00



 義兄は心が壊れている。
 自分も心が壊れていた。
 しあわせを詰め込んでも詰め込んでも、心に穴が空いているから、端からこぼれてしまう。
 壊れた二人だから、二人で一人だった。
 壊れたままでいたら二人でいられたのだろうかと、詮のないことを考える。
 きっと、それは間違いなのだ。
 壊れたまま、互いの手で穴を塞ぎあうことは、自分たちにはひどく難しかったから。



01



「イヤッホウ! 山だ!」
 駅の改札を出た途端、テンション高く伊之助が叫んだ。私服姿である。高校生として当たり障りのない服装は、きっと家族に用意してもらったのだろう。
 駅からすぐに山が見える。標高六〇〇メートル程度の緑に覆われた山だ。キメツ学園から電車で一時間ほどのところにある。
「落ち着いて、伊之助。これ遠足だからね」
 答える炭治郎もまた私服。変わらずに花札のような耳飾りを身につけている。
「山とか登りたくないんだけど」
 善逸は嫌そうに顔をしかめた。
 遠足なんて面倒だ。いつもより朝が早いから、養父――といっても祖父と呼ぶべき年齢だが――の朝食を用意してから家を出たのだ。こういう時に義兄がいれば楽だったのだが、何分、昨晩は帰宅しなかった。
 善逸の養父は身寄りのない子どもを二人引き取って育てている。その子どもの片割れが善逸の義兄だった。
 兄弟として育てられても、二人の折り合いはひどく悪かった。いつも義兄は善逸を邪魔だと言わんばかりに邪険にして、話しかけると舌打ちされる。
 それでもめげずに善逸は話しかけていたのだが、一年ほど前から更に関係は悪化していった。
「ハア……兄貴、何してるんだろ」
「お兄さんがどうかしたのか?」
 独り言を聞きつけた炭治郎が尋ねた。
「おとといから帰ってこないんだよ。家出」
「大学生だったっけ、お兄さん」
「そう。今年から」
 善逸の義兄は大学生だからとアルバイトを始め、ますます家に寄りつかなくなってしまった。別にべたべたしたいわけではないが、露骨に無視されるのはなかなかに堪える。
「広がるな、迷惑だろう――では点呼を取る」
 いつもの青ジャージを着た冨岡が片手を上げた。
 その声で、駅前に立っていた生徒たちがなんとなくまとまって列を作る。
「我妻」
「はい」
 冨岡に名前を呼ばれると同時に、青い瞳が善逸を射貫いた。
 すぐに視線は外された。
 善逸は首をひねった。
 ――何か、服装におかしなところでもあったのだろうか。



 冨岡が点呼を取っているのを、村田は列の後ろから見ていた。
 長期休暇の明けた翌週。燦々と日差しが降り注いでいる。直射日光を浴びればじっとりと汗ばむほど気温が高い。しっかり帽子を被ってもアスファルトの照り返しが眩しい。
 こんな天気でも、冨岡は涼しい顔をしている。
 目を細め、返事をする生徒たちを見守る村田を、炭治郎が振り返った。
「村田さんも引率なんですね」
「若手職員っていうのは、こういう時に駆り出されるもんなの」
「大変ですね」
「大変なんだよ」
 村田は肩を竦めた。
 若手というのは、得てして雑用やら何やらを押しつけられるものである。今回は、突然の風邪で休みになった先生の代理で来ることになった。用務員の仕事はお休みである。
 引率の冨岡も、さすがに今日は竹刀を携帯していない。
 本日はキメツ学園高等部一年生の遠足だった。



02



 雷は好きじゃない。昔からそうだった。
 それなのに、雷の音には人一倍、敏感だった。
 空気を切り裂いて落ちる、圧倒的なエネルギーの塊。莫大なエネルギーを秘めているくせに、何の役にも立たない。
 いつしか、自分が泣いていると近づいてくるようになったから、ますます嫌いになった。
 雷に打たれたのが自分でなかったなら。こんなにも関係が罅割れることはなかったのだろうか?



