06



「死ね! 善逸!」
 再び雷が落ちた。
 飛びかかった雷獣を、冨岡の右拳が殴り飛ばした。
 ぎゃん、と鳴いた雷獣が宙を舞う。空中で体勢を整え、着地。
 冨岡が右手をぶらぶらと振った。
「って冨岡! 火傷してるぞ!」
「素手では厳しいな」
「そういうこと言ってる場合か!?」
 ちょうど雷獣を殴った指のあたりに火ぶくれができている。なるほど、雷の化身にも等しい雷獣に触ると火傷するらしい。
「獪岳、どうして」
 正真正銘、殺されかけた善逸が震える声で問うた。
「ははは! どうだ善逸! この力は!」
 高笑いする獪岳の額にピキッと罅が入った。
「村田さん、あれって!」
「竈門、お前はおとなしくしてろ! あと嘴平、お前もだ!」
 炭治郎と伊之助が前に出ようとするのを押しとどめる。
 ちらりと振り返った冨岡は再び拳を構えていた。
「鬼の力か」
 獪岳の額に見る間に罅が広がって、罅の中心から角が生える。
「あの方が俺に力をくれたんだ!」
 ――あの方。冨岡いわく、鬼は一人しかいない。ならば、そいつが獪岳を鬼にしたのだろうか。禰豆子と同じように。
「鬼の力を得て、何がしたい」
「そこのカスを殺すに決まってるだろう! 俺の方が強いって証明するんだ!」
「そんなことに何の意味があるんだよ!」
 善逸が涙ぐみながら怒鳴った。
「うるせえ! お前が来たから爺は! お前のことばっかり!」
「ちょっと獪岳――わっ」
 雷獣が吠えて、善逸めがけて突進した。
 すかさず冨岡が善逸の襟を掴んで横に飛びすさる。
「先生、ありがとうございます……」
「礼を言うには早い」
 冨岡は鋭くとがった青い瞳で獪岳を見据えた。
「あれは鬼に成りかけている。今のうちに止めないと取り返しがつかない」
「でも、俺」
「泣いている場合か。あれを助けられるのはお前だけだ、我妻」
 苛烈と言っていいほど冷たい眼差しで、冨岡が善逸を見下ろす。
「俺だけ……」
「あれは、お前の兄なんだろう」
 その青い瞳が、ふっと緩む。
 善逸は袖で目元を拭った。立ち上がる。泣いている場合ではない。あれは、善逸のただ一人の兄なのだ。
「雷獣は俺がなんとかするから、お前は兄を助けろ」
「――はい!」


 近くの木に札を貼りつけ、村田はそろそろと膝をついた。気休めでしかないが、茂みに隠れて、戦う冨岡と善逸を見守る。
「冨岡先生、大丈夫なんですか」
「冨岡が大丈夫じゃなかったら、俺たち全員大丈夫じゃないわ」
 村田は情けなく震えながら答えた。善逸の兄とかいう奴と雷獣が普通に怖い。夜な夜な冨岡と怪異退治していても、この手の怪異への恐怖は薄れない。
 村田が遭遇してきた怪異なんて、自然発生的な事故みたいなものだ。誰かの想いの残滓が何かの拍子に結実し、たまたま出現するような怪異とは違う。
 あれは、特定の人を害そうとする明確な意志を持っている。
 強い殺意。そんなもの、慣れてたまるか。
「ていうか伊之助、伊之助?」
「おとなしいな、どうした」
 黙りこくった伊之助が珍しくて、村田も声をかけた。
 伊之助はうずくまって息を殺していた。肉食獣から隠れる草食動物のように。ただ、瞳は油断なく冨岡たちの方を向いている。
「あれは俺じゃ勝てねえ」
 意外と冷静な答えが返ってきた。野生の勘で理解しているのだろうか。
「わかってるなら、そこで隠れてろ」
 そう言いつつも、村田は震える手を押さえられなかった。
 雷獣という怪異に、鬼に成りかけている人間が一人。丸腰に等しい冨岡一人でどこまでできるというのだろう。
 こんな時、自分に戦える術がないことが心底悔やまれる。どんなに冨岡の友人として隣に立っていても、できることはとても少ない。
「だめだ、弱気になるな」
 ぺし、と自分の頬を軽く叩いた。
 まだ、守るべき生徒がいるのだ。村田がこんな調子ではどうする。
 地面に置かれた荷物が目に入った。もしかしたら、何か役立つものがまだあるかもしれない。
 村田は冨岡の荷物を開けた。


