00
まるで現実ではないようだった。
頭上から垂れ下がる狂い咲きの藤の花は、どこまでも美しかった。
『 何を望む? 』
「■■を……死なせないでくれ」
霧の立ちこめる中、神と名付けられた怪異を見上げた。
雲間から差す日の光を浴びて、半透明の鱗がきらめく。長い髭が風にゆるやかにたなびいている。頭頂部から生えた短い角、短い四肢には鋭い爪。蛇に似たしなやかな長い身体をくねらせるそれは、伝説上の生き物と同じ姿をしている。あるいは、人の信仰が怪異にその姿を与えたのか。
傲然とした美しさを凝集したその怪異は、平坦な声で再度、問いかけた。
『 何を差し出す? 』
決して慈悲ではない。これは契約だ。
緊張でからからに乾いた唇を舐める。何を差し出せばいい? 何を差し出せば■■は助かる?
神に捧げられるほどのもの。■■の命と引き換えになるもの。そんなもの、ひとつしかない。
まだ温かい身体をしっかりと胸に抱える。自分よりずっと小さな身体だ。その身体から流れる温かい液体が、手を濡らし続けている。もうまもなく失われる熱。失われる未来を想像するだけで、きりきりとねじ込まれるような鋭い痛みが胸を刺す。
そんな未来には、とても耐えられない。
きっと怒るだろう。こんなことは望んでいなかったと言うだろう。数少ない友人にも、きっと叱り飛ばされるのだろう。それでも止めようという気にはならなかった。
これは身勝手で傲慢な望みで、ただの自己満足なのだ。
自分の意思で、この世のすべてと引き換えにしてでも叶えたいと、そう望んだ。愛だとか友情だとか、そんなお綺麗な言葉で飾り立てたところで、己の浅ましい欲であることに変わりはない。
答えを、口に上らせる。
「――俺の、残りの寿命を」
『 よかろう 』
龍神はかすかに頭を上下させた。
かくて、願(のろ)いは受理された。
01
「遅いぞ炭治郎!」
中学生くらいの少年の声が飛ぶ。ほっそりした成長途中の手足がめまぐるしく動き、自分より背の高い相手を相手に一歩も引けを取らない。それどころか圧倒している。
対する少年はやや年嵩で、高校生くらい。体格には勝るが技術で劣るため、やや劣勢か。動きは悪くないが、まだまだ荒削りだ。
激しく打ち合う音が道場に響く。
腕を組み、炭治郎と錆兎の練習試合を見守る冨岡の隣に、鱗滝が立った。孫を見るような眼差しで二人を見つめる。
「炭治郎はいい素質を持っている。きっと強くなるだろう」
「炭治郎は鬼を斬りましたから」
「そうか……竹刀は役に立っているか」
「はい」
冨岡の竹刀は、鱗滝からの免許皆伝の祝いの品だった。
人ならざる力を得てしまった冨岡に、真似事ではない怪異退治を勧めたのも鱗滝だった。せめてその力は人のために使えと、師は言った。
あるいは親心だったのかもしれない。どこかへ行きそうな冨岡を手の届く範囲にとどめてておきたいという。
「儂は既に引退したが、何かあれば相談には乗る」
「お気遣い痛み入ります」
「炭治郎はあれからどうだ」
「特に何もないようです」
「そうか。それはよかった」
しばしの沈黙が降りる。冨岡も鱗滝も多弁な方ではない。
「炭治郎の耳飾りだが、儂の方で穢れを祓っておいた」
冨岡は鱗滝に顔を向けた。相変わらずの天狗の面が素顔を隠している。
「重ね重ね、お手数をおかけして……ありがとうございます」
「それよりも義勇、お前の方は」
鱗滝は声を押し殺した。万一にも錆兎と炭治郎の耳に入らないように。
冨岡は普段通りの声で答える。眉ひとつ動かさない。
「何もありません」
「……忘れるな。お前も儂の弟子の一人なんだ」
「はい」
鱗滝の視線が頬に注がれているのを知りながら、冨岡は素知らぬ顔を貫いた。
「そこまで!」
鱗滝のよく通る声が二人を制止した。
炭治郎と錆兎は同時に竹刀を下ろした。息を弾ませているが、まだ余力はありそうだった。
「お疲れさま!」
鱗滝のもう一人の養子、真菰がタオルを用意していた。錆兎より一歳年上で、キメツ学園中等部三年生だ。