「この花、いい匂いがするなあ」
 群生している黄色いとがった花びらをくんくん嗅ぎながら炭治郎が言う。
 善逸も耳をそばだてた。
 深い緑が木陰を作り出し、汗ばむほどの日差しを遮っている。土の匂いと、緑の匂い。斜面には草木が生い茂っている。
「聞いたことのない鳥の声がする」
「さすが山の中だよね」
「はっ、こんなの山には入らねえよ」
「ねえ、伊之助の育った山ってどんな感じ?」
「俺様が山の王だからな、もっと木と草が生えてて、猪がいて、鹿がいて」
「この山も猪や鹿はいると思うぞ」
「いや、こんなもんじゃねえ」
「どんな山奥で育ったのよ……」
 善逸はげんなりした。
「そこ、遅れるなよ」
 先頭に立つ冨岡が振り向いた。
「はーい」
 物珍しい風景を見ながら、わいわいと山を登る。
 平日だから人は少ないが、ちらほらと軽装で登る人を見かける。サンダルを履いた女性さえいる。
 整備された登山道は、たしかに伊之助の言うように、山には入らないのかもしれない。
「これくらいが遠足にちょうどいいんだよ」
 道を逸れそうになる伊之助の襟を掴んで、村田はため息をついた。
「竈門、ちゃんと嘴平を見ておけよ。そのうちどっか行きそう」
「わかりました!」
「お前は素直だなあ」
 親交を深めるための遠足とはいえ、キメツ学園は中高一貫である。高等部に入学したと言っても、クラス替え程度の意味合いしかない。
 二列になって歩く生徒たちも、既に親しげに会話している。
 自分の時はどうだったかと考えて、村田は冨岡の背をなんとなく見た。
 姿勢のいい背中だ。剣道をしていた高校生の頃からそうだった。その背に、村田はかいがいしく話しかけていたのだった。
 冨岡は友人が非常に少なかった。というより、村田がほぼ唯一の同世代の友人と言ってよかった。高校時代、怪異事件に巻き込まれて冨岡と知り合い、それからずっと腐れ縁を続けている。
 最後尾の炭治郎たち三人も、仲良く――時に伊之助を掴んで道に引き戻しながら歩いていく。
「伊之助、もうすぐ頂上だからね」
「遅えんだよ」
「やっとかあ、もう嫌だ」
「善逸は根性が足りないと思う」
「ねえ、炭治郎はなんで俺に対して冷たいの?」



「昼食は一三時まで。食べ終わったら自由にしていていいが、他の人の迷惑にならないように気をつけること」
 年嵩の教師が言い終わらないうちから、生徒たちが立ち上がって仲のいい生徒同士で集まっていく。
 村田も教師たちの集まっている区画へ歩いていった。レジャーシートを広げ、冨岡の隣に座る。
「冨岡、今日の昼は何?」
 冨岡が黙って弁当箱を開けた。
「今日は作ったのか?」
 無言で頷く。
「まあ、山登りでパンだけってのも味気ないしな」
「今朝は間に合わなかった」
「いや買うつもりだったの? ほんとお前、かまどベーカリーが好きだよな」
 こくりと冨岡が頷いた。
「そういえば炭治郎の家はどうだった? 何か変わった様子は?」
「……竈門家の座敷童に会った」
「ふうん、座敷童に……って、座敷童に会ったの!?」
「声が大きい」
 一切の感情を窺わせず、冨岡が淡々と言った。
 はっと村田は口を塞いだ。周囲を見渡すが、幸いにして誰も今のやりとりを聞いていなかったようだった。
「悪い。それで、座敷童はどんな感じなの」
「特に何も」
「それじゃわかんないんだけど。座敷童ってどんな見た目してるの? やっぱり着物姿の子どもとか?」
「大人だった」
 そっけなく明かされ、村田は素直に驚いた。座敷童と言うくらいだから、子どもの姿をしているものとばかり思い込んでいた。
「大人でも座敷童って呼ぶのか?」
「座敷童は子どもの姿をしているとは限らない。地方にもよるが、先祖への信仰が混ざった場合もあるから――」
 突然、冨岡が黙り込んだ。
「え、なに、途中で黙らないでよ。めちゃくちゃ気になるんだけど」
「村田は知らなくていい」
 村田はちょっと傷ついた。すぐに首を振る。冨岡は万事がこの調子なのだ。村田のことを慮って知らなくていいと言ったのだろう。たぶん。そうじゃなかったらもっと傷つく。
「……本当か?」
「本当だ」
「じゃあ、また何か変な夢を見たりしてないだろうな」
「夢は見た」
「どんな」
「話しても意味がない」
 じっと冨岡を見る。冨岡も深い泉のような瞳で見返す。こうと決めたらてこでも動かないのはよく知っている。
 村田は冨岡の第二の友人を自負しているが、そう簡単には内心を見せてくれないのだ。
「……じゃあ、そういうことにしておくけど。何かあったら言えよ。いいか、俺は手伝うからな、お前が嫌がっても」
「わかった」
 保護者じみたやりとりをして、村田は自分の弁当に手をつけた。昨日の煮物の出来映えはかなりよかったなと自画自賛などしてみる。ああ、誰かお弁当作ってくれないかな。
 冨岡が空を見上げた。
「――雨が」
「え、降るの?」
 こういう予測を冨岡は外したことがない。冨岡はやたらと雨の気配に敏感だった。
「じゃあ、早めに遠足を切り上げた方がいいかな」
 さあっと雲が流れて、空が暗くなった。ゴロゴロと遠く、雷の音がする。
 山は天気が変わりやすいとは言うが、遠足でこれとはついていない。
「早く下山した方がいい」
 冨岡が立ち上がって、他の教師の元へ相談しに行く。
 急速に暗くなる空を見上げたら、ぽつ、と雨粒が落ちた。
 昼食を終えて談笑していた生徒たちもざわめき始めた。
「傘! 傘持ってる!?」
「持ってない」
「私あるよ」
「入れて!」
 女子生徒が数名、寄り添ってひとつの傘の中に入る。
 村田も荷物をあさってみるが、傘は持ってきていなかった。濡れて帰るしかないだろう。せっかくの遠足で雨とは、本当についていない。
 さすがに標高六〇〇メートルとはいえ、山は山だ。今日の遠足はここで終了だろう。


