思い出は標本に似ている。



 どういう流れでそんな話をしていたのかは覚えていない。
「はあ、そうですか」
「憂太、テンション低いなあ」
 五条先生は腰を曲げて、サングラスの下から僕を覗き込んだ。レンズは反射素材ではなく真っ黒だから、僕からは先生の目が見えない。透過率がすごく低いらしいことだけは聞いている。つまり、ほぼ見えないということだ。普通なら。
 この一年で僕もずいぶん背が伸びた。でも、まだ先生には届かない。というか、先生は日本人としては背が高すぎる。追いつこうと思っているわけじゃないけど、僕には無理そうだ。
 ぼんやり先生を見上げている僕に構わず、先生は話を続けた。マイペースな人だ。
「最高の瞬間で保存して、時々取り出して眺めるあたり、似てると思わない?」
「はあ、そうですか」
「ちょっとお、さっきと同じ返事じゃん。もっとおもしろい反応してよ」
「無茶ぶりやめてくださいよ……」
 というかその理屈だと、悪い思い出はどうなるのだろう。最高の瞬間と同じく、最低の瞬間も保存しているということになるのだろうか?
 僕が軽く眉をひそめたのをものともせず、先生はちょっと笑った。
「いい思い出も悪い思い出も同じものなんだよ。忘れがたいって意味では。過ぎ去って変えられないものには違いない」
 だから今を大切にするべきなんだと、先生は説教臭いことを言った。
「忘れたくても忘れられないような過去になれる――そういう今を大事にすべきなんだよ」
「おじさんみたいなこと言いますね」
 すごくまともな大人っぽい台詞だ。教師にあるまじきちゃらんぽらんな性格のくせに、たまに大人っぽい――というか、まともな教師っぽいことも言うから、先生のことはよくわからない。わかる人なんているのだろうか。
「……憂太って時々辛辣じゃない? ていうかみんな僕にちょっと厳しくない?」
「そうですか?」
「優しさが足りない」
 先生は口をとがらせた。
「そうですか」
「みんなに向ける優しさの半分くらい僕に向けてくれてもよくない?」
「半分でいいんですか? 先生にしては遠慮がちですね」
「憂太は僕のこと何だと思ってるの?」
「自分の胸に聞いてみればいいんじゃないですか」
 先生がわざとらしく悲しげな顔をした。
 僕は優しいのだろうか。ふと、そんなことを考える。自分の醜い部分を他人任せにしてきたのに、優しいなんて言われる資格はあるのだろうか。
 悲しむ素振りを唐突に止めて、先生は言った。
「だからさ、余計なことなんか考えないで、青春は楽しむべきなんだよ」
「結論が雑です。意味がわかりません」
 ――でも、過去が標本というのも、わからなくもない。
 僕は視線を落とし、左手の薬指につけたままの指輪をなでた。装飾の少ないつるりとした表面には、よく見れば細かい傷がある。覚えがあるものも覚えがないものも、この指輪の刻んだ時の流れだ。
 僕のものじゃなかった指輪。僕のものになった指輪。
 僕だけじゃない指輪。僕だけの指輪。
 里香ちゃんはもういないけど、でも里香ちゃんはまだいる。だからこれは過去であって過去じゃない。
 僕が生きて、この指輪を嵌め続ける限り。
「――先生にもあるんですか。忘れられない思い出が」
 先生の青春時代ってどんなだろう。全然想像がつかない。ずっとこんな感じだったのだろうか。それとももっと大人しかった? もっとめちゃくちゃだった?
 どっちもありえそうだなと思いながら、僕は先生を見上げた。
「うん。あるよ」
「……そうですか」
 ひどく軽い口調に反して、先生はそれきり口をつぐんだ。
 思い出を標本だなんて呼ぶのだから、きっとあるのだろう。僕が指輪をなでて思い出すように、先生も何かを。
 目は口ほどにものを言うと言うけれど、先生はサングラスをかけているのに表情豊かだ。でもこういうときは感情を見せてくれない。完璧にコントロールされた呪力の流れからも、何も読み取れない。先生の眼なら見えるのかもしれないけど、僕には何も見えない。
「まあ、そういうわけで」
 何が〝そういうわけ〟なのかはさっぱりだったが、先生はそうやって雑に締めくくった。
「憂太、おめでとう。今日から特級だよ。僕と同じ」
 はい、と先生から新しい学生証を渡された。そこには、最初にもらった時と同じ〝特級〟の文字がある。
 一度四級に下がってから特級に戻ったのは前例がないらしい。それが喜ばしいことなのかは、まだわからないけど。
 学生証を持つと、自然と背筋が伸びた。いつも周囲に怯え、里香ちゃんが誰かを傷つけてしまうことに怯え、背を丸めて生きてきた僕が真っ直ぐ立てるようになったのはみんなのおかげだ。
「はい。頑張ります」
 先生はにやりと唇を吊り上げた。
「頼りにしてるよ、憂太」



 指輪をなでる。隣にはあの頃と同じ姿をした〝リカ〟ちゃんがいる。似ているけれど違う里香ちゃん。
「先生の思い出は、僕が守りますよ」
 先生と同じ、特級呪術師になった僕になら。
 先生の大切にしている〝標本〟を守れるはずだから。

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