十代!」
「あとちょっとで終わりじゃないですか」
「まだ終わってないし!」
 諦めの境地で、伏黒も反対側からアルバムを覗き込んだ。
 集合写真のつまらなさそうな顔が自分を見返した。サイズの合わない制服。肩幅も袖も丈も余って不格好だ。いかにも「仕方なく出席しています」という顔。
 顔も知らない先輩のお下がりでいいと言ったのに、津美紀と五条に説得されて新品を仕立てた。その前の年に、家の経済状況に遠慮して津美紀が同じことを言ったのを、伏黒と五条が説得して新品の制服を着せた。ふとそんなことを思い出して、伏黒は目を伏せた。
 新品の少し大きい制服が届いて、初めて試着した津美紀が、狭いアパートのダイニングでくるくると回っていた。プリーツスカートの裾がきれいな円を描いて舞い上がり、膝と太ももが見えたのになんとなく目を逸らした――唐突に、その光景が脳裏に閃く。
「うわー、ちっちゃい!」
「運動会の写真とかないの?」
「ねえ作文は? 将来の夢とか書かされるやつ」
 心を無にしながら、虎杖と釘崎の言葉を聞き流す。これは自分であって自分ではない。そう思えば耐えられないこともない。
 だいたい、呪術師になることが確定しているのに、将来の夢も何もあったものではない。中学の連中とは自動的に縁が切れることになっていたし、勉強も支障がない程度にできれば問題ない。大学へ進学する予定もないのだ。
「懐かしいなー。俺、アルバムは置いてきたからさー」
 五条先生に急に連れてこられたから、と虎杖は笑った。
「じいちゃんの遺品整理もあんまりできないまんまこっち来ちゃったから」
 それはいくらなんでもひどいのでは、と伏黒が五条を睨(ね)めつけると、どこ吹く風と言うようにまた聞き流している。心臓に毛でも生えているのだろう。
「私もよ。まあ、持ってても見せないけど」
「なんで?」
「ダッサイからよ」
「そう?」
「虎杖はね……まあ、いいか」
 ため息をついた釘崎が飲み込んだ言葉はなんとなく想像がつく。自分の未熟な姿を――今も未熟ではあるが――他人に見られるのは愉快ではない。虎杖ほど明るい性格なら気にしないだろうが。
「俺のは勝手に見ておいて、それはずるいだろ」
「ないものはないんだから、仕方ないでしょ」
「アルバム見せ合うのも楽しそうだなー。なあ、そのうちやろうよ」
「え、嫌」にべもなく釘崎が断った。
「ええー! この流れでそういうこと言う?」虎杖が本気で残念がる。
 半分ほどページをめくった二人に、五条がおもむろに言い出した。
「あ、そういえばこっちもできたんだよね」
 五条がどこからともなく、もう一冊取り出した。卒業アルバムより一回り小さく、薄い。
 こちらは正真正銘、見覚えがない。
「……それは、何ですか」
「恵のプライベート写真」
 ぴたり、とアルバムをめくる釘崎の手が止まった。アルバムから上げられた視線がぐさぐさ刺さるのを感じた。視線に物理的な質量があれば、顔にいくつか穴が空いただろう。
「ちょうどいい区切りかなって思って作っといたよ」
 釘崎が眉をひそめて五条を見た。そして伏黒を見る。視線が痛い。産毛が逆立っているような気がする。
「なんで先生が持ってるの?」
 虎杖がごく普通の調子で訊いた。
「ほら、恵って写真、全然撮らないから。こういうのあってもいいでしょ。今は恥ずかしいかもしれないけど、振り返ってみたら楽しいよ」
 答えになっていない答えを返しながら、たぶん、と付け加える五条の顔を伏黒は睨(にら)んだ。大人のふりをしているこの男が嫌いだ。
「いらないと思ったら捨てればいいけど、持ってなかったら捨てられないんだよ」
 ――果たして、それは伏黒のことだけだっただろうか。
 手渡されたアルバムを、伏黒は恐る恐る受け取った。誰かの目線を通して自分を見るのは、少し恐い。そう思ったことは五条に筒抜けだろう。
 たまに保護者面をする五条は、嫌いだ。自分の利益のために伏黒を引き取っておきながら、まるでお前のためだぞと言わんばかりの親のエゴみたいな顔をする。
 ――そういう風に伏黒が受け取っているだけだ。五条は鏡だ。伏黒が見たいと思ったものが映っているにすぎない。
 早鐘を打ち始めた心臓をなだめながら、アルバムをめくる。家族写真なんてものはない。家族と呼べる人間はいない。津美紀は戸籍上の姉だが、赤の他人だ。だからこんなものはまやかしだ。まるで本物の家族みたいなふりをしているだけのつくりものだ。
「伏黒のちっちゃい頃ってどんなん?」
「……別に。普通だろ」
 脳天気な虎杖の声が、今ほど頼もしいと感じたことはない。
「見てもいい?」
