11



「冨岡先生、俺、俺……」
 炭治郎は呆然と立ち尽くした。握っていた刀を取り落とした。
 からん、と手から落ちた刀が竹刀に姿を変えたのを不思議に思う余裕もない。
 倒れた禰豆子に、冨岡が駆け寄った。さっきまで冨岡を捕らえていた黒い手は、きれいさっぱり消え失せている。
 満月に照らされた家は、いつも通りだった。
 まるで、何もかも悪い夢だったみたいだ。
 ――だが、夢ではない。
 禰豆子の角を斬った感触が、まだ手に残っている。硬い表面と柔らかい内側を合わせもった、得体の知れない気持ち悪い感触だった。
 吐き気がして、炭治郎はしゃがみ込んだ。
「大丈夫だ。気を失っているだけだ」
「こっちも大丈夫だから安心しろよ」
 村田が母や弟妹を横向きに寝かせながら言った。青ざめた顔色に、無理して笑みを浮かべている。
「よくやった、竈門」
 冨岡が言った。気遣わしげな匂いがする。
「怪異はもういない。誰もお前たちを殺さない」
 すとん、と力が抜けた。
 じわじわと涙がこみ上げる。
「ひっ、く、お、俺は――」
 背中に腕を回された。
「泣いていいんだ」
 冨岡がぎこちなく背中を撫でてくる。父とも母とも似ても似つかないその手つきだった。
「禰豆子、母さん、花子、茂、竹雄――う、うああ――――――」
 耐えきれず、炭治郎は身も蓋もなく泣き出した。


「すまなかった」
 冨岡が肩を落として言った。
 袖で顔を拭って、炭治郎は顔を上げた。
「なんで謝るんですか」
「俺が遅かったばかりに、禰豆子は」
「違います」
 炭治郎は冨岡の言葉を遮った。
「冨岡先生が助けてくれたんです。でなければ、俺も禰豆子も、家族みんなが死んでいた」
 驚いたように冨岡が目を丸くした。表情に乏しい人だとばかり思っていたが、そうでもないらしい。
「ありがたく受け取っておけよ、冨岡」
 にやにやと村田が笑っている。
 冨岡がさっと目を逸らした。恥ずかしがっているようだ。
 ――冨岡先生が恥ずかしがっているところ、始めて見たな。妙に感慨深い。
 ごまかすように冨岡が咳払いした。
「――その耳飾りは」
「あ、これは父の形見です。長男は身につけていろと言われて」
 炭治郎は耳飾りに触れた。
「その耳飾り、何か加護がある」
「加護、ですか?」
 冨岡が頷いた。
「そういえばさっき、一瞬光ったような」
 村田がしげしげと耳飾りを眺めながら言った。
「そうですか?」
 炭治郎は首をひねった。無我夢中だったから、何も記憶がない。
「そういえば父さんが、代々、うちを守る座敷童がいるっていう話はしていましたけど」
「座敷童?」
 村田が聞き返した。
 座敷童。父はそう言っていた。特に信じていたわけではないが、耳飾りをつけろという言いつけは守っていた。
「座敷童も怪異の一種なのか?」
 村田が冨岡に問う。
 冨岡が頷く。
「怪異、ですか?」
 聞き慣れない言葉に、炭治郎は首を傾げた。
「ああ、その説明がまだだったか」