「どうだ、義勇」
錆兎が防具を外し、額の汗を拭う。
「また一段と腕を上げたな、錆兎」
錆兎が嬉しそうに口角を上げた。こういうところは年相応の可愛らしさがある。
「錆兎はいっつも義勇ばっかりね」
「う、うるさい」
頬を赤らめて錆兎は真菰に言い返した。
「俺はどうですか!?」
「いい太刀筋だと思う。鱗滝先生は」
「うむ。いい動きだった。この調子で頑張れ」
「はい!」
炭治郎が力強く頷いた。
「それと、この耳飾り、壊れていたから直しておいたぞ」
「あ、すみません! ありがとうございます」
ちゃりん、と鱗滝が耳飾りを炭治郎の手の上に置いた。
興味津々に、真菰が覗き込む。
「変わった耳飾りだね」
「父さんの遺品なんだ。代々、うちの長男はこれをつけるようにって」
「ふうん、そんなのがあるんだな」
錆兎も一緒になって覗き込んだ。
冨岡は時計を見上げた。既に一九時を回っている。明日は月曜日だから、早く帰らせなければならない。
「少し熱中しすぎたな……もう遅いから送って帰ろう」
「大丈夫ですよ。もう高校生なので」
「子どもが何を言っている」
「子どもじゃありません」
膨れた炭治郎の顔を見下ろし、冨岡はかすかに笑った。
「そういうところが子どもなんだ。いいから着替えてこい」
炭治郎が更衣室に向かうのを見送り、錆兎は冨岡を見上げた。
「ずいぶんと炭治郎のことを気に入ってるんだな」
「錆兎は炭治郎が嫌いか」
「そういうわけじゃない。ただ、義勇って人見知りなところがあるから、ちょっと意外だっただけだ」
「お前に言われたくない」
弟のように扱われるのにむっとしながら、冨岡は錆兎の湿った髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「うわっ、やめろって」
「お前なんかこうだ」
「ひゃっ、義勇やめろって、言ってるだろ!」
「――ほんとの兄弟みたいですね」
「そうだな」
冨岡と錆兎が兄弟のようにくすぐりあってふざけているのを、真菰はにこにこしながら見つめた。
「そういえば、もうすぐ学園の体育祭だったろう。高等部と中等部合同の」
冨岡は手を止めて、鱗滝に視線を向けた。
「先生もいらっしゃいますか」
「無論だ」
「なあ、義勇」
くい、と子どもっぽく袖を引っ張った錆兎が、恥ずかしそうに顔を背けた。
「中等部の方も……見に来てくれるか」
「当たり前だろう」
錆兎の頭に手を置いて、冨岡は微笑んだ。
「そういえば体育祭の次の週、錆兎の誕生日だったな。何か欲しいものはあるか」
「気が早いって」
「そうか?」
「義勇は体育祭の準備があるだろう。儂が用意しよう」
「別にもう中学生だから、誕生日なんか――」
「そんなことはない」
錆兎の言葉に被せるように、冨岡は言った。
戸惑ったように錆兎が冨岡を見上げる。冨岡は話すことこそ苦手だったが、誰かの話を遮るような真似はめったにしない。
「俺が祝いたいんだ」
「――あ、ああ。考えておく」
「俺にできることなら、なんでもいいぞ」
「……そういうこと、あんまり言うんじゃない」
ぷいとそっぽを向いた錆兎の頬をつついて、冨岡は目を伏せた。
――もうすぐ、錆兎は一四歳になる。
見下ろした自分の腕に、透き通った鱗が見えた。
02
不死川玄弥は、夜の公園でぽつんとベンチに腰掛けていた。高校一年生にしては背が高く、がっしりした身体を小さく縮め、肩を丸めて悄(しよう)然(ぜん)とうなだれている。
手には破れた賞状。兄に破られてしまったものだ。
子どもたちも家に帰り、街灯が無人の遊具を照らしている。頭上の藤棚は、街灯の光を反射して淡く発光しているようだった。目の前の池の水面で光が揺れている。
昔、よくここできょうだいたちと遊んでいたものだった。母は藤棚の下のベンチに座って、自分たちをにこにこしながら見ていた。最後にここで遊んだ時、いちばん下のきょうだいはまだ母の腕に抱かれていた。
