04



「炭治郎さ、そのピアス、学校にいる間だけ外せないの?」
「これはいつも身につけていろって、父さんが言ってたんだ」
 昼休みである。
 炭治郎の前の席に座った善逸が、後ろを向いて炭治郎の机の上に昼食を置いた。まだ席替えしていないため、名前順で並んでいるが、この席の本来の主は早々に別のクラスへ遊びに行っている。高校から入学した外部生もいるが、基本的には中高一貫のため、知り合いは多い。
 かくいう善逸とも中等部からの付き合いだった。
「でもさあ、冨岡先生、おっかないよ」
「あいつは絶対強い。いつか戦いてえ」
 炭治郎の隣にどっかりと座った伊之助が、むしゃむしゃとおにぎりを頬張りながら言った。恐ろしく整った顔立ちを台無しにするような野性味あふれる振る舞いだが、本人は一切頓着しない。常に制服のボタンがいくつか外れているが、もはや注意するのは冨岡ぐらいである。
「うん。冨岡先生は強いよ」
「戦うとかやめてよね……何? 炭治郎、知り合いなの?」
「知り合いっていうか……うちのパン屋の常連だよ。母さんとも顔見知り。たぶん、父さんがいないから気にかけてくれてるんだと思う」
 炭治郎は弁当の蓋を開けた。パン屋の息子なのに、弁当は和食である。今日の卵焼きは二番目の妹の花子が作ったのだろうか、切り口が歪な楕円形になっている。この前よりは上達したな、と思いながら箸でつまんだ。口に入れると、少し塩辛い。醤油を入れすぎたのかもしれない。
「それでもあんなに厳しいの?」
 購買で買った惣菜パンの袋を開けた善逸が顔を上げる。
「うちにいつも来るようになったの、一年くらい前からだし……冨岡先生は誰にでも厳しいよ」
「じゃあなおさら気をつけなよ」
 パンにかじりついた善逸に心配の匂いを嗅ぎ取って、炭治郎は笑った。
「大丈夫だって、冨岡先生、優しいから」
「いや、どこが? 俺めちゃくちゃ殴られるんだけど」
「ああ、その髪?」
 善逸が自分の金髪を指でつまんでため息をついた。本人いわく、雷に打たれて金髪になったらしい。それまではごく普通の黒髪だったそうだ。
 炭治郎にはよくわからない話だが、まあいいかと詳細は尋ねていない。
「これ地毛なんだけどさあ」
「いつかきっとわかってもらえるよ」
「どうして炭治郎はそんなに脳天気でいられるの?」
「善逸が心配性なんだよ」
「俺殴られてるんですけど!? 実害出てるんですけど!?」
 おにぎりを食べきった伊之助が善逸の未開封のパンを見つめた。獲物を見る肉食動物のような眼差しだ。
 善逸はさっとパンを腕の中に囲った。
 しばらく無言でにらみ合う。絶対に渡してなるものか、と善逸はぎゅうっとパンを抱きしめた。
 そんなに強く握ったらパンが潰れてしまうのに――と思い、はたと炭治郎は手を打った。
「ああ、伊之助、ご飯が足りなかったの? これあげるよ」
 ひょい、と炭治郎は卵焼きを一切れ、伊之助に差し出した。
 眼前に差し出された卵焼きを、伊之助の大きな瞳がじっと見つめる。犬のように匂いを嗅いだ伊之助は、ぱくりと炭治郎の箸が挟んだ卵焼きを食べた。まるで餌づけだ。
「うめえ、うめえな権八郎!」
「ありがとう、あと俺は炭治郎ね」
 視界の端で善逸がドン引きしているのに、二人は気づかない。
 もごもごと咀嚼しきった伊之助が呟く。
「今度あいつに勝負を挑んでみるか」
「いいんじゃないかな。たぶん先生が勝つけど」
「俺が弱いって言うのか!」
「伊之助は強いけど、冨岡先生はもっと強いよ」
「そそのかすのはやめてくれる!? 俺まで目をつけられたらどうしてくれるの!?」
 うーん、と炭治郎は箸を止めて考えた。
「もう手遅れじゃない? それに善逸だって毎朝逃げきってるんだから大丈夫だって」
「だからね、俺はそういうの嫌なの! わかって!」
「うんうん、わかったよ」
「全然わかってないよね、適当に返事しないで!」
 イヤアアアアア、と善逸が叫ぶのに、クラスの誰も驚かない。
 悲しいかな、それが早くも彼らのクラスの日常と化してしまっていた。
「あ、そういえば善逸、昨日休んでいたうちに委員会決まったから」
「えっ、俺が休んでいる間に勝手に決めたの? ひどくない?」
「善逸は風紀委員だよ」
 善逸は少し沈黙した。すうっと息を吸う音がして、炭治郎は慣れた様子で耳を塞いだ。
「イヤアアアアアアアア!! なんで! よりによって! 風紀委員なの!? あの冨岡先生と一緒に朝、服装検査する係でしょ!? なんで俺なの!?」
「うるせーよ!」
 伊之助が怒鳴って善逸の頭を殴った。
「痛いッ」
「善逸、驚くのもわかるけどもう少し静かにしてくれないか。みんなの迷惑だろう」
「ねえもっと俺に同情してくれてもいいんじゃないの!?」
「いちいちわめくんじゃねえよ」
 再び拳を握った伊之助から遠ざかるように、善逸は後ずさりし、
「あ痛ッ」
 そのまま後ろの机に腰をぶつける。
「我妻くん、ちょっとうるさいよ」
 勝ち気な様子の女子がぴしゃりと言った。善逸が休んだ昨日、学級委員に決まった女子だった。
「ちょっと騒ぎすぎ」
「今まで同じクラスになったことなかったけど、ほんとにうるさいね」
 取り巻きの女子たちが口々に言う。
 周りを見渡すと、教室中の生徒たちの視線がぐさぐさと善逸に刺さった。
 善逸はすっと静かになって席に座った。
「善逸、落ち込むなよ」
「落ち込んでるんじゃねーよ、絶望してるんだよ」
 表情をどこかに落としてきたように、虚ろな瞳で善逸が呟いた。
「話せばわかるって」
「俺が何回殴られたと思ってるの? ねえ炭治郎、俺の友達だよね?」
「もちろん」
「え? なんでみんな俺にこんなに冷たいの?」
「いちいちうるせーからだよ」
 ギャアギャアわめきながら、善逸は炭治郎の袖にすがりついた。
 炭治郎はそれを無慈悲に振り払った。
「ほら、もうすぐ授業始まるぞ」
「嫌だあああ助けてええええ」