「お前なんか弟じゃねえ!」
 駆け出した獪岳が善逸へ拳を振り上げる。
 善逸は身を低くして、一気に走り出した。木の根に躓かないように、雨で滑らないように走ると、いつもの速さが出せない。
「逃げてるだけじゃ勝てねえぞ!」
 足の速さでは、獪岳は善逸に勝てなかった。なのに身体能力が強化されたのか、すぐに追いかけてくる。
「くっ――」
 木を回り込んで方向転換。しかし獪岳もすぐ後ろにつけてくる。振り切れない。
「我妻! 前を見ろ!」
 冨岡の声が飛んできた。
 はっと前方に目を向けると、雷獣が先回りしていた。体表にバチバチと小さな稲妻が見える。
「これで終わりだ!」
 獪岳が後ろから迫る。前には雷獣。挟まれて、善逸は動けなくなった。
 冨岡は泥に足を取られて間に合わない。そもそも雷獣に触れただけで火傷したのに、一体何ができる?
 ――ここで獪岳に殺されるのか?
 恐怖がすうっと冷えていく。頭の片隅に折りたたまれて追いやられていくようだ。臆病な自分とは裏腹に、もう一人の自分はかえって冷静になった。
 代わりに、じわじわと燃える感情が湧き上がる。そんなの、絶対に許さない。もちろん死ぬのは怖い。痛いのは嫌だ。つらいのは嫌だ。努力だって好きじゃない。獪岳みたいに善逸が努力するのはとても難しかった。
 でも、殺されるわけにはいかない。爺ちゃんを一人にしていいわけがない。だって、家族なのだ。血の繋がりがなくても、どこも似ていなくても。邪魔に思われていようとも。
 チリ、と何かが爆ぜるような音がした。
 ずっと雨が降っている。この雨は雷雨になる。
 ――雷の音がする。
 そうだ、善逸には聞こえる。ずっと聞こえていた。獪岳が呼んだ雷とは別の雷鳴がずっと聞こえていた。
「うるせえよ、この馬鹿兄貴!」