しんと静まりかえった公園で、玄弥は呟いた。
「兄ちゃん、何もあんなに怒らなくても……」
賞状は射撃部の大会で優勝した時のものだった。嬉々として帰宅した兄に見せたら、鬼のような形相で怒られて破り捨てられたのだ。
お世辞にもいいとは言えない人相で激怒されると、それはそれは怖い顔になる。それもまた、玄弥には見慣れた兄の顔だったが。
誇らしげに賞状を見せた玄弥に対し、「こんなことをするくらいならちゃんと勉強しろ」と兄は怒鳴った。びりびりと肌に感じるほどの声だった。
それで衝動的に家を飛び出してしまった。
もともと、部活にいい顔をされていなかったのは知っている。
玄弥には父親がいない。社会人の兄が働いて家に金を入れている。
父は虐待を繰り返し、何年か前に両親は離婚。体調を崩した母は実家に戻った。下のきょうだいたちは親戚に引き取られ、家族はばらばらになりかけた。
玄弥も預けられるところだったのに、何を思ったのか、当時大学生だった兄は玄弥を引き取った。それから公的機関の援助を受けつつ、兄と二人で暮らしてきた。
兄は玄弥の通う高校の数学教師だった。玄弥が数学が苦手だったため、きつく指導されることは日常茶飯事だったのだが、今回はかなり堪(こた)えた。
去年、母が体調を悪化させて入院してから、兄は過干渉になった気がする。
玄弥には学業に専念してほしい気持ちはわかる。きちんと就職して、安定した生活をしてほしいと望んでいることも理解できる。金銭的に豊かな生活ではない。
だが、好きなことを頭ごなしに否定されるのは、たとえ大好きな兄といえども従うことはできなかった。
くう、と腹が鳴った。夕食前に家を出てしまったため、何も食べていない。
「お腹空いたな……」
コンビニで何か買って、深夜にこっそり家に戻ろう。どうせ翌日には学校で兄と顔を合わせることになるのだ。今日くらいは一人にさせてほしい。
玄弥はベンチから立ち上がった。
かさり、と音がした。
池の側に立っている人がいることに気づいた。風にそよぐ藤棚の端に人影が見える。
大方、ランニングの人だろうと特に気にすることなく、玄弥は公園を出た。
藤の下で胸に抱いた大事なものを抱え、〝それ〟はじっと玄弥の背を見つめた。
*
「あれ、変な匂いがします」
炭治郎がくんくんと犬のように鼻をうごめかせて言った。
公園の前を通りかかった時だった。とっぷり日も暮れ、ランニングと犬の散歩くらいしか人がいない。
炭治郎は昔から鼻がいいとは聞いたものの、一体何を指しているのかわからず、冨岡は首を傾げた。
「何の匂いだ」
「いや、なんか、変わった匂いというか、今まであんまり嗅いだことのない匂いで……なんだか水の匂いと似ています」
「水の匂い? 公園に池があったと思うが」
「うーん、なんて言えばいいんでしょう……そういう感じじゃないんですよね。もっと淀んでいるような」
なんとも要領を得ない回答だった。
「池の水も循環がいいようには見えないが」
「そうなんですけど……すみません、変なこと言いましたね。忘れてください」
「……そういえば、課題は終わっているのか」
「義勇さん、教師みたいなことを言うんですね」
「俺は教師だ」
炭治郎に「義勇さん」と呼ばれることはもう受け入れていた。押し切られたのだが、冨岡に自覚はない。
「課題は終わっています。鱗滝さんとの約束ですから」
「ならいい」
実家の手伝いをするため部活は諦めたが、週末だけ鱗滝の剣術道場に通うことになっていた。炭治郎は冨岡に稽古をつけてもらいたそうにしているのだが、冨岡にそのつもりはなかった。時々様子を見に行く程度である。
ただでさえ、村田と怪異事件が起きていないか見回りをしているのだ。余計な仕事は増やしたくない。
「あっ義勇さんって休日何をしているんですか? 趣味とかないんですか?」
「趣味は……詰め将棋だが」
「詰め将棋ですか。渋いですね」
「……」
