見慣れた街がまるで違って見えるのはたぶん、隣に立つ人のせいなのだろう。
 東京に来てそれほど経っていないのに、生まれ育ったこの街に戻るのはどこか怖くて、僕はさっきから緊張している。それが通い慣れた場所であるならなおさらだ。新幹線を降りてから、僕はずっとうつむきがちに歩いている。誰かと視線が合うのが怖い。
 僕の緊張は隣に立つ人にも筒抜けで、
「緊張してる?」
 と率直に尋ねられる始末だ。
「はい……正直、心臓が口から出そうというか」
 どこかで見た表現を使いながら、僕は汗ばんだ手を握りしめた。
 心臓がばくばくと鳴っているのは自分でもよくわかっているし、むしろ隣にも聞こえているのではないかとさえ思う。胸を叩く感触が強くて、心臓の鼓動ってこんな感じなんだなと一周回って冷静な自分が感じながら、なんだか吐き気みたいなのがこみ上げるような気もする。うまく息が吸えていないのか、頭が痛くなってきた。
「で、今回の調査場所。憂太の母校ね」
「……はい」
「元気ないなあ、今からこんなんじゃ後で困るよ」
 五条先生は僕の顔を覗き込みながら言った。真っ黒で何も透過しないサングラスに僕の顔が映っている。
 先生の後ろには、僕が卒業した中学校。半年も経っていないから、まだ懐かしさがこみ上げるということもない。
「はい……」
「僕はちょっとこの近くで別件が入ってるから、憂太はその辺で聞き込みしてきて」
「はい……ってええ⁉」
「呪霊の祓除だって地道な調査から始まるんだからね。呪霊を見つけたら祓っといて。じゃ、後よろしく」
 と先生はぽんぽん言葉を放ち、あっという間に立ち去って僕は一人で残された。
 休日だから人はいないのに、聞き込みとは。あらかじめ手を回しておいたのか、部活もやってないし。いやそうじゃなくて。ここを一人で……?
 僕は校舎を見上げた。僕が気にしているのはそこじゃない。
 ――大丈夫大丈夫、もうみんな卒業しちゃったから、顔見知りなんてほとんどいないはずだ。
 里香ちゃんのせいで部活なんてもってのほかだったから、親しい後輩なんていない。そもそも友達もろくにいない。みんな僕の顔なんか忘れているに決まっている。
「お、おじゃましまーす……」
 そう自分に言い聞かせて、僕は竹刀に偽装した刀を握りしめて校舎に入った。



 結論から言えば、そこの呪霊は大したことはなかった。
 里香ちゃんに頼らず、僕一人でも祓うことができる程度。小さな鼠みたいな呪霊をひたすら追いかけ回して一匹ずつ祓うのは疲れたけれど、それくらいだった。校舎に入ってすぐ、暗い物陰に呪霊がいたのを見つけて、それを追いかけると次々と仲間(?)が姿を現して、やがて巣みたいなところにたどり着いた時にはちょっと気持ち悪いなあとうんざりもしたけど、まあ、それくらい。
 勝手知ったる校舎でも、生徒が立ち入ってはいけないような場所まで入り込んだ呪霊を見つけるのは大変だった。あと、来客用のスリッパは走りにくい。当たり前だけど。上履きを持ってくればよかった。
 僕が汗だくで無人の校舎から玄関まで戻ると、先生はまだいなかった。先生の方は長引いているのかもしれない、と考えて僕は思い直した。ここの呪霊が僕一人でも対処できる程度だと知っていたから僕を置いていったのだろう。短い付き合いだけど、先生ならそうする。信頼というか放任というか。
 疲れたけど、一人で呪霊を祓えた達成感みたなもので僕はちょっと気分がよくなっていた。
 玄関で靴を履き替えながら息を整えていたら、
「あれ、憂太さん?」
 突然名前を呼ばれて、僕は飛び上がった。休日なのに女の子がいる。私服だ。校門を入ってすぐのところに立っている。
 女の子が怪訝そうな顔で僕に近づく。
「乙骨憂太さんですよね?」
「ひ、人違いです……!」
 僕は刀を胸に抱きしめて、慌てて逃げ出した。
 あ、挨拶もしないで来客用スリッパを置いてきちゃった。



 逃げ出したといっても、行くところもない。僕は近くの公園のベンチに座っていた。この公園は小さいからあまり人がいない。近くにもっと大きい公園があるから、だいたいみんなそっちに行く。忘れるわけがない、ここは僕が育った街だ。
「お腹空いたな……」