          *


「次は体育か……」
 どんよりとした空気を背負って、善逸が呟いた。机に上半身をだらしなく預けている。
 五限目、午後いちばんの授業である。
「どんな顔して冨岡先生に会えばいいわけ……」
「ほら、早く着替えて」
「うう……炭治郎が冷たい……」
「遅刻したらまた怒られるよ」
 はっと善逸は目を見開き、すくっと立ち上がった。着替えを持って教室を出る。と思ったら、
「やっぱり嫌! 嫌だあああ」
「往生際が悪いな、善逸。もう諦めなよ」
 再び泣きわめく善逸をなだめすかし、着替えて体育館に向かった。

「今日は体力測定を行う」
 青いジャージの冨岡が胸のホイッスルを持ちながら言った。
「まずは三組に分かれる。一組目が五〇メートル走から始めて、二組目が握力、三組目は腹筋からだ。それぞれの組の中で二人ずつペアになってもらう」
 冨岡の視線が整列した生徒を一周し、炭治郎で一瞬、止まった。
 記録用紙を受け取り、二人組を作っていく。
 今にも冨岡に飛びかかりそうな目をしている伊之助の襟を掴んで、炭治郎は言った。
「伊之助、今は冨岡先生と勝負する時間じゃないぞ」
「なんでだ!」
「何でも何も、これ授業なんだけど……ハア……炭治郎は伊之助と組みなよ。俺はペアの相手を探してくる」
「うん、わかった」
「おい、俺と勝負しろー!」
「はいはい、それは今度にしてね」
 ずるずると伊之助を引きずりながら体育館を出ていくのを、善逸は呆れながら見送った。