「ところで俺の稽古をつけてほしいんですけど、だめですか?」
「俺は忙しい」
「やっぱり村田さんと遊びに行っているんですか?」
「なんでそうなる」
「錆兎が言ってましたよ。義勇さんは村田さんくらいしか友達がいないって」
――心外だ。
冨岡の憮然とした顔を見て、炭治郎は慌てて言い添えた。
「いや、錆兎も義勇さんのこと心配しているんですよ」
「余計なお世話だ」
錆兎と炭治郎が打ち解けているらしいのは喜ばしいのだが、どうしてそろいもそろって冨岡を弟のように扱うのだろう。こちらの方が年上だと言うのに。
どうにもなれなれしい。最近、炭治郎が距離を詰めてきているような気がしてならない。そんなことをして何の得があるというのか。
炭治郎が赤みの強い瞳をくるりと冨岡に向けた。
「なんか、学校でも間違えて義勇さんと呼んでしまいそうです」
「やめろ」
ちくりと首筋を刺すような感覚がして、冨岡は公園を振り返った。
藤棚の藤は満開だった。その下に設置されているベンチには誰も座っていない。ベンチの向かいには池がある。
遠目に、池のほとり、藤棚の下に立つ人影を認めた。
胸に何かをしかと抱き、風にそよぐ藤の花の下でその女は立っている。長い髪に隠れた顔がこちらを向いた。
「どうかしましたか?」
「何でもない」
素早く自分の身体で炭治郎の視界を遮り、冨岡は歩き出した。
藤の下で胸に抱いた大事なものを撫でながら、〝それ〟はじっと冨岡と炭治郎の背を見つめた。
03
愛しいと思う。
ああ、愛しい、愛しいわたしの■■。
■■を守るためなら、何でもしただろう。この身のすべてを捧げただろう。
■■が望まなくとも。それしか方法を知らなかったから。
――そんなこと、しなくてよかったのに。そのまま自分のことなど忘れて、安穏に過ごしてほしかったのに。
来るなと叫んでも、お前は聞きもしなかったね。
ずっと、■■を■している。
その声が自分のものなのか、他の誰かのものなのか、もはや判別できなかった。
*
「ねえ、聞いた?」
「なになに?」
「出たんだって、幽霊」
「どこに?」
「ほら、あの公園。学校の近くの」
「夜になると公園の藤棚の下に幽霊が立ってるんだって」
「ええ、そんなの見間違いでしょ」
「でもさあ、A組の佐々木さんが見たって」
「いつ?」
「三日前」
「変質者とかでしょ」
「やだー」
「ほんとだってば! 胸に赤ちゃんを抱いていて、恨めしそうな顔をしてるって――」
「何そのベタなやつ」
「それでD組の加藤くんが肝試しするって言ってて」
「ああ、佐々木さんの彼氏?」
「そうそう。ていうか肝試しなら自分だけで行けばいいのに、佐々木さんも連れてくって」
「何それ、いいところ見せたいだけなんじゃない?」
「だよねー」
「でも肝試しはちょっと興味ある」
「えっ、マコ本気?」
昼休み、教室に飛び交うひそひそ話を聞きながら、善逸はげんなりとしていた。
女子の甲高い声は、少しくらい声量を落としたくらいで聞こえなくなったりしない。まして、善逸は人より耳がいいのだ。内緒話は筒抜けだった。
だから、うっかり呟いてしまったのだ。
「幽霊とかさ、馬鹿みたいじゃん」
「幽霊?」
炭治郎が弁当から顔を上げた。今日のおかずにあからさまな失敗はないようだ。下のきょうだいたちの料理の腕は上がっているらしい。
「あのさ炭治郎、そいつ誰?」
炭治郎の隣に、大きな図体を縮めて座る男子生徒を善逸は指さした。三白眼に鶏のとさかのような髪型がなかなか威圧的である。
「ちょっと、行儀悪いよ」
「はいはい、育ちが悪いもんでね。君、名前は?」
「あ、D組の不死川玄弥です」
おどおどと視線をさまよわせ、男子生徒は名乗った。外見の割にはおとなしい性格のようだった。
「あ、なんか落ち込んでたから一緒にご飯食べようって誘った」
「……他のクラスの人だよね?」
「そうだけど?」
善逸や伊之助と特に面識がないのに誘ったことに対して、何とも思わないらしい。