 なんて呟くけど、どうすればいいのかわからない。そのへんのお店に入ってもし知り合いに会ったらどうしようと思うと、気が向かなかった。
 結果、自販機で買ったペットボトルのお茶を握りしめて、ベンチに座っている。ちょうど頭上の桜が日陰になって、昼間だけど過ごしやすい。結露したペットボトルの表面を無意味になぞって指の跡をつけながら、僕は顔を伏せた。
 ――あの子、誰だったんだろう。
 よく顔を見ないで逃げ出したせいで、思い出せない。そもそも中学校は僕にとって楽しいところじゃなかった。
 僕をいじめてきたクラスメイトに里香ちゃんが報復して、僕を怖がって遠ざかってくれればいいものを、またよくわからないことを言って近づいてくる人がいる。そういう人に里香ちゃんが容赦なく襲いかかって、その繰り返し。最初は脅かす程度だったのに、だんだん小さな怪我を負わせるようになって、やがてエスカレートして重傷になった。人を殺してしまうのではないかと怯えきった僕を、先生は高専に連れてきた。
 ここだって別に田舎じゃないし、駅前には高層ビルだってある。でも東京は比べものにならないくらいに大きくて馬鹿みたいに人がいるから、僕なんて全然目立たない。誰も僕のことを知らない。僕みたいに訳ありのクラスメイトもいる。僕だけが不幸じゃないから、僕も普通に生きられるかもしれないと錯覚していた。
 ただの錯覚だった。
 あの中学校で里香ちゃんがやったことを、一瞬でも僕は都合良く忘れようとした。なんて厚かましいのだろう。
 手の中のペットボトルがすっかりぬるくなっていた。さすがに喉が渇いてきたから開けようとしたけど、濡れた手ではうまく開かない。
「あ、あれ?」
 軽く制服のスラックスで手を拭いて再挑戦しても開かない。僕ってこんなに握力弱かったっけ。
 なんだか無性に悲しくなりながらペットボトルと格闘していると、
「憂太、もう終わったんだ」
 影が目の前に落ちた。視線を上げると先生が立っている。
「――先生、よくここがわかりましたね」
「憂太はわかりやすいからね」
 言外に里香ちゃんのことを言われているのはわかった。
 そういえば先生は探知とかそういうのが得意なんだった。逆に先生が苦手なものってなんだろう。僕は苦手なものばかりなのに。ちょっと一人で呪霊を祓ったくらいで得意げになって、知り合いらしき子に会って情けなく逃げ出しているのに。ペットボトルも開けられないくらい非力でごめんなさい。
「先生の方の用事は終わったんですか?」
「まあね。下見に来ただけだし」
「そうなんですか?」
 よくわからないけど、先生には山ほど仕事があるだろうし、僕が聞いてもいいことなのかわからないから聞かない。先生のことだって、実はよく知らない。
 というかたぶん、今回だって先生一人でよかったのに、ついでに僕の修行代わりに連れてきてくれただけなんだろう。
「用事も終わったし帰るよ」
「はい」
 と僕は頷いて立ち上がった。ペットボトルは諦めた。
「あ、実家、一回戻る?」
「行きません」
 思わず固い声が出たのを、先生は気にする様子もなく、
「じゃ、駅でお土産買おう」
 と行ってすたすた歩き出した。



 先生がどこから探し出したのか変なものを買おうとするのを止めて(地元民であるはずの僕も見たことがなかった)、普通のお土産を買ってもらったり軽く食事を済ませているうちに新幹線の時間になった。
 二人で両手一杯に手土産を下げて改札を入ろうとした時だった。
「見つけた、憂太さん……!」
 振り向いた僕の視界に、女の子が飛び込んできた。中学校で見かけたあの子だ。
 僕が何も返せないでいるうちに、女の子は矢継ぎ早に僕に問いかけた。
「東京の学校に転校したって聞いたけど、本当なんですか? 私、あの、お別れも言えなくて、こっち戻ってくるって知らせてくれればいいのに、家族にも会わないつもりなんですか? せめて一言、連絡くらい」
「あ、えっと、」
 思わず僕は顔を背けた。心臓がばくばくと胸の内側を叩いている。その音が身体を伝って聞こえる。
 なおも言いつのろうとした彼女を遮るように、先生が僕の肩を引いた。ぐるりと肩に手を回されて、ぐっと引き寄せられる。肩に先生の胸が当たる。ついでに先生が腕にぶら下げた紙袋も容赦なくぶつかる。ちょっと痛い。