 卒業アルバムは許可なんて取らなかったくせに、今度はわざわざ尋ねるのだ。そういうところが虎杖の優しさなのだと思う。伏黒にはない美点だ。
「私もいいわよね?」
「……面白いもんじゃないけど」
「面白いに決まってるじゃない」
 何故か得意げに釘崎が言った。
 伏黒は黙ってアルバムを開いた。
 一六ページに渡って、子どもだった伏黒と津美紀が写っている。だいたいいつもにこにこしている津美紀と比べて、伏黒はいかにも不機嫌そうな仏頂面か無表情か、どちらかだ。この手の写真は少ないと思っていた。興味がないというのもあるが、撮る人間が少なかった――というより、一人しかいなかったからだ。
 さすがに毎年分はないが、運動会やらの学校行事の写真がある。ある日突然、五条に遊園地に連れて行かれた時の写真がある。卒業アルバムと違って、素人の撮った写真だ。それがページを追うごとに上達していく。何でもない写真に、子どもだった自分がいる。子どもだった義姉がいる。早回しで自分も義姉も成長していく。
 伏黒の小学校の卒業式と中学校の入学式は津美紀と写っている。後ろに立つ、やたらめったら背の高い銀髪の男は五条だ。きっちりスーツを着て、サングラスを外して、まるで年の離れた兄みたいな顔をして、伏黒の肩に手を置いて写っている。
 津美紀の卒業式と入学式も同じ顔ぶれだ。どういう関係なのかと周囲に勘ぐられているのを全部きれいに無視して、五条が他の保護者にカメラを渡して撮ってもらった。保護者面談も五条が出席していた。
 家族ごっこだ。偽物だ。保護者のふりをしている五条だって、〝普通の家族〟が何なのか知らない。ままごとだ。でも、津美紀がそれで笑っていたから、それでいいと思っていた。――笑っていた津美紀が本当は何を考えていたかなんて、伏黒は知らない。知ろうとしなかった。
 津美紀の中学校の卒業式には三人で写っている。伏黒の中学校の卒業式は一人だった。津美紀はもういなかった。これを撮ったのは五条だ。式典後にさっさと帰ろうとした伏黒を捕まえて、写真を一枚だけ撮った。その時ばかりは、二人とも無言で帰った。
 半年も経っていないのに、記憶は曖昧だ。多忙な五条がすぐ呼び出されて帰ってしまい、一人で荷造りをしたような気がする。あるいは、一人でぼんやりしていたような気もする。犬の湿った鼻の感触を覚えている。温かい舌が手のひらを舐めたような気がする。――きっとこれは、伏黒の妄想だった。影でできた式神に感触はあれど、温度はない。
「先生、結構写ってますね」
「頭ちょっと切れてるけど。先生、背高すぎ」
「いやー、恵が嫌がるからさ、こう、強制的にね」五条が何かを掴んで抱え込む仕草をする。
「ああ……伏黒、どう見ても写真嫌いそう」納得したように釘崎が頷く。
「男子で好きなやつ、そんなにいないと思うよ」と虎杖。
「そうなの?」釘崎が首を傾げる。
「そうかもね。男子は格好つけたがりだから」五条が言う。
 確かに、たまに遊びに来る五条がカメラを構えていた記憶はある。撮られるのは好きではなかったから、いつも津美紀や五条に引っ張られていた。
 紛い物の家族が、まるきり本物の家族みたいに写っている。誰も血が繋がっていないのに。似ても似つかない顔立ちの二人と一人の記録がそこにある。
「……ありがとうございます」
 声は震えていなかっただろうか。手は震えていなかっただろうか。かすかに熱くなった頬を、噛みしめた唇を見られなかっただろうか。
「僕は頼まれただけだよ」
 ――頼んだのは津美紀なのだろう。誰よりも〝家族〟を望んでいた人がいなくなった後に、〝家族〟を見せられている。
 会いたい、と思った。
 うつむいた伏黒の頭上を、機嫌の良さそうな五条の声が飛んでいく。
「あ、いいこと思いついた! 一年生三人で写真撮ろう! 入学式やってないしね」
「先生たまにはいいこと言うわね! 後で真希さん呼んでいい?」
「いいよ! 二年生も呼んでー、三年生は……まあいいや。とりあえずいる人で集合写真ね。そうだ、高専で卒アル作ろうか!」
「いいの⁉ 勝手にやって怒られない?」
「いいよ、僕が言うんだから。後で伊地知に業者を手配してもらって――」
 伏黒はいっそうきつく唇を噛みしめた。泣いてなんかいない。鼻の奥が痛いのも、気のせいなのだ。
 ひくりと喉が震えるのを息を止めてやり過ごして、何でもない表情を取り繕って、そうして伏黒は顔を上げた。性懲(しようこ)りもなく、勝手に保護者のふりをしている男に言葉を投げつける。
「五条先生も、ちゃんと写真に入ってくださいよ」

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