 数分後、すみやかに下山することが決定した。



03



 雷が落ちる。
 違う。
〝それ〟は雷ではなかった。
 空気を切り裂く轟音と、白い稲光と共に現れた〝それ〟。人ならざる者。
 怪異は人を狂わせる。
 過ぎた力は人を狂わせる。
 そんなこと、とうに知っている。

 ――踏み越えるな、と囁く声がした。



「善逸、どうかした?」
 降り始めた雨に帽子を被りながら、炭治郎が問いかけた。
 急いで下山を開始して、三分の一ほど降りたところだった。
 善逸は足を止め、空を見上げた。
 クラスメイトに追い抜かれていくのも気にならなかった。それよりも気を取られるものがあるからだ。
「早く降りろって先生が言ってたよ」
「何ぐずぐずしているんだ、紋逸」
「――雷が来る」
 善逸は呟いた。妙な胸騒ぎがした。あの雨雲はきっと雷を連れてくる。そんな予感がした。
「雷? 大変だ、早く行かないと。雷に打たれたら大変だ」
 善逸の呟きを炭治郎は疑いもしなかった。いい友人だ。大切にしなければならない友人だ。
 そうだ、早く去らなければ。雷に打たれてしまったら、大変だ。わけのわからない焦りが生じて、善逸は歩き出した。いつの間にか、列の後方にいた。前の方とずいぶん引き離されている。
 自然と足が速くなる。だんだんと駆け足になっていくのを止められない。先を行っていた何人かを追い抜く。
「ちょっと善逸? 走ったら危ないよ」
 慌てて炭治郎が善逸を追いかけた。
「ねえ、ちょっとおかしいよ善逸、」
「競争か!」
「伊之助も! 危ないから走らないで!」
「勝負だ紋逸!」



 遠くで雷鳴がとどろいた。
 はっとしたように冨岡が顔を上げる。
 村田と冨岡は列のしんがりにいた。遅れる生徒がいないか確認する役割だ。二人の後ろに生徒はいない。誰も遅れていないはずだった。
「どうした?」
「いや、妙な気配が」
 冨岡が周囲を見渡す。
「は? まさか――」
「善逸! 伊之助!」
 炭治郎の大きな声がした。