「悪いけど人違いじゃない? こいつ僕の弟だよ」
「えっ、でも……」
 僕は顔を見られたくなくて、俯いたままだ。先生が腕に力を込めて、僕をさらに抱き寄せた。まるで僕の顔が見えなくなるように。
 言いよどんだ女の子は僕と先生を見比べたけれど、頑として引かない先生に気圧されたようだった。
 ――ごめんなさい。胸の内で謝る。僕が意気地なしだから。怖いんです。
「……すみません、私、見間違えちゃったみたいです」
 まるで信じていない様子で、けれども仕方なく、女の子はそう言った。
 ますます申し訳ない気持ちになる。
 先生の手が僕の髪に触れた。
「いいよいいよ。こいつ何でか知らないけどよく間違われるから。僕たち似てないし」
 女の子はごまかすように愛想笑いして、それから唇をぎゅっと引き結んで僕たちに背を向けた。後ろ髪を引かれるように一度振り返って、すぐに人ごみにまぎれた。
「……先生、兄弟はちょっと無理があると思います」
「そう?」
 顔立ちも髪の色も目の色も違うのに。というか先生と同じ髪や目の色の人なんか、日本人にはめったにいない。
 先生が僕の肩に回した手を離すと、どっと汗が出た。またひどく緊張していたようだった。でも、最初にこの街に来た時ほどじゃない。
 それから無言で改札を通って、ほどなく来た新幹線に乗り込む。先生がその高身長を遺憾なく発揮して荷物を頭上の棚に押し込む。だいぶ場所を占拠したけど、乗客もそれほど多くないから大丈夫だろう。
 通路側に僕が、窓側に先生が座る。この窓からの風景を見るのは二度目だ。
 そこで、ようやく僕の記憶がよみがえった。
「――思い出しました。あの子、妹と同じクラスの子です」
「そうなんだ?」先生が振り向く。
「僕のせいで、あの子、怪我しそうになって妹と遊びづらくなって……里香ちゃんは僕に近づく女の子が嫌いだったから、僕のせいで妹の友達も減っちゃって」
「あはは。女の嫉妬心ってすごいなあ。まだ一一歳だったのにね」
 あっけらかんと言い放つ先生に、僕は少し笑った。
 そこで未開封のペットボトルの存在を思い出した。再びチャレンジ。すっかりペットボトルの表面は乾いている。僕の手も汗ばんでいない。
「あ、開いた」
「何が?」
 興味なさげに窓の外を眺めていた先生が僕に顔を向けた。
「ペットボトルです。昼間買ったんですけど開けられなくて。こんなに僕は力がないのかと、なんか悲しくなっちゃったんですけど」
「無駄に力が入ってたんじゃない?」
「そうかもしれません」
 新幹線が静かに動き出す。少し加速したのを感じて、すぐにその感覚も消える。そうやって、あっけないほど僕は生まれた街を出た。
「肩に力が入っていると、普段できることもできなくなるしね」
 とってつけたように教訓っぽいことを言う先生は、また車窓の外を眺めている。東京と比べたら小さいにもほどがある都市部を抜けたら、ずっと田んぼが広がっている。
「――どうだった?」
「何がですか?」
「学校」
「どうもしなかったです」
 そうだ。僕一人が緊張して空回りしていただけで、学校はそこにあったし、通っている学生だって普通に授業を受けて部活に行って、友達と遊んでいるのだろう。里香ちゃんが傷つけた人のことを僕は忘れてはいけないけど、僕のことなんか忘れてみんな自分の人生を生きている。
 たぶんあの子だって、僕がいなくなった後には妹と元のように遊んでいるのだ。僕がいなくたって、妹は妹の人生を生きている。あの子もあの子の人生を生きている。
 それが正しい。
「視野が狭まっていると、小さな問題も大きく見えるから。学生ってそんなもんだけど。学校だけが世界じゃない」
「……そうですね」
「まあ特級過呪怨霊はちょーっと大きいかな」
「先生、それは余計な台詞だと思います」
「お、言うようになったね」
 僕はようやくお茶を飲んだ。ぬるくなったお茶はまずいというほどでもないけど、おいしいとも言えない。
 早く帰りたいと思った。

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