 三度目の雷が落ちた。


 白い光が視界を灼く前に、冨岡は手をかざした。
 光が収まって、腕を下ろす。目の前の光景に、瞬いた。


 雷獣がもう一体、現れていた。
 善逸に寄り添うように立つそれは、獪岳の従える雷獣と瓜二つだった。帯電している灰色の毛並み、二股に分かれた尾の毛を逆立てている。
 善逸は顔を上げた。ぼろぼろと泣きながら怒鳴る。
「獪岳は馬鹿だよ! どうして気づかないの! 俺はいっつも獪岳を見習えって言われてたんだよ!? 獪岳みたいに成績を上げろって、奨学金を取ってこいって――」
 ひく、と喉が引きつった。嗚咽しそうになって、それでも息を吸って、言葉を続けた。
「獪岳がどんなんだって、爺ちゃんは大事に思ってるよ! 本物の息子みたいに思ってたんだよ! なんでそんなこともわからないの!?」
「爺はいつもお前のことばかりだったじゃねえか!」
「違う! なんで自分で目を閉じて耳を塞ぐの!? 爺ちゃんは言ってただろ、俺たちは二人で一人だって! もう忘れたの!?」
 雷鳴に負けないように、善逸は声を張り上げる。
「そんなに俺と爺ちゃんが嫌なら、さっさと一人暮らしすればよかったのに! なんでまだ家に帰ってくるんだよ!」
「うるせえ! うるせえうるせえ!」
 獪岳は頭を掻きむしった。苛々と地団駄を踏む。バチッと髪の毛から火花が散った。
「奨学金だって取れないくらい馬鹿なくせに!」
「馬鹿なのは獪岳だよ! 奨学金なんかなくたって、爺ちゃんは獪岳のこと大切に思ってるんだよ! そんなもの関係ないんだよ! 金なんかどうでもいいんだよ! 家族なんだから!」
 善逸の雷獣が獪岳の雷獣に飛びかかる。大きく口を開け、鋭い牙を相手の鼻面に突き立てる。
 ぎゃん、と鳴いた獪岳の雷獣が激しく頭を振って、善逸の雷獣を振り落とそうとする。しかし、善逸の雷獣はしぶとく噛みついたままぐるぐると唸る。ぬかるんだ地面でごろごろと二頭が転がっていく。
 追いついた冨岡がその透き通った青い瞳で獪岳を見やる。
「欲しがってばかりでは何も得られないぞ」
「他人が口を出すな!」
 獪岳が叫ぶ。その髪からバチバチと雷光が散る。
 稲妻を纏った獪岳の拳が善逸の腹に入った。
 雷に打たれたと錯覚した。強い衝撃が腹から全身に伝わって、指先をしびれさせた。
 ぐ、と息が止まった。肋骨が折れてしまったのではないかと思った。
「うえ、――ゲホッ」
 息を吸い込んだら咳き込んだ。うまく呼吸ができない。きりきりと肺が引き絞られるように痛む。腹も痛い。どこかにぶつけた膝が痛い。もう、全身が痛い。
 逃げたい。逃げたくてたまらない。善逸は弱虫で泣き虫で軟弱なのだ、こんなのに耐えられるはずがない。
 でも、逃げない。逃げたら、失ってしまう。二度と会えない。
 善逸は獪岳の拳を掴んだ。ひゅうひゅうと息が漏れる。ちゃんと息ができているか自信がない。
 バチッ、と善逸の髪から紫電が散る。
「善逸――」
 獪岳が怯んだ。
 ――そうだ、アンタの弟は、ただ弱いだけじゃない。
「人間ってのは与えあうんだよ、自分ばっかり欲しがってたら、何にも手に入らないんだよ。そんなこともわからないの、獪岳」
「うるせえよ、弱っちいチビのくせに! お前なんか弟じゃねえ!」
「善逸は弱くなんかない!」
 善逸は顔を上げた。
 どこから出てきたのだろうか、炭治郎が立っていた。ごうごうと渦巻く風が、花札のような耳飾りを激しく揺らしている。
「たしかに善逸は努力するの嫌いだし、つらいことからすぐ逃げようとするし、すぐ女の子を好きになって振られるし」
 へへ、と力なく善逸は笑った。全部、事実だ。否定するところがどこにもない。逆立ちしたって善逸は格好よくなれない。そういう性格なのだ。
「でも、善逸は本当は強いんだ! 俺は知ってるんだ! 困っている友達を放っておけないし、家族を大事にするし、本当は優しくて強いんだ!」
「嘘だ!」
「嘘じゃない!」
「っ――何故庇うんだ! そんな役立たず!」
 獪岳が吠えた。
 その声に恐怖が混じるのを、善逸は聞いた。
 炭治郎は毅然と獪岳を正面から見据えた。
「たとえお兄さんでも、そんなこと言う権利はない! 善逸は俺の大事な友達なんだ!」
 炭治郎は手に持った何かを振りかぶった。
「受け取れ、善逸――!」
 宙を舞ったそれを、善逸は掴み取った。
 獪岳は後ろへ飛びすさった。怯えたように。
 掴んだ瞬間、それは竹刀から真剣に姿を変えた。鞘はない。
 恐ろしいとは思わなかった。本能的に、使い方は知っていた。
「この、欲張り馬鹿兄貴! いい加減、家に帰ってこい――!」
 善逸は刀を振り下ろした。


「オオオォォ――――」
 獪岳の雷獣が絶叫する。断末魔のようなそれが耳をつんざく。
 呼応するように、雨雲がゴロゴロと音を立てる。善逸と獪岳の頭上に渦を巻くように暗い雲が集まる。
 善逸の雷獣がとうとう振り落とされ、斜面を転げ落ちていく。
 獪岳の雷獣が大きく口を開けた。空に向かって遠吠えする。雷を呼んでいるのだ。落ちたら、ただの人間ではひとたまりもない。
 透徹した青い瞳が空間を薙いだ。
 刹那、時間が止まる。
 獣の瞳に、青ジャージの人間が映る。
 白い頬に渦を巻く痣を浮かび上がらせ、人間が拳を握る。ぐっと腰を落とす。
 足が泥を蹴る。
「兄弟は大事にしろ」
 冨岡の右拳が、雷獣の鼻っ面を殴り飛ばした。