「ははは! 負けねえぜ!」
「痛ッ」
 何かに足を取られて、善逸は転んだ。地面に鼻をぶつけそうになって、手のひらをついた。ちょっと擦りむいた。痛い。ぶつけた膝も痛い。
「はははは!」
「伊之助! 止まって!」
 炭治郎が叫ぶ。
 振り向くと、伊之助がもう目の前に迫っていた。ぶつかる、と善逸は思わず頭を庇った。
「俺の勝ちだな!」
 善逸にぶつかる直前で、伊之助が踏み切った。善逸の頭上を飛び越して華麗に着地する。
 側にいた女子たちが呆気にとられて固まった。
「こら! 嘴平! 走るんじゃない!」
 後ろの方から村田の怒鳴る声がした。
 その声で硬直の解けた一人が善逸に声をかけた。
「ちょっと我妻くん、大丈夫?」
「ああ、うん」
 いつもの癖でへらりと笑って、善逸は顔を上げた。クラスメイトの女子だった。セミロングの髪で、おとなしい風貌をしている。善逸を邪険にしない、数少ない子だ。
「心配してくれるの? ありがとう! 好き! 付き合って!」
「それだけ喋れるなら大丈夫そうだね」
「我妻くん、そういうのモテないよ」
「見境なさすぎでしょ」
 途端に呆れたように女子たちが言う。
「善逸、走ったら危ないだろ」
「ご、ごめん」
 追いついた炭治郎に善逸は謝った。
 後ろから走ってきた冨岡と村田がかがみ込む。
「どうした我妻」
「怪我は……大したことはないな」
 ざっと善逸の怪我を確認し、冨岡は立ち上がった。心配そうに立ち止まっている女子生徒たちに指示を出す。
「お前たちは先に行っていろ」
「はあい」
 辛辣な言葉を吐きながらも心配そうにちらちらと善逸たちを振り返りながら、女子生徒たちが歩き出す。
「善逸、立てる?」
 炭治郎が手を差し出した。
「あ、うん」
 善逸は炭治郎の手を取って立ち上がった。先ほどまでの焦燥感が何だったのか、自分でもわからない。
 冨岡が何を考えているのかわからない顔で善逸を見下ろした。
「何を怖がっている」
「え、えっと」
 善逸は答えられない。
 妙な沈黙に、村田はおろおろと二人を見比べた。
「とりあえずさ、早く山を下りよう」
 村田が言った途端、ざあっ、と雨が強くなった。歩道を雨水が流れていく。
 あっという間に、歩道が浅瀬と化す。
「はい――あッ」
 立ち上がった善逸は足を滑らせた。べしゃりと地面に尻餅をつく。水が服に染みこんで冷たい。
「この雨じゃあ、逆に危険だな。ひとまず雨宿りしよう」
「そうだな」
 村田の提案に冨岡も同意した。
「先生、こっちに木陰があります」
 いつの間にか大木の側に移動していた炭治郎が手を振った。
 皆で大木の下に集まった。大ぶりの枝から広がる葉が雨を遮ってくれる。
 村田は帽子を脱いだ。被っていると頭皮が蒸れて仕方がない。
「しばらく休憩な」
「うわ、びしょびしょだよ」
 炭治郎が上着をつまんだ。水を吸って色が変わっている。
「脱げばいいじゃねえか」
「やめておけ。身体が冷える」
 服を脱ごうとする伊之助を制止した冨岡の青いジャージも、肩がすっかり濡れている。
「そうだな、この雨は長続きしないだろうから――」
 冨岡が言葉を止めた。
 突然の沈黙に、炭治郎と善逸も不思議そうな顔をした。
 村田が冨岡の肩越しに見やると、
「え、どういうことなの」


 登山道が消滅していた。



04



 羨ましい。
 妬ましい。
 どうしてあいつは、自分が持っていないものを持っているのだろう。
 無邪気に自分を兄と呼んでなついてくるあいつを、自分は嫌っていた。
 弱虫で、泣き虫で、軟弱で、とにかく弱かった。だから養父もあいつを愛していた。自分とは違って。可愛げの欠片もない自分とは違って。
 どんなに努力していい成績を取っても、養父はあいつを見ていた。
 成績優秀者として学費を免除され、奨学金を給付されることになった時、養父は褒めてくれた。すっかり養父より背が高くなっても、小さな子どもみたいに頭を撫でられた。嬉しかった。
 だが、それも束の間のことだった。あいつは奨学金なんか取れないごくごく平凡な成績だったのに、養父はあいつを愛し続けた。あいつは自分よりはるかに出来が悪かったのに、それでも許されていた。
 だんだん、自分が褒められることが減っていった。代わりに、養父はあいつの面倒を見るのに時間を取られていった。
 あいつはいつも養父に怒られていた。ぎゃんぎゃん泣きわめくあいつがうるさくて、自分は耳を塞いだ。
 養父はあいつを見捨てなかった。何もかも自分に劣るのに。
 兄弟二人で一人なのだと養父は常に言っていた。自分は常に反発していた。あんなのが弟でたまるかと。あいつは養父を横取りした。自分に与えられるはずだったものを奪った。
 どんなに努力しても叶わないものがあると知った。
 だから、あいつに〝それ〟が取り憑いた時、自分は、嫉妬の炎に身を焦がした。
 ――あれが欲しいと思った。



