これから始まるのは僕の物語。
 これで終わるのは先生の物語。



「人の負の感情から呪霊が生まれるというのに、輪廻転生はないんですね」
「さあ、どうだろうね」
 先生は気のない返事をした。
「里香ちゃんの魂は、本当はどこへ行けるはずだったんだろうって、考えたことがあるんです」
 僕が縛りつけた魂。僕が責任を押しつけた魂。
 僕がこんなことをしなければ、里香ちゃんは〝天国〟に行けたのだろうか?
「ああ、死後の世界ってやつ」
「天国も地獄も空想なのに、魂はあるんですよね」
「そうだね」
「呪いだって実在する」
「そう。愛と同じだけ」
 里香ちゃんが隣にいるのは僕にとって自明の理で、でもそうではない人たちは僕らを遠巻きにした。ずっとそこにいるのに、里香ちゃんはたくさんの人に見えなかった。とても厚かましいことだけど、僕はそれが少し悲しかったような気がする。
 里香ちゃんに対する感情は、今でもうまく言えない。
 愛と呪いが同じものなら、里香ちゃんを呪ったこの感情を愛と呼んでいいのだろうか。
「呪いなんて馬鹿馬鹿しいと言われたことがあるんです。里香ちゃんは普通の人には見えませんから。でも、そう言われるとなんだか悲しいというか……里香ちゃんはここにいるのに、とも思ってたんです。だから、先生が来た時、先生が里香ちゃんを見た時、僕は安心したんです」
 ――安心。そう、僕は安心した。
 先生が来た日、僕はすごく安心したのだ。もうこれで誰も傷つけなくていいのだという安心感。僕が見えていることを肯定してもらえた安心感。僕の意思ではどうにもならないことをどうにかしてくれる人が現れた安心感。
 本当は死刑の瀬戸際だったけど、まるで救いのようだった。
 実際、僕は先生と先生が引き合わせてくれた高専のみんなに救われたから、それは間違っていない。
「見えないものはないのと同じだからね」
 先生は呟くように言った。
 先生には何が見えているのか、誰もわからない。その孤独について、僕は時々考える。僕の側にずっといた里香ちゃんみたいに。みんなが怖がる里香ちゃんの、みんなが忘れてしまった里香ちゃんの姿を僕だけが覚えていたように。
 僕に呪われた里香ちゃんは、生きていた時とは全然違う、恐ろしい見た目をしていた。でも、僕にとっては全然そうじゃなかった。あの姿を怖いと思ったことはなかった。たぶんこれは〝変〟なのだろう。
 だけど、ここでは誰も僕がおかしいと言わない。
「里香ちゃんが怖がられるばっかりだったのは、里香ちゃんが人を傷つけていたせいで、まあ結局僕のせいだったんですけど……でもそれを除いても、里香ちゃんが生きていた時は全然そんなんじゃなかったのに、みんな見えなくなっちゃって、そういうのも……苦しかったというか」
 僕にそんなことを言う資格はないのだろう。でも、里香ちゃんは僕が付き合わせてしまったのだ。
「祈本里香は死んだ後に君といられて満足してたんでしょ」
「里香ちゃんはそう言いましたけど……」
 消える直前の里香ちゃんの微笑みを、僕は思い出す。悲しくはなかった。胸が痛むのとは少し違う。
 里香ちゃんの言葉は嘘ではないのだろう。だからこそ僕は心を引っかかれたような気持ちになる。
「結局さ、人の心なんかわからないわけ」
 先生の言葉は自嘲のようにも聞こえた。
「どんなに目がよくたって、見えないものはある」
「先生でもですか?」
「そうだよ」
 先生は静かに言った。
 どんなに目が良くても、僕が見ているものと先生が見ているものは違う。そういう単純なことに気がつく余裕みたいなものを持てるようになったのだと思う。
 初めて会った時の先生は、とても大きく見えた。僕よりずっと強くて、僕を殺せる人。怖くはなかった。僕がいちばん怖かったのは自分だったから。
 今の先生はとても〝人間〟に見えた。僕と同じ。当たり前のことだけど、どうして先生をそう思わなかったのか不思議だ。こんなにも〝人間〟なのに。
 人型の空洞を胸に空けたまま、立っていられるだけなのに。
 先生が埋めようとしない穴が誰の形をしているのか、先生は口にしない。誰も口にしない。けれども僕はその人を知っている。
「――先生が僕を高専に連れてきた日、迎えが来たと思ったんですよ」
 びっしりと呪符で覆われた空間で、一人膝を抱えた僕は考えていた。僕を閉じ込める檻は、実のところ僕にとっては安全地帯だった。そこにいれば誰も傷つけないで済むから。世界が僕を恐れるように、僕も世界を恐れていた。
「大げさだね」
 僕は首を振った。大げさじゃない。あのままでは、僕はいずれ人を殺していた。もちろん、殺していなければいいとは思わない。人を傷つけたのは事実だ。でも、殺してしまったら終わりだ。もう戻らない。
「先生には感謝してるんです。あの日来てくれて」
「憂太は間に合ったからね」
 だから、先生が見せてくれた、弱さとも呼べないほどの過去の残り香を、僕は忘れない。
 先生が間に合わなかった人を。
 先生の物語の終わりに佇(たたず)む人を。
「――生まれ変わっても、里香ちゃんに恋をしたいと思うんです」
 左手の薬指に嵌めた指輪が震えたような錯覚を覚えて、僕は左手を右手で覆った。もうそこには誰もいない。本当はもっと昔から一人で生きていかないといけないのに、みっともなく縋ってその責任を押しつけていた、その名残。
 今は自分の意思でこの指輪を嵌めている。
「これから好きな人ができるかもしれないじゃん」
 からかうような先生の口調に、僕は頷いた。
「そうかもしれません。でも、今の僕はまだ里香ちゃんのことが好きなので」
 先のことなんかわからない。
 わからなくていい。それでいいのだと思えるようになった。
 まだ、僕の物語は始まったばかりだから。

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