 獪岳の角が、ぽと、とひどく軽い音を立てて地面に落ちた。



07



「危ない……危なかった……」
 村田は腰を抜かして地面に座り込んだ。
 ばさばさと羽音がした。鴉が側に降り立っていた。
 とことこと細い足で地面を歩いて、鴉が首を傾げた。くちばしを少し開ける。そして人語を発した。
「オヌシ……大丈夫カ?」
「ああ、うん。ありがとう」
 驚く気力もなく、村田は頷いた。
 間一髪だった。
 冨岡の荷物をごそごそあさって、見つけた札を手に取った途端、声がしたのだ。どこかで聞いたような穏やかで落ち着く声だったが、どうしても思い出せなかった。
 声が命じるままに札を組み合わせたり何やら図を地面に書いたりしていたら、並べた札の上に空間の歪みが生じたのだ。そこから、見慣れた竹刀の柄が見えた。
 あとは声に従って、竹刀をその謎空間から引き抜いたというわけだった。
「死ぬかと思った……」
 善逸に肩を貸しながら、炭治郎が戻ってくる。
 その後ろには、気絶した獪岳を肩に担ぎ上げた冨岡が続いている。自分と大して体格の変わらなさそうな男を担いでなお、普段通りに動き回れる冨岡はやばいと思う。
 ともかく、皆大きな怪我はなさそうで、村田は胸を撫で下ろした。
「冨岡、手を出せ」
 冨岡は黙って右手を出した。村田は水筒から水を注いで傷口を清める。
 しみたのか、かすかに冨岡が眉を動かした。
「とりあえず、応急処置ね」
 冨岡の右手にハンカチを巻いて、村田は荷物を二人分抱えた。炭治郎と伊之助の荷物は、元気が有り余っている伊之助に持たせた。
「あ、道が戻ってます!」
 炭治郎が村田の後ろを指さした。
 振り向くと、整備された登山道が現れていた。まるで最初からそうだったと言わんばかりである。
「よかった……ようやく帰れる……」
「はい!」
「あの、冨岡先生、ありがとうございました……」
 顔に泥をつけたまま、善逸がへらりと笑った。
「礼を言われることは何もしていない。兄を助けたのはお前だ、我妻」
「それでも……ありがとうございます」
 呼応するように、きゅう、と鳴き声が聞こえた。
 振り向くと、鬱蒼と緑の茂る森の中で、二頭の雷獣が寄り添うように座っている。
「お前も、ありがとう」
 雷獣はしばらく善逸を見つめた後、立ち上がった。
「オオ――――」
 どこか寂しげに遠吠えし、二頭は空へ駆け上がった。その身体が雲間に消えるのを、皆で見守った。
 風が雲を押し流していく。
 過ぎ去っていく雨雲の隙間から初夏の日差しが差し込んで、善逸の金髪を明るく輝かせた。