 村田がかいつまんで説明してくれた。
 いわく、この世には怪異なるものが存在する。神も妖も物の怪も幽霊も怪異とひとくくりにされるらしい。
 そして、害を為す怪異を、冨岡と村田は人知れず退治しているらしい。
「じゃあ、俺が見た父さんも」
「おそらくそうだろう。怪異がお前を狙っていた」
 父親の姿をした何か。あれが怪異だというのか。
「禰豆子がおかしくなったのも?」
「鬼が取り憑いていたと俺は見ている」
「鬼……」
 おどろおどろしい雰囲気の言葉だ。たしかに、角の生えた禰豆子は鬼のようだった。
 ――鬼。人を食う鬼。
 座敷童なんかより、よほど凶悪な響きだ。
「また狙ってきたりするんじゃないだろうな」
 村田が心配そうに言った。
「もう来ないだろう」
 冨岡が庭の八重桜を見上げた。
 ひらりと散った桜の花びらが、冨岡の黒髪の上に落ちている。
「……ま、その話は置いといて」
 村田が仕切り直すように、明るい声を出した。
「救急車、呼んでおいたから」
「あ、ありがとうございます……」
「お前も診てもらえよ。それと、今日のあれは他言無用な」
 炭治郎は頷いた。
 そもそも、言っても信じてもらえないだろう。
 父の幽霊に、妹に取り憑いた鬼。怪談話みたいな非現実的な話だ。自分の身の上に起きたことでなければ、炭治郎だって信じられない。
「先生は、いつもあんなのを退治しているんですか」
「そうだ」
 あっさり冨岡は頷いた。
 炭治郎は手を握った。刀の柄の感触を思い出す。禰豆子の赤い瞳を思い出す。鋭い爪が肌を切り裂いた痛みを思い出す。きっと、忘れることはできない。
「じゃあ、俺も手伝います」
「………………」
「………………………………は?」
 冨岡は沈黙した。
 代わりに村田が驚愕に目を見開いた。
「お、お、お前何言ってるの!? せっかく一件落着したんだから、そのまま忘れろよ!」
「そんなのできません。だって、他に困っている人もいるんでしょう」
 炭治郎は冨岡を見据えた。
「先生が放っておけないように、俺も放っておけません」
「お前に何ができる」
 ぴしゃりと冨岡に言葉を叩きつけられた。
 厳しい声だった。何かを諦めたような、何かを切り捨てたような声だった。
「俺だって、いつも助けられるわけじゃない。間に合わないことだってある。お前は、それを受け止める覚悟があるのか」
「一人じゃできないことも、二人だったらできます。三人なら、もっとたくさんできますよね」
「それは……」
 冨岡がちらりと村田を見た。
「それを言われちゃあ、ね」
 村田が苦笑する。
「とりあえず竈門、お前に必要なのは休息だ。ほら、まだ子どもなんだから」
 その言葉に、また涙が出そうになった。
「お、俺は子どもじゃないです」
「何言ってるの、お前は子どもだよ。長男だろうがなんだろうが、まだ子どもでいいんだよ」
 村田が言った。やさしくて、温かい言葉だった。
 再び泣き出した炭治郎の背を、村田がさすった。