 人工の道が消え失せ、代わりに原生林もかくやと言わんばかりの生い茂った緑が姿を現していた。地面を這い回る太い根は苔むしている。森林はぐっと密度を増したようだ。
 たかがハイキングレベルの山にはありえない植生。
 何よりも、他の人間が全く見当たらなかった。
「もしかして遭難した……?」
 善逸がすっかり血の気の引いた顔で呟いた。
 炭治郎が無邪気に返した。
「遭難っていうより、神隠しってやつじゃない? 道がないし」
「イヤアアアア! 帰りたい! 嫌だ! 神隠しって何!? そんな非現実的なことあってたまるか!」
 いつもの調子で善逸が泣きわめいた。さっきの妙な様子はどこかへ行ってしまったようで、元気で何よりだ。
「泣きたいのは俺の方だからね!?」
 村田も大人げなく叫んだ。
 冨岡は落ち着いた声で尋ねた。
「誰かコンパスを持っているか」
「たかがハイキングレベルの山でコンパスなんか持ってくるわけないじゃないですか!」
 善逸は混乱のあまり、いつも怖がっている冨岡にぞんざいな口を利いた。
「あ、俺持ってます!」
「なんで!?」
 はきはき答えた炭治郎がポケットをまさぐり、リュックを下ろして中身を検め、ぐるりと冨岡を向いた。
「すみません、なくしました!」
「そこは元気よく答えないでくれるかな? ていうかなんで持ってたの?」
 はきはきと答える炭治郎に、村田は反射的に叫び返した。
「いや、山には必要かと思って」
「用意がいいね!? いやなくしてるなら意味ないね!?」
「すみません!」
 元気よく炭治郎が謝った。
「……まあ、いいけどさ」
 そもそも、道が消滅するような事態でコンパスが役立つとも思えない。
 村田は冨岡を振り返った。小声で訊いてみる。
「冨岡、これ本当に神隠しなの?」
「わからない」
「でもこれ、怪異だよな。道が消えるなんて」
「怪異の仕業だからといって、神隠しとは断言できない」
 降り続く雨の向こうを見据え、声を潜めて冨岡が言う。
 ――それにしても、神隠しとは。
 炭治郎が冗談のつもりで言ったのなら、あまり笑えない。この世には歴然と怪異が存在するのだ。人をおかしな空間へと誘う怪異は枚挙に暇がない。
 ざあざあと雨の音が空間を支配している。
 ふと、雨にけぶる景色の中で何かが動いたような気がした。
「善逸、どうしたんだ」
 炭治郎に目もくれず、善逸がふらふらと歩き出した。雨を避けて木陰に避難していたのに、わざわざ雨の下へ出ていく。
「おい、我妻」
 冨岡が眉をひそめた。
 あっという間に、善逸の全身がずぶ濡れになった。濡れた金髪がぺたりと顔に貼りついている。
 村田は善逸を追いかけた。腕を掴むが、善逸は構わずに歩いていこうとする。
 善逸が青白い顔で村田を振り返った。
「兄貴がいる」
「何を言ってるんだ、こんなところに」
 善逸の腕を掴んだ村田もどんどん濡れていく。木陰へ引っ張っていこうとするも、善逸が意外と強い力で抵抗してくる。
 善逸が身を乗り出した。
「獪岳!」
 善逸が誰かの名を呼んだ。
 村田の目にもようやく、誰かが降りしきる雨の中、立っているのが見えた。
 その人は雨に打たれながら、ただ立っている。