 山を下りると、初老の男性と中学生くらいの少年が立っていた。
 初老の男性は天狗の面をつけている。赤塗りの面だ。屋台の安っぽいプラスチックではなく、木を削って作った代物である。
「あのジジイ、なんで天狗の面を被ってるんだ」
 伊之助が不躾に言った。声量を控えるという気遣いは、伊之助にはなかった。
「まさか天狗?」
「そんなわけないでしょ……」
 全力を使い果たした善逸のツッコミも冴えない。
「儂は天狗ではない」
 慣れたように、天狗の面をつけた男性が答える。村田も最初に見た時は唖然としたものだった。
「あ、喋ったぞ」
「ちょっと伊之助、失礼だよ。すみません」
 伊之助の頭を掴んで、炭治郎はお辞儀させた。
 天狗面は黙って見下ろしている。怒ってはいないようだ。表情は見えないけど。
 宍色の髪をした少年が眉をつり上げ、冨岡に強い口調で言った。口元に目立つ古傷がある。
「義勇、三日も何やってたんだよ!」
「ああ…………神隠しに遭った」
 冨岡がぼそりと言った。
 ――いや、いくらなんでもその言い訳はどうかと思う。
 村田は冨岡の頭をぶん殴った。正確には、殴ろうとしたがあっさり避けられた。人ひとり担いでいるにもかかわらず。この野郎、どんな運動神経しているんだ。
 眦をつり上げた少年――鱗滝錆兎が冨岡を見上げた。一〇歳近く年下にもかかわらず、妙に迫力がある。まるで冨岡を手のかかる弟のような目で見て、錆兎はダメ出しした。
「冗談が下手すぎる。嘘をつくならもっとましなのにしろ」
「……遭難した」
「こんな山で遭難するか!」
「ですよねー……」
 半笑いで村田は答えた。日帰り遠足するような山で遭難するなんて、どんな冗談だ。
 それよりも、錆兎の先ほどの言葉は聞き間違いだろうか。
「えっと、今日って何日?」
 訝しげに錆兎は村田を睨め上げた。冨岡と同じくらい付き合いが長いから、錆兎は村田にも容赦しなかった。
「は? 村田さん何言ってるんだ? 遠足から三日も経ってるんだぞ? 捜査願いを出そうかと思っていたところだ」
「み、みみ三日!?」
 村田は目を剥いた。なんてことだ、本当に警察沙汰ではないか。
「イヤアアア! 爺ちゃんに怒られる!」
「無事に帰ってきたんだから喜ばれるんじゃないかなあ」
「爺ちゃんはめちゃくちゃ門限に厳しいんだよ! 炭治郎だってお母さんとか禰豆子ちゃんが心配してるでしょ!」
「いや心配するとこ、そこなの?」
 思わず村田は横から口を出した。兄との何やら複雑な関係は片がついたということでいいのだろうか……いいのだろう。おそらく。当人の問題だから村田の口出しすべきことではない。
「母さんは……うーん、三日くらい大丈夫かも」
「なんで!? 竈門家って適当だな!?」
「そういやババア生きてるかな」
「伊之助も! 久さんのこと、冗談にならないからね!」
 ギャアギャア騒ぐ善逸を一瞥し、冨岡は錆兎を見下ろした。
「三日か……少し時間がかかったな」
 あの空間では時間の流れが違うのだろう。どう考えても半日足らずの出来事だったにもかかわらず、三日も経過してしまったということらしい。
 村田は冨岡の肩を掴んだ。
「なんでお前はそんなに落ち着いているんだ!」
「初めてじゃない」
「そういやそうだった――ってそうじゃないでしょ!?」
「えっ冨岡先生、前にもこんなことがあったんですか」
 弾かれたように炭治郎が顔を上げた。
「お前には関係のない話だ」
「なんでですか! 俺と義勇さんの仲じゃないですか!」
「教師と生徒だろう。あと先生をつけろ」
「はい、義勇先生」
「違う」
「はい、義勇さん!」
「わざとやっているのか」
「すみません、間違えました!」
「いっそすがすがしいね、竈門……」
 村田はため息をついた。
「で、義勇は本当のところ、何してたんだ」
「いや、……神隠しに遭っていただけだ」
 冨岡は同じ言葉を繰り返した。その言い訳は諦めた方がいいと思う。
「ていうかお前、隠す気あるの?」
 冨岡の耳を引っ張って、村田は小声で言った。
「嘘をつくのはよくない」
 むっとしたように冨岡も小声で返した。
「そういう問題じゃないでしょ……」
 錆兎は腕を組んだ。
「本気で言ってるのか、義勇?」
「ははは、よくわかんないけど、すっごい雨が降ってきて、雷もあったからちょっと雨宿りしようとしたら、山の中で迷子になってさ。いやあ、無事に下山できてよかったよ。あ、食料なら俺と冨岡が余分に持ってたから」
 村田は冨岡の頬をぐいぐい引っ張ってまくし立てた。口を差し挟む隙を与えない。ていうか冨岡、お前の頬、柔らかいな。