12



「賭けだった」
 冨岡が能面のような面持ちのまま言った。アスファルトの上で正座である。痛そうなそぶりも見せないのが、とても腹が立つ。
 冨岡の前に立った村田は、腰に手を当てた。
「あの刀で斬った場合、鬼となった者が死ぬか、人間に戻るか、俺もよく知らない。だが、竈門なら大丈夫だと思った」
「お前ね……そういうのはちゃんと言えよ」
 救急車で禰豆子たちを搬送してもらった後だった。強盗に襲われたということして、ひとまず病院へ連れて行ってもらったのだ。炭治郎も付き添いで同行させた。
「それで、竈門禰豆子は人間に戻ったのか?」
「わからない」
 禰豆子の額の角が消滅したのは確認した。外見上は、完全に元通りだった。怪我もすべて消え去っていたのが少々不気味ではあるが。
「……あれが鬼なのか?」
「おそらく。俺も一度しか見たことがない」
 淡々と冨岡が返す。
「鬼にされた者は、額から角が生えている」
「それはもっと早く教えてほしかったな!」
 初耳だ。
 村田は額に手を当てた。
 ――鬼。怪異の中でも飛び抜けて危険な代物。
「……ん? 待てよ、鬼にされた者ってことは、誰かが鬼にするってことか?」
 こくりと冨岡が頷いた。
「じゃあ、誰が竈門禰豆子を鬼にしたんだ」
「それは……」
 冨岡が口ごもった。視線が膝の上に落ちる。膝の上で、拳が握られた。何か言いたくない時の仕草だ。
「……まあいいや。それよりも、他に何か言うことがあるんじゃないか?」
 冨岡はぱちりと瞬きした。
「他に?」
「そう。お前、他に何か知ってたんだろう」
「……夢を見た」
「竈門炭治郎が怪異に襲われる夢だったな」
 冨岡は頷いた。
「どこまで見たんだ?」
「竈門家のみんなが死んでいた。竈門禰豆子が鬼になっていた。俺は、それをただ見ているだけだった」
「…………」
「俺一人で十分だと思った」
「そんなに俺が頼りないか――」
 自己嫌悪しそうになって、思い直す。冨岡はそういうことを言う人間ではない。
「いや、違うな……危険な目に遭うのは自分一人で十分だと?」
 こくり、と冨岡は頷く。
 ハアア……と村田は深いため息をついた。
 危険な目に遭うのも、命を賭けるのも、冨岡一人で十分だと思っているのだろう。他人に押しつけていい負担ではない。だから、何も言わない。
 冨岡の悪癖だ。嫌というほどよく知っている。
「そういうのはさ、遠慮なく言ってくれよ」
「何故?」
「何故って……俺も手伝うからだよ」
 きょとん、と冨岡が瞬きした。
「え、なに、俺のこと何だと思ってたの?」
「いや……村田は怪異退治なんか嫌だろう」
「そりゃあ嫌だけど……友達を一人で行かせるほどひどい奴じゃないよ」
 冨岡はじっと村田を凝視した。
「何回でも言うよ。お前を一人で行かせたりしない」
「……」
「そんなに見られると恥ずかしいんだけど」
 いたたまれなくなって、村田は視線を外した。
「友達……」
 ムフフと冨岡が笑った。冨岡の笑う姿は珍しい。珍しいが、とても恥ずかしい。
「そうか、村田は友達か」
「――そうだよ。友達だから、めちゃくちゃ嫌だけど、一緒に怪異退治だってするんだよ」
「嬉しい」
 ひどく素直な言葉だった。
 いや、と思い直す。冨岡はいつだって素直だ。ただ、言葉にするのが下手なだけで。
 しょうがないなあ、と村田は口元を緩めた。
「しょうがないから、地獄までは無理だけど、死なない程度には付き合ってやるよ」
 冨岡がかすかに微笑んだ。
「付き合ってくれるのか」
「そりゃあね」
 ちゃんと笑えるんだから、もっと笑えばいいのだ。
 誰かを助けることができた喜びに浸って何が悪い。矮小な人の身で誰かを助けられたのだから、思い切り喜ぶべきだ。
 冨岡がぱちぱちと瞬きする。瞼が重そうに上下する。けっこう睫毛長いんだよなこいつ――などと考えて、
「冨岡? もしかして眠いのか?」
 頷く。そのままかくりと首が下を向いた。ぐらぐらと上半身が揺れている。
「まさか胡蝶先生の薬が今効いて――あっおい冨岡、ここで寝るな!」
「しばらく寝かせてくれ……」
 ぐらり、と冨岡の上半身が前に傾いた。慌てて村田はその身体を受け止める。村田の肩にもたれかかり、冨岡は目を閉じた。
 重い。めちゃくちゃ重い。
 細身ながら鍛え上げた体育教師の身体である。がっちりした筋肉の感触を味わいながら、村田はぺちぺちと冨岡の頬を叩いた。全く起きない。
 冨岡の脇に肩を入れて立ち上がらせようとしたが、重くて持ち上がらない。二人でアスファルトに座り込んだまま、身動きが取れない。
「これ、俺が連れて帰るの? 嘘でしょ……」
 すやすやと耳元で寝息を聞きながら、村田は空を仰いだ。