 校庭に出て、炭治郎は記録用紙を読んだ。太陽の光が紙に反射して見づらい。
「えっと、まずは校庭でやる種目から」
「最初は何だ?」
 ろくに説明を読みもしない伊之助はいつも通りだ。体力測定を何かの勝負と勘違いしている節がある。
「決まってないみたいだから、空いているところから行こう」
「じゃあ、あれからだ、炭三郎!」
 伊之助が真っ直ぐに引かれた白線を指さした。
「今日は惜しかったね、俺は炭治郎だよ……じゃあ、走り幅跳びからだね」
 砂場の外側に立って、炭治郎は手を上げた。
「よし、準備できたよ」
「俺様のジャンプ、よく見てろよ!」
 伊之助が助走をつけ、白線で踏み切った。身体が高々と宙を舞う。
 盛大に砂を巻き上げ、着地。
「うわっ」
「ぎゃっ」
 舞い上がった砂をもろに被った炭治郎は、口の中に入った砂粒を吐き出した。
 周りに立っていた数人も砂を吐いたり目をこすったりしているのに一切気づかず、伊之助は炭治郎へ駆け寄った。
「記録はどうだ!」
 炭治郎は巻き尺を持ってかがみ込んだ。
 その時、
「危ないっ」
 声に振り向いた瞬間、ボールが炭治郎の頭を直撃した。
 しまった、と駆け寄ってくる同級生の後ろに、黒い影が一瞬だけちらついた。


05



「いや、これ、どうすんの……」
 村田は壁の破損した美術室で立ち尽くした。
 
 用務員の仕事は多岐にわたる。
 学校設備の維持、管理も仕事のうちのひとつだ。
「まったく、宇随先生は何をどうしたらこんなことを……」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら、村田は壁を点検した。
 授業は行われていない。先日、美術教師の宇随が空きコマに何かを爆発させてから、授業は屋外で写生ということになったのだ。
 宇随はとにかく何かを爆発させる。危険物を美術準備室に隠し持っているに違いない。今度点検しなければ。
「そろそろ給料から修繕費を天引きされてるんじゃないか、あの人……」
 教室の後ろ、黒くすすけた壁紙がところどころ剥がれている。剥がれた箇所を数え、範囲をメモする。
 がらりと戸の開く音がした。
 大男が顔を出す。珍しい銀髪にピアス、宝石の飾りがついた額当て、派手なアイメイク。年中青ジャージの冨岡など目ではないほどの突飛なファッション。とても教師とは思えない外見だ。
 大男――宇随が村田に目を止めた。にやりと笑う。
「おっ、村田じゃねえか。世話かけるな」
「そう思うなら少しは自重してくださいよ」
「嫌だね。芸術は爆発だ」
「そんなこと言って! 給料減らされても知りませんよ!」
 ぷりぷり怒る村田に、宇随は平然としている。
「ていうか俺の仕事、増やさないでくださいよ!」
「しかし、今回の爆発は地味だったな。もっと派手なのが――」
「だから爆発はやめてください! 聞いてます!?」
 ――こんな男を教師として採用したこの学園は大丈夫なのだろうか?
 今更な疑問が村田の頭をよぎり、学園長の柔和な微笑みがちらついた。


 事務室に戻り、業者を手配。明日には修理してもらえるはずだ。
 ひとまず一仕事を片付けて、村田は給湯室に立った。
 先に中にいた人影が振り返る。
「あ、村田さん。お疲れさま」
「お疲れさまです」
 生物担当の胡蝶カナエがふわりと微笑んだ。
「今日は何だったの?」
「宇随先生が美術室で何かを爆発させて、その修理の手配です」
「またなの? 宇随先生も懲りないわね」
「本当ですよ」
 カナエがカップの中身をかき混ぜる。漂うかぐわしい緑茶の香り。
 村田は息を吸い込んだ。
 ――何か、変な匂いがする。少し苦いような匂い。
 カナエの手元に怪しげな袋が置いてあるのに気づいた。匂いはそこから漂っている。
「……それ、何です?」
「ああ、これは新しく調合した薬です。疲労回復に」
 カナエの悪癖だった。何かと薬を調合しては、周囲の人間に飲ませるのだ。村田も一度被害に遭ってからは、徹底的に逃げ回っている。
 村田は自分のカップに茶を淹れると、じりじりと後ずさった。
「……それを、誰に?」
「うーん……冨岡先生に差し入れようかしら。少し疲れているようだったから」
「……ほどほどにしておいてあげてくださいよ」
 内心、カナエの観察眼に舌を巻きながら、村田は言った。村田にはまったくいつも通りに見えたが、カナエにはわずかな不調も隠せないのか。
「ええ。少し、少しだけ、よく眠れるようにしてあげるだけよ」
「眠れるだけならいいですけど……」
「もちろんそれだけよ?」
 カナエが美しく微笑んだ。花のかんばせがほころぶ。だが、この笑顔に騙されて薬を飲まされた村田は油断しない。あれは危険だ。
 後ずさった村田の背が、誰かにぶつかった。
「どうかしたのか」
 ぼさぼさの黒髪に青いジャージ。冨岡だった。
 花が開いたようにカナエが笑う。
「ああ、義勇くん。ちょうどよかった。これ飲んでみて」
「これは?」
「ええっとね、これは疲労回復に――の薬草を少し――」
「じゃ、失礼します!」
 冨岡、無事でいろよ――と心の中で呟き、村田は逃げ出した。