「え、善逸、覚えてないの? 不死川先生の弟さんだよ」
「ええ!?」
驚きに大きな声が出てしまい、何人かが善逸を振り返った。
なんでもないと手を振って、善逸は玄弥の顔を見た。たしかに顔の造作は不死川先生とよく似ている。目つきの悪いところなんかそっくりだ。
「ああ、思い出した。大会の賞状を破られてた……なに、兄弟喧嘩してるの?」
「いや、まあ、そんな感じ……」
玄弥が更に身体を縮めた。あまり言及されたくないようだった。
すぐに打ち解けるのが炭治郎のいいところだが、距離の詰め方がなんだかおかしいのも炭治郎だった。
身体に比して小さく見える弁当箱を開けて、玄弥は黙々と食事を始めた。
「横暴な兄貴って大変だよな……」
しみじみと善逸は言った。あのヤクザ顔負けの強(こわ)面(もて)、すぐに手が出る不死川先生の弟と聞くと、途端に親近感が湧いてくる。
「それで、何だっけ、幽霊って?」
「そう。今、噂が持ちきりなんだよね」
「噂?」
「炭治郎知らないの? 公園に幽霊が出るって。それで肝試しするとかなんとか」
「ううん、肝試しにはちょっと早いんじゃないかなあ」
炭治郎が窓の外を眺めた。からりと晴れて、日中は汗ばむほど気温が上がる。まだ梅雨入り前だ。
「季節とかいいんだって」
「幽霊? そいつは強いのか?」
速攻で自分の弁当を平らげた伊之助から自分の昼食を守りつつ、善逸は首をひねった。
「いや、どうなんだろ……幽霊だし。物理的に触れないじゃん?」
「幽霊って公園の藤棚にいるってやつか?」
玄弥が箸を止めて言った。
「俺、昨日公園にいたけど、誰かが藤の下に立ってるの見たよ」
「ほんと? やっぱり幽霊いるのかな」
「炭治郎はすぐ本気にする……」
*
「というわけなんです」
「そうか。貴重な情報をありがとう。でもなんで当たり前みたいな顔でここに入り浸ってるのかな!?」
放課後、体育教官室で村田は思わず叫びそうになった。
冨岡がいるのは当然のこととして、何故か炭治郎までがそろっている。
「お茶どうぞ」
「あ、ありがと――じゃなくて! 冨岡もなんで竈門に茶入れさせてるの!?」
「勝手にやっていた」
「炭治郎でいいですよ、村田さん」
輝く笑顔で炭治郎がお茶請けにせんべいを出した。すっかり戸棚の中身を把握されている。実家の手伝いはいいのだろうか。
外堀を埋められていることに気づいているのかいないのか、冨岡がのんきに茶をすすった。
「つまり、幽霊が怪異じゃないかって?」
「はい。気にしすぎているのかもしれないんですけど、でも夜中に肝試しするって話も聞いたので」
「それは別件で指導が必要だけどさ」
夜中に出歩くのは問答無用でアウトだ。教師でなくても、教育に携わる者としては見過ごせない。
「藤の花の下に幽霊っていかにもじゃないですか」
「それを言うなら柳でしょ……いやまあ、そういう例がないわけじゃないけど」
村田はちらりと冨岡を窺った。茫洋とした顔で茶に目を落としている。
「そういえば藤棚ってうちの中庭にもあったな」
「なんか、一年中咲いてませんか? あれ」
「そういう品種なんじゃないか」
藤の花の下に立つ幽霊。柳でなくても、池のほとり――水場に幽霊はつきものだ。
「幽霊なあ……」
「幽霊なら怪異ですよね?」
「そうなると思うけど」
幽霊。死んだ人間の霊。怪異としてはメジャーな部類だ。
「いや、そもそも順序が逆ってこともあるんじゃないか」
幽霊がいると皆が思い込むことで、幽霊が出現することもある。人の想いと、怪異とはそういうものだ。人が怪異に姿を与えるのだと、以前、冨岡から聞いたことがある。
「冨岡、聞いてるか?」
「聞いている」
冨岡は目を上げ、平然と爆弾を落とした。
「幽霊はもう見た」
「そうか見たのか、って見たの? は?」
一瞬、言っていることの意味がわからず、村田は混乱した。
「えっもう見てるの? 幽霊実在確定?」
「いつ見たんですか?」
「昨日」