13



 炭治郎の家の前で、冨岡は立ち止まった。
 宙に伸ばした冨岡の腕に、闇に紛れて一羽の鴉が舞い降りる。
「義勇、怪我ハナイカ……」
 鴉が人語を発した。だが、冨岡は驚かない。この鴉はそういうものだからだ。
「怪我はない」
 短く答えた冨岡に、鴉はとことこと腕の上を移動して、くちばしで冨岡の胸を軽くつついた。
「隠シテイナイダロウナ」
「隠してない」
 冨岡は眉をひそめた。この鴉は年寄りだからか、心配性なところがある。まるで冨岡の保護者気取りだ。
 ひょいと飛び上がって、塀の上に着地する。寝静まった夜、誰も起きては来ないだろう。
 塀の上に立ち、敷地の中を見下ろす。
 月の光が降り注ぐベランダに、男が立っていた。長く伸ばした髪。炭治郎とよく似た赫灼の瞳に、額から頬にかけて渦を巻く文様のような痣がある。小袖に袴を身につけ、腰には刀を履いている。穏やかな顔立ちをしているが、内面をうかがい知ることは一切できない。
 長髪の男が頭を下げる。
「そんな真似をしないでくれ」
 男が顔を上げる。
 人ならざる者の眼差しが、冨岡を貫いた。
「礼を言われるようなことじゃない」
 男の姿が揺らめいて、炭治郎によく似た男の姿が重なった。やつれた顔をしているが、穏やかな表情を浮かべている。
 その顔を、冨岡は知っている。男が去年、病で幼い子どもたちを残して死んだのを知っている。
『あなたのおかげです。私には見守ることしかできない』
「それで十分だと思うが。それに、俺は大したことはできなかった。鬼が取り憑いた妹を救ったのは炭治郎自身だ。俺じゃない」
 冨岡は淡々と答える。
 ただ見ていただけだった。夢で見た通りに。
 運命を変えられるのは、本人だけだ。誰も助けられない。助かりたいのなら、自分の手で為さねばならない。それは痛いほど熟知している。
 無意識に頬を撫でた。
『私はこの家の中にいるしかない。外に出られない。それがとても口惜しい。せめて、呼ばれさえすれば』
「余計な干渉は理(ことわり)を曲げるぞ」
『あなたも』
「…………」
『どうかあの子を、よろしくお願いします』
 彼はベランダから外には出ない。
 彼は庭には降り立てない。それが彼の――座敷童の定めだからだ。
 彼は穏やかな眼差しで冨岡を見つめる。
 自分の父親でもないのに、まるで父親に見守られているような気分になる。
 ふと、思い至る。
「あなたは――あなたたちは、座敷童に父親という概念を習合したのか」
 彼は頷いた。炭治郎と同じ耳飾りが揺れる。
 代々の当主を習合し、座敷童として固定した。それを成立させているのがあの耳飾りなのだろう。愛情の為せる技なのか。人の想いは、かくも強いのか。
 ――あるいは、あの夢をねじ曲げたのは彼らの願いだったか。
 炭治郎が刀を振りかぶった瞬間、おぼろげに見えた、誰かの手。あれは、彼らの願いだったのだろうか。
 再び姿が揺らめいて、小袖姿の長髪の男に固定される。男は首を傾けた。さらり、と黒髪が流れる。
 彼は微笑んだ。怜悧な顔立ちが緩んで、慈しみを覗かせる。まるで、歩き出したばかりの子どもを見守るような。
『あなたにも幸があらんことを』
 男の姿が徐々に透けていく。
 瞬くと、男の姿は消え去っていた。月光が照らすベランダには誰もいない。
 冨岡は鴉を撫でた。柔らかい羽毛が、夜風に冷えた指先を温めた。


14



「冨岡先生! 弟子にしてください!」
「嫌だ」
「なんでですか!」
 聞き覚えのありすぎる声がして、村田は事務室から顔を出した。
 青ジャージの冨岡が困ったように眉を下げて、廊下を足早に歩いている。競歩と見紛うほどの速度だ。生活指導の教師たる者、廊下は走ってはいけないらしい。相変わらず、表情は微々たる変化である。表情筋が死んでいるのだろうか。
 その後ろを炭治郎が追いかけている。
 村田は声をかけた。
「竈門、走るなよ」
「はい! わかってます!」
 炭治郎は元気よく返事した。
「冨岡先生! 弟子入りの話ですけど!」
「断る」
 すげなく拒否する冨岡に、全くめげない炭治郎。
「竈門くーん、頑張ってー」
 通りすがりの女子生徒が声援を送る。四日目ともなれば、慣れたものだった。
「ところで、先生、義勇さんって呼んでいいですか?」
「学校では呼ぶな」
 冨岡が即答した。
「じゃあ学校の外では呼んでいいんですね!?」
 言葉尻を捉えて、炭治郎の声が喜色を帯びた。
「…………好きにしろ」
 たっぷり沈黙した後、不承不承、冨岡は頷いた。
 困惑しつつも無視できない冨岡の分が悪いようだ。
「いつまでやるつもりなんだ、あいつら」
 この奇妙な追いかけっこも、今日で四日目だった。
 炭治郎の妹、禰豆子にあれから変化はない。かまどベーカリーも数日の休業の後、通常営業している。
 炭治郎の耳元で、花札のような耳飾りが揺れた。
 もう、まとわりつく黒い影はない。
「可哀想だから、そろそろ助けに行ってやろうかな」


 しびれを切らした冨岡が二階の窓から飛び降りるまであと二分。
 それを追いかけて炭治郎も飛び降りるまであと二分一〇秒。
 飛び降りた炭治郎が花壇の鉢植えを破壊するまであと二分一五秒。
 次々と備品が破壊されるのに気づいた村田が二人を追いかけ、昼食を食べ損ねるまであと三分のことである。

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