06



 思い出す父の姿は、いつも料理をしている。
 長く病に伏せっていたせいで、痩せこけた姿の父が台所に立っている。
 父は料理が好きだった。パン屋をやっているくせに和食が好きで、特に米を炊くのが好きで、いつも鍋で米を炊いていた。
 たぶん、火加減が上手かったのだろう。母も料理上手だったが、炊飯だけは父に任せていた。
 炭治郎は父の炊く米が好きだった。母も、禰豆子も、他のきょうだいたちも。
 たまに炭治郎が炊くこともあるけれど、どうしても父のようにはいかない。
 パンの腕前もそうだ。まだ父には届かない。後を継がなければ、と思うほどに気持ちだけが焦ってしまう。そんなに焦らないで、と母に言われるが、そういうわけにはいかないのだ。
 炭治郎は六人きょうだいの長男だった。母だけで家を支えることはできない。すぐ下の妹・禰豆子も手伝ってくれるが、大黒柱を欠いた家は歪だった。
 だから、炭治郎は早く大人にならなければならない。
 ――父さん、俺はちゃんとやっていけていますよ。
 ほとんど毎日、炭治郎は仏壇の父を見て心の内で呟く。
 遺影の中の父は、いつも笑って炭治郎を見守っている。
 もちろん寂しい。悲しい。あまりにも早い別れだった。
 当時のことはよく覚えていない。以前から病気がちだったからうすうす気がついていたが、考えないようにしていた。
 その日から、炭治郎は子どもでいることを辞めた。
 もう一年。まだ一年。
 傷口が閉じたとは言いがたい歳月だった。必死で元の生活を取り戻そうとしてきた一年だった。
「大丈夫。父さんがいなくても大丈夫。ちゃんとやってる。俺は長男だから」
 だから、父の代わりも務まる。
 そう自分に言い聞かせながら、今日まで走っている。


          *


 母が死んでいる。
 弟と妹が死んでいる。
 家の中は血まみれだ。
 事切れた死体の転がる中で、すぐ下の妹がうずくまっている。
 妹の名を呼ぶ。
 ぐるりと妹が振り向く。闇の中で爛々と光る瞳は、瞳孔が縦に裂けている。獣のような唸り声が、妹の口から漏れている。
 赤い瞳が、捕食者のようにこちらを狙っている。
 ――抗え、と誰かが言った。


          *


「あれ……ここは?」
 目を開けたら、見覚えのない天井に出迎えられた。ベッドの四隅がカーテンで区切られている。
 遠く、部活のかけ声を聞いて、ようやくここが保健室であることに気がついた。
 炭治郎は身体を起こした。特になんともない。どうして保健室で寝ていたのだろう。
 シャッと音がして、カーテンが開けられた。窓から見える日差しが既に傾き始めている。
「竈門くん、具合はどうですか?」
 養護教諭の珠世だった。心配そうに眉を曇らせ、たおやかな仕草で炭治郎の額に手を当てる。
「どこか痛みますか? 目眩は?」
「あ、いえ、大丈夫です」
 慌てて炭治郎は答えた。なんとなしに手のひらを閉じたり開いたりする。なんだか妙な夢を見ていた気がするのに、何も思い出せない。手に何か握っていたような感触だけがある。
「本当ですか? 竈門くん、ボールが頭に当たって気絶したんですよ」
「あっ、俺、石頭なので」
 なおも心配そうに見つめる珠世に、炭治郎はぺちりと額を叩いてみせた。
「ちょっと頭の後ろを見せてください……あら、本当に」
 珠世の指が炭治郎の後頭部を探るが、こぶらしきものは見当たらない。
「いいでしょう。でも、頭痛や目眩がしたらすぐ病院に行くのですよ」
「はい。わかりました」
 ぺこりと頭を下げ、炭治郎は保健室を出た。


