昔、里香ちゃんと海を見に行こうとしたことがあるんです。何年前だろう……もう結構前ですね。
 川ってみんな山から海に流れていますよね。たぶん、学校でそう習った後だったと思います。それで、学校が終わった後、里香ちゃんが海を見に行こうって。
 通学路に川があったんです。住宅街の間を流れている細い川です。両岸はコンクリートで舗装されていて、氾濫なんかとはほど遠い川です。春になるとカモが雛を連れて泳いでいる感じの。特別きれいでもない水で。
 その川をたどっていけば海に着くはずだって里香ちゃんが言い出して、僕もあんまり深く考えなかったんですね。ちょっと里香ちゃんと遠くに遊びに行くくらいの気持ちで着いていきました。いつもの公園じゃないのもたまにはいいよねってくらいで。子どもだったんですね。あはは。
「それで海に行ったんだ?」
 行けるわけないじゃないですか。小学生ですよ。
 最初は楽しかったです。二人で川沿いを歩いて、街から離れるのに僕はちょっと不安だったんですけど、里香ちゃんはどんどん歩いていくんですよ。だから僕もなんとなく大丈夫かなって思って、学校が終わった後、ランドセルを背負ったまま歩きました。川辺の草をむしったり蝶々を追いかけてみたり、そんな調子で二人で歩いていったんです。冒険みたいでした。
 日差しがだんだん傾いて、少し赤っぽくなってきても、二人で歩いていました。見たことのない街になってきて、本当はそんなに離れていないはずなんですけど、子どもだったから、もうけっこう遠くまで来ちゃったのかなって思ったりして、そんな感じなのに里香ちゃんは止まらないんですよ。
 最初は二人で並んで歩いていたのに、いつの間にか里香ちゃんが僕の前を歩いているんです。空が赤っぽくなった次にだんだん薄暗くなって、振り返ってもどこかわからないんです。川沿いに歩いてきたから、元来た道をたどれば帰れるはずなんですけど、でも僕は嫌な感じにどきどきしてきたんです。だって、知らない場所ですから。
 僕が不安に耐えられなくなって、ねえ里香ちゃんそろそろ帰ろうよって言って立ち止まったら、里香ちゃんが振り向いたんです。
 里香ちゃんはちょっと笑って、僕の手を取りました。大きな目で僕をじっと見つめて、ぎゅっと僕の手を握りしめて、それで、海が見たいって言うんです。僕と一緒に見たいって。
 でももう遅いし、帰ろうよって僕は言いました。夕飯に間に合わなくなるし、お母さんに怒られちゃうよって。
 里香ちゃんはしばらく黙っていました。僕は何を言えばいいかわからなくて、目を逸らして川を見ていました。川面はきれいでした。沈む寸前の夕陽が反射してきらきらしていて、里香ちゃんの目みたいで。
「憂太は本当に里香ちゃんが好きだねえ」
 ええ。はい。当たり前じゃないですか。
「そこで照れないのが憂太だよねえ」
 そうですか?
 えっと、それでですね、里香ちゃんは、今日はもう帰ってもいいけど、次は絶対に海に行こうって。約束だよって念押しされました。そういえば里香ちゃんはどんな小さなことでも僕と約束したがるところがあって、僕は言われなくても忘れないのになあなんてのんきに思ってましたね。
「随分と束縛が……いや、何でもないよ」
 いいですよ。そういうところを含めて僕は里香ちゃんが好きなんですから。
 里香ちゃんは、本当は海なんかどうでもよかったんですよね。はは。後になってから気づきました。僕は何にもわかってませんでした。里香ちゃんの家が〝普通〟とちょっと違うのを少し知っていただけで、それがどういうものなのか、全然わかってなかったんです。子どもでした。
 里香ちゃんはただ、遠くに行きたかったんです。逃げたかったのかもしれません。帰りたい家っていうのが里香ちゃんにないのを、僕は何にもわかってなかったんです。怒ってくれるお母さんが里香ちゃんにいないのがどういうことなのか、僕は理解できていなかったんです。
 里香ちゃんは僕と遊んで、いつもぎりぎりになるまで帰ろうとしなくて、それだって、僕はわかってなかったんです。里香ちゃんと一緒にいられる時間が長いのを僕は単純に喜んでいたんですよ。馬鹿みたいですね。
「それで海へ愛の逃避行かあ。定番と言えば定番だけど、ませてるねえ」
 そうなんです。里香ちゃんは他の女の子と比べても大人っぽかったですね。
 僕はすごく単純で、里香ちゃんとずっと一緒にいられればいいって思っていただけでした。でも里香ちゃんは違ったんですね。僕に指輪なんか渡したくせに、たぶん、信じてなかったんです。
 ――いや、信じていないって言うと言い過ぎですね。
 僕が心変わりすると本気で思っていたわけじゃないと思います。ただ、里香ちゃんは僕なんかよりずっと大人っぽくて、僕よりいろんなことが見えていたんでしょうね。
「で、結局、二人で海は行ったの?」
 行きませんでした。僕は帰りが遅くてお母さんに怒られて、しばらく早めに家に帰ることにして、里香ちゃんも特に何も言わなくて。だから僕も忘れていたというか、頭から消えていました。
 ――そのまま、里香ちゃんは事故で。
 行けばよかったのか、よくわかりません。一緒に逃げればよかったのか……。里香ちゃんだって、逃げられないのを知ってたんですよ、たぶん。僕より大人だった里香ちゃんがわからないはずがないんです。それなのに僕だけが逃げ続けて……僕って卑怯ですよね。
 すみません、こんなこと言って。先生に否定してほしいわけじゃないんです。
「じゃあ今度、みんなで海に行こうか。楽しいよ、海」
 先生も海、行ったことあるんですか?
「そりゃああるよ。僕は大人だからね」
 何ですかその理屈。
「憂太より長生きしてるってこと」
 長生きって言うほどじゃないですよね。先生まだ二〇代じゃないですか。
「はあああ……都合良く僕のことおじさん扱いしたり若輩者扱いしたり、何なの? 反抗期?」
 事実じゃないですか。先生は僕よりおじさんで、世間一般的には若いですよね。
「それはそうだけどさあ……まあいいや。海に行くのは決定ね。明日の予定空けといて」
 え、もう行くんですか? ていうか明日ですか?
「思い立ったら吉日でしょ。早い方がいいって」
 さすがに早すぎます。それに明日ってたしか――。
「大丈夫大丈夫。ちゃっちゃと片付けて海行こう。青春の日々は貴重だからね」
 今のすごくおじさんっぽいです。あと伊地知さんが可哀想です。
「今いいこと言ったんだから、そういうこと言わない!」
 事実ですよ。
 でも、海、いいですね。僕、友達と出かけるっていうの、あんまりしたことなくて。
 ――ところでパンダくんは濡れたらまずいんじゃないですか?
「あー……まあ、なんとかなるでしょ!」
 ほんと、先生っていい加減ですね。

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