 耳をつんざく轟音が落ち、白い光が視界を灼いた。


 村田は思わず目を閉じた。瞼の裏さえも白く灼いた光が消えるのを待ち、目を開ける。
 一拍遅れて、雷がその人に落ちたのだと気づいた。
「――ッ、大丈夫ですか!?」
「獪岳!」
 善逸は村田の腕を振り切って走り出した。
 村田は首だけ振り返った。
「我妻の知り合い? 知ってる?」
「いえ」
 ぶんぶんと炭治郎が首を横に振った。
「獪岳、何してるんだ!」
 善逸がその人に駆け寄った。
 彼がゆっくりと顔を上げた。短い黒髪。善逸よりも背が高い。つり目がいっそう顔立ちをきつく見せている。
「善逸」
 彼が呼びかけた。静かな声だった。
 同時に、何かの唸り声が聞こえた。
 獪岳と呼ばれた彼の傍らに、何かが立っている。
「……何だ、あれは」
 形は狼に似ていた。硬い灰色の体毛に覆われた、体長二メートル近くありそうな体躯。尾は二股に分かれている。体表でパチパチと火花が爆ぜている。
 ただの野生動物ではなさそうだった。
「――雷獣だ」
 いつの間にか木陰から出てきた冨岡が囁くように言った。
 雷獣。雷と共に現れた獣。明らかに人の理を外れた存在。
「……怪異か」
「そうだ。落雷をもたらす怪異。雲に乗って空を飛び、地表に落ちれば雷となる」
 村田はごくりと唾を飲み込んだ。
 ぐるる、と雷獣が唸った。牙を剥き出し、爛々と光る目が善逸を見据えている。
「まずい。竹刀がない」
 常と変わらない声で冨岡が抑揚なく言った。言葉とは正反対に、焦りは全く窺えない。
「え!? どうすんの!? どう見てもあれ敵意いっぱいじゃん!」
 山登りなので当然、竹刀は持ってきていない。竹刀がなければ冨岡の戦闘力は半減する。
 ――詰んだ。村田はそう思った。
 村田と冨岡の後ろには炭治郎と伊之助が控えている。炭治郎の座敷童があれから守ってくれるほど強いとは思えない。というか、座敷童なんだから炭治郎以外守ってくれない気がする。伊之助に至ってはただの一般人。
 この状況、割と絶望的ではないだろうか?
「そうだ、なんかあれ、普段お前が持ってるお札みたいなやつは!?」
「人避けの呪符しかない」
「ああああ使えない!」
 村田は頭を抱えて叫んだ。既に周囲に人はいないのだから、人避けの必要もない。持っていても仕方のない装備だった。
 つまりは目撃者もいないということだ。いや伊之助がいるのだが、伊之助はいいだろう。炭治郎がなんとかしてくれるはずだ。
「そうだ、これがある」
 冨岡が鞄から札を出した。
「目隠しの呪符だ。気休めにしかならないかもしれないが」
「よし、じゃあそれで炭治郎と伊之助を隠しておこう。ないよりましでしょ」
 懸念事項をひとつ潰して、村田は息を吐く。最大の問題は、目の前の青年と雷獣。そして青年と何やら一悶着ありそうな善逸だ。
 冨岡の最強装備・竹刀がないのに、怪異を退治しなければならない。既に泣きそうな村田の心はもう折れそうだった。
 冨岡が頷いて腕まくりする。
「大丈夫だ、竹刀がなければ殴ればいい」
「お前は本当に脳筋ね!?」
「うるせえやつらだな、お前らも後で殺してやる」
 青年が忌々しそうに顔を歪める。
「獪岳……」
 善逸が再び呼びかける。縋るような声だった。
 獪岳と呼ばれた青年は、善逸に顔を向けた。般若のように目尻をつり上げる。
 雷獣が、ごう、と吠えて善逸に飛びかかった。



05



 この金髪が嫌いだった。


「今日からこのクラスに編入になった、我妻善逸くんです。ちょっと事情があってしばらくお休みしていたんだけど、みんな仲良くしてね」
「我妻善逸です。よろしくお願いします」
 善逸は教卓の隣で一礼した。金髪が揺れる。去年までは、ごく普通の黒髪だった。雷に打たれてから一変した髪の色を、物珍しげに見られるのにはまだ慣れない。
 教師に指示された席に座る。ただでさえ、一年留年している身だ。じろじろと見られて居心地が悪いことこの上ない。
「我妻くん? よろしくね」
 隣の席の男子が人なつっこい笑みで言った。赤みがかった髪と瞳をしている。曇りのない眼差しが眩しかった。
「う、うん、よろしく」
 善逸はぎこちなく挨拶を返した。
 やがて、彼が善逸の大事な友達になった。彼の隣にいた騒がしい男子とも友達になった。
 大切なものをたくさん詰め込んで、善逸の心は満たされた。
 一人分の場所を空けて。