07



 カナエの薬を飲んだ冨岡が平然と授業を行っているのにおののきながら、村田は備品の購入予定リストを眺めていた。
 新学期だから、何かと入り用になるのだ。この時期は、教師も用務員も忙しい。
 なんとかチェックを終え、村田はペンを置いた。ぐっと背伸びをすると、バキバキと背筋が音を立てる。
 窓の外を見ると、だいぶ日差しが傾いていた。机の上で、赤い日差しが窓枠の形に細長く区切られている。
 そろそろ部活動の時間も終わりだった。
 村田は立ち上がり、事務室を出た。
 事務棟から教室のある棟につながる渡り廊下を歩く。
「さようならー」
「さようなら村田さん」
「おう、気をつけて帰れよ」
 生徒たちがほがらかに挨拶するのに、村田もにこにこしながら返事をする。
 部活動の声が校庭から聞こえる。
 放課後でも、用務員の仕事は終わらない。
 授業の終わった教室を見回る。誰もいない。窓の鍵が閉まっているか確認して、ひとつずつ教室を回る。
 最後に日誌を書いて、村田の仕事は終わりだ。
 玄関で靴を履き替える。
 振り返ると、校舎にはまだ灯りがついている。居残っている教師がいるのだろう。各教員室の戸締まりはそれぞれの教科の教師が行うことになっているから、村田の仕事外だ。
「あれ、冨岡?」
 冨岡がちょうど出てきたところだった。部活の指導を終えたのだろう。手にはいつもの竹刀。
「……何してるの?」
 冨岡がぴくりと肩を揺らした。
「まだ見回りには早いだろ。何してるんだ?」
 冨岡がすっと目を逸らした。
 ――何か隠している。
 これでも付き合いは長いのだ。
「さてはお前、一人で竈門のところに行こうとしてたな?」
 冨岡は無言だ。
「そういうことなら、俺もついていくから」
「村田は来なくていい」
「なんで?」
「……危険だからだ」
「何か〝見た〟のか」
 無言。
 肯定しているも同然だった。
 冨岡は時折、夢を見る――らしい。曖昧にすぎるそれは、冨岡の周囲に起こる近い未来の危険を警告することがある――らしい。
 この件になると途端に冨岡の口が重くなるせいで、ろくに聞き出せていないのだが。
「今夜か?」
 冨岡が小さく頷く。
「たぶん、とても危険だと、思う。強い怪異だった」
 たどたどしい口調で説明する。普段のスパルタ教師はどこへやら、何かを〝見た〟後の冨岡は不安定になる。
「それで、一人で行こうとしたのか」
「……巻き込んだら、悪い」
 遠慮がちに言われるのに、ため息をつきたくなる。
 ――だって、あまりにも。
「水くさいこと言うなよ」
「だが」
「俺がいなくて警察に捕まりそうになったの、忘れたのか?」
 冨岡が視線をさまよわせた。
 喋るのが壊滅的に下手なせいで、深夜に竹刀を持って徘徊する不審人物として捕まりかけること数回。見かねた村田が手伝いを始めて、なんとか穏便に済ませているのだ。
「いい加減、諦めろよ。俺は降りるつもりはないんだから」
「……すまない」
 竹刀を握りしめた冨岡が目を伏せる。
「今更、だよ」
 村田は笑う。
 鞄の中を確認する。何があるかわからないから、人避けの呪符はいつも鞄に忍ばせてある。だから、これはただの切り替え作業だ。心構えを切り替えるための作業。
「俺がやるって言ったんだ。少しは俺の顔を立ててくれよ」
 冨岡が神妙な顔で頷く。
 ただちょっと怪異が見える程度の一般人にできることは少ないけれど。
 冨岡を一人にしない――村田は、そうしなければならない。それができるのは、村田だけなのだ。
「じゃ、行くか」
 ――怪異退治の時間だ。

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