 錆兎が疑うようにじいっと冨岡と村田を見つめた。
「無事ならいい。さ、帰ろう。ご家族も心配しているだろう」
 天狗の面をつけた男性――鱗滝左近次が促す。
 しぶしぶ引き下がった錆兎が、冨岡の肩に担がれた青年を指さした。
「で、その人、誰だ?」
「ああ、我妻の兄だそうだ」
「兄」
「そうだ」
 冨岡が大真面目に頷いた。たぶん、錆兎の期待した答えはそうじゃないと思う。冨岡にはわからないのだろう。人の感情がわからないわけではないのに、察しが悪いのだ。
「なんで気絶してるんだ?」
「兄弟喧嘩をしていたからだ」
「兄弟喧嘩で気絶するのか?」
「している」
 ハア、と錆兎がため息をついた。その気持ちはよくわかる。村田もいつも同じ気持ちを味わっているからだ。
「まあいいか。とりあえず、全員、病院だぞ」
「えっ」
 びっくりしたように冨岡が髪を逆立てた。
「いや当然だろう……日帰り程度の装備で三日も山の中にいたんだぞ?」
「健康だ」
「だからそれを調べてもらうんだ――って義勇、怪我してるじゃないか!」
 冨岡の右手に布が巻かれているのに気づいた錆兎が、その手を取った。村田のハンカチを外して怪我の程度を確かめる。
「大したことじゃない」
「あ、そうそう、冨岡のやつ火傷しちゃって」
 村田は言い添えた。怪我の手当をなるべく早く済ませたい一心だったが、錆兎は不思議そうに首を傾げた。
「火傷? 山の中で?」
「あ、いやそれはだな」
「とにかく病院だ! わかったな!」
 村田の失言を遮り、兄のような口調で、びしりと錆兎は言った。
「こ、胡蝶には」
「残念、胡蝶先生のところだよ」
 しゅん、と冨岡がうなだれた。こういうところが末っ子らしさ全開である。そういえば、冨岡には年の離れた姉がいたのだった。
 くるりと錆兎が炭治郎に向き直る。
「ところで、なんで義勇の名前を呼んでいるんだ、生徒じゃないのか」
「弟子です!」
 炭治郎が手を挙げた。
 錆兎がじっとりと冨岡を見上げる。
「いつの間に弟子なんか取ったんだ、義勇」
「取ってない」
「ひどいです! 弟子にしてくれるって言ったじゃないですか!」
「言ってない」
 迷惑そうに冨岡が眉をひそめた。
「義勇の弟子になるなら、まずは俺を倒してからにしろ!」
「望むところです!」
 錆兎も何やら敵愾心を剥き出しにしている。
 ふむ、と天狗面がひとつ頷いた。
「お前、名前は」
「竈門炭治郎です!」
「竈門……炭治郎か、それなら儂の道場に入らんか?」
「ぜひ!」
 炭治郎が力いっぱい答えた。即答だった。
「ねえ炭治郎、あんまり動かないで……ちょっと吐きそう」
 善逸がぐにゃりと力の抜けた身体を炭治郎に預けながら言った。
 本人の申告通り、顔色は悪い。泥まみれの顔と服が哀れっぽい様子に拍車をかけている。
「ごめん、善逸。大丈夫か?」
「大丈夫に見える……?」
「ははは! 紋逸は弱いな!」
「うん、あのね、俺は伊之助より繊細にできてるの……」
「え? そうなのか?」
「……炭治郎、真顔でそれは結構傷つく」
 笑いをかみ殺しながら、村田は冨岡を仰いだ。
「よかったな、弟弟子だぞ」
「嬉しくない」
 口をぎゅっと引き結んで、冨岡が答えた。これは不満な顔だ。比較的わかりやすい。
「鱗滝さんの道場に通うようになったら追い回されなくなるんじゃないか?」
「それは……」
 冨岡の目が、一瞬泳いだ。少し考えこむ。
「それは、いいかもしれない」
「じゃあ義勇さんは兄弟子ですね!」
 炭治郎がぱっと瞳を輝かせる。この分だと、道場でもつきまとわれそうだ。
「……あんまり変わらないかもな」
 村田は苦笑した。
 がしがしと錆兎が頭を掻く。
「ハア……心配して損した。めちゃくちゃ元気じゃねえか」
「そうか、心配してくれたのか」
「当たり前だろう、義勇は俺の大事な友達なんだから」
 錆兎が胸を張った。
「まあ、弟みたいなところもあるよな。冨岡の方が年上だけど」
 ずいぶんと年下の錆兎に向かっていうことでもないが、村田はそう言わずにはいられなかった。
 友達と呼ぶにはかなり年が離れているが、末っ子気質の抜けない冨岡と、中学生にして頼れる兄貴分になりつつある錆兎では、妙にしっくり来るのだ。
「弟、か」
 ぐったりと炭治郎の肩にもたれかかる善逸の、憑き物の落ちたような顔を見て、それはそれは嬉しそうに、冨岡は微笑んだ。

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