「昨日って……俺と帰ってた時じゃないですか! なんで教えてくれなかったんですか!」
「言う必要はないと思った」
「ありますよ!」
「お前はなんでいつも言葉が足りないのかな!?」
村田の心からの台詞を華麗に無視し、冨岡は炭治郎に尋ねた。
「肝試しはいつだ?」
「えっと、今週の金曜日って言ってましたけど」
カップを置いて、冨岡は立ち上がった。
「あ、部活に行くんですか? カップ、片付けておきますよ」
「しなくていい」
「え、でも」
「お前は帰れ」
「俺も行きたいです!」
「だめだ。子どもは帰れ」
「そうだぞ、竈門。余計なことに首を突っ込むことはないよ」
炭治郎が悔しそうに口をひん曲げたが、冨岡は譲らなかった。
「お前がいたら邪魔だ」
鋭い言葉が空気を凍らせた。
一瞬、炭治郎の顔が歪んだ。
「あー、竈門、これでも冨岡はお前のことを心配してだな」
「……わかってますよ。すみません、わがまま言っちゃって。実家の手伝いがあるので帰りますね。あとお茶請けのせんべい、もうすぐなくなると思うので補充した方がいいですよ」
まくし立てるように言って、炭治郎は鞄を掴んでそそくさと立ち去った。
「……ちょっと言葉がきつかったんじゃないか」
「あれでいい」
冨岡は空っぽのカップに視線を落とした。
「俺と関わったって、ろくなことにはならない」
「……そんなこと言うなよ」
冷えた茶を村田は腹に流し込んだ。がたん、と乱暴にカップを机に置く。
「俺は絶対に降りないからな」
04
「……ただいま」
返事はない。兄はまだ学校にいるからだ。
そのまま玄弥は自分の部屋に入った。ぱたん、と部屋のドアを閉めた。ドアに背を預け、ずるずると座り込む。
授業中、気もそぞろだったのをきつく兄に注意された。部活にも出ないで帰ってきてしまった。
机の上には、ちぎれた賞状が置かれている。
家でなるべく顔を合わせないようにしても、どうせ学校に行けば嫌でも兄の顔を見ることになる。ひどく憂鬱な気分だった。
――兄なんていなければ。
一瞬、そんな考えが玄弥の頭をよぎった。
違う。違う。そんなことを思ってはいけない。兄はいつだって家族を大事にしてきた。ろくでなしの父親から下のきょうだいたちを守ってきた。父に殴られた母の腫れた頬を冷やし、弟たちの食事を代わりに用意してきた。守りきれなかったことを、今でも気に病んでいるのは知っている。
玄弥は、たった一人になってしまった弟だ。たった一人の残された家族だ。
すべては玄弥の将来を考えての行動だ。わかっている。わかっている。
――理屈でわかっていても、感情は別物だった。
「兄ちゃん……」
薄暗い部屋で玄弥は膝を抱えた。
どうしてわかってくれないのだろう。どうして、いつまでも小さな子どもみたいに扱われるのだろう。
玄弥は弟だ。どんなに大きくなっても兄の弟だ。生まれた順番は変えられない。だからって、いつまでも兄の言うことを聞くわけではないのに。
なんだか泣きそうになって、玄弥はぱちぱちと瞬きした。
背後から伸びた白い腕が、玄弥の頬を撫でた。
「にいちゃ……」
何か温かい感触が頬に触れて、玄弥は振り返った。
自分の部屋のドアがあるだけだった。
昔、泣いている玄弥の涙を拭った兄とよく似ていた。拭うといっても、粗野な兄はやさしく触れることなどできず、ごしごしとこすられるような感覚だったが。
「気のせい、か」
喧嘩しているくせに兄を恋しく思うなんて、もう高校生なのに恥ずかしい。
兄離れしなければいけない。兄にも、弟離れしてもらわなければ。
兄はいつだって不器用に優しかった。まだ学生だったのに、崩壊しかけた不死川家を立て直した。
もうずっと昔、その背がまだ小さかった頃から、下のきょうだいがいなかった時から、玄弥は兄の背を追いかけていた。
――もう、兄とほとんど変わらない体格なのに。
ただ笑いあっていた頃より、ずいぶんと遠くに来てしまったようだった。
透き通ったたおやかな白い腕が、黒い影を握りつぶした。