 幼い頃から、善逸は耳がよかった。
 特に、遠くで鳴る雷鳴を聞き分けるのが得意だった。まだ雨の兆しも見えない頃から、ぴたりと雷雨が来ることを言い当てた。
 すごい、と褒められるのは好きだった。何の役にも立たない自分が、誰かに褒められて認められるのは、単純に嬉しかった。
 義兄は――獪岳は、そんな善逸を邪魔に思っていたようだった。善逸が話しかけてもろくに相手にされない。ちらりと一瞥して無視されるのはまだましな方で、弱虫、軟弱、と罵られることもしばしばだった。
 それでも善逸は兄が欲しかったから、邪険にされるのが悲しくて、後をしつこくついて回っては泣かされていた。
 意地悪な兄に泣かされた善逸を、養父は時に叱咤し、時に温かい手で頭を撫でてくれた。それを獪岳は遠くからただ見ていた。
 嫌われているのはわかっていた。でも、善逸は自分の信じたいことを信じると決めていた。嫌われていてもいい、いつか好きなってくれるはずだ、いつか善逸を弟として認めてくれるはずだ。そう信じていた。
 獪岳が何を思っていたかなど、わかっていなかったのだ。


 一年前、雷に打たれてから、亀裂は決定的になった。
 不思議なことに、善逸が泣きわめくと、雷雨が訪れるようになった。
 それに気づいた養父は、善逸の世話にかかりきりになった。反対に、義兄はどんどん心を閉ざしていった。家を嫌い、一、二日ほど帰らないこともしばしばあった。
「お前たちは二人で一人だ」
 養父の口癖だった。だから仲良くしなさい、互いを支えあいなさい、とそう続けられた。
 泣きべそをかく善逸を叱り飛ばした後、養父は必ず善逸と獪岳にそう言った。
 いつものことだった。いつものことだったのに。
 虫の居所が悪かったのか、その日、義兄は猛反発して家を飛び出した。
 豪雨の中、半べそで追いかけていった善逸に、獪岳は吐き捨てた。
「お前と兄弟なんて反吐が出る」
 何度も何度も、繰り返し言われた台詞だ。
 何度言われたって、慣れることはなかった。
 蔑む視線がぐさぐさと心に刺さる。期待に膨らんだ風船に穴が空けられて、あっけなく破れる。刺されたら、刺された分だけ痛いのだ。痛みに慣れることなどないのだ。
 善逸は沈黙した。普段はよく回る口から何も吐き出せない。
「ちょっと耳がいいくらいでいい気になるなよ。お前なんか、どうせ何の役にも立たないカスなんだ」
 善逸は頭がいいわけでもなくて、取り柄といえば、足が速くて耳がいいくらいで、それだけの人間だった。そんなことはわかっている。
 教師が口をそろえて優秀だと褒める獪岳と比較されて、敵うはずがなかった。獪岳を見習え、と何度も養父に言われていた。そのたびに、獪岳との出来の違いを感じていた。それでも。
「……そんなのわかってるよ」
 それでも、養父は自分を大事にしてくれている。それで十分だろう。
 獪岳は心が壊れている。
 善逸も心が壊れていた。
 親に捨てられた、ただそれだけのことで、心は壊れるのだ。
 壊れた二人だから、二人で一人だった。
 でも、爺ちゃんがいたから。炭治郎が、伊之助がいたから。善逸は壊れた心をゆっくり修復していった。大切なものをたくさん詰め込んだ。そうして心は満たされた。
 獪岳は心を直せなかった。養父と善逸では、中身を満たすのには全く足りなかった。
 獪岳はずっと何かに怒っていた。
 満たされない心を抱えているからだ。何かを求めても、それを受け止められないから、いつまでも満たされない。どんなに愛情を注がれても、それを自覚できないから。
 注がれた愛情は、みんな流れ出てしまう。
 心に空いた穴を、養父と善逸では塞ぐことができなかったから。
「調子に乗るんじゃねえよ、お前なんか――」
 獪岳は顔を歪める。
 兄貴、と呼びたかった。
 自分を引き取った養父は躾に厳しかったが、愛情もたっぷり注いでくれた。何より、善逸には兄がいた。欲しかった家族に囲まれて、善逸はしあわせになれたのだ。
 だから兄にも、そう思ってほしかったのに。
 とうとう自分を騙しきれなくなって、善逸は泣きじゃくった。
「獪岳は、俺たちのこと、家族とは思ってくれないんだな」
 とどろいた雷鳴にかき消されて、言葉は